第1章〜さらば現実@鈍色の世界〜

第1節【鈍色】

 一校時の体育を終えた桜花おうか高校一年二組の教室はガヤガヤと騒がしい。その空気は僕が一人という現実を否応無しに押し付けて来ていた。

 人間にとって一番大切な物は人間関係だと言う。“情けは人のためならず”とはよく言ったもので、人に優しくすればいつか自分にも良い事が帰ってくるという精神を持つ事が一般的になっている。

 ただ、これは縛りとも成り得る。

 他人の事を考えて行動することが基本であるこの世界。つまりは、他人に迷惑をかけない様に行動する事が望まれている。そして、存在が迷惑であると目で言われるようになった人間は、人と関わらなくなって行く。だんだん、だんだんと関わる人は減っていき…遂には孤立する。


 そうなったのが僕、鈍島にびじまとおるであった。


 クラスで浮いている事を自覚したのはいつだったろうか。

 中学生に上がってから、僕は本を読むようになった。ただでさえ本は苦手意識と共に遠ざけられる事が多い代物だ。それを必死に呼んでいる奴がいたら、だんだん人が離れて行きもするだろう。

 中学三年生になった時にはすでに気持ち悪がられるところまで来ていた。

 理不尽な話だ。本を読んでいただけで、ボロ谷とか呼ばれてるクラスのボロ服を着ている奴と同じ扱いだ。

 そこで僕は気づいた。ボロ谷はボロ服を着ているからといって嫌われていた訳ではないのだ。嫌われているのだ。

 確か前読んだ本に書いてあった。人間は自分と違うものを見ると、恐れ、排除しようとするのだと。

 結局人間は自分可愛さで生きているのだ。変な奴と関わると、自分まで変な奴と呼ばれる。だから僕も、下手に他人と関わろうとはしない。

 それに、一つの団体には内部に幾らかの敵を作りたがる。その敵への嫌悪やら敵対心やらでその他の人々が団体としての結束力を生むことが出来るからだ。とても合理的。

 あぁ、なんてこの世界は素晴らしい。

 静かに次の授業の準備をする。

 そういえば、とテープを切らしていた事を思い出し、カバンの中くらいのポケットから取り出す。

 虹色に光る教室の中で、僕の周りだけが灰色の空気に覆われているような気がする。

 僕がこのクラスの結束力の元であり、また嫌悪の対象。

 小学生の頃は何もかもが光って見えていた。例えばそう、使い終わったテープの芯。透明なテープを使い終わり、灰色の紙の筒だけになったそれは、遊び道具としては最適だった。大きめのテープのものならば、一つだけでも〔消しゴム落とし〕に使う装備になる。三つくらいを重ねれば蹴って遊ぶのに使える。僕らはそれを〔キックホッケー〕なんて命名して遊んでたっけ。

 あの頃は、まだ友達と呼べる存在が近くにいた。

 今、僕はそのテープの芯を丸めてゴミ箱投げ捨てた。(実際は一度では入らなくて三度くらいやって諦めて直接捨てた。)

 クスクスと笑う声が聞こえた。

 四つ葉のクローバーだってそう。昼休みになると、友達全員掛りで校庭中の四つ葉のクローバーを毟った。

 集められたクローバーの数だけ、友情を高めていた気がした。

 その時一つだけ残しておいたクローバーは、ラミネートの中で黒くなってしまっているはずだ。今はもう、どこにあるのか分からない。

 歳を取るに連れて思う。僕はつまらない人間になってしまったなと。

 何に対しても輝きを見つけることができず、日々の全てをつまらない物としか見ることのできない、つまらない人間に。

「大人になりたくない」なんて言っていた友人がいたが、そいつもいつの間にか僕と同じく大人になって行ってしまってる。だけどそいつは今を楽しそうに生きている。どうして僕は、日々を楽しく感じられないのだろうか。これは、の一言では表せられないだろう。

 まぁ大人が何なのかは分からないが、とりあえず子どもではないことは分かる。

 過去の思い出に耽るのは、非生産的な行為かもしれない。過去は何も生まないし、過去に遡ることが出来るのは想像の世界だけだ。タイムマシンが出来たとしても、過去には行けないと言われている。当たり前だ。時間の流れは一方通行なんだから。

 僕は別に過去に戻りたい訳じゃない。いや、もちろん戻れるのならば興味はあるが、どちらかと言えば現在に留まりたい。

 僕はどちらかと言うと、変わりたくない。

 僕は変化を恐れる。昔と違う自分になってしまっていることに、時々恐怖を感じるし、昔の友人を思い出せなかった時の絶望感といったら無い。

 怖い。知らないうちに何かを失っているというこの感覚が怖かった。

 人生をゲームに例える人がいる。大抵の人は人生はクソゲーだと言う。だけど、これはクソゲーどころか、ゲームクリアさえ無く、ゲームオーバーまで脱出することは出来ない。

 言うなれば地獄だ。

 抜けだせない恐怖を、時々起きるラッキーだけを頼りに生きている。

 その中でも、高校生活は最悪だ。

 この最後の一年を過ごしたら変わるのかもしれないが、もうそんなことはどうでもよかった。

 別にいじめられていた訳でも、先生に嫌われていたわけでもない。ただ、つまらなさが極限に達しただけだ。絶望とも言えるかもしれない。

 そう、この世界で生きるやる気がなくなってしまった。

 ただ、それだけなのだ。

 次の授業の教室へ向かう。

 好きだったはずの数学は、いつしか大嫌いな科目になっていた。



 つまらない学校での授業が終わり、自転車を漕いで家に向かう。

 並列走行のくせにゆっくり走る女子の群れにイライラしたり、信号の無い横断歩道で全く車が止まってくれなくてイライラしたり、いつも通りの帰り道だ。

 昔だったら、友人と笑っていたであろう事が今は苛立ちの種と成している。

 横断歩道の車の流れはまだ止まらない。

 あぁ、あの頃に戻りたい。とまでは思わない。きっとどんな道を辿っても僕は孤立してしまう。

 最近では、結局僕という人間はこの道を辿る事が決まっていたのだろうとまで考えるようになった。運命ってやつだ。

 過去に戻ってやり直しても、変わらない。

 ならいっそ、別の世界にでも行ってみたいと現実逃避もしてみる。

 ――


 〈目を瞑る。〉


 三秒したら知らない世界に――なんて事は起こらない。

 家に帰っても憂鬱だ。一人でゲームなんてして何が楽しい。フレンド欄には知らない名前の知らない人がいっぱい居るだけだ。

 横断歩道から車が居なくなる。

 ゆっくり自転車を漕ぎ始め、自転車のバランスが安定する。


 横からの衝撃。


 そして宙を舞う。


 痛みは感じない。

 本当は気づいていた。

 まだ、車の流れは止まっていなかった。

 ニュースで自殺の話題を見るたびに、可愛そうとか、どうして、と思う。

 どうして、の答えは今分かった。

 可愛そう、は言われたらむしろムカつく。

 他にも思う事がある。

 ――自殺は他人に迷惑をかける。

 ただ、その事もまぁ自殺するような人にとっては無意味か。だって、周りが救ってくれなかったから自殺するのだから。

 迷惑なんてかけて当然だ。


 〈目を開ける。〉


 想像の中で、僕は死んだ。

 この死に方は、全く関係のない車の運転手に迷惑をかける。やっぱりそれは、だめだ。

 今度は想像ではなく、本当に車の流れが止まる。

 自転車を走らせる。

 家に着き、ドアを開けて中に入る。

 ただいまの声は壁に当たっても帰ってこない。

 洗面所でうがい手洗いをし、リビングに向かう。

 冷蔵庫から取り出した烏龍茶を食器棚から取り出した、透明なグラスに注ぐ。コポコポという音が可愛らしい。

 テーブルの上には雑に千切られた紙のメモ。

「夕飯冷蔵庫に作ってあります」の文字。

 母はアイドルのライブに行っている為、夜勤の父による物だろう。

 冷蔵庫の上の棚から、薬箱を取り出す。

 適当に一つ瓶を持って自室に向かう。

 部屋に入ってすぐにその瓶から取り出した薬を飲んだ。数は数えていないが、通常よりはるかに多いことは分かる。

 苦味と酸味。とにかく不味い。

 しばらく経って腹痛が来る。

 ギュルギュルと音が鳴っているのが聞こえる。

 目眩がし始め、だんだんと意識が遠のき始める。


「これで、つまらない世界とはおさらばだ」


 何となく言ってみる。最後に何かを言って死ぬのは憧れだった。


 だんだんと感覚が、色が、音が、消える。


 あぁ、もしかしたら僕もニュース番組で報道されてしまうのだろうか。


 それは嫌だなぁ。


 僕の心の弱さを皆んなが笑うって事じゃないか。


 僕は静かにこの世界から消えたいのに。


 あ


 いじめもがあったわけでもないし、先生から嫌われてもなかったわけだから、報道されても新聞くらいか。


 良かった。


 良かった。


 良かった。


 良かっ

 ――というか、いつ死ぬのだろう。


 あれ?


 おかしいな


 音がする。


 光も見える。



 なんとなく目を開く。



 ――見慣れない光景。


 とてつもない苦しみを経験した僕は、本当の意味で現実から抜け出す事が出来たのだった。

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