霧のなかの男(1)

 ゴーシェが他四人をを置いて狂気の山脈に分け入ってから半日余が過ぎようとしてた。

 ときたま、低い灌木のを全くのカモシカや、ライチョウが見え隠れするのだが、そのほかはポロッグに二度ほど遭遇したくらいで、彼はゴーシェを見るや一目散に逃げて行ったのである。

 その間にも沢の水を飲み、羽を毟った鳥をばらしてよく火で炙って食べた。


 やれやれ、こんな所に本当に居るのか?


 ゴーシェは目的の怪物のことをあの終ぞ読めなかった、ジオムバルグの居間に置かれていた山海経で知った。

 なるほど、世界には怪魔が溢れている。

 それ以上に恐ろしいのは人の心に巣食う、どろどろとした感情であるのだが……

 しかしゴーシェはそのことについてはまだ知る由もない。


 山中を歩き続ければ歩くほど霧は濃くなり始め、視界もどんどん悪くなってきた。

 この霧は粘着質なのだ。

 ねっとりと纏わり付くように、霧はゴーシェの体力を奪っていった。


 すると山の中腹奇妙な装置が置かれている。

――なんだあれは?


  ゴーシェが装置に近寄るとそれは、饕餮文様の刻まれた精巧な『機械』でおそらくここに置かれてから何千年も経っているのにまだ動いているようであった。

 ゴーシェはそれに触れようとしたが、


「お待ちなさい」


 そう言う男の声がした。


「誰だ、テメェ……」


 ゴーシェが振り返るとそこには見たこともない程美しい、背の高い黒髪の男がいた。


「わたしは蚩尤しゆう、この黄帝の台の管理者」


「……蚩尤、オレが捜してる化け物の名前と同じだな、アンタはそうは見ねえが……化け物なのか?」


「わたしが数千年に渡り、ここで何をしているか? そして何者なのか説明させては呉れませんか」


 そう、蚩尤という男は語りかけてきた。


「良いだろう、話してくれ……」



この黄帝の台はある種のチューリングマシンです。

即ち中身は、その表面に記号を読み書きできるテープ。長さは無制限(必要になれば順番にいくらでも先にシークできる)と、テープに記号を読み書きするヘッド、ヘッドによる読み書きと、テープの左右へのシークを制御する機能を持つ、有限オートマトン、が、あります。

また、ソフトウェアに相当するものとして……

テープに読み書きされる有限個の種類の記号と、初期状態においてテープにあらかじめ書かれている記号列、有限オートマトンの状態遷移規則群ですね。

この有限オートマトンの状態遷移規則は、その有限オートマトンの「現在の状態」と、ヘッドがテープの「現在の場所」から読み出した記号の組み合わせに応じて、次のような動作を実行します。


・テープの「現在の場所」に新しい記号を書き込む(あるいは、現在の記号をそのままにしてもよい)

・ヘッドを右か左に一つシークする(あるいは、移動しなくてもよい)

・有限オートマトンを次の状態に状態遷移させる(同じ状態に遷移してもよい)


さらに、この有限オートマトンには(一般的な有限オートマトンの「受理状態」と同様な)「受理状態」がある。計算可能性理論的には、決定問題の2種類の答えに対応する、2種類の受理状態が必要です。


しかしこの機械で決定できない命題も存在します。例えば与えられた命題、この機会が停止するかどうかをこの機械で決定することはできないのです……


「で、テメェは結局何をしようとしてんだ?」


「この黄帝の台に黄帝の台が停止するかどうかの決定を吐き出させようとしている、もう何千年も……」


「それは無理だって、テメェ自身で言ってたじゃねえか」


「はいだから、その度に壊しては修理してるのです」


「………………」


 ゴーシェは頭を抱えた。

 自分の倒すべき怪魔が何ら攻撃的でないことを知って、驚いた。

 それもあまりに。


「蚩尤さんよ」


「はい」


「あんたは炎帝神農氏の子孫で霧になったり霧を操る能力を持つ、それで相違ないか?」


「そのようですそんな力はめっきり使う機会がありませんが」


「いや、事実この周囲は濃霧に覆われていた」


「わたしが考え事をしていたからでしょうかね?」


「アンタずっとこの山脈に棲んでいるのか?」


「いえ、以前さる島に居りまして……不思議な島でした、地獄と通じてるのです」


「?」


「なんでもありません、今のは忘れてください。ただ気づいたら何千年も経ってこの山地に居りました、それも黄帝の台と一緒に」


 それからしばし霧の中ゴーシェと蚩尤は沈黙した。

 そうして遂にゴーシェが口を開いた。


「困ったな……」


「何がです?」


「オレは『山海経』の怪魔退治に来たんだが、アンタはとても化け物とは思えない」


「『山海経』ですか、あれはわたしのことをボロクソ書いてますからね」


「しかしあの集合的的無意識が見せた圧倒的な幻影は何だったのだろうな……」


「そんなものを見てしまってはこの山地が何なのか気づいてしまってますね」


「気づいている、だからこそ仲間には言えないじゃないか……」


「なるほどお仲間が――いいでしょう手合せ程度でしたら形式的にわたしが相手になりますよ、首は取れなくともね」


「いいのか? 最近ジオムバルグとかいう存在するのかしないのか――いや存在する女の手引きで弱っちい学士だったのに剣聖みたいになっちまったぞ」


「大丈夫ですよ……どこからでも打ち込んでみてください」


 そう言うと蚩尤は美しい口元に笑みを張り付けた。

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