第23話 まどろみの中の母
「……チェリーちゃん、少しは寝ないと、身体に毒だよ」。
公的な性格を帯びた施設である冒険者ギルドは緊急の場合に備えて、職員かギルド長が二十四時間常駐しているため、コウが四月の女神の神域に滞在している時間も開いていた。
と言ってもこの時間にギルドを訪れる者は緊急の場合を除いてほとんどいない。
そして宿直当番であった受付のおばちゃんは待合スペースで、一人きりで膝を抱えて大きな身体を丸めている女に忠告したところだった。
「……だって……だって……」。
涙声が返ってきた。
(まるで親に捨てられた子どもね……)。
おばちゃんは心の中で溜息を吐いた。
これでもマシな状態になったのだ。
ギルド長の部屋から出て来た彼女が、コウに置いて行かれたと知った時の取り乱し様はひどかった。
(チェリーちゃんは優しくしてくれたあの男に「親」を求めているんじゃないだろうか……)。
おばちゃんはチェリーの育ての親であった偏屈で魔法以外に興味のない爺さんの皺だらけの顔を思い出して、思わず苦い表情となる。
(……どんな事情があったかは知らないけど、あの爺さんに子育てなんて無理に決まってたのよ……。自分の子どもだってまともに育てられずに奥さん共々逃げられたんだし……)。
「あの男が戻ってきたら、絶対に起こしてあげるから、寝なさい。泣いて目が腫れた上に寝不足の酷い顔で出迎える気かい ? 」。
努めて明るい調子で言うおばちゃん。
「……どうせ元々、大した顔じゃないからいいよ……」。
「チェリーちゃん、自分を
おばちゃんは豪快に笑った。
つられてチェリーも少しだけ口角があがる。
「……ねえおばちゃん、私、最近おかしいの」。
「何がだい ? 」。
「コウと森の中で出会って、一緒に行動して、すごく楽しかった……。でもすごく苦しい思いもしたの。コウが他の女の子と仲良くしているのを見たり、今日みたいに私から離れて行っちゃうと……どうしようもなく苦しいの。今まで感じたことのないような苦しさなの」。
おばちゃんは黙ってチェリーの話を聞いていた。
「……こんなに苦しい思いをするなら……いっその事、出会わなかった方が良かったのかな ? 」。
チェリーは顔を抱えた膝にうずめた。
「おばちゃんは、全然そう思わないね」。
思ってもみない、強い否定の言葉に思わずチェリーは顔をあげた。
「そんなに……泣いちまうくらい、苦しんじまうくらいに想いを寄せることのできる相手に出会えたなんて、とても素敵なことだと思うよ」。
おばちゃんはニカリと笑った。
「……でも、私なんかに想われても迷惑じゃないかな……」。
「それは卑屈な心がそう思わせてるだけさ。あの男はチェリーちゃんに想われて迷惑がるような酷い奴なのかい ? 」。
「そんなこと……ない。コウはすごく優しい人だから……」。
チェリーは再び膝に顔を埋めるが、それは今までとは違った意味合いであった。
「じゃあ大丈夫じゃないか ! 元気を出しな ! チェリーちゃんはこれから戦争を始めなきゃならないんだから ! 」。
「戦争 ? 」。
「そうさ ! あの男の
「お、大げさすぎない ? 」。
「何言ってるんだい ! 自分が生きていく居場所は戦ってでも奪い取らなきゃ ! おばちゃんだってそうやって旦那を捕まえたんだから ! 」。
こうして、おばちゃんが旦那をどうやって
それはただの
そして彼女は眠気に抗うことを止めて、待合スペースの長椅子の背にもたれかかったまま、まどろみの中へ落ちて行く。
温かな木漏れ日の中、柔らかな芝生の上で幼いチェリーは膝枕をされている。
(ああ……これは夢だ。いつもの夢だ……)。
幼い頃から寂しい時に彼女がよく見た夢。
顔を覚えてもいない母親が優しくしてくれる夢。
夢だとわかっていても、すがりたくなるような甘い夢。
「……ママ、ナデナデして……」。
彼女が要求すると、木漏れ日の逆光で見えない顔がわずかにほころんで、母親は彼女のブラウンの髪を優しく撫で始める。
数日前の悪夢の中の老婆とはまるで違う。
その上、今日はどこからか甘い花の香りも漂ってきていた。
「お願い……。ずっと一緒にいて……。私を置いて行かないで…… ! 」。
彼女がこの夢を見た時のお決まりの
いつもだったら何も
そしてやがて朝とともに消えてしまう。
なのに、今日は違った。
「……わかったよ」。
驚きで、意識が浮上していく。
まだはっきりしない頭で、目を開けるといつの間にか待合スペースの長椅子に倒れこんで横になっていたようだ。
奥の窓の朝日が照らす受付カウンターの向こうから、おばちゃんがニコニコ笑っているのが見える。
その隣の朝になって出勤してきた若い受付嬢は、食い入るようにこちらを凝視していた。
ふとチェリーは自分の頭が何か温かいものを枕にしているのに気づいた。
そして誰かの手が優しく自分の頭を撫でていることにも。
(……まだ夢の続きなの…… ? )。
そう思って、ゆっくりと上を見ると、そこにはコウの顔があった。
「起きたか ? 」。
「コ、コウ !? なんで !? 」。
「寝てるチェリーの隣に座ってたら、こっちにもたれかかってきて膝枕状態になっちゃったんだ。それで寝言で『ナデナデして』って言うからとりあえず撫でてたんだけど……」。
「…… !? 」。
色々な恥ずかしさが混ざり合い、一つの巨大な
やがてゆっくりと顔を隠したまま、大きな身体がむくりと起きあがる。
二人は長椅子に並んで座っていた。
「……昨日は置いて行って悪かったな」。
そう言ってコウは黒いウエストバッグ型のアイテムボックスから「
するとギルド内に香ばしい匂いが立ち込めた。
魔素を思い通りのパンに変換する奇跡のアイテムの効果だ。
四角いバスケット型をしたそれの蓋を開けると、大量のカツサンドが湯気をあげていた。
「お腹空いてるだろ ? 」。
チェリーは無言で、片手で顔を隠したまま、片手でカツサンドに手を伸ばす。
数日前までの狂おしいほどの空腹感を感じることはなくなっていたが、それでも彼女の燃費はよくない。
あっという間にカツサンドは無くなった。
その間にコウは水差し型のアイテム「
彼から片手でコップを受け取るチェリー。
その口元がカツサンドのソースまみれであることに気づいたコウは「
そうしてチェリーの世話を終えて、コウはおばちゃんに話しかけた。
「おばちゃん ! 二階の資料室で調べものをしたいんだけど、使っていい ? 」。
「冒険者は自由に使っていいよ ! 」。
それを聞いて、二階へ向かうコウ。
彼の深緑の
「まるで母親だね。あの子が執着するわけだ……」。
その背中を見送ったおばちゃんは軽く溜息を吐いた。
コウは普通であれば
その行為がダメ人間をさらにダメにする底なし沼であることに気づくには、彼は若すぎたのだ。
そしてそれに気づいた現在でも、時折要らぬ世話を焼いてしまう。
それが無意識に他者に親を求めるチェリーには、たまらなかった。
「ねえねえ、おばちゃん ! あの男の人って……」。
噂好きの若い受付嬢の声で、徹夜明けのおばちゃんの意識は現実に戻った。
本来ならば宿直明けの今は帰宅していいのだが、コウが連れて来たボロボロの少年のことがどうも気になって、なんとなくギルドに残っていたのだった。
(ギルド長とあの少年、すぐに二人で領主代官様の館に向かったけど……一体何が…… ? )。
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