第2話

 体が痛い。


 布団の中で寝返りを打とうとして、私は呻く。肩周りの筋肉が軋むように痛んで、これはあれだ、筋肉痛だな、と思う。


 眠い。怠い。これに加えて春休みときた、これはもう惰眠を貪るしかなかろう。そう判決を下し、私は眠気に身を任せる。誰が何と言おうと、私は寝る。

 たとえ枕元で私を起こそうとしている声がしたとしても、だ。


「……あの」

「ごめんきーくん、朝食いらなぃ……バイトないし……」

「いや、ええと……」


 ふわふわとした眠気を楽しんでいたものの、いつまでたっても気配の離れる様子がない。いつもよりしつこいな。休日であれば、一応声をかける程度で引き下がるのが常なのに。


「……なぁにぃ……? あたし今日当番じゃないよ……?」


 食事当番ならちゃんと目覚ましかけて寝る。散々末っ子は甘えん坊だわがままだと言われるけれど、家事の分担は割と均等だ。姉の律穂ほど凝った料理は作らないものの、昨日も朝食を私が作って……。

 ……いや、そもそも昨日から二人は出かけたんじゃなかったか。私一人分しか食べないからと思って、昨日も最低限のものしか買ってこなかったような。


 昨日、昨日……。


 ……そう、昨日。


 目を開ける。本当は飛び起きようとした訳だが、筋肉痛のせいで油の切れたロボットのような動きになる。


「……あ、だだだだだだ」

「大丈夫か?」


 力強い腕が私の手を引いてくれたおかげで、何とか上体を起こすことに成功。ありがとう、と礼を言いながら顔を上げて。


 ……あらイケメン。


 そこにあった顔は、私の予想以上に端麗だった。少しニキビが浮いてはいるものの、すっきりとした鼻筋と輪郭。やや釣り目の金色の瞳はくりっと大きく、意思の強そうな眉が目元を引き締める。少なくとも、昨日のモップ怪人と同一人物とは思えない。


 とはいえ、別人というわけでもないだろう。未だ服から覗く手足は薄汚れているし、髪はまだゴワゴワだ。

 私がぽけっと少年を見上げていると、少年は居心地悪そうに視線を彷徨わせ、早口で言う。


「あー、悪ぃ、置いてあった服借りてます。でもそれ以外には手を付けてない。服軽く洗わせてもらったから、乾いたら出てこうと思って」


 何か私の部屋が物珍しいのか、忙しなく視線を泳がせながら、彼は言う。しかし、洗濯機を回したにしては音がしない。


「洗濯機使い方わかった?」

「いや、流石にそれは悪いから洗面所で洗って干してる」


 遠慮の塊か。


「はー、あんだけ汚れてたんだから手洗いだけで落ちるわけないでしょ、洗濯機に今すぐ放り込んで。あと貴方も風呂に入る! そんな汚い格好でうろつかないの!」

「えっあっ悪ぃ」


 まだ眠気の残る体を叱咤し、私はベッドから起き上がって少年を風呂場に押し込む。流石に汚れた彼を放置したまま寝ているわけにもいかない。


「バスタオルは後で置いておくからそれ使って。下着系はうちの兄が買ってきて使ってないのがあるからそれ良ければ履いて。他に何かいる?」

「ん、大丈夫です」

「了解。私は台所にいるから」


 タオル一式を洗面台に置いて、それから三つ子の兄の部屋へ下着を漁りに入る。プライベート? 知らない言葉ですね。

 まぁあんまり漁ると申し訳ないし気まずくなるかもしれないので、今回の狙いは以前兄がビンゴで当ててきたという、履くのに抵抗があると噂のくまさんパンツ。洗濯に出ているのを見たことがないのでクローゼットの中にあるに違いない。

 あたりをつけてクローゼットを漁ると、予想通り封の切られていない下着が上下一式手に入ったので、ついでにジーンズとTシャツ、上に羽織るパーカーも確保。青年がまだシャワーを浴びているのを確認して、洗面台の脇に一式積み上げる。


 さて。彼が出てくるまでもう少しかかるだろう。その間に、やれる限りのことを済ませておかないと。


 ソファの辺りにまとめてあった汚れたバスタオル類を洗濯機に放り込んで、待ち時間に一度部屋に戻り、スマホを確認する。 


 着信履歴は、ない。それどころかメールの返信すら。


 今は朝の九時。真夜中を挟んだとはいえ、既に半日ほどの時間が経っている。所長からの連絡が来ていると踏んでいたのに、期待外れの結果だ。

 私は少しだけ眉を寄せた。というのも、所長はこと連絡に関してはまめな人だ。時間と勝負の依頼を請け負うことも少なくない為か、一時間と間をおかずに返信が来るのが当たり前で、半日連絡がつかないというのはめったにない。


 何か急ぎの仕事をしているのだろうか。そうであれば、それが片付くまで返信には期待しない方がいいのかもしれない。少し考えて、私はより気乗りのしない方――もう一人の先輩所員のアドレスを引っ張り出す。


 電話をハンズフリー状態にし、着替えを引っ張り出しながらコール音を聞く。ややあって、電話を取る音。


「もしもし?」

『もしもし、どうしたのミカコちゃん。昨日のデートが物足りなかった?』


 電話越しに聞こえる甘ったるい声に、さっそく電話をかけたことを後悔した。


「誰ですかミカコって。よく見てください私がかけたの仕事用ケータイですよ」

『……あれっ、ごめんごめん、ちょっと寝ぼけて間違えちゃった。このクールな声はユミさんですかね?』

「東探偵事務所のアルバイトの律華ですがッ! 遼さんにお話があるんですけどッ!今頭は回ってますかッ!今日お暇ですかッ!」

『んー……?』


 三秒ほど沈黙。ガサゴソと起き上がる音がして、小さなため息が電話越しに聞こえる。


『ごめんね律華ちゃん、熱烈なお誘いは嬉しいんだけど、まだ君の年に手を出すと俺、つかまっちゃうんだ。成人したら一緒にデートに行こう』

「いやそういうボケはもういいんで。昨晩から所長と連絡とれないんですけど、何か知ってます?」


 探偵事務所の先輩探偵で、所長の旧友でもある畔柳あぜやなぎりょうさん。決して悪い人ではないのだが、真剣なモードに切り替わるまでがめんどくさい。こと女性相手への絡み方が鬱陶しい。


 冗談をザクザク切り捨てていると、ようやく頭が回ってきたのか、向こうも真剣な声音に変わる。


『ああ先輩……じゃねぇや、所長と連絡が取れないと。君もか』


 君も、ということは遼さんも連絡が取れていないのだろうか。

 手早く服を着替え、手櫛で髪を整える。


『律華ちゃんが最後に連絡が取れたのはいつ?』

「一昨日調査の指示をもらったのが最後です。夕方の六時ぐらいだったかな」

『俺の方も同じぐらいだな。連絡がつかないはずはないんだけど……、ちょっとこっちで調べてみるよ。所長に何か急ぎの仕事だった?』

「とりあえず調べ終わった内容の報告と、……ちょっと相談したいことがあったんですけど」


 頼ってみようかと思ったものの、不安のせいでつい口ごもる。所長はしっかりと話を聞いてくれる人だが、遼さんは興味のあるなしが極端だから。


『なんだい? 初デートの服装とかで困ってる? 俺で良ければ聞こうか?』

「……今一瞬で相談する気失せました」

『冗談だって。話聞くついでに頼みたいことがあるんだけど、時間あるかい?』

「個人的にやりたいことがいくつかあるので二時間ぐらいなら。何すればいいですか?」

『ごはん買ってきて欲しいな~。あとでお金は払うからさ~』

「私はデリバリーじゃないんですけど!?」


 全くこの人は。呆れつつも、今日の予定をざっと組み立てる。


「二回洗濯機回してから行くんで、十一時ぐらいになりますけど大丈夫ですか?」

『大丈夫、じゃあ事務所で待ってるよ』

「はぁい、それじゃ失礼します」


電話を切り、キッチンに移動する。フライパンを軽く火にかけて、テレビのスイッチをつける。

一昨日あったというトラックの横転事故のニュースがBGM。ベーコンと炒り卵をサッと用意し、パンをトースターに放り込んで、ジャムも出す。

ついでにサラダも用意した辺りで、風呂場から彼が戻って来る。


……というか、よく考えたら未だに名前を聞いていないな。他にも何か忘れてる気がしたんだけれども、なんだっただろう。


「風呂ありがとうな。いい湯だった」

ほこほこと湯気を纏いながら出てきた少年は、暖まったおかげか顔色も良く、見違えるように見目が良くなった。

……、……?


「ちょっとちょっと、指見せてくれない?」

「ん?いいけど」


 私はぽかぽかと末端まで暖まった彼の手を取る。

 爪を切った、までは分かる。リビングのテーブルの上にある小物入れには爪切りも無造作に放り込まれているから。

 でも、昨日の段階ではもっと、見るも無残に爪が割れていなかっただろうか。

 そういえば、そうだ。足の裏も随分と悲惨なことになっていたような。


「足の裏の怪我は?大丈夫?」

「ん? あぁ、多分汚れで酷く見えただけだ。今はほら、ほとんど治っているし」


 そう言ってひょいと見せられた足裏も、確かに多少皮が剥けているが、ほとんど治って化膿している気配もない。


「あっれー?」


 首を傾げる私に、そんなことより、と少年が言う。


「昨日使ってたタオルケットとバスタオル、どっちも湿気ちゃったんだけどどうしたらいい?」

「あぁ、あれは洗濯するから気にしないで。先に洗ってた分、ベランダに干してきてもらっていい?」

「了解」


 頷いてすっと洗濯機の方に消えた少年に、私は首を捻りながらもタオルケット類を回収する。そして少年がベランダに向かうのと入れ違いで洗濯機に放り込んで、スイッチオン。食事が終わる頃には洗い終わるだろう。

 キッチンに戻り、焼きあがったパンを皿にとって、少年が戻って来るのを待つ。


「トーストに何塗る?バターとイチゴジャムがあるけど」

「あー、じゃあバターで」

「おっけー。二枚ぐらいいけるよね、はい」

「あんがとー」


 最初拾った時の警戒心は何処へやら。緊張と共に遠慮もだいぶなくなり、モリモリと食事を平らげていく姿は見ていて気持ちが良い。


「で、そろそろ聞きたいんだけどさ」


彼がトースト二枚を平らげたところで、追加のトーストを焼きながら、私は口を開く。


「私は佐々木律華、十六歳、高校生です。貴方のことは、ちょうど家のすぐ傍で拾いました。そっちの名前と倒れてた経緯がとても気になるなーって思ってるんだけど、教えてもらえる?」

「あ~~~~……」


 分かりやすく、彼の視線が泳いだ。

 それでも、少し考えるそぶりを見せた後、彼は答える。


「キリ。名前はキリ。歳は十六だから、そちらと同い年だな。倒れてた理由は……家出ってことにしておいてほしい」


 ほーん、家出ねぇ。


「それは、自分の意思で飛び出してきて帰らないでいるって認識でいい?」


これには少しだけ渋い顔。

帰らない、じゃなくてやっぱり、帰れない、な気がするんだよな。


「事情は知らないけどさ、最近は野良犬に襲われる事件とかも良く聞くし、気をつけた方がいいよ。今日明日ぐらいは泊めてあげるからさ、早目にその後の身の振り方決めなよ」


 私の言葉に、キリと名乗った少年は苦笑する。細さと軽さから年下だと思い込んでいたものの、話している姿は確かに同年代らしい。


「厚意に甘えてる身でいうのもあれなんだけど、佐々木さん人を泊めるのに抵抗なさすぎでは。親が止めないか、普通」


ごもっとも。私も、つられて苦笑する。


「普通はそうだよね。でも、うち親いないから」

「……あー、悪ぃ。でも、一人暮らしじゃないだろ?」

「気にしないからいいよ、別に。そう、私三つ子でさ、男一人女二人で三人暮らししてるの。二人とも明後日まで旅行で居ないんだけどね」


私達は、他人より少し苦労している方だと思う。

けれどだからといって、誰かを恨んだことも妬んだこともないし、今の私達が不幸だと思ったこともない。


「私達が困っていた時、いろんな人達が助けてくれたから今の私達がいるんだ。だから、私も困っている人がいたら手を貸したい。キリにとっては余計なお世話かもしれないけどね」

「……いや、ありがとう。正直、割と困ってたんだ」


そう言って、キリは少しだけ笑ってみせた。


「だろうと思った。私このあと少し出掛けてくるけど、キリは好きに寛いでていいから」


ありがとう、と重ねて礼を言うキリに笑顔を返し、手早く食器を片付けて荷物をまとめる。


 さぁ、次は事務所で待っている残念な先輩に食事を届けねば。




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