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 午後の授業は腹が膨れているのでなおさら眠くなるのが常である。さすがにこの時間になる居眠りする生徒も多くなってくる。教師の方も慣れたもので、ときどき目を覚ますような大声を出したり動作をする程度で激高したりはしない。それでもこの日はいつもより居眠りする生徒が多いとみて、教師はいったん窓を開けて空気の入れ替えを促し、クラス全員に向けてもう少しがんばるようにと言った。気さくに笑いながら頼むような物言いで、これがもう少しずれると教師としての威厳がゼロになってしまうところだが、そこは職人業で測らなくても分かるのだろう。大人が子供相手に卑屈になるのはあまりよろしくない。この学校のように、部活動が盛んな学校だと教師が中学生相手に勧誘するということだが、そんなときよく使われる言葉として頭を下げるというものがある。そうするとその親が得意で「頭を下げる」という言葉を大人の会話の中で使うと子供も初めて「頭を下げる」という言葉をインプットする訳だが、子供のほうが友達同士の会話で「頭下げに来た」とか「頭下げさせた」というのは相当に下品なのだが、本人はそれが手柄のように喋くるから始末におえない。こんなみっともない言動をさせてしまったのは大人が子供に頭を下げたのが原因だ。


 そんなことを考えていたらいつのまにか熟睡していた。またしてもノートは真っ白なままだ。


「あんた、ほんとにだいじょぶ? どっか具合でも悪いの? 毎日ずっと寝てない?」

「いや、別に」

 栗山さんの潜めた声は授業終わりのざわつきの中でもしっかりと自分の耳に届いた。自分が知っている範囲でも、栗山さんは自分に声をかけるときだけぞんざいな言葉使いになる。すっかり人間として下に見られている感じだが、これっぽっちも悪い気はしない。まぁ、むしろ当然だと思う。しかし、休み時間など自分が寝ているときに耳に入って来る栗山さんの明るくてにぎやかな声は、どれだけうちとけ、羽目をはずしているようでも、ある一定の上品を保っている。ひょっとしたら上品の隠し味がきつすぎるぐらいである。栗山さんの顔が近づいて、自分は初めてこの人の顔をじっくりみたような気がしたし、またこの機会にちょっとじっくり見てやろうという気になった。


「隣でずっと居眠りされると迷惑なんだけど」

「いびきかいてた?」

「そーいうことじゃないの。迷惑だっつってんの」

「はぁ…。寝てないっスよ」

「寝てんだろバカ。寝たおしてんだろバカ。バカか貴様は。このバカ」


 栗山さんの罵詈雑言はまさに寝耳に水だった。かと思えばいつかこの日が来るような気がしていたというのもある。ただ毎日居眠りするだけでここまで罵倒されることはないはずで、やはり自分には栗山さんの本能に障る部分があるらしいことは薄々感づいていた。しかし、それがいったいどこの部分か分からない以上、せめて存在を小さくしている他ないはずであった。そして自分は、栗山さんにとっても、他の人にとっても、そんなにうっとおしくない程度には生活していたはずである。栗山さんは、恐らく、もし自分が普通に起きて授業を受けていたとしても、何らかのきっかけで自分を罵倒したに違いない。それがわかるほどに、栗山さんの目つきや声音には断固たる嫌悪がたぎっていた。


「あ、なるべく寝ないようにします。」

「だから寝るなって言ってんだろ。日本語ワカンネーのかバカ。何がなるべくだこのタコ」

「分かりやした。もう寝ません」あせって時代劇の三下のような言葉使いになっていて、これも栗山さんの気分を害しただろうかと恐れたがそこは許してもらえたらしいのか気づかなかったのか。

「ですが栗山さん。なんで寝たらダメなんでしょう」だけど、というところを「ですが」としたのは以外と栗山さんはさっきの時代劇調が気に入ってくれたのではないか、だとしたらここで少し好感度を上げようというわずかなあせりからだった。自分は三下になりきろうとした。


「なにがですがだコラ」

「いや」

「なにがいやだコラ、今いやって言ったな」

「すいません」

「貴様なめてんのか?」

「なめてないっす」

「あ? ないっす?」

「なめてないです」

「ねるなよ」

「はい、ねません。ほんとにねません」

「ほんとにねないな?」

「ほんとにねません」


 自分はこの時二人の机がいつのまにかぴったりくっついていることに気づいた。栗山さんは小さい声で顔を近づけてきたのでこれにはかなり緊張した。興奮ではなく緊張だった。後から思い出して若干興奮したが、緊張のあまり細かくは思い出せなかった。それを残念に思ったが、何より重大なのはこれから居眠りがしづらくなるということだった。しないとはいったがまったくしないというのは無理な話で栗山さんもこちらがおおっぴらに居眠りしないかぎり、注意を受けて態度の変化を少しでもみせれば納得してくれるだろうと考えた。


 栗山さんはにらみをきかせながら教室を出て行った。ずいぶんと嫌われたものである。

「香織なんかキれてた? 三上氏なにかしました、ひょっとして? あの表情はただごとじゃないよ」

 忍び足どころか瞬間移動という言葉がぴったりの成瀬さんがいつの間にか机のそばまで来ていた。しゃがみこんで机にあごと両手を乗せてこちらの方を伺う様子はまるで首から下がないみたいだ。


「いや、ちょっと寝てたっていうか、ほとんど寝てたんだけど、授業中。それがあんまりよくなかったみたいで。すげー怒ってた。いつもと全然違うっていうか、たぶん嫌われてるんだろーなーとは思ってたんだけど、だからなるべく変なことしないようにしてたつもりが、だめだったみたい」

「ただ寝てるだけでそんな怒るのもどうかだよね、ほかに変なところなかった? 嫌われてるわけではないと思うよたぶん」

 成瀬さんは目だけを動かして思案している。自分は成瀬さんの様子をじっと観察していた。遠慮なしで見つめることができるのも、成瀬さんの目がとにかく右左上下と忙しないからに他ならない。二人が同じ中学出身だというのはクラスの会話の流れで知っている情報だった。とはいえ、自分はそんなに女子のみなさんと親しく話すような人間ではないので、こんなふうに話しかけてくれたことは大いに感謝するところであった。

「言葉づかいがいつもと違ってたよ。男みたいだった。というか…」自分は味方を得たい気持ちで、いろいろ言おうとしたが、こういうときはとにかく事実を脚色しないでありのままに話すのが最善の方法であると信じていた。

「軍人みたいだった?」

「あぁ、そんな感じ。え、何か知ってるの? 有名な話? 」

「有名ではない。たぶんね、あそこまでのは誰も知らない。お願い、秘密にしといて。ね。絶対」成瀬さんは念を押すようにこちらの目を捕まえて逃がさなかった。

「おぉ。しゃべる相手もいないよ」

「ほんとに? 絶対だよ。誰にもしゃべっちゃだめ」そう言って立ち上がった成瀬さんは廊下に消えていった。


 自分はこの時は約束を守る側の人間だと思っていた。それと同時にこの程度の話題ならどうということもないだろうという軽い気持ちもあった。しゃべる相手もいないというのは大袈裟で、帰り道に楢本さんと顔を合わせた時には最初からこの話題をする腹になっていた。

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