閉じた扉が開く時

金木犀 朝霞

Sが亡くなった、と知らせを受けるまで、俺はSのことなんてさっぱり忘れていた。

7月6日、木曜日。暗闇の中、小さな赤い光をただ見つめていた。点滅を繰り返す、その光に見惚れていて、しばらく電話がなっているのに気づかなかった。電話が鳴っている、と気づいたのは暑く、息苦しさを感じてからだった。ソファにうつ伏せになっていた俺はのろのろと体を起こし、立った。汗を含んだシャツと外の熱気が俺を毛布のように包み込む、その感覚が気持ち悪かった。顔をしかめながら受話器を取ると、いつの間にか切れていた。舌打ちが虚しく暗闇の中に溶けていく。

’’7月5日、Sが死去いたしました。’’

どこかで聞いたことのある、枯れた声。その悲しげな声が言った言葉にしばらく呆然としていた。悲しい声は淡々と通夜と葬式の日時や場所などを伝えてきた。

体から力が抜けていく、俺は倒れる、という寸前で壁に両手をついて体を支えた。

東京の、夏の夜の、熱気が、俺の記憶を高校の夏に誘った。




中高一貫校の高校1年生。初めてSを認識した年。

俺の隣に座る生徒は猫背になって、読書をしていた。他の生徒よりも長めな黒髪に白い肌、明らかに室内を好む人だな、という印象を受けた。

「何読んでるの?」

新しい担任の最初の話を無視して、ただ本に没頭するSが気になった。俺でさえも、途中まではちゃんと前を向いて話を聞いている素振りをしていたが、それを気にしないSを見て馬鹿らしく思えたのだ。

「白鯨。」

しばらくの間、何も答えなかったSがいつの間にか俺を見ていた。

「面白いの?」

「わからない。」

話が続かない奴だな、と俺は前を向きながらしばらく横目でSを観察していた。Sの目には文字以外、何も映らない、と感じた。


夏。

珍しいな、と目にしたのはSと隣のクラスメイトのA。Sがクラスメイトと話すところを初めて見たが、その相手が男女ともに人気のあったAだったことに驚いた。

「エイハブ船長は、白鯨の何を求めていたの?」

AがSに尋ねている。呆然と見ていたが、AのてにもSと同じ白鯨があった。

「キャプテンエイハブは白鯨をライバルだと見なしていたんだよ。」

俺はエイハブという名前の人を知らなかったが、その人が主人公の話なんだな、とだけしか思わなかった。だが、他のクラスメイトと話している間でさえも彼らの会話の方に興味があった。白鯨に興味があったわけではなかった。とにかく、エイハブという船長は少し、キチガイで自分の足を奪った白鯨を殺したいと思っているらしい。

なんというか、よく分からなかったが数日後、俺は本屋で白鯨という本を手に取ってしまったのだ。

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