第三十二話 国王ジヨール

 ジヨールは国王の寝室、天蓋付きのベッドにも寝間着姿で横になっていた。

 ケイ、ゼノサ、ヨルの三人が訪れると、顔色が優れないままよろよろと半身を起こす。


「ど、どうされたんですか……? まさか、あの戦いでどこか怪我でも……」

「違うのよ。あんた達が走り去った後、お父さん急に倒れちゃって。それでなんとか今は、目が覚めたとこなの」

「そういう事だ……すまんなケイ君、このようなだらしない格好で」


 微笑むジヨールだが、どこか大きな懊悩を抱えた風に声は枯れ、目は落ちくぼんでいる。


「ほんの数日経たんのに、相当な弱りようではないか――昨日の戦闘が、精神的によほど堪えたと見えるが」

「いや……そうではない。ただ……」

「ただ……何よ、お父さん? こんな時ぐらい、遠慮しないで言っていいんだから」


 ゼノサに促されるも、ジヨールはひどく逡巡するように唇を引き結び――そして。


「こんな時に、何だがね……私は実は、記憶喪失だったのだ……この50年間、ずっと」

「えっ――ええぇぇぇっ!?」


 青天の霹靂とばかりに、ゼノサが目を剥く。


「きき、記憶喪失って……ちょっ、どういう事……!?」

「大声はよさんか、ゼノサ。……しかし興味深い話だな。その口ぶりだと、記憶そのものは取り戻した、という事か?」


 ヨルの言葉に、代わって静かに答えたのは――ケイだった。


「……あいつらを見て、思い出したはずです。……エデンの事を。――そうでしょう、ジヨール陛下……いや、テンキ・ジョウ博士」


 今度こそ、呆然としたような、驚愕したような反応が広がる。

 ジヨールは神妙な目つきで手元へ視線を落とすだけで、肯定も否定もしない。


「あなたは、時空断裂事故の際――時空間に巻き込まれた。そしてこのエメスに辿り着いた。だけど、自分が何者だったのかを全て忘れてしまっていたんだ」

「そんな……そんなの、おかしいでしょ! 話が飛躍しすぎよ!」

「いや、正しいはずだ。だって……この国、レクスリーナも……」


 三人の家族写真にあった、ファイル名の名前。ジョウと、リウと――そしてリイナ。


「時計塔を、作れたのも……」


 勧めたのはフリウスだが、直接設計したのは、専門の知識を備えたジヨールだったはず。


「何なら……試してみますか? この時間銃……ランプが青くなるかどうかを」


 ケイがじっとジヨールを見据えると――国王はどこか、自嘲気味にため息をついた。


「いや……その必要はない。君の言う通りだ……どうやら私は、長い夢を見ていたらしい」

「嘘……うそでしょ……!?」


 愕然と立ち尽くすゼノサ。けれどジヨールは物憂げな表情で、誰とも目を合わせない。


「あの日……リウを失った直後。私は時空間に呑み込まれ――レクスリーナに転移していたのだ。そのショックで記憶をなくしてな」


 時空剣が転移したのも、この時だろう。ジヨールとは別の場所に移動したものを、ムガナクスムが拾得したのだ。


「待て、話が通らんぞ。当時の貴様はひいき目に見ても五十、六十代のはず……それから50年以上も、生きていられるはずがない」

「元々、タイムマシンを使いすぎていた副作用だろう――若返っていたのだ、50年分も。そしてトゥルスと出会い、王としての道を、第二の人生を歩み始めた……」


 ジヨールは過ぎ去った昔日を懐かしむように、あるいは慈しむように眼を細める。


「レクスリーナでの日々は本当に幸せだった。友がいて、妻ができ、娘にも恵まれた。仲間達と多くの困難に立ち向かい、いずれはゼノサに王位を継がせ……それで円満に役目を終えられると、そう思っていた。記憶喪失の事すら、忘れていた程だ」


 だが、とジヨールは身体中の酸素を残らず吐き出すように、深く、長い息を吐き出す。


「いつもどこかで、満たされなかった。降って湧いたような正体不明の自責が、昼も夜も私を苦しめ……耐えかねて、時計塔を製作した。その設計図だけは、常に頭の隅にあったのだ」


 私は、とジヨールは血を吐くように言葉を絞り出す。


「……私はエデンの呪縛から逃れられたわけではなかったのだな。それどころか、一人だけ幸福になろうと、体よくエデンでの出来事を忘れ、己の罪深さも忘れ……!」


ジヨールが乱暴に腕の袖をめくり上げると、二の腕から肘にかけ、生々しい火傷の跡が露わになる。


「リウの事すら、忘れ去った……! 私は……千度死んでも足りぬ、愚か者だ……!」


 ――若返ってもなお、リウの遺体を抱えた時にできたこの傷痕は、消えなかったのだ。


「ゼノサ……こんな父ですまない。お前の人生を狂わせるにとどまらず。記憶喪失などという逃避の末にお前達を利用し、自分を慰め、責任も贖罪も放棄して……」


 延々と続く、悔恨と絶望にまみれたジヨールの呟き。

 重苦しい沈黙だけが彼の言葉を聞いていて、ケイもヨルも、何も言ってやる事はできず、目線を逸らし――。


「……だから何よ」


 その時、うつむいていたゼノサが――おもむろに口を開く。


「ゼノサ……?」

「元々はエデンの人間だからって何? 記憶喪失だったからって何? そんなの関係ない」


 目を上げたゼノサはこの上ない仏頂面だ――でも、父親をまっしぐらに見つめていて。


「お父さんはお父さんよ! いつも強くて、頭良くて、優しくて! 小さな頃からずっとあんな風になりたいって憧れてた、あたしの自慢のお父さんよ! ちょっと昔の黒歴史を思い出したからって、それで嫌いになったりするわけないじゃない!」

「黒歴史って……お前」

「ふっ……ゼノサらしい言い方ではないか」


 思わず吹き出してしまうけれど、あくまで大まじめなゼノサの啖呵に、ケイは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 だからきっと、ジヨールも。


「私を……許してくれるのか……? こんな……父としても研究者としても失格の……」

「許すも許さないも、そんな大変な目に遭ったら誰だって逃避したくなるでしょ! あたしだって……父さんの事を言えた立場じゃない。でもだからこそ、今度はあたしが支えてやるんだから……苦しんでる父さんの分も、大好きなレクスリーナを守って見せる!」


 ジヨールは――下を向いて嗚咽を漏らし、つう、と一筋だけ落涙した。


「ジヨール陛下……一つだけ聞いていいですか?」

「ああ……構わん。私の知る事ならば全て話そう」

「そもそもの始まりは、レクスがエメスに現れ、フリウスを利用し精霊戦争を引き起こした事です。そしてレクスは次に、俺達の宇宙――エデンへとやって来ました。でも……エデンには精霊を精霊たらしめる、魔力そのものが存在しない。よってレクスも、かなりのダメージを受けたはずです……それこそ死にそうになるくらいの。ひょっとしたら、慌てて契約できる相手を探したかも知れない……なのに、そこで不幸な事故が起きた」


 ――あの、極彩色の光。

 目がくらみ、テンキ博士は車を崖下へ落としてしまう。


「リウを失ったあなたは……その後にレクスを発見したと思います。そして」


 導き出される解答は、一つしかない。


「――エデンは、レクスなんです。違いますか……?」


 ジヨールは数秒、押し黙り。


「……私はあの時、無我夢中であれを……あの禍々しい光をエデンの動力として転用してのけてしまった。リウを救うためと言い訳し、その行為がどういう未来をもたらすかなど考えもせずに、な」

「けどレクスの奴、魔力のない場所に来たら死ぬのにのこのこ来るなんて、暴れるだけ暴れて自滅するみたいですごく間抜けじゃない?」

「弱体化や、死ぬかも知れんという事柄それそのものをよく理解できておらんのだろ。ああいう手合いは概して、己の被るリスクなど省みもしないものだ」


 それに、今のレクスは力の大半を失っているとはいえ――人間に対するあの過剰な敵意や呪詛が、水面下でエデンに何の影響ももたらしていないとは到底思えない。


「ケイ君、どうか頼む。世界を意のままにせんとするエデンの目論見を、挫いてはもらえないか。本来ならば私に課せられた大いなる十字架にして、潰えぬ負債……適合者である君に頼むのは、おこがましいとは思う。それでも……っ!」


 ごほっ、ごほっ、とジヨールが咳き込みながらも、爛々とした光を宿す眼差しを向ける。


「……やれる事は、やるつもりです」


 ケイの中では、時間銃によって時計頭達をエメスへ呼び寄せてしまった事が、じくじくと胸中をえぐっていた。

 それとともに、自分がどれだけこの世界を――仲間達を好きになっていたのかを、焼き込むよりもなお強く認識させられる。


「時計頭どもは王都から追い出してやったが、いまだ城壁周辺を取り囲んでいる有様だ。連中を全滅させなければ、エデンが次にどんな手を打ってくるか分からん」


 次が勝負ってわけね、と呟くゼノサに、ヨルは重ねて頷き。


「その時が来れば、たとえ我が命に代えてでも……この悲劇に、終止符を打たねば……」


 セリフの後半は囁くようで聞き取れなかったが、ケイは恐らく自身と同質の、けれども数えきれぬ重責を担う悲壮な表情に、どうしてか一抹の気がかりを覚えていた。

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