神の悪戯
「本当にもう動いても大丈夫なのか?」
周囲に人影がないことを確認してから、軽快な足取りで眼前を歩く背中に声をかける。
惣次郎は、住宅街を歩いていた。
ふわり、尻尾を揺らして、小狐が振り返る。綿毛のよう柔らかな白い髪が揺れ、惣次郎を見上げる顔は、憮然としていた。
「何度言えば分かるのじゃ。万全だと言っておるだろう」
惣次郎が小狐の体を気遣う言葉をかけるのは、もう何度目になるのか分からなかった。両の手の指では足りないほどだ。ゆうに十を越して、百未満。耳にタコが出来ると、小狐は辟易とした様子で溜息を吐く。だが、仕方あるまい。依り代である狐の置き物の中で眠っていた小狐が目覚めたのは、昨日の夜のことであった。
悪しきものに付け込まれて悪霊と化していた付喪神の鞠から、小狐が穢れを払って三週間の時が経っていた。
その間、小狐が置き物の中に入って眠っていると座敷童子には教えられていたが、当然、置き物はうんともすんとも言わない。
寝返りも打たなければ、寝息も聞こえず、何の反応も無い。触れればほんのりと温かい気はしたが、ただの物のように見える置き物を前にして、惣次郎は気が気ではなかった。
このまま居なくなってしまうんじゃないか。座敷童子の言葉を疑うわけではなかったが、日が経つほどに半信半疑になっていたのは紛れもない事実だ。
ただ待っているだけという状態は、精神的に中々堪えるものがある。
惣次郎と日和は、毎日の供物を欠かさず、信仰を忘れず、三日に一度は外宮の掃除もして、献身的に小狐の目覚めを待っていた。
惣次郎と同じく、日和も不安を抱えていたらしい。日和が外宮を参る頻度は高かった。家に居る時は、四六時中を共にしていたような二人だ。ぼっかりと隣が空いてしまえば、それは心寂しいだろうし、物足りなさをも感じてしまうだろう。
代わりと言ってはなんだが、今回の騒動の元凶である鞠は、すっかりと家に馴染んでいた。あんな厄災を起こした張本人だと言うのに、あやかし達は懐が深いと言うのか、なんと言うのか。皆、自然と鞠の存在を受け入れている。
鞠は女の子のようで、言葉を話すようになって間もない子供のようであった。
小狐や座敷童子という話し相手が居ても、自らより下——実際には付喪神なのだから年上だろうが——同性の女の子と話せるのは、日和にとっても新鮮で喜ばしいことらしい。すっかり姉気分で、日和は鞠に接している。日和が居ない時間帯は、他の玩具の付喪神たちと共に居ることが多かった。
かくいう惣次郎も、無意識のことだったが恨まれていた負い目もあり、何も言うことはなかった。何か言うにしても、幼ない女の子に無情な態度はとれない。
他にも抜け落ちた天井の修復や、コンテスト用のイラストを描いたりなど、小狐が居ない中の日々を、慌ただしく過ごしていた。
そんな昨夜の夕食時、ひょっこりと顔を出した小狐に、惣次郎と日和は感涙したものだった。いつか座敷童子が言っていたように「空腹で堪らんわ」と嘆いた小狐は、だけど少々気恥ずかしそうでもあった。久し振りの再会に、思うところがあったのだろう。
いつ小狐が目覚めてもいいように、惣次郎は小狐の分の食事を毎食作り、用意をしていた。
起きてこないと分かった時は、その都度、外宮に供えてもいたのだった。そんな甲斐甲斐しくも手厚い信仰もあって、思っていたよりも早く目覚めることが出来たと小狐は言う。怪我もなく、疲れも見えず、姿は元気そのものに見える。しかし、目覚めて早々に出かけるとなると、心配は尽きなかった。
外出を願ったのは、小狐だった。何もこんなに直ぐ外に出なくてもとか、何でそこに行きたいのかとか、行きたくないと言ってなかったかとか、嫌いなんじゃないのとか、様々なことを疑問にも思う。
小狐は何故か、由良に会いたいと言い出したのだった。
「あやつには言わねばならんことがある。目が覚めたらすぐにと思ってたんじゃ」
由良の寺に行きたいと言った時にも、小狐はそんなことをぷりぷりとほおを膨らませて言ちた。
由良に何を言うことがあるのか。何度も尋ねたが、結局のところ今に至っても答えてもらっていないため、聞くだけ無駄だと惣次郎は口を噤んだ。
平日の昼時。日和は学校に行っていて居ない。千景も居ないだろう。なんだか面倒なことになりそうな予感がするなと、由良が留守にしてくれていることを願う。
寺は、ひっそりとしていた。
山門、石段、抜けて境内の中は人の気配はなく、うら寂しい雰囲気も感じる。
秋の内に境内を彩っていた庭木の紅葉がすっかり枯れ落ち、剥き出しの素肌を見せているせいもあるだろう。常緑樹の緑も、彩度に欠いて印象に暗い。加えて香る線香が、空寂さを際立たせている。
境内の石畳みに足を踏み入れると、まるで来訪を予期していたように、本堂の方から黒い人影が歩いてきた。袈裟に身を包んだ由良だ。袖口に手を入れて、初冬の空気から暖をとっている。だが、寒さを感じさせないゆったりとした仕草で、由良は微笑んでいた。綺麗な弧を描く口許と、緩められた目、泣き黒子を捉えられる距離になってから、惣次郎は由良に会うのも久し振りであることを思い出した。
「中で話そうか」
挨拶もない。惣次郎は、由良を見た。由良の目は、隣で足を止めた小狐を見つめていて、言葉の先も真っ直ぐに小狐を向いていた。用事があるのは惣次郎ではないと見抜いているかのような態度に、惣次郎は疑問を抱いたのだ。
小狐は首を振った。
「長居するつもりはないわい」
先程よりも、憮然面に磨きがかかっている。非常に不服そうに、小狐は口を曲げていた。
「そっか。じゃあ、一応、人払いをしておこうか」
小狐の態度に気を害することもなく、可笑しそうに笑みを深くすると、由良が袖に隠していた手を上げる。
風が吹いた。家を出る時に感じた、寒さを肌に伝えるものではない。暖かくも、冷たくもない、強くも、弱くもない一陣の風が、満遍なく境内を吹き抜ける。すると、元から寺は静かだったが、引き潮のように外の喧騒が遠退いたように思えた。
「鞠に、小細工を仕掛けたのはお主じゃろう」
「ん? 鞠って、なんのこと?」
「とぼけるな。力が回復してきてから、わしは少しづつ穢れを祓っていたんじゃ。それなのに、あんなに短期間で穢れが広がるわけがなかろう。家に来た時、何かしていったじゃろ」
明確な敵意こそは感じられなかったが、小狐の声は刺々しいものだった。厄介なことをしてくれたと呆れも孕んでいる。だけど、そんな小狐の刺も由良には届いていないようで、相変わらずニコニコと微笑みを象っていた。
「お主、人ではないじゃろう」
真っ直ぐに由良を睨みつけて、小狐が言う。迷いのない声音だ。
「……昔の土地神か」
すっかり蚊帳の外に置いてけぼりにされ、二人のやり取りを傍観するしかなかった惣次郎は「え? え?」と、忙しなく小狐と由良の姿を見比べた。正直、小狐が何を言っているのか、いまいち理解が出来ない。由良が人間じゃない? でも、由良は古賀や真野にも見えて、寺の住職として仕事を持っていて、千景という息子が居り、人間社会で生きている。
「バレちゃったかあ。上手く隠してたつもりなんだけどなあ」
明るい笑い声を上げると、由良はあっけらかんとして、あっさり、認めた。
嫌に軽い由良の反応に、小狐が顔を歪める。惣次郎は言葉もなかった。どういうことなのか、理解が出来ない。
「何故、土地神が坊主なんぞをして人間に化けておるのじゃ」
「ちょ、ちょっと待って!」
理解が出来る範疇を超えている。惣次郎は、大きな声で二人の間に割って入った。
「え? えっと、え? 由良は人間じゃなくて、土地神っていう神様で? 鞠に穢れを付けたの?」
「土地神って名前じゃあないんだけど。それに、穢れさせたのは僕じゃないよ。元から穢れていたものに、ちょっとだけ更に穢れを寄ってきやすくしただけ」
由良に悪びれた様子は微塵もない。惣次郎は呆気に取られた。
由良が人間でなかったことにも驚きだったが、言われてみると、不思議に思うことは度々あった。由良には足音がない。気配がない。今日のように、来訪を知っているかのように、いつも出迎えてくれる。雨に濡れることも、なかった。由良が人間でない事実が、すとんと惣次郎の中に落ちてくる。抵抗なく納得ができ、受け入れることが出来た。自分でも不思議な感覚だったが、あやかし達と馴れ合いすぎて、こういった事象に寛大になっているのだと思う。
「あ、簡単に信じちゃうんだ?」
それが、良いことなのか、悪いことなのか。惣次郎の心情を知ってか知らずか、由良が少しだけ困ったように笑った。
「……でも、ここは寺ですよね。お寺って仏様で神様じゃないんじゃないですか」
「前にも言ったでしょ。昔は神仏一体。神にも読経をあげてたんだよ。僕の社は、ここの寺が管理していてね」
由良の目が、境内の先を見る。由良の自宅とは本堂を挟んで反対側、離れたところに年季の入った小さな屋根が木々の間から覗いていた。寺の敷地内に神社があるのを、惣次郎もいくつか見た記憶がある。そういったところは、寺なのに初詣を行なっていたりして「ここは寺なの? 神社なの?」と、不可解に思うことがある。
「土地神って言っても、もう昔々のことなんだけどね。お寺に管理されるようになってからは、本堂に参る人がほとんどで社には誰も来ないし、閉鎖されてるようなものだよ」
「……どうして、人に?」
「寺の跡取りが居なくてねえ、暇だったから継いじゃった」
茶目っ気たっぷりに、由良が笑う。
真実を話しているのかは分からなかったが、惣次郎は俄かに安堵する。少なくとも、元の住職を取り殺したり、成り代わったりしたわけではないのだろう。
「それにしても、いくらなんでも何で穢れやすくなんか……」
「そうじゃ! お主のせいで、こっちは大変じゃったんだぞ!」
由良が人間でないことに納得はするも、鞠の穢れを促進させたことには溜飲が下がらない。小狐と一緒に、惣次郎は由良を非難げに見つめた。おかげで、本当に大変な目に遭ったのだ。今は完治していたが火傷は負ったし、たんこぶも出来た。命の危険まで感じたのである。日和にも危害が及ぶ可能性だってあった。その中でも、一番の被害者は小狐だ。小狐が一番に、納得がいかないだろう。
「惣次郎くんがさあ、あんまりにも危機感がないもんだから。仲良しこよしもいいけど、一線を引かなきゃダメだよって言ったじゃない。だからね、あやかしって良いものばかりじゃないよって教えてあげようと思って」
笑みを薄め、目を細めた由良が、怪しげに告げた。
「そんな……」
惣次郎は再び言葉を失う。由良が言う通りだとしたら、今回の騒動は自分のせいではないか。絶望とも取れる表情で顔を青くした惣次郎を見て、由良がぷっと吹き出した。
「ていうのは建前で、ちょっと羨ましかったのかな? あんまりにも楽しそうだったからさ」
青くさせていた顔を、一転して惣次郎は赤らめる。次は、少しの怒りを感じてだ。
「それは、あまりに勝手なんじゃないですか」
「神も人も、勝手なもんだよ。まあ、小狐ちゃんが居るし、大事にはならないと思ってやったんだ。どうにもならなくなったら、僕がなんとかするつもりだったし」
一瞬、由良の目に冷めた色を認めて、言い返そうとした声を惣次郎は飲み込んだ。
小狐が「わしで十分じゃったわ。お主が出てくる隙間はない」と悪態をつく。冷めい色は見間違いであったように、平素通り「流石だったね」と由良は微笑む。生意気な子どもをあやしているかのようだった。
「でも、ね、一線は大事だよ」
改めて言われた言葉を聞いて、惣次郎は唇を噛む。迷い、躊躇い、間を置いてから、腹に力をこめると口を開いた。
「……確かに、今回のことで、妖怪って恐ろしいんだなって思いました。もう二度と、あんな目に遭いたくないとも思う。でも、俺たちには小狐も座敷童子も必要なんです。なんていうか……俺と日和はまだ家族として不完全で、こいつらが居るから成り立ってる部分があって。小狐たちが居ないと、ここまで来れなかったとも思うんですよね」
うんうんと、続きを促すように由良が頷く。
「だから、一線を引けって言うのも分かるんですけど、俺はこのままがいいんです。小狐たちは、俺たちよりも前からあの家に住んでるんだし」
小狐が居なくなってしまうかも知れない。そう思った時、気が付けたことだった。
隣で聞いていた小狐が、なんとも言えない顔で惣次郎を見上げていた。驚き、気恥ずかしさ、いずれもを感じられない。見守るように、ただ様子を眺めるように目に移してから「ふむ」と空気を噛み締める。
黙って聞いていた由良は、やれやれとかぶりを振った。
「あーあ、やっぱり惣次郎くんを見えるようにするんじゃなかったなあ」
「え!?」
「なんか面白いものに憑かれてるなあって思ったから、ちょっとね」
「さっきからちょっとちょっとって、何してくれてるんですか!?」
「でも、見えるようになって良かったでしょ? 僕も良い暇潰しになったし」
肩から力が抜けていくのが惣次郎は分かった。
今まで霊感などは皆無だったのに、急に見えるようになってしまったのは、由良のせいだったのだ。おそらくは初めて会った時。そう思うと恨めしいような、有難いことのような、複雑な心地になってくる。「素質はあったんだよ」と由良は苦笑を落とした。確かにぼやぼやとした影は最初から見えていたが、あれが素質だったのかは、はっきりと見えている今はもう定かではない。
色々と衝撃的な事実が分かって、惣次郎は頭を抱えた。手の平で覆った暗い視界の中で、もう一つ、知っておかなければならないことがある。
「千景、千景は?」
今も小学校に通い、日和と同じクラスの生徒である千景。由良よりももっと人間の社会に入り込んでいると思える千景は、一体何者なのだろうか。神が人間の子を成せるのか、落ち着きかけた混乱が蘇る。
「ああ、千景ね。千景は、僕の分身みたいなものなんだ。僕がここの住職になってから長くてね、あんまりに一人で暇でつまらないものだから、作ったんだよ。分身って言っても力を分けただけで、千景には千景の意思があるし、人間じゃないってことも知ってるよ」
やんわりと優しい口調で説明した由良に、惣次郎は頭を上げた。
先程から由良は「暇だ、つまらない」と繰り返している。だが、惣次郎にはそれが別の言葉のように聞こえた。
「……今度、芋煮会やるんです。ちょっと時期が遅くなっちゃったけど、由良さんも千景と参加しますよね?」
小狐が「はあ!?」と、信じられないように素っ頓狂な声を上げる。目はありありと「何言ってんだ、こいつ」と語っていた。当の由良も目を丸くして、変なものを見るようにまじまじと惣次郎を観察している。
惣次郎にあやかしを見る目を与えて、この度の厄災の大きな切っ掛けを作った由良を招くなんて、自分でもどうかしているのではないかと思う。だけど惣次郎には、由良が言う「暇だった」という言葉が「寂しかった」と言っているように聞こえたのだ。
どれ程の昔から、由良が存在しているのかは分からない。
寺に管理されるようになり、参詣者が居なくなって半ば忘れ去られ、今や社も閉鎖されている。住職となってからも家族は居らず、この広い寺に一人で暮らし続けてきたのだ。
紛らわすために千景という分身を作ったと言うが、それは他者のようで他者ではない。己自身が作り上げた存在であると、理解しているのが苦しくなる時もあるだろう。千景だって、そうだ。人間の社会で生きながら、決して人間になれはしないのだから。
ここにも孤独を抱えたものが居るのである。そう思うと、自然と惣次郎は由良のことを誘っていた。寂しい、ひもじい、悲しい。小狐の記憶を見た時の気持ちが、根強く残っているせいかも知れない。
ぽかんと黙っていた由良は、次の瞬間に破顔した。涙が流れる勢いで声を上げて笑う。何故、笑われているのか分からなかったが、惣次郎は恥ずかしくなってきて赤面した。小狐が呆れて、これみよがしな大きな溜息を吐き出す。
「あー、本当に惣次郎くんって面白いね。芋煮、千景と一緒に行くよ」
一頻りに笑って満足した由良は、清々しい笑顔で頷いた。
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