こいつだって赤い血を流してるじゃないか
土手沿いを進んでいると、ローラインが足を止めて手で何かを示した。
『伏せろって』
イオが口も開かずに僕に教えてくれたので、できる限り水に浸からないように姿勢を低くした。対してローラインとイオは、ほとんど水に浸かっていた。
暗闇に目を凝らすと、土手に何かが作られていた。背は低く、屋根もなく、土嚢で壁を作っただけにみえる。けれど、その土嚢の切れ目からいくつかの機関銃と、その後ろに立つ人形の影を見て僕は首をすくめた。
「あれが敵ですか」
と僕が聞くと、ローラインは黙れと言わんばかりに素早く僕を睨みつけた。それからしばしその陣地を観察すると、深い溜め息をついた。
「迂回するしかないな。どちらにしろ、あの土手を登らなくてはいけないが、見逃してくれると思うか」
『無理ですよ』
イオの言葉を伝えると、そうだろうな、とローラインは首を振った。
その時、爆音が響いた。今まで何度も聞いてきた音だが、随分と近い。というより、その土手の真後ろから聞こえた気がする。
「あそこに高射砲がありそうだな。そうなると、20人はいるだろう。迂回だ。どちらにしろ土手を登らなくちゃいかんが、できるだけ離れてからだ。」
それから再び土手沿いに向かって進んでいった。背後にすぐ敵がいる、それを知った上で背を向け、息を殺して、歩くたびにぱちゃぱちゃと跳ねる音を隠しながら進むというのは、かなり疲れる。
「どうせならもっと土手から離れて歩いたほうがいいんじゃないの?」
できるだけひっそりと聞いたつもりだったが、声を出したこと自体がタブーかのように、ローラインは振り返って僕を睨みつけた。闇の中で、眼球に反射するかすかな光が僕を鋭く射抜く。黙れという意味だろう。
『足元っていうのは死角なんだよ。それにここを進んでいればいざというときに、土手に登って応戦できるし。水の中で逃げるのは無理なんだから、そうするしかないって』
わかった、といいそうになったけど、ローラインの瞳に気圧され、僕はこくこくと頷いた。
それからローラインと、顔も知らない敵の影の双方にびくつきながら牛歩のごとく進んでいると、一人の人影が土手の上にいた。もしかして僕らのことがバレたんじゃないか。
口元に赤い光が灯ったので安心した。タバコを吸っているだけかもしれない。黒に近い紺色の空に、敵の影が浮かび上がった。
僕は肩を落としたが、前を行く二人ははぴくりともしなかった。ただ、ほんの数メートル先にいるタバコの火を、じっと見つめていた。タバコの光はホタルのようにゆっくりと明滅して、口元に近づいていくと、彼の顔を照らした。
途端に、僕はおじいちゃんの家を思い出した。祖父の家も海岸線沿いにあった。そこには、灰色でもこもこした、精悍な青い瞳の犬がいたのだ。名前はグレイ。祖父の家に行くと、まず出迎えてくれるのは、涎を振りまきながらこちらに駆けてくるグレイだった。グレイも高齢だったはずだが、僕の記憶にいるグレイは、いつだって駆け足だった。
敵だとは、とても思えなかった。グレイそっくりの彼が。
そんなグレイが、いやその見知らぬ敵がタバコを指先で弾いた。不運にも、それはこちらに向かってきている。避けようにも、避けられない。
それは僕の目に入る直前――ほんの1センチ先で、火花をちらして跳ね返り水に落ちた。じゅっ、という音だけが、不穏に、この場にいる全員に聞こえた。
グレイはとっさに銃を構えた。その構えは熟練で、ほとんど反射と言っていいほどだった。
だがすぐに、間近で何かが破裂する音が聞こえて、グレイは胸を押さえて倒れ込んだ。すぐさまローラインとイオが派手に水音をたてて土手にあがり、僕もあとを追った。彼女たちは手を懸命に振り回しているグレイに近づくと、何かを大きく振り降ろした。
ローラインが撃ったのだと気づいても、僕は何もできなかった。
あっという間だった。
目の前で何かが……殺されるのを見たのは、これが初めてだった。
わずか十数秒の間に、生き物が殺された。転がってきた死体は灰色の軍服を着ていたが、首から下にしみができている。瞳はまだ生きているのかのように澄んでいた。それが、背後の空で破裂する光であらわになった。
胸に小さな穴ができていて、それは灰色の軍服に染み出してきていた。こんこんと湧く清水のようにシミが広がっていく。首の裂け目からは、肉と白い何かが覗き見えた。そこからは、ペットボトルを倒したような勢いで血が溢れ出ていた。
こいつだって赤い血を流してるじゃないか。
僕は呆然とその亡骸の腕をとった。顔だけじゃなく、手の先まで毛で覆われている。それに、まだ暖かかい。水よりも、ずっと。
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