第36話 神具
城壁外。
草原。
冒険者ギルド受付のおばちゃんの目の前で、少し前までギルド長であり、一人の女の夫であり、二人の娘の父であり、五人の孫の祖父であり、彼女の戦友であるベンであったものが、その大きな身体を地に横たえ、
その傍らには、蟻の蟻酸によってボロボロとなった愛用のハルバードが相棒の死を
おばちゃんの左右も、似たような状況だ。
「
「だから動けなくなるまで魔力を使い果たすんじゃないって言ったのに……」。
そう呟いたおばちゃんも、すでに動けない。
周囲の肉体が
やがて体長一メートルほどの一匹の蟻が、おばちゃんの足に大顎を開いて噛みつき、引き倒した。
最早、受け身を取ることもできずにまともに背中から地面に落ちる。
「ガハ ! 」。
そして身体の至る所から鋭い痛みがしてきたが、それを目で確認しようにも、視界は既に赤黒い蟻の身体に覆われていた。
最後におばちゃんは祈ることにした。
死んだ仲間の冥福を。
街の皆の無事を。
家族の未来を。
そして気にかけていたあの妙に身体が大きくて魔法が使えない「賢者」の女のことを。
ふいにその女の声がした。
おばちゃんを呼ぶ声だ。
(まさかもう先に天国に…… ? 私を迎えにきたの ? )。
なんて出血で朦朧とする意識で考えた時、蟻が身体を齧るのとは別の痛みが彼女の身体を貫いた。
「……ッ ! 」。
地を走る電撃によって痺れる身体。
そして痺れた身体から
ついに開けた視界には、大きな女の不安げな顔。
「……チェリーちゃん…… ? 」。
チェリーの顔はくしゃりと歪み、すぐにおばちゃんに回復魔法がかけられる。
「……良かった ! 間に合って本当に良かった…… ! 」。
回復魔法の効果で身体の痛みがやわらいでいく。
周囲を見渡すと、赤黒い蟻達も地に伏している。
だが死んではいないようで、ピクリピクリと時折、脚が動く。
「電撃系統の魔法を使ったんだね……。良かった。魔法が使えるようになって……。でも少しばかり荒っぽすぎる救助方法じゃないかい ? 」。
おばちゃんはまだ痺れている口角を懸命にあげた。
「し、仕方ないでしょ ! おばちゃん全身を
焦ったように弁明するチェリー。
その彼女の足元を見ると、白いサンダルのような履物が蟻の体液と彼女自身の血にまみれて汚れていた。
一体どれほどの蟻を踏みにじって、その代償に噛まれて、ここまで来たのだろうか。
「……チェリーちゃんの大事なその『わらじ』とかいう履物を汚させちゃったね。……私なんか放って置けば良かったのに……」。
森で全身丸焼けになっていた彼女は回復しても全裸だった。
そこでコウが魔力によってサイズ調整可能なアイテム「
しばらくチェリーは裸足だったが、コウが蜘蛛系モンスターの糸を自由自在に放出できるアイテム「
一時期、姉がそれを作るのにはまっていたおかげで、一緒に作っていたコウもその作成方法を覚えていたのが幸いした。
チェリーの四十センチほどの大きな足に合わせた特製の布わらじを彼女は教えてもらいながら片方作り、コウは教えながらもう片方を作った。
当然、片方は綺麗に出来上がり、片方は少々
それでも、その時間も、出来上がった履物も、彼女にとってはとても大切なものだった。
それを昨晩、コウを待つ間、おばちゃんに語っていた。
「何言ってるの ! おばちゃんの命に代えられるものなんてあるわけないでしょ ! 」。
「……でも、皆死んじまったのに……。私だけ生き残ってしまって……」。
いつも豪快なおばちゃんにしては、珍しく弱気な発言だった。
地球でも大災害や多数の死者を出した事件に巻き込まれて、生き残った者はそのことに喜びではなく罪悪感を持って苦しんでしまうことがある。
見渡せば
チェリーが何か言おうとした時、ふいに彼女を呼ぶ声がした。
それは今だ痺れて動けない蟻共を押しのけて立ったベンの愛用のハルバードだった。
少し前まではボロボロだったのに、まるで鍛冶屋から出荷されたばかりの新品の
そしてこの戦場に場違いな神々しい光を放っている。
「……小さく弱き半分の巨人族、チェリーよ。私を持っていけ。そうすればお前に三月の女神イルシューアの『恩寵』を授けよう……」。
「……まさか……神具 ? 」。
おばちゃんの息を呑む音がした。
この世界において「神具」とは二通りの意味がある。
一つは神が作成したアイテム。
その意味でコウが使用してきたアイテムは全て神具であった。
もう一つは神、もしくは神の分霊が
その意味でコウが装備するウエストバッグ型のアイテムボックス「ポケット」は神具であるし、今チェリーに語りかけるハルバードもそうであった。
「チェリーちゃん……。あんたやっぱり巨人族の血が流れてたんだね。私を置いて、その『神具』を持って行きな……」。
間違った罪悪感がおばちゃんにそんな言葉を吐かせたが、それはチェリーに全く響かない。
イヤよ、と一言。
そして倒れているおばちゃんの背中と膝の下に両腕を通して、抱き上げた。
「なんなのよ ! 急に偉そうに光り出して !
そう吐き捨てると、
(冗談じゃないわ…… ! 巨人族は「恩寵」の大きいものほど巨大で強力な肉体を授かるって言うじゃない ! そんなの……いらない ! )。
そんなことを考えながら、チェリーは再び
時折、彼女の足を蟻の大顎が齧りとるが、それでも彼女は止まらない。
ふと後ろから何か圧を感じて振り返って、彼女は短い悲鳴をあげた。
あのハルバードが浮かんで追ってきていたのだ。
(フフ、安易に「恩寵」に頼ろうとせずに仲間を助けるなんて……第一の試練は合格ね)。
「こ、こないでよ ! 」。
大きくなるほどに、
それでもまだコウと引き返せない関係を築いていない今、いきなり数十メートルの巨人になるほどの大胆さは、彼女には備わっていなかった。
「……『恩寵』を受け入れれば、それだけではなくお前の望みを叶えてやろう。それならばどうだ…… ? 」。
再び、発光する上に飛びまわるようになったハルバードが語り掛けてくる。
「へえ ? 私の望みが何か知って言ってるの ? 」。
挑発的に返すチェリー。
「知っている。お前の望みはあの人間族の男の心だろう ? 」。
「三月の女神様に人間の心をどうにかする力があるなんて聞いたことがないわ ! それに……たとえ可能だとしても、そんなのは必要ない ! 」。
「なぜ ? 」。
「……あなたの力でコウが私を好きになったとしても、そんなの与えられた幻よ ! いつ変わって消えてしまうかわからない ! 私は……コウと二人で作っていくの。もしかしたら昨日みたいに泣くこともあるかもしれない。打ちのめされることもあるかもしれない。でも絶対に作るの ! どんなにつらい過去があっても、それが良かったと思える二人の未来を ! 」。
そう叫んで、血まみれの脚で彼女は跳んだ。
幅三メートルほど、深さは十メートルくらいの
「チェリー
重たい音と共に対岸に着地した彼女に空堀の作成者である三人の
「ドナは ? 」。
ゆっくりと腕の中のおばちゃんを下ろしながら、一人足りない
「……急に、助けなきゃならない人がいるって走っていっちゃったんだ」。
アゼルが面白くなさそうに草原の一カ所を指して言った。
チェリーがそこを見やると、遠くに
「……居場所がわかればいいわ。あの子は杯を三回空けた子だから……」。
「姐さん、その人間と……浮かんでるハルバードは ? 」。
「このおばちゃんは私の大事な人。それからそのハルバードには近づかないで。……呪われてるわ」。
お揃いの茶色い
その仕草があまりに可愛らしくて、戦場に不似合いで、痺れのとれたおばちゃんはようやくほんの少しだけ笑顔になった。
その発言に抗議するかのようにハルバードは激しく光り、なにやらブツブツと呟く。
「……礼儀は欠いているけど、望みを叶えるという誘惑に対しての反応も良し。異種族の子ども達に慕われているのも、器の大きさがわかる……。第二の試練も合格ね。あとは……」。
「姐さん ! 空堀の土をなるべく柔らかく作って蟻達が登ろうとしても崩れるようにはしたけど、そのうち蟻で埋まって、その上を渡ってくるよ ! 」。
焦ったような
(……あの「魔法使い」の爺さんとの生活で思い出すのは嫌なことばかり……。私が魔法を使えないと癇癪ばかり起こしていた……)。
チェリーは育ての親である老人のことを思い出す。
封印魔法によって魔力を封じられていた彼女に、苦痛以外を与えたなかった老人だ。
(……でも呪文の詠唱や秘術に近い魔法の知識だけは骨の髄まで叩きこまれた。そのおかげで封印魔法が解けて魔力を使えるようになった今、コウのために戦えることができる。)。
彼女は赤黒い色に埋まりつつある空堀の淵に立つ。
徐々に魔素が彼女に集まっていくのが、「魔法使い」であるおばちゃんにはわかった。
「チェリーちゃん ! 杖を使わなくていいのかい !? 」。
直接高威力の魔法を放てば、人間の肉体はそれに耐えられない。
だが巨人族とのハーフである彼女には強靭な肉体が備わっていた。
「大丈夫 ! 」。
振り向いて、そう力強く笑うと彼女は呪文を詠唱し始める。
(……コウに出会って、過去が変わった。ううん。正確には過去の意味が変わった。あれだけ辛いことばかりだったけど……あの過去があったからこそ、コウと出会うことができた ! 全てが
考え事をしながらでも、流暢に、早く、呪文は紡がれていく。
(もしあのハルバードが本当に何か願いを叶えてくれるとしても、私は時を
チェリーはちらりと浮かぶハルバードを見る。
(だってきっとその幸せな過去は、コウと出会って、彼を想う
空堀は数えきれないほどの蟻で埋まり、蠢く堀内の蟻の最上部とチェリー達のいる地面との差はもう一メートルもない。
「姐さん ! 早く !! 」。
(もしやり直した過去で別の形でコウと出会って、そして恋をしても……。きっとこんなに深く想うことはなかっただろう。凍えそうな寒さの中にいたからこそ、あの人の温かさがわかったし……身に染みたんだ……)。
そして呪文の詠唱は完成した。
「
長大な空堀の底から徐々に液体が満たされていく。
水位が上がっても、蟻達が浮かんでくることはない。
やがて空堀は水堀となり、数えきれないほどの蟻を溶かした強酸性の濁った緑色の液体に満たされる。
「……すごい……。まるで伝説の「大賢者」メリー・ミルフォードみたい……」。
おばちゃんの呆けたような声がした。
対岸の
「……諦めたの ? 」。
その言葉を否定するかのように、
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