恨まれてる?

 それからというもの、家の中では異変が立て続けに起きた。

 瓦のことは、屋根のリフォームをすべきかと悩む他、大して気に止めていなかったのだが、思い返せばそれが切っ掛けであったように思う。


 先ず瓦が落ちてきて、次に鉢植えが割れた。

 居間の掃き出し窓から出て、庭に続く軒下へと置いていた鉢植えだ。落ち葉の掃除をしようと鉢を持ち上げた途端、まるで組み上げた積み木が瓦解するように壊れたのである。

 大きな音と共に、中に入っていた土が溢れ落ちる。古い物ではあったが、皹が入っているようには見えなかったし、硬い陶器がばらばらに壊れることなんてあるのだろうか。

 幸い、惣次郎に怪我はなかった。


 続いては、台所で夕食の支度をしている時、炊飯中であった電気ジャーが棚から落ちた。

 流し台の前に立っていて直接的な被害はなかったのだが、落下の反動で蓋が開いてしまい、炊飯途中の熱々の米粒と熱湯が、土間に飛び散った。

 靴下にサンダルだった惣次郎は軽い火傷を負ってしまう。


 熱い、痛いと騒ぐ惣次郎を、お櫃とすり鉢が驚いた様子で見ていた。それもそうだろう。誰も動かしていないのに、電源コードから引っこ抜かれる勢いで炊飯器が落ちてくることは、まず考えられない。


 そして最後は、風呂場で起こった。痛む火傷を負った足を風呂桶から出し、傍から見れば滑稽な姿勢で湯船に浸かっていたら、突然、前触れもなく「ばちん!」との激しい音と共に、電気が消えたのだ。


 夜の帳が落ちている頃合いで、窓からの光源は無いに等しい。

 突如として真っ暗闇に包まれた視界に、惣次郎は慄いた。停電か、電球切れか。慌てて立ち上がろうとしたのが、不味かった。

 風呂場の床に足を着くと、湯船から溢れた湯が火傷の傷に被る。暗闇と、予想していなかった痛みに、惣次郎は飛び上がって足を滑らせてしまう。


 盛大な尻餅を硬い床につき、ステンレス製の風呂桶に頭を打つけた。たんこぶと、尻に青痣の出来上がりである。

 停電ではなく、ブレーカーが落ちたのでもなく、電球が切れたわけでもなく、電気が消えた原因は不明だった。


 これらは、惣次郎が体験したことだ。その他にも、日和や座敷童子が不可解な事象に見舞われたことがある。惣次郎とは違い、怪我がなかったことが救いだ。


「これはやはり、何かが悪さをしているとしか思えませぬ」


 こうも不可解なことが続けて起きてしまうと、看過が出来なくなってくる。


 現時点で怪我をしたのは惣次郎だけだったが、日和が痛い思いをする前に、なんとか事態を終息させたい。そう思っているのは惣次郎だけではなかったようで、夕食が終わって一息を着いた頃に、座敷童子が重々しい口調で切り出した。


「怪しいのは、天井裏の音です」


 とん、とんと、天井裏で鳴り響く音は、あれからもふとした時に聞こえていた。居間に集まっている時であったり、自室で仕事をしている時であったりと様々なタイミングだ。頻度は多くなっている。


「……何もなかったぞ」


 小狐が不貞腐れたように答えた。この前、言っていたように、本当に確認をしてくれていたらしい。座敷童子が頷く。


わたくしも確認してみましたが、特に何も見つけられませんでした。上手く隠れているようですな」


 食後のコーヒーに舌鼓を打ちながら、惣次郎は見たことのない天井裏を想像した。


 頭に浮かぶのはホラー映画でよく見られるような、暗くてジメジメとしていて、蜘蛛の巣が張っている不気味なものだ。古い家だから想像と実物の差はあまりないのだろうし、肝が縮む。

 あやかし達は怖くないのだろうか。そう考えてから、いないや彼ら自体がお化けみたいなものだし、と思考を払拭する。


 小狐と座敷童子が確認しても、天井裏には何も見つけられなかったと言う。だが、相変わらず音は鳴っており、確かにそこには何かが潜んでいるということだ。


「なんなんだろう?」


 惣次郎が暗い声で呟くと、日和も恐怖の滲む目を萎縮させた。あやかし達とは違い、日和は恐怖を感じているらしい。

 怪我をする恐れがあるのだから、それもそうかと思う。でも、日和が体験した不可解な出来事は、背後で音がしたとか、勝手に襖が開いたとか、些細なものに留まっている。

 座敷童子も、視界の端を何かが横切ったや、気配を感じる程度。怪我をするような災難には、惣次郎ばかりが遭っていた。


「……狙いは、俺?」


 たった今思い当たり、慎重に疑惑を口にする。座敷童子が渋面を作った。


「それが一番に考え得ることですな」

 付喪神たちが続いて同意する。どうやら標的が惣次郎であると、本人の惣次郎以外は全員が予想していたらしい。


「最初に音が聞こえていたのも、惣次郎様だけですし」

 予想を裏付けるように座敷童子が言う。

「えっなんで? 俺、恨まれてる? なんかした?」


 もう呑気にコーヒーを啜っている場合ではなかった。炬燵に身を乗り出す勢いで、惣次郎は座敷童子に詰め寄る。「それは知りませぬ」と素っ気なく袖を振られた。


「旦那あ、何やらかしたんです」

 すり鉢だ。

「人間、預かり知らぬところで恨みを買うのはさだめのようなものよ」

 手あぶりが仰々しく言った。惣次郎は慌ててかぶりを振る。

「妖怪に恨みを買うようなことはしてないって!」


 あやかし達を見られるようになったのは最近のことだ。それまで狐狸妖怪の類を見たことはなく、勿論、見えないのだから関わりを持ったこともない。関係もないのに、恨みを買うのは考え難いだろう。ならば、この家に越してきてからか。


 引っ越してきてからの記憶を乱雑にほじくり返してみるものの、やはり思い当たる節はない。だが、人間同士でも逆恨みというものがあるのだ。

 まるで関係がなくても、知らず知らずの内に恨まれてしまうことは、手あぶりが言うようにないものではなかった。全く心当たりはないが、何かしらの恨みを持たれているのかも知れない。


「そんな、ひどい」


 実際に恨まれているかどうかは置いといても、惣次郎が狙われているのは間違いはなさそうだ。あやかし相手に、どう自衛をすればいいのか。何せ相手は人間ではない。小狐や座敷童子の目も掻い潜り、姿を隠しているあやかしなのである。


「まだ決まったわけじゃあなかろう」


 小狐がぶすくれたまま、言った。胡座をかいた膝の上に頬杖をついて、たいそう面白くがなさそうにしている。

 あれやこれやと意見を述べていた付喪神たちが黙り、小狐に目を向けた。


 付喪神たちは座敷童子と違い、小狐に友好的だ。同じ神を名乗っているが、物に宿る付喪神と家の守り神でもある稲荷神では、上下関係があるのだろう。この家では小狐が上であると、付喪神たちの態度から知れる。でんでん太鼓は小狐に振られるがままに音を鳴らすし、犬張子や招き猫も小狐の後を着いて歩いている。他の付喪神たちも、小狐の意見を尊重する空気があった。


 座敷童子は違う。冷たい色を目に浮かべると、刃の切っ先を向けるような声で話す。


「この間から、稲荷殿の様子はおかしいですな。今回もいつもだったら率先して『我が神域を荒らすとは許すまじ』などと言い出しそうなものを。どうなされました? 天井裏の輩が絡むと、とんと興を削がれるようですが」


 あまりの刺々しい言葉と寒々しい声に、場の空気が凍った。しんと張り詰めた糸のような沈黙が引かれる。

 惣次郎と日和は、目を見張る空気の変わりように、呆気に取られた。物音を立てないように細心の注意をはらう。目線だけで、小狐と座敷童子の姿を交互に見た。ここまで殺伐とした雰囲気になってしまうのは初めてのことだ。


「何か隠しておられるのでは?」

 沈黙を作り上げたのが座敷童子であれば、沈黙を切り裂いたのも座敷童子だった。

 凛とした声を聞いて、忌々しげに座敷童子を睨みつけていた小狐が、舌打ちともとれる乱暴な吐息をつく。


 張り詰めていた空気の合間を縫って、日和が切羽詰まった叫びを上げた。

「ケンカはだめ!」


 立ち上がらんばかりに叫んだ日和に、小狐も座敷童子も、驚いた顔をして止まる。惣次郎も急なことに目を丸くし、付喪神たちも言葉を失っていた。

 体にこめてしまった力を霧散させるように、小刻みに日和の体が震えていた。


 日和は、皆が仲良く居てほしいのだ。


 他愛もない話を交わしながら、食卓を囲む時間を愛でている。日和自身の口数は少ないものだったが、もぐもぐとご飯を食べながら場を見ている瞳が柔らかいことに気付いた時、惣次郎は餃子を作った時に見せた日和の態度も、何故だったのかに気付けた。千景も言っていた。あの時はよく意味が分からなかったが、皆が笑いながらご飯を食べている様に、感動したのだろう。多分、日和には、長らくご無沙汰の景色だったのだ。両親を失う前が最後か。聞いてはいないので分からなかったが、その景色を守ってあげたくなる。


「そ、そうだよ、小狐も座敷童子も落ち着いて」

 日和の援護射撃に回ると、小狐と座敷童子から剣呑な雰囲気は消失した。


「少々あつくなってしまいました。申し訳ありません」

 粛々と頭を下げた座敷童子と入れ違い、小狐が無言で立ち上がる。ふんと鼻息を下ろすと、何も言わないままに居間を出て行った。

 ほっとしたのも束の間、おろおろと小狐の背中を見やる日和の手前、座敷童子はそれ以上、小狐に何かを言うことはなかった。




 コンテストの応募締め切りまでは、一ヶ月の猶予がある。

 直近の仕事を切りの良いところまで仕上げた惣次郎は、自室で云々と唸っていた。何か良いイメージが浮かばないかと瞑想しているのだが、生憎なことにアイデアの桃源郷には辿り着かない。

 コンテストのお題は〝温もり〟だ。

 椅子の上で膝を抱えて、意味もなくくるくると回る。


「……余裕だな」

 床の間の違い棚に居る、手あぶりの声だ。回転させていた椅子を止めると、惣次郎は「どこが?」と言い返す。

「すごい悩んでるけど」

「ちがうわ、こんてすとの事でなく、天井裏の何かについてだ」

 呆れたように嘆息される。


 無意識に、目を天井へと向けた。夜更けの時間らしく、しんと静まり返っていて音はしない。天井裏に潜んでいる何かは、なりを潜めているらしい。

 あれから数日が経つが、特に危惧していた問題は起きず、いつも通りに過ごしていた。天井裏からの音も聞こえていない。それよりも問題は小狐と座敷童子だ。あの話し合いの日を境に、二人の間はギクシャクとしていた。いつかの惣次郎と日和のようだ。惣次郎と日和の方が、まだマシだったのかも知れない。ギクシャクを超えている。溝だ。海溝だ。ベルリンの壁だ。何せ小狐は、あれだけ食い意地が張っていたにも関わらず、食卓にも顔を出さない。朝、外宮に参る時にだけ、姿を見せていた。あからさまに座敷童子を避けている。そんな二人の様子に、日和も気が気ではないようだった。


「座敷童子も言っていたわ。危機感がない、と」


 それは、惣次郎も聞き覚えがある。初めて天井裏の何かについて話した時、言われた台詞だ。椅子の背もたれに体を預けて、惣次郎は頭をひねった。


「いや、怖いよ」

「あまりそのようには見えんが」

 手あぶりはやれやれと呆れたように言うと「もう遅い。仕事も落ち着いたんなら、早めに寝ろ」と続けて、口を閉ざした。


 部屋に静寂が戻る。もう一度、イラストのアイデアを探ろうと目を伏せたが、上手いように意識は潜り込んでくれなかった。今日はもう何も浮かばないだろう。匙を投げて電気を消すと、敷いていた布団に惣次郎も横になった。


 眠りに就こうとして、どれ程の時間が経ったのだろう。うつらうつらと、惣次郎は現実と夢の狭間を漂っていた。眠りに落ちる間際というのは、水の底に沈んでいく感覚に似ている。それも、とても心地が良いぬるま湯だ。

 ああ、寝る——ぼんやりと自覚を得た時、突如として沈殿していた意識を叩き起こされた。


 ドン! 体が震えるような大きな音が鳴る。確かな振動を感じた程だ。勢い良く引っ張り上げられるように、急に引き起こされた目覚め。微睡んでいたとは思えない動きで布団から飛び起きると、両目も爛々と焦点を合わせていた。部屋は暗い。だけど、机や本棚、部屋の四隅、輪郭を捉えることが出来る。


 ドン! もう一度、空間を揺るがす大きな音が鳴り響く。二度目にして、夢の出来事でも聞き間違いでもなく、現実の出来事であったと分かる。音は天井裏から聞こえた。

 上体を起こして布団の上に座ったまま、惣次郎はこの時初めて、本当の意味で恐怖を感じた。ボールが跳ねるような音、なんて可愛いものではない。天井裏に潜んでいる何かが、とてつもなく強大なものに思えたからだ。心臓がばくばくと鳴っている。耳元で鼓動が聞こえるようだった。


 惣次郎があやかしを見えるようになったのは、つい最近のことだ。最初は小狐、次に座敷童子、付喪神ーーそれしか知らない。知らないからこそ、妖怪というものにいまいち危機感を覚えられず、恐怖心が薄かったのだ。妖怪が原因で、怖い思いをしたことがない。火傷やたんこぶなど、怪我を負うのは困る。だが、そこに命の危険があるとは思えなかった。どう対処すればいいんだと困惑しても、切羽詰まって考えてはいなかったのだ。

 ドン!


「何事じゃ?」


 電気が点く。明るくなった視界に、惣次郎は瞬いた。白く遠退いた眼前の景色が戻ってくると、部屋の中に小狐が立っていた。天井に吊り下げられている古めかしい電灯、伸びるスイッチの紐を小狐が握っている。


「あ……」

 小狐が部屋に入ってきたことにも気付かなかった。自分自身でも驚くような、気の抜けた声が惣次郎から漏れる。


 茫然としている惣次郎を見下ろして、小狐が顔を顰めた。なんだろうと視線を辿ってみると、布団を握り締める惣次郎の手が震えていた。瞬間、気恥ずかしくなり、両手を布団の中に隠し入れる。慌てる惣次郎を無言で見つめたあと、小狐は盛大に溜め息を吐いた。


「天井が落ちてこなくて良かったのう。そうしたら、惣次郎は死んでいたかも知れん」

 身の丈程もある大きな尻尾を揺らしながら、小狐が言う。


「冗談になりませぬ」

 部屋の入り口である襖に、座敷童子が立っていた。この二人が揃っているところを久し振りに見た。まだ五月蝿い心臓の音を聞きながら、惣次郎は思った。


「酷い顔ですな……」


 惣次郎を目に入れると、憐れむよう座敷童子は言ったが、一体どのような顔をしているのか惣次郎は知る由がなかった。血の気は引いている。きっと真っ白な顔をしているのだろう。


「俺、死ぬのかな?」


 小狐と座敷童子が部屋に入ってきたことで、音が響くことはなくなっていた。布団の中で手を握り締めながら、細長い息を長く吐き出す。ぽつりと呟いた惣次郎の声を聞き、小狐と座敷童子が顔を歪める。


「……そうはさせん」


 渋々と言った様子だったが、しっかりとした口調で小狐が言った。少しばかり驚いたように、座敷童子が小狐に目を向ける。


「惣次郎の信仰は必要じゃからな。無くなったら困る。仕方あるまい」

 腰に手を当てると、いつもの調子で、尊大に小狐は口を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る