第7話「友情と恋敵」
リビングにある大きな薄い箱の中で、先日知り合った男性が頭を垂れている。
彼は警視庁本部の捜査三課に勤める張間警部だ。先日、探偵である九条さんに予告状を送り付けて来た怪盗Arkを取り逃がしてしまった事を謝罪していた。
張間さんの前には大勢の記者がおり、それぞれ質問をぶつけている。何故取り逃がしたのか、何故変装を見破れなかったのか――。張間さんは、その質問一つひとつに額の汗を拭いながら、淡々と答えている。彼の悔しそうな表情がとても印象的だった。
液晶テレビを食い入るように見つめて、九条さんは小さく溜息を漏らした。警部も失態を犯したが、九条さんも同じ事を思っているだろう、その横顔は険しいものだった。私はどう声を掛けて良いか解らず、ここ数日まともに九条さんと会話らしい会話をしていない。
朝起きて挨拶をして、家を出る時には行ってきます、と言う。それくらいだ。
今、九条家には少し重たい空気が流れていた。それを皆気付いている。気付いていて、どうする事も出来ないのだ。私は気まずさを感じながらも、何も言うことなく、再びテレビに視線を向けた。
『次は必ず奴を捕まえてみます!』
テレビの中の張間警部はカメラ目線でそう宣言した。
「はぁ……」
何度目か解らない溜息を吐く。昼時、大学内のカフェテラスは、人でごった返している。まるで人気アイドルのコンサート並みに女性客で混雑していた。このカフェテリアは、雑誌やテレビにしばしば取り上げられている。一番人気のデミグラスハンバーグセットはボリュームがあり、値段もお手頃で学生には有り難いメニューだ。
私は今日、日替わり定食の生姜焼きを頼んだ。これも密かに人気なのだ。
「ねぇ、茉白。アンタ今ので十回目の溜息だよ。何かあったの?」
「う、うん、実はね……」
私は桜智さんに最近の出来事を掻い摘んで説明した。彼女は私が話す間、軽く相槌を打つだけで、真剣に私の話を聞いてくれる。持つべきものはしっかり者の友人だなと思った。桜智さんは三人兄妹の長子で、妹さんや弟さんの面倒をよく見ている。だから、相談事にも真剣に向き合ってくれた。私は一人っ子なので、姉が居たらこんな感じなのだろうか、とふと考えてみる。兄妹もいいものだなと思った。
「家の空気が悪い,かぁ……茉白のところは家族ではないからそういう空気になるの、どうしたらいいか解んないよね」
「うん、そうなんだよね……」
「うーん、家に居づらいなら、あたしと飲みにでも行く?」
「え?」
その日の夜、私は桜智さんに連れられて行きつけだという居酒屋に来ていた。店内は賑わっており、ガヤガヤと煩いほどだ。焼き鳥が美味しいからと何本かまとめて桜智さんが注文してくれた。
「で、なんであんたが居るの、終夜」
「え? 神凪さんと飲み会とか聞いたら来るしかないじゃないですか?」
「まーしーろー、アンタほいほいこいつに伝えるんじゃないわよー」
「で、でも皆で来た方が楽しいかなって……」
「まぁいいか。柊夜、アンタは炭酸よ解ってる?」
「解ってますよぉ、俺まだ捕まりたくないですもん」
そう言って、柏木君はコーラを、桜智さんはカシスオレンジを、私はピーチフィズをそれぞれ注文した。実は、こう言った飲み会への参加は、これが初めてだったりする。少し緊張しながら私は二人の会話を聞きつつ、笑い合った。
注文した飲み物が揃い、桜智さんが乾杯の音頭を取る。グラスを傾けて乾杯し、アルコールを煽った。喉がカッと熱くなるのを感じる。これは、すぐに酔いが回りそうだ。気を付けなくてはいけないなと思った。
「茉白これ飲んでみて! 美味しいから」
そう言われてグラスを手渡される。透明な液体の入ったそれに、私は口を付けた。瞬間、燃える様に喉が焼かれる。驚いてむせていると、桜智さんは「あ!」と声を漏らした。
「ごめん、それ焼酎だ……水頼んでくるね!」
そう言って席を外す。柏木君がポツリと「全体わざとだな」と呟いたのを聞いて、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「でもまぁ、樹菜里先輩なりに元気づけようとしてるんですよ、きっと」
「うん、解ってるよ」
柏木君を見つめると、二重にぼやけて見えた。それが可笑しくてくすくすと笑ってしまう。当の本人は、訳が分からずに頭を掻いているが、それすらも面白くなってきてしまった。
「……大丈夫っすか? えっと、俺のコーラでよかったら飲みます?」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ」
ニコニコと笑う私に、調子を崩している柏木君が可笑しい。
はぁ、と小さく溜息を吐かれ、真剣な顔を向けられた。
「今、先輩は酔っているのでフェアじゃありませんけど、俺、やっぱり茉白先輩が好きです。貴女の誰にでも気を使うところとか、少しの事で心を痛めてしまう部分とか……俺が守りたいです。少しでも、貴女の安らげる場所が俺の隣だって思って貰えるように俺、頑張ります! だから、先輩も俺の事、少しでいいから考えて欲しいです」
そう、間近で真剣に言われて。私は笑っていられなくなった。
こんなに真っ直ぐに気持ちをぶつけられるのはこれで二度目になる。けれど、私はどうしていいか解らず、ただ心臓がうるさい位に大きく響く。
「……ありがとう。柏木君は、まっすぐに人に気持ちをぶつけられてすごいよ。私も、そうなりたいなぁ……」
「あ、てか俺勝手に下の名前で呼んじゃってすみません!!」
「いいよ、私も終夜君って呼ばせて!」
「……先輩、その顔は反則です……」
紅色に頬を染める彼が、やはり年下なんだなと思ってなんだか可愛く思えた。そうこうしているうちに桜智さんが戻って来て私に水をくれる。それを飲み干して、少しだけ酔いを醒ました。
「俺、トイレ行ってきます」
「はーい、いってらー」
桜智さんと入れ替わりで柊也君が席を外した。二人になった私たちは、講義の話や課題の話で盛り上がる。
周りの客も出来上がっていて、既にどんちゃん騒ぎが始まっていた。どうやらこの居酒屋は大学生が多い様だ。他の客に負けない様に大声で桜智さんと話をする。
「あのさ! 茉白に聞きたい事あったんだけど!」
「何?」
「もしかして、茉白も……天路さんの事好きだったりするのかなって」
「っ……あの、えっと……桜智さんに黙っててごめんね、実はそうなんだ……」
「……やっぱりかぁー……でも、あたし負けないからね!」
桜智さんは笑ってそう言った。驚いていると、頬を撮まれる。されるがままになっていると、思いっきり頬をつねられた。
「い、いひゃい……」
「もー、こういうのは気にしないの! だって好きな気持ちはどうしようもないじゃん! それに、茉白に言ってなかったけど、あたし一回告って断られてるんだよ?」
生き生きとした表情で語る桜智さんを羨ましいな、と思う。私も天路さんに気持ちを伝えられたら……けれど、言葉にするのが怖かった。言葉にして今までの関係が壊れるのがとても怖い。私は、彼女のようにはまだ、なれない。
「お互い、全力で行こう。で、どうなっても必ず応援するから。ね?」
小さくありがとうと伝えた。それが今は精一杯だった。
桜智さんも、きっとその事は理解してくれているだろう、それ以上追及してくることは無かった。
「あー、それよりも、終夜だよ! あいつ、あたしが居ない時にまた茉白に好きって言ったんでしょ。ちゃんと断らないとああいうタイプは気付かないよ?」
「もっと終夜君の事を知ってからきちんと返事したいから……」
「茉白らしいね、しっかりしてるだろうから大丈夫だろうけど、何かあったら相談してよ?」
そう約束を交わして、私たちは笑い合った。
今日は桜智さんが飲み会を開いてくれて良かった――。素直にそう思った。
帰ったら、九条さん達と話をしてみよう。私は気持ちを新たにグラスの水を飲んだ。
終夜君が戻って来て、暫くしてお開きという事になり、私たちはそれぞれ会計を済ませて店の外へと出る。
四月も半ばだというのに、外はまだ少し肌寒い。コートをしっかりと体に密着させて暖を取った。
「神凪さん」
「! 九条さん……?」
「ここで飲んでいると桜智さんから聞いてね。迎えに来たよ」
「ねぇ、貴方が茉白先輩と一緒に住んでる九条さん、ですか」
終夜君が九条さんを見つめてそう呟く。
「彼は?」
「あ、同じサークルの柏木終夜君です。新入部員で……」
九条さんはいつもの笑みで終夜君を見つめた。九条さんの方が背が高いので見下ろす形になる。柊也君も負けじとニコニコと笑っていて、なんだか二人とも楽しそうだ。
「そっか、茉白先輩の言ってた九条さんって、あの九条さんだったんすね」
含みのある言い方に引っかかったが、それ以上終夜君は何も言わない。九条さんも先ほど同様笑顔を崩すことなく、そこに立っていた。
桜智さんが大きく伸びをしたのを皮切りに、私たちは別方向へと帰る事になった。
「終夜君、桜智さんの事宜しくね!」
「むしろ、俺が食われない様に祈っててくださーい!」
「誰が食うか馬鹿!」
じゃあね、と声を掛けられてお互い帰路に着く。私は、九条さんと並んで歩きながら、夜空を見上げた。都会の空は明るくて、ほとんど星が見えない。残念に思いながら前方を見つめていると、九条さんがふふっと小さく笑い声を漏らした。
「君たち、ずっと仲の良い友達みたいだね。あんな事があったのに」
「女の友情は長さじゃないらしいですよ。彼女の受け売りです」
「そうか。それは恐れ入った」
コインパーキングに止めてあるという車までの道のりは、意外と長い。路地裏に入ったので人はほとんど通らず、私たちだけになる。九条さんはツボに入ったのかまだ笑っている。こんなに声を出して笑う彼を見るのは初めてだ。私もついつい顔が緩む。
「今日は檀がどうしても外せない用があってね、俺が代わりに迎えに来たんだよ。でも、柏木君にも会えたし来てよかったな」
「そういえば、彼と知り合いなんですか? そんな感じがしましたけど……」
薄暗い路地裏で彼はピタリと足を止めた。逆光の為、その表情を伺うことは出来ない。けれども、口元がうっすら笑んでいるように見えたのは、私の見間違いだろうか。
「……幼い頃に、彼とは会っているんだよ」
その声は、今まで私が聞いた九条さんの声音の中で、一番冷たいものだった――……。
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