こぎつね
次の日曜日、天井裏に潜む何かの駆除作戦が決行された。
その日曜日に至るまでの二日間が大変だった。
家の中では常に座敷童子と一緒。仕事中はおろか、移動する際は後ろを着いてきて、入浴やトイレに入っている時も、常に扉の前に控えているのだ。流石に就寝時は、女性であろう座敷童子と共にするのは気が引けて、小狐と寝所を同じくすることになった。
なんでも小狐や座敷童子が居れば、容易に手出しは出来ないと言うことだったが、身を守るためとは言っても、二十四時間ずっと着いて回られるのは息が詰まる。それも今日で終わりだ。
居間で正座をしていた惣次郎は、天井を見上げた。
今、天井裏には座敷童子と小狐、そして付喪神たちが勢揃いしている。少人数で様子を見ても隠れられてしまうので、天井の隅から全員で迫り、中央に誘き出そうという訳だ。至極単純な方法で拍子抜けだった。だが、正体が何なのか分からないこともあり、心配と焦りだけが募る。惣次郎の横に座っている日和も、憂いた目で天井を見上げていた。
やっぱり、小狐たちだけに任せないで、由良に相談した方が良かったのではないか。小狐や座敷童子たちを信用していないわけではなかったが、何も出来ないもどかしさが惣次郎にそう思わせた。由良が妖怪退治を出来るのかは分からないが、何かしらのアドバイスはくれたかも知れない。いやいや、そんな相談をするのも由良にとってははた迷惑な話か。
惣次郎がそうこう考えている内に、天井裏が騒がしくなった。
小狐や座敷童子だろう足音、付喪神たちが飛び跳ねて移動する音。そんな付喪神たちの軽い音とは違い、だんだんと何かが跳ねる音。音はまた一回りも二回りも大きく、重たくなっている。
物音を窺う限り、順調に何かを中央へと誘き寄せているようだ。それにしても、中央って何処なのだろうかと惣次郎は思う。
隣で、日和がごくりと喉を鳴らした。
物音は、惣次郎と日和の頭上に集まって来ている。家の中央は此処だ。居間だ。そのことに惣次郎が気付くやいなや、ドンと深夜に聞いたような大きな音が上から響いた。地鳴りにも似ている。体が震える衝撃に、息を飲んだ日和が惣次郎の腕に縋り付いてきた。日和を支えるようにしながら、惣次郎も人の体温に落ち着きを保とうとする。
みしりと嫌な音がした。ぱらり、ぱらりと、天井板の木屑が落ちてくる。
埃が舞って、窓から差し込む昼日中の陽光に、きらきらと輝いて見えた。誰かの大きな声も聞こえるが、くぐもっていて何を言っているのかまでは分からない。
なんか、不味い。
そう思った惣次郎が、日和を抱いて窓際に寄る。いつでも逃げられるようにだ。判断は正しかった。
掃き出し窓に寄ったと同時に、またドンと大きな音がして、天井が悲鳴を上げた。はっとして見上げた時には、埃を巻き上げながら天井が落ちてきていた。埃が煙り、視界が遮られる。色んな物が落下する音がした。天井の瓦礫、木屑、埃。いっとう重たそうな音。
惣次郎は日和の小さな体を、力一杯に抱き締めた。塵埃が落ち着き、目の前が見えてくると、一番最初に小さな背中が映った。白い。鶴髪、尻尾、装束着。小狐だ。小狐の背中の向こうに見えたものを捉えて、惣次郎はぎょっとする。
小狐とは対照的に〝黒〟だった。
黒くて大きな球体が、瓦礫の上に転がっている。確かに、ボールと言えば、ボールだ。だが、その球体は大人が二人は入れるほどの大きさであり、禍々しく黒く、うぞうぞと表面が蠢いて、絶え間なく揺らいでいる。大量の黒い蛇に覆われているようにも見え、長い黒髪の束が巻き付いているようにも見えた。
惣次郎が初めて見る、なんだか良く分からないが、否応無く暴力的な怖気と、嫌悪感を与えてくる〝化け物〟だった。
日和も目の前に現れた不気味な化け物に恐怖を感じているらしく、胸元をぎゅうと握り締められる。
天井から座敷童子が下りてきた。器用に、惣次郎の横に着地する。座敷童子の肩に、犬張子と招き猫が乗っていた。
「人間の味方をするのか、稲荷神!」
小狐のものでも座敷童子のものでもない声がする。球体が出している声だった。幾重にも人の声が寄り集まったかのような、精神を不安にさせる声、音だ。不気味に蠢く黒と黒の間から、おそらくは目なのだろう二つの点が見える。黄色い目だ。美しいものではない。血走り、例えるなら末期の肝臓病を患っているような、黄疸に濁った目。痛いくらいの嫌忌の念が篭っている。
「予想していたよりも厄介です」
疲れ果てたように、座敷童子が小声で言う。いつの間に天井から下りてきたのか、周りには手あぶりやお櫃の付喪神も集まっていた。
「稲荷殿も力が戻ってきておる。そう心配することもないだろう……多分」
大いに心配が残ることを、手あぶりが言った。
「何故、裏切った稲荷神! 共に人間に復讐しようと語り合ったではないか!」
忌々しく言い放たれた球体の言葉を、惣次郎が理解できるまでに時間がかかった。
え、と、目の前にある白い背中を見上げる。警戒をあらわにしてピンと立っている尻尾、微かな音も逃さないように張られている両耳。後ろ姿で表情は見えなかったが、惣次郎の想像が出来る小狐の顔は、憎たらしげに笑っている顔や、尊大なドヤ顔、座敷童子と言い合ってぷんぷんと怒っている顔、ご飯をほお張ってご満悦に浸っている顔、惣次郎が書いた絵やテレビに映った美味しそうな料理を見てキラキラと目を輝かせている顔、そんなものばかりだ。
小狐が、人間に復讐?
「やはり。何かあるとは思ってましたが」
溜め息混じりに、座敷童子が独り言ちる。
「力が戻ったら復讐してやると、約束しただろう!」
咆哮のようだった。球体に口は見えなかったが、放たれた音の渦が、わっと空気を奮い立たせる。目には見えない空気砲でも撃たれたようでもあった。
ぶわりと惣次郎の体に、声が降りかかる。全身に押しかかられるようだ。
——おかしなものが見えた。見えたと言うよりも、惣次郎の頭の中にその情景は映し出された。ソレは、見えるはずのないものだった。
まだ子供だろう、小さな狐が佇んでいる。
傍らに、母親だろうか、大きな狐が寝そべっていた。それは亡骸だった。亡くなって久しいのか、稲穂の色をした被毛には艶がない。目が落ち窪み、虫に食われ、土に還ろうとしていた。
母狐に寄り添っていた小狐が、諦めたように場を離れる。振り返ることなく、とぼとぼと歩いた。
山は冬のようだ。落ち葉は枯れ、裸の木々が目立つ。巣穴に戻った小狐は、小さな体を丸めた。だが、暫くしてよろよろと立ち上がる。
寂しい、ひもじい、悲しい。
冬眠に向けての蓄えを、小狐はしていないようだった。母狐を看取っていたからだろう。餌を求めて、山の中を彷徨い歩く。だが、山も冬越しに迎え、実りは少ない。
何も得られないまま、やがて小狐は人里に下りたった。人の目に触れないようにしながら、食べられるものを探す。
雪が降ってきた。寒さが骨身に染みたのか、更に小狐の体が縮こまったように感じる。力尽きたように、物陰に身を寄せて小狐は動かなくなった。
そこは、庭に設けられた外宮の裏だった。
一夜明け、人間が歩いてくる。外宮に供物を置きに来たのだ。誰かは分からなかった。惣次郎にとっての祖父か、曽祖父か、更に昔の人間か。外宮の下で冷たくなっている小狐に気付くと、その人は「お稲荷様が来なすった」と言って、すぐ側の土を掘り返して、埋めた。
小狐の魂は、空っぽの外宮の中に入った。そうして〝お稲荷様〟と日々信仰され、やがて本物の〝お稲荷様〟に出来上がったのだ。
以前、由良が言っていた。
信仰される内に、本物の神様になってしまうことがあると。
そうして家の守り神になった稲荷神は、出来うる限りで家を守った。穢れを寄せ付けないように尽力し、繁栄を願って見守る。日々の信仰と供物に、いつしか寂しさもひもじさも悲しみも感じなくなっていたのだ。
しかし、信仰は途切れてしまう。
家に人が居なくなってしまったのだ。
最後の人間である惣次郎の祖母を看取って、また稲荷神は孤独になった。孤独の日々が続くにつれて、神としての力が弱まっていく。小さくなっていく。寂しい、ひもじい、悲しい。今までこんなにも家の為に尽くしてきたのに、何故。見捨てられた気持ちにもなった。
守り神の力が弱まれば、家には穢れが集まってくる。良くないものが囁いた。人間は憎らしいもの。復讐しよう。神からただの妖怪に落ちかけている小狐は、頷いた。
そうだ、憎い。寂しくて、ひもじく、悲しい思いをさせる人間が、憎らしい。
頭に浮かんでは消えていく情景を眺めながら、不思議と小狐の気持ちが惣次郎の中に流れ込んでくるようで、まるで自分のことのように感情が震えた。小狐の記憶を見ていたのか。
ああ、自分は恨まれていたのか、とも惣次郎は思う。田舎だから、面倒だからとこの家を蔑ろにし、ずっと放置を続けてきた。知らず知らずの内に、憎まれていたのだ。
走馬灯のような情景が暗転し、目の前に小さな背中が戻ってくる。
くんと、服を引っ張られた。日和だ。日和に目を向けると、酷く心配そうな顔で見上げられていた。
「……あれ?」
惣次郎は、自分が泣いているのが不思議だった。
孤独を感じるのは、何も人間だけではない。あやかしだって、神様だって、独りは寂しい。孤独は怖い。そして、ひもじさは心を貧しくする。
小狐が、食べることを愛し、大切にしている理由が分かった気がした。日和もそうだ。惣次郎だって、そうだった。皆で囲む温かい食卓は楽しく、心が満たされる。必要なものなのだ。
「……気が変わったんじゃ。大体わしは、人に信仰されんと存在できぬしな」
小狐が、酷く悲しそうな声で吐露する。
「じゃから、これ以上、危害を加えるというなら、わしが守る」
「完全に力も戻ってない癖に戯けたことを」
「刺し違えるくらいなら出来るじゃろ」
芳しくない状況に気付き、日和が助けを求めるように座敷童子を見た。
「大分、力は戻ってはいると思うのですが……完全になるには、数ヶ月では足りんのでしょうな。何年も信仰を続けて神になったのでしょうし」
苦虫を潰して、座敷童子が告げたのは非常なものだった。
口振りからして、座敷童子は小狐が元はただの狐だったことを知っているようだ。だから、仮にも神である小狐に対して、あんなにも砕けた態度で接していたのだろう。
「それは困る!」
ほおに涙の跡を残したままで、思わず惣次郎は叫んだ。
「小狐には居てもらわないと困る!」
仰天した小狐が、顔だけで振り返った。こんな時に何を言っているんだ。締まりが悪い。表情を見ただけで、小狐が言わんとしていることが惣次郎には分かった。
「困るんだよ、本当に。守り神が居なくなったら、この家はどうなるの? まだ芋煮だって食べてないじゃん。マジで困るから!」
「う、うん! 困る! 困ります! 居なくなったら嫌です!」
身を乗り出して、涙声の日和が続いた。犬張子が吠え、招き猫が威嚇をして唸る。でんでん太鼓や手あぶり、お櫃やすり鉢、片口たちも「そうだ、そうだ!」「神の亡き後は悪いものの巣窟になるとも言う!」「稲荷殿に居てもらわないと困る!」と、口々に喚き立てた。「え? そうなの?」と惣次郎は更に顔を青くする。
「そ、そんなことよりも、小狐が必要なんだよ」
惣次郎がより一層に強い声で言うと、小狐は呆気にとられたようだった。
この家には、小狐が必要だった。小狐だけではない。座敷童子も、付喪神たちも、誰一つと欠けてはならないのだ。あやかし達が居たからこそ、助けを得てきたからこそ、惣次郎と日和はこの家で〝家族〟として居られている。この家は、あやかし達が居て成り立っていた。惣次郎と日和には、小狐が必要だった。
「これは負けられませんぞ、稲荷殿」
苦笑い気味に座敷童子が小さく笑う。
「……ああ、そうじゃな」
小狐も、困ったように笑った。
球体の目が、小狐や惣次郎たちを越えて、掃き出し窓の向こうを見たのに、惣次郎は気付いた。何を見ているのか。視線の先を予想すると、弾かれたように球体が狙っているものが分かった。
日和を小脇に抱えて窓を開けると、勢い良く庭に飛び出す。
庭に下り立ち、素足に冷たい地面の感触を得ると、ガラス窓にべちんと何かが打つかった音がする。球体を覆っていた蛇なのか髪の毛なのか、よく分からない物が伸びてきて、惣次郎を捉えようとしていたのだ。
前を向き直すと、無我夢中で外宮へと走る。興奮状態で、恐怖を感じている暇も無かった。どこにそんな力があったのか、火事場の馬鹿力を発揮して、日和を抱えながら全力で足を動かす。
背後に、ドンと球体が庭に下りてきた音を聞いた。小さな鳥居をくぐり、外宮に辿り着くと、閉ざされていた扉を開ける。
木製の観音扉の向こうに、それはあった。白い狐の、陶器製の置き物だ。
〝それを依り代としてるのかも知れないね〟
由良は言っていた。それが正しいとするならば、この置き物さえ壊れなければ、小狐が消えてしまうことはないのではないか。
あの球体は、この置き物を狙っているのだ。
狐の置き物を手に取ると、日和と置き物を抱きしめるようにして、惣次郎は蹲った。
顔だけを後ろに向けた瞬間、爆発でも起きたようなけたたましい音と白煙が巻き起こった。何が起こったのか、分からない。風に流されるようにして煙が晴れてくると、不気味な球体の姿はなくなっていた。小狐の姿もない。
ゆるゆると日和を抱き締める腕を緩めて、惣次郎は目を皿にして辺りを窺った。
とん。
初めて天井裏に聞いたもののように、軽い音がする。煙が上がっていた中心の辺りに、小さなボールが落ちてきて、ころりと転がった。蹴鞠だった。
「……お祖母様が幼い頃、お使いになっていた鞠ですね。これがアレの正体ですか」
「え……これが?」
歩み寄ってきた座敷童子が、にわかに信じられないことを言う。
惣次郎は庭を少しだけ転がって止まった鞠を、まじまじと見た。十分に様子を窺ってから、そろそろと近付いてみる。
鞠からは禍々しい気などは感じられない。赤を基調とした色とりどりの糸で編まれ、とても美しいものだった。とても大事に使われて、保管されていたのだろう。大した汚れも見当たらない。
手が届く距離に近付くと、急に泣き声が聞こえてきた。幼な子が泣き喚いているような、えーんえーんと稚拙なものだ。女子の声だった。小さな女の子の泣き声は、鞠から聞こえている。手を伸ばした状態で、惣次郎は固まる。
「……付喪神ですな」
「……付喪神だな」
座敷童子と手あぶりが、納得したように頷いた。「どういうこと?」と驚愕の顔で、惣次郎は振り返る。
「大方、生まれたばかりの付喪神だったのでしょう。生まれてすぐ、お祖母様もお亡くなりになっていて一人寂しく、近寄ってきた穢れに付け込まれたのやも知れませぬな」
蹴鞠を眺めながら、淡々と座敷童子が説明をしてくれる。一度、言葉を切ると、深い溜息を吐いてから続けた。
「稲荷殿は、アレの正体が鞠だと知っていたのでしょうな。だから、ギリギリまで何もせずに居たのかも知れませぬ」
あるいは、同じ孤独を感じていたものに対し、躊躇いを覚えていたのか。小狐の過去を知っている惣次郎は、胸に寂寞が降り積もるのが分かった。
寂しい、ひもじい、悲しい。
しくしくと泣き声をあげるこの小さな鞠にも、惣次郎は恨まれていたのだ。閑寂な思いの全てを和らげるように、日和が優しく鞠を拾い上げる。
「すごい、きれい。一緒に遊ぼう」
泣き声は、止まった。
惣次郎と日和に小狐や座敷童子たちが必要なように、あやかし達にも人間が必要なのだと、惣次郎は思った。
人に信仰をされなければ存在が出来ない神様。家人を幸せにするために生まれた座敷童子。人に長い間大切に使われ続けることによって生まれる付喪神。
全く別次元の存在だと思っていたが、こんなにもあやかしと人には繋がりがある。時に、恨みを買ってしまう程に。
「……小狐は!?」
小狐の姿がないことを思い出して、惣次郎は慌てた。あたふたとあちこちを見渡す惣次郎に、呆れたように座敷童子が指をさす。
「ここに居りますよ」
座敷童子が指をさしたのは、今だに惣次郎が胸に抱いているままだった狐の置き物だ。
「稲荷殿の気配があります故。お眠りになったのでしょう。なに、少し力を蓄えれば、すぐに腹が減ったと起きてくるはずです」
ほっと惣次郎は息をつく。鞠を抱いた日和も安心したようだった。
白い狐の置き物は、お座りの形をしている。両手に包んで掲げてみると、ひんやりと冷たいと感じていた陶器の肌は、なんとなく体温を持っているように惣次郎は思えた。
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