五 寂しさのあんドーナツ
気持ちを新たに
「願掛けられても叶えられぬぞ」
はらりと
合わせた手をそのままに、惣次郎は目を開けた。
朝の清澄な空気は、寒さを肌身に感じさせる。時候はすっかりと冬の門扉を叩いていた。肩に引っ掛けるようにして羽織った厚手のカーディガン。衿元を両手で手繰り寄せると、傍らへと視線を向ける。見上げてくる小狐を見下ろす形となって、目と目が合った。
「うん?」
気恥ずかしさから、惣次郎は苦笑いを漏らす。
「今〝良い結果になりますように〟と願ったじゃろ?」
喉の奥が引き攣る。
聞かなかったことにはしてくれないらしい。と言うか、そもそも惣次郎は口に出していない。頭の中で、先の未来を案じて願っただけだ。だから「なんのこと?」と知らぬ存ぜぬを貫き通すことも考えた。だが、しかし。頭の中で願った事柄を、小狐は見事に言い当てた。
別に、どうしても隠し立てをしたかった事柄ではない。ただ神頼みをした事実が、少しだけ気恥ずかしかっただけだ。
願をかける神を間違えた。
庭に設けられている外宮の前で、なんとも言い難い気持ちに惣次郎はなった。
いつも忘れがちになってしまうが、小狐は神様なのだ。稲荷神である事実を、今や〝自称しているから〟として違和感なく受け入れてしまっているが、まじまじ「本物なんだな」と思い知らされた気分にもなる。
外宮に向けて——小狐に向けて、掛けてしまった願いを言い当てられてしまったからだ。
「こんてすととやらに応募するなら、応援くらいはしてやらぬこともない」
「叶えてくれたらいいじゃないか」
尊大に胸を張っていた小狐が、憮然とした面に変わる。
「なんでもかんでも神が願いを叶えるとでも思っておるのか?」
「え? だって、そうだろ?」
「そんなことしてたら、人の子はみんな万々歳じゃ。病は治るしすぐに億万長者、死者だって蘇るわい。そんなわけなかろうが」
「まあ……言われてみれば? でも、神社に行ったらみんな願い事するだろ」
「阿呆。神には日々の感謝を告げるんじゃ。願い事なんて叶わんし、叶えられん。他の神も聞こえてはいるのじゃろうが、出来ても応援じゃ」
「はあ~? そうなの?」
初詣に神社へと訪れる度、何かしらの願い事をしていたことを思い返す。成就した覚えはなく、今年の正月に何を願掛けたのかも覚えていない有様だった。それでも、小狐に願いが聞こえたように、声は届いてはいるのだろう。今後、神社に参る時は気を付けようと、心に決める。
「コンテスト?」
逆隣に居た日和が、きょとんとした顔をして惣次郎と小狐を見比べる。
イラストのコンテストがある話をしていた時、惣次郎と日和の間には大きな溝が出来ていた。紆余曲折を経てその溝も埋まった今、以前よりも友好な関係を築けていると思うが、少し前までは挨拶を交わすことすらもままならなかった。日和も同席していた夕食時に話していたことだが、ろくに耳には入っていなかったのだろう。
「絵のこんてすとじゃ」
「うん。参加してみようと思って」
結局のところ、日和との養子縁組は果たされてはいない。
もう少し、両親との繋がりである橘姓を名乗りたいと、悩んだ末に日和自身が導き出した答えである。
決死の覚悟で挑んだ養子縁組の申し出だったが、一旦保留になってしまったことに、惣次郎も不満はなかった。
学校に行き始めて、まだ日も浅い。それなのに、急に苗字が変わったらクラスメイトも混乱をするだろうし、日和の学校生活に多少の支障をきたすだろう。事情をよく分かっていない人たちに、あらぬ噂を立てられる可能性もあった。養子縁組は、日和がもっと大人になってからでも遅くはない。惣次郎が日和と家族になりたいと思っていること、そしてそれが日和にきちんと伝わり、知ってもらっているという事実が大事だ。
〝家族になる〟
強く意識すると、惣次郎はこのままではいけないと思った。貯金は今だ潤沢とは言え、収入より支出が大きい家計はいただけない。日和はこれから小学校を卒業して、中学校に入る。中学生になれば塾に通いたくなるかも知れないし、部活動だって始まる。それに終わらず、高校、大学と進学を続けていく。子ども一人を育てると言うのは、想像にするよりも金がかかるのだ。
「すごい! 私も応援します!」
ぱあと笑顔を咲かせると、きらきらと目を輝かせて日和が言った。
惣次郎は改めて、頑張らなくてはと決意を固くする。
土曜日の昼下がりのことだった。
仕事の合間を縫い、休憩を兼ねて、座敷童子特製のあんドーナツを頬張っていた時だ。
とん、とん、と、ボールが跳ねるような音が、天井裏で鳴る。
テレビでは再放送のご当地番組が、山形県で開かれていた芋煮祭を映していた。
「なんじゃこれは! 美味そうじゃ」
「ああ、懐かしいですな。旅した先で、食したことがあります。山形の芋煮は醤油味で、大変美味でした」
「お主は色んなところに行っておるな……」
「己の神域から出られない稲荷殿とは違って、
「馬鹿にしておるじゃろ。わしだって力が戻ってきておる。家の外くらい出られるわい」
「この町からは出られますまい」
そんな会話が途切れる。
小狐、座敷童子、惣次郎と日和の目線が、一斉に天井を向いた。
とん、とん。
あ、と惣次郎は思った。聞き覚えのある音だ。惣次郎が自室で仕事に励んでいる時や、眠りに就こうとしている時に、時折聞こえていた音。二、三回、軽快な音を天井に立たせては静寂に戻るため、特に迷惑を被るわけでもなく、気にすることがなくなっていた。小狐や座敷童子に報告をしようと思っていたことも、忘れてしまっていたくらいだ。
とん、とん。だが、今回の音は長い。天井を介して、居間の範囲を縦横無尽に飛び跳ねるように、何度も音を鳴らせていた。それに、前よりも音が大きくなっているような気がする。
「なんでしょう」
座敷童子の目が、天井から付喪神に下ろされる。
居間の卓袱台は、炬燵に装いを変えていた。ぬくぬくと暖かい炬燵の中に、招き猫と犬張子は入り込んでいる。座敷童子が目線を送ったのは、でんでん太鼓だった。でんでん太鼓は小狐がお気に入りのようで、正確には小狐がでんでん太鼓を気に入っているようで、一緒に居ることが多い。小狐の着込んだ着物の襟首に差されていたでんでん太鼓が、思い当たる節がないように首を振った。太鼓が鳴る。
「天井に住んでる付喪神は聞いたことがありません」
続いて否定の言葉を聞いて、座敷童子が眉を寄せる。
「新しいのが住み着きましたかね」
げっと惣次郎は顔を顰めた。
この家には稲荷神と座敷童子、付喪神たちが住み着いている。これ以上、あやかしの類が増えるのは勘弁してほしいところだった。
日和はそういった懸念は抱いていないようで、興味深そうに天井を見上げている。日和にとって、あやかしは見えるのが当たり前で、日常だ。この家に越してくるまでは超常現象と無縁であった惣次郎とは違い、極自然のこととして受け入れている。家の中に〝何か〟が住み着くことにも、慣れているのだろう。
「
「わしが行く」
座敷童子が立ち上がろうとしたのを遮って、小狐が食べかけのドーナツを皿に戻した。
「どういう風の吹き回しで?」
目を点にしていた座敷童子が、怪訝そうに表情を変えて、小狐を覗き込んだ。罰が悪そうに、小狐は「わしはこの家の守り神じゃぞ。新参者を見定めるのは当然じゃろうて」と、口をへの字に曲げる。
「まあまあ、落ち着いて。多分、そんな悪いやつじゃないと思うよ?」
甘いドーナツを茶で流し込んでから、惣次郎は口を挟んだ。
「どういうことじゃ」
「どういうことです」
まるで睨み合うかのようだった小狐と座敷童子が、同時に惣次郎を見る。二人の視線に気圧されながら、大分前から音が聞こえていたことを惣次郎は説明した。
「左様ですか。
「ああ、うん? 縄張りでも広げたじゃないの?」
あっけらかんと言った惣次郎に、座敷童子が渋い顔をする。
「少々、惣次郎様には危機感が足りませぬな」
「じゃーかーらー、わしが後で見回っておくわい。心配せんでよい」
いつの間にか、音は止んでいた。
呆れたように小狐が言い、皿に戻したドーナツを頬張った。コップの中を見て「牛乳がなくなったわい」と、座敷童子を急かす。惣次郎と座敷童子はお茶を飲んでいたが、日和と小狐はあんこに良く合う牛乳だ。
「ご自身でどうぞ」
すげなく台所を指した座敷童子に、小狐が耳をぴくぴくとさせる。また言い合いになりそうな空気を察して、慌てたように日和が冷蔵庫へと走った。
「この大根は甘いからねえ。お味噌汁にしてもいいし、もちろん煮物でも。生でおろしても辛味が少なくていいよ」
お裾分けの大根が入った籠を抱え、惣次郎は古賀の話に頷いた。
「すみません。送っていただいた上に、お裾分けまでいつも貰っちゃって……」
申し訳なく、頭を掻く。
畑に手伝いに行き、お裾分けの野菜と共に古賀と帰ってきた日和は、惣次郎の横に立っていた。
「まぁた日和ちゃんが迷子になっちゃ堪らんからねえ」
日和のほおが、気恥ずかしさからほんのりと赤くなった。
日和の所在が知れなくなったのは、過去に二度ある。一回目は初登校の日。二回目は台風の日だ。いずれもを古賀は知っていて、その事を茶化しているのだ。
古賀といい、由良といい、担任の真野といい、色々な人に迷惑をかけながらも支えられているな、と思う。惣次郎は苦笑いを浮かべた。とても一人では、乗り換えられなかっただろう。
「次は俺が送りますよ」
そう言って日和を家の中に居るだろう小狐と座敷童子の元に向かわせると、古賀を伴って家を出る。
送り届けると言っても、古賀の家は裏手にある。家と家の間を通る細い裏路地を歩けば、徒歩二分とかからない距離だった。
空は綺麗な夕焼けに包まれている。冬の入り口になり、午後四時ともなれば、もう辺りには暗がりが幕を下ろす。塀に囲われた路地は、夕闇に陰っていた。
毒にも薬にもならない世間話、主に夕食の支度について話しながら古賀を送ると、惣次郎は元来た道を引き返す。
家の台所へと続く勝手口を開けようとした時、けたたましい音が響いた。
驚いて、扉の把手を掴んでいた手を離す。文字に直すと「がちゃん」や「がしゃん」という、硬いものが叩きつけられて割れるような音だ。その通り、惣次郎の足元には黒い瓦礫が散らばっていた。音が鳴る前の一瞬、目の橋を過ぎった黒い影。剥き出しの地面で無残な姿になっているのは、古い屋根瓦であった。上を見上げると、欠けた甍の波が見える。
昔ながらの日本家屋で、家は重たい瓦を屋根に敷き詰めていた。地震だ、台風だと自然災害が続き、重い瓦は危険だと認識がされて、最近の家屋には見られなくなったものだ。軽量の瓦にリフォームする家も、後を絶たないと言う。この前の台風で、何も被害がなかったことが奇跡的なのかもしれない。
そんな重たい瓦が、頭上から落ちてきた。紙一重で惣次郎の横を過ぎて落ちてきたが、もしも頭に直撃していたらと思うと、ゾッとする。
「いたっ!」
屋根のリフォームかあ。遠い目で考えていると、勝手口が開いた。目の前に立っていた惣次郎の顔面に、強かに扉が打つかる。大した高さのない鼻を潰して、眼鏡が目元に食い込んだ。痛みに悶絶する。
内側から扉を開けたのは小狐だった。悪びれた様子もなく、顔を押さえて声を無くしている惣次郎を一瞥する。
「音が聞こえたが」
小狐は神様だ。だが、その柔らかそうな鶴髪から覗く獣耳と、質量の多いふさふさの尻尾を見る限り、狐である。鼻はきくし、耳も良かった。瓦が割れる音を聞いて、外に出てきたのだろう。なんとか痛みを耐え抜くと、涙目に鼻を真っ赤にして、惣次郎は地面にある瓦の残骸を指差した。
「落ちてきたんだよ」
惣次郎の指先を追って、小狐が地面を捉えた。
二つに割れる程度ではない。いくつもの欠片になって粉々になって割れている瓦を見て、小狐は難しい顔をした。
「ほう」
眉間に皺を寄せたまま、頭上にある軒先を見やる。欠けている軒を確認して、納得がいかなそうに唸った。
「どうした?」
「いや?」
惣次郎が小首を傾げると、小狐も鏡合わせのように小首を傾げる。
「大事なくて良かったの。惣次郎は悪運が強い」
いつもの調子で悪戯げに笑うと、小狐は家の中へと引っ込んでいった。
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