オルランダ

 少女が目を覚ますとそこはふねの上。


 霧の中を進む一艘の舟が水面を割いて静かに進んでいた。

 時折聞こえる波音。


 自分は砂漠で倒れた、その筈だった。


 やや小柄な船頭は静かに櫂を操る。


 少女ははまだ血の通わぬ手指を動かしては、物言わぬ船頭を見やった。


 何者だろう。


 船頭としては奇妙だった。


 オルランダが見たこともない服装だったし、通常船頭はもっと年を取っているものだったが、この男はどう見積もっても体つきから二十歳程に見えた。


 露除けのマントを被っていたが時折、短い黒髪が風に揺れて少し覗いていた。


 ふらつく頭を押さえながら腰かけると舟はやや横へ振れた。


 すると船頭は振り返り凄まじい形相でオルランダに向き直った。


 やはりまだ若い男であった。


 黒い短髪に赤い三白眼。整った顔立ちとはいえたが、どこかきつい影がある。


 なによりもぎらつく赤い瞳に少女は畏怖した。


 船頭は、少女と話すことが莫迦ばかしいと感じたのか、


 身振りで動くなと指示を出すと再び櫂を動かし始めた。


 舟が霧を割って進んでいく。


 そのまま長い時間が過ぎた。


 オルランダは膝を抱え眠ろうとしたがそれもできなかった。

 これから己の身に起きることを考えるとぞっとした。

 どこへ連れてかれるのだろうか?

 男は単なる船頭に過ぎず、どこかに主人がいるに相違なかったし、このまま無事で済む保証もない。


 そんなことをつらつらと考えていると、いつの間にか、

 夜が更け完全にあたりは暗くなり、靄のかかった闇が支配した。

 ひどく船上は寒かった。


 風がごうごうと水面を撫でた。


 何せ自分は安っぽい見世物の芸人の衣装に、盗んだぼろ布を引っ掛けただけだったから。

 これは何とか事態を打破するしかない。

 そう心に決めると、遂にオルランダは腰かけたまま船頭に話しかけることにした。


 一体ここはどこなのか?

 噂に聞く冥府の河なのか? だとしたら赤い瞳の男の正体は?

 何のためにこの舟で運ばれているのか?

 ほかに主人は居るのか?

 オルランダの頭の中は疑問で埋め尽くされていた。


 遂に勇気を出して話しかけるその時がきた。

 心臓が早鐘のように打っている。

 ちいさな唇がやっとのことで言葉を紡ぎだした。


「ねえ、船頭さんこの舟は何? 私たちどこへ向かっているの?」


 だが船頭だと思っていた男の答えは意外なものだった。


「船頭ぉ? オレが船頭だと? 勘違いも甚だしいんだよ、それにテメェみてえな流民の芸人風情に名乗る名前はねえよ」


 男の返答にオルランダは吃驚した。


 身分ゆえ邪険に扱われることこそ多かったが、この男は多分に失礼だ。失礼な男に違いない。

 今のところこの男のおかげで助かってはいるが、一緒にいてもろくな目には遭わないだろう。舟を下りたら早々におさらばしなくては……


 そして船頭だとばかり思っていた赤い瞳の青年は、信じられないような言葉を吐いた。


「だいたいお前、見世物小屋の芸人だろ? それもなんだ? 男と平気で寝るような――」


ぱんっ


 乾いた音がしてオルランダの平手が船頭の男の頬に綺麗に入った。


「芸人にされかかったのよ……それに私娼婦じゃない!」


「……ってえ」


 櫂から手を放し青年ははオルランダに向き直った。


「このアマいい度胸じゃねえか! やんのかコラァ!」


「女相手にやる気! ほんとに失礼ね何者よあんた!」


「助けたオレと一戦交えるとはいい度胸だ、このアマ名前だけは聞いといてやるよ」


「私はオルランダよ、あんたこそ名乗りなさいっ」


「女に名乗る名前はねえっ」


「私は名乗ったわよ? 名乗れない理由でもあるの!?」


「オレの矜持きょうじの問題だ、オメェにゃ関係ねえよ!」


「名乗りなさいってば!」


「いやだ!!!」


 もみあってるうちに舟を操作していた男のマントがずり落ちて、男の服装が露わとなった。


 帯刀している!

 抜く気だろうか? 丸腰の女相手に。


「こいつが気になってんのか? テメェみたいな弱っちいの相手にゃ抜かねえよ、ただし――」

 赤い瞳がギラリと光った。

「この拳で充分だ」


近接格闘リアルファイトで私をぶちのめす気!? 最低な男ね!」


「なあにちょっくら痛い目に遭って、少しおとなしくなってもらうだけだよ、慌てんな」


「そんな事口で言えば解る話じゃない! だったらなおのこと名乗りなさいよ!」


「うるせえ! 揉みあうな、舟が均衡を崩す」


「ってもう崩れてる、めっちゃ揺れてるじゃない、あ、――」


「バカ! それ以上立ってるんじゃ、あ、――」 


 その時二人の薄茶色と赤の視線が交錯した。


――絶対、こいつ嫌いだ。今後一緒に過ごすことになっても好意なんて抱くことはありえないだろう、オルランダはそう確信した。


 次の瞬間、ざぶん、と白波を立てて、二人は落水した。

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