私には昔、好きな女がいてな……

『逃げるってば! 早く!』



 僕の淀んだ思考に入り込んできたイオは怒鳴った。



『誰のためにやったと思ってる! 前田を守るためにローラインは撃ったんだよ!』



 信じられなかった。僕のせいで? 僕がタバコにあたったから?



 一歩も動けなかった。この犬がかわいそうでかわいそうで、僕はここを離れる気になんてなれなかった。どうしてこんなことが起きてるんだ、僕にじゃない、ここでだ。頭の中を整理しきれないまま、僕は土手の上でへたり込んでいた。



 カキン、となにかが頭にあたった。ほとんど同時に、銃声が響いてきた。



 頭を上げると、土手の奥で何かが動いている。さっきの陣地のあたりだ。



「撃ってきたぞ! お前がさっさと渡らないからだ前田! おい、早く逃げるぞ!」



連続した銃声が響いて、二人はとっさに僕の後ろに隠れたようだった。僕はといえば、自分に向かって飛んでくる弾に驚きすぎて、思わず頭を抱えてうずくまった。



 すると、冷たくなりつつあるグレイの顔が鼻先にあった。



 とにかく叫んだ。泣き叫んだ。逃げ場がどこにもないこの状況で、僕にどうしろってんだ。



「どうしろってんだよぉ!」



 僕の叫びを無視して、二人は僕を盾にするようにして伏せ、銃を撃ち始めていた。敵の攻撃はそれに反応して激しくなり、そこらじゅうから破裂音が聞こえる。それが銃弾が近くを通った音だと後で知った。



 二人の攻撃は全く効いていないようだった。敵の銃撃はますます激しくなっていて、どうやら機関銃までこちらに撃ち始めたみたいだった。周りでいくつもの土煙が舞う。



「ここで死んじまうぞ! なんとかして動くんだ前田!」



 ローラインが伏せたまま、僕の体を殴って叫ぶ。



 だが僕は、首を振った。そうしないと死ぬ、ということは薄々わかり始めていたにも関わらず、動けなかった。グレイに同情しているからではない。ただ怖くて怖くて動けなかったのだ。



「わかった。イオ、お前はここを離れてくれ。私にはここに残る責任がある」



 僕は一言一句違えず、ローラインの言葉を伝えた。泣きじゃくりながらだったけれども。少なくともそれが、今の僕がしなきゃいけないことだった。



『嫌です。それに、こいつをここに残したままじゃ寝覚めが悪くって』



 イオの返答は、僕には意味がわからなかった。いやどちらも意味がわからなかった。



「どうして……逃げないんですか? どうして……」



 僕が嗚咽混じりにそう言うと、ローラインは笑いを交えて話し始めた。



「私には昔、好きな女がいてな。ああ、これはイオには伝えんでいい」



 ローラインは寝そべったまま撃ちはじめた。その間も話は止まらない。



「ある日、その子と一緒に歩いていたら、犬に追いかけられてな。逃げたさ、必死に。でもそれ以来、あいつは私と話すたびに、それをネタにしてからかってくるようになったんだ。だから私はこういう時、逃げないって決めてるんだ」



 まったく納得はできないけど、そう言い切った彼女の顔は揺らぎもしない。



 出会って数十分一緒にいただけで、そこまで守ろうとするものだろうか。お互いのことなんてなんにも知らないのに。



 ただただ情けなかった。自分の人生は、思い起こせば逃げてばかりだったかもしれない。物心ついてからずっと持病に悩まされ、どんなことに挑戦しても、体が僕の邪魔をする。そしてそんな体に言い訳をして、学校にも行かず、ぼーっと映画を見続けていた。



 そうして誰かが挑戦していく物語ばかり見ながら、僕はなんにも挑戦してこなかった。



 だからせめて、せめて今くらいは。今くらいはなんとかしなくちゃ。



 顔を上げた。陣地から容赦なく機関銃が撃ち放たれ、赤い軌跡を描いて僕の体に命中している。確かな衝撃があったが、不思議と痛くはない。僕は二人をかばうようにしながら、土手のふちへと向かって体を動かした。



「いいぞ! 土手に身を隠せば、多少やりやすくなる……ぐっ!」



 必死に僕を支え続けていたローラインが、押し黙った。振り返ろうとすると、イオが自分のライフルを僕に後ろから突っ込んできた。

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