子ども
廊下の先の居間から、小狐が頭だけを出して様子を窺っている。誰であるのかを知ると、あからさまに顔を顰めた。僧侶である由良を好かない小狐は、息子である千景にも良い印象を抱いていない。
「日和は古賀さんのところだよ」
日和と約束をしていたのだろうか。ぺこりと小さく頭を下げた千景に、惣次郎は告げた。
「午後から一緒に宿題をやる約束をしてた」
真っ直ぐに惣次郎を見上げて、千景は淡々と話す。
宿題。千景の言葉を、惣次郎は反芻した。なんだか、とてつもなく懐かしい響きだ。自身の幼き頃を思い出す郷愁と共に、日和に〝宿題〟が出されている事実を初めて知る。少し考えれば、そりゃ小学生なのだから当たり前だろうと思うも、改めて自分が日和の学校生活について無知であることを思い知らされた。
毎日、真野とメッセージの交換をし、小狐や座敷童子、付喪神たちから話を聞いているとは言っても、把握が出来ないところの方が多い。学校からのお知らせと言ったプリント類も、見せられたことがなかった。火急の知らせであれば真野からも一報があるだろうし困った事態にはなっていなかったが、ちょっとと言うか、かなり、悲しい。気分が落ち込むのを抑えながら、惣次郎は逡巡した。
午後から千景と約束をしていたと言うと、古賀宅で昼食を食べたら日和は帰ってくるのだろう。
「……待ってる?」
家の中を指差して問うと、千景は廊下の先に目を向けた。頭を出していた小狐の姿はもうない。一瞬だけ考える素振りを見せてから、千景は頷いた。
「あ、ちょっとまだご飯中で……食べるの遅かったから……千景は食べてきたよね」
気恥ずかしく頭を掻く。昼食の用意をするのが遅く、もう13時半を回ろうとしている。
居間に案内をすると、小狐はまだうどんを啜っていた。一本、一本、丁寧に食べているから時間がかかるのだ。惣次郎のうどんは温くなっていた。麺が膨らんでいる。一応、客人の千景が居るのに、うどんを食べるのはどうかと惣次郎が悩んでいると、千景が「気にせずどうぞ。ご飯時にすみません」と頭を下げた。前々から思っていたが、千景は大人びている。惣次郎が小学生だった時、こんなことが言えただろうか。小学校の高学年であっても、言えなかったに違いない。
台所に姿を消していた座敷童子が、千景に麦茶を出した。
奇妙な食卓だった。
うどんを啜る大の男の惣次郎と、稲荷神であるが幼い容姿で、獣耳と尻尾が生えた小狐。和装の中年女性である座敷童子と、佇まいが凛とした美少年の千景。惣次郎は自分だけが異質な存在である錯覚をする。
千景の視線が一点を見つめていることに気付いた。目線を辿ってみると、日当たりの良い掃き出し窓に寄り添うようにして、招き猫と犬張子が居た。置かれている、と表した方が正しいのか。日向ぼっこをして微睡んでいたようで、惣次郎たち三人の時から、招き猫たちは大人しかった。今も、とんと鳴き声も上げず、身動ぎの一つもしない。一見すれば、日向に置き忘れられた、ただの玩具だった。だが、千景にはそうは見えないのであろう。小狐のことも座敷童子のことも難無く認め、驚きの一つも見せなかった千景だ。じいと微動だにしない玩具を見つめているだけだったが、それが、ただの玩具でないことに気付いている。
惣次郎の視線にも気付いていたようで、つうと流れるように千景と目が合った。
「賑やかだね、ここは」
無感動の声だった。
「なんじゃ、お主。付喪神も分かるのか」
「流石は由良様のご子息」
嫌そうに目を細める小狐と相反して、感心したように座敷童子はほうと息を吐いた。
座敷童子は由良に対して好意を抱いている。本当にお祓いなどが出来るのかは知らないが、一般的には妖怪に対抗し得る人間が僧侶だろう。由良に対する反応は小狐の方が自然に思えるのだが。座敷童子は人間に幸を与える妖怪だから、祓い祓われる対象ではないと認識しているのだろうか。
「学校で、日和はどんな様子?」
小狐よりも一足早くうどんを食べ終えると、おずおずと惣次郎は千景に聞いた。
「真野先生から聞いてるんじゃないの?」
一拍の間もおかず、千景は質問を返してくる。
「仲良くしてるんでしょ、先生と」
千景の静かな視線を受けて、惣次郎は「え」と言葉を飲んだ。変わらず淡々とした声だったが、僅かな棘を孕んでいるように感じたのである。その棘の正体が何か分からないまま、「日和の担任の先生だからね。お世話になってるよ」と言葉を濁す。
「ふうん」
小首を傾げた千景は意味ありげだった。次に爆弾発言をかます。
「好きなの、先生のこと」
疑問符もついていない台詞だ。
コップを持ち上げた手が動揺する。惣次郎の胸の内を表すように、コップの中で麦茶が大きく揺れた。
「え!?」
目を大きくした惣次郎は、自分の顔に熱が集まっていることが分かった。熱い。千景の言葉に、あからさまに動揺してしまったことが恥ずかしかった。そんな惣次郎を前にしても、千景の表情は変わらない。素で表情が乏しいのだ。千景の笑った顔や、怒った顔を見たことがない。
「いや、違うよ?」
「その反応、引く」
大きく被りを振った惣次郎は、ぴしゃりと言った千景に固まった。「なんじゃ、喧嘩でも始まるのか?」と、油揚げに噛み付きながら、小狐が眉を上げる。
大いに侮蔑の含まれた言葉を吐いたのに、千景の目には蔑みも何も浮かんではいない。無感情な瞳に見られて、惣次郎は咳払いを一つ落とした。いい大人が子供に指摘されて赤面するのは、確かに恥ずかしい。
「本当に違う。そういうのじゃない」
今度ははっきりと、確かな口調で断言した。
真野に、好意的な印象を持っていることは事実だ。だが、恋愛対象として好きなのかと言うと、惣次郎の感情は曖昧だった。若い女性との接点がない生活で、予期せぬ真野という魅力的な女性と出会って、気分が浮ついているだけとも言える。現に、惣次郎と真野は何も始まってはいない。先生と生徒の保護者の域を超えてはいなかった。メッセージのやり取りも、必要事項しか行っていない。
「真野先生は、日和のことを気にかけてくれているだけだよ」
必死に落ち着きを取り戻しながら、惣次郎はコップを卓袱台の上に置いた。取り乱してしまったことが気まずい。
「日和はそう思ってないようだけど」
さらりと言った千景に、今まで黙っていた座敷童子が「どういうことです」と顎を上げた。千景と座敷童子を、小狐は交互に見る。
「日和は、先生と良い仲になって、自分が邪魔になるんじゃないかって思ってる」
ああと、得心がいったように、小狐が声を漏らした。
「その真野とかいう女が来た時も、確かに日和の様子はおかしかったの」
座敷童子も思い当たる節があったようで、頷く。
小狐と座敷童子が真野の姿を見たのは、家庭訪問で真野がこの家に来た一度きりだ。日和と真野と惣次郎の三人で話し、帰り際に躓いた真野を惣次郎が受け止めるという小さなハプニングがあったものの、特に問題はなく家庭訪問は終わったはずだ。だけど思い返してみれば、真野が帰った後、日和は沈んだ顔をしていたように思う。世界が終わったような。あまり鮮明ではない記憶だったが、小狐と座敷童子も気に留めて覚えているということは、事実なのだろう。
「なんで……」
惣次郎が力なく呟くと、「あなたが先生に懸想してると思ったんじゃないの」と素っ気なく千景が言った。小狐と座敷童子が同意する。どうして小学生の男の子にそんな言われようとされているのかが分からなかったが、にわか混乱した頭で惣次郎は続きを促すように目線を向けた。
「学校でも、いい雰囲気だったし」
あの嵐の日、学校での出来事は小狐と座敷童子は知らない。惣次郎が日和を怒鳴ってしまったことしか話していなかった。それでも、何か特別なことが真野とあったわけではない。日和に怒鳴ってしまった手前、頭を冷やす目的もあり、長い時間を真野と話してしまったというくらいだ。だが、日和には、千景にも、そうは目に映らなかったのだろう。
「やはり、日和様が頑なな態度でいるのは、他にも原因があったようですな」
溜め息混じりに、座敷童子は続けた。
「恋人が出来て、子どもが邪魔になると言うのはよくある話です。今まで預けられた先で、同じようなことがあったのかも知れませぬ。または、自分の居場所が取り上げられると思ったのかも知れませぬな」
ようやっとうどんを食べ終わった小狐が「不甲斐ないのう」と、憐れんだ目で惣次郎を見つめた。
「餃子を食べた時、ああやって大勢で笑いながら食べるのが初めてで、嬉しかったって日和が言ってた。あなたは日和が妖怪を見えるのも受け入れてるし、そういうの、なくなったらどうしようって。先生とあんまり接点を持って欲しくなくて、早く学校に行けるようになりたかったみたいだね。学校に来ても、あんまり意味なかったみたいだけど」
ああ、本当に不甲斐ないと、惣次郎は思った。
自分が浮ついてしまったせいで、日和を不安にさせてしまっていたのだ。
今まで点々と親戚中をたらい回しにされてきたのだ。自らが居てもいい居場所を、とても敏感に捉えていたのだろう。真野とのことがある前は、日和と良い関係を築けていたと惣次郎も自負している。それは、小狐や座敷童子の存在もあってこそのことだったが、この家は、日和にとって居心地の良い場所になっていたはずなのである。
居場所を揺らがしてしまったのは、惣次郎だ。
果たして、日和が今まで引き取られた先でそういうことがあったのかは知れないが、居場所がなくなってしまう危機感を得ての「捨てないで」の叫びだったのだろう。
座敷童子や真野が、日和の〝捨てないで〟という発言を気にかけていたのに、とうの惣次郎本人は全く大事に捉えていなかった。日和からの精一杯のSOSだったのだろうに、深く考えずに受け流してしまっていた。もっと真摯に受け止めて、言葉の意味を考えていたら、ここまで日和との仲が拗れることはなかったのかも知れない。
空気を読まなかったランドセルの一件もある。
惣次郎は情けなくて、情けなくて、顔を伏せると頭を抱えた。
週が明けた月曜日は、見事な秋晴れだった。とは言っても、もう暮秋であったが、からりと晴れた空は清々しく、軽やかに降り注ぐ日差しのお陰で、ほおを刺す北風の冷たさも和らいでいる。
朝、学校へと向かう日和を見送ってから、そそくさと家を出て所用に出ていた惣次郎は、目的の建物から出ると腕時計を確認した。
昼過ぎ。帰りの時間を考えると、丁度家に着く時に、日和と鉢会える頃だろう。
手に持った書類を「よし」と気合いを入れて抱え直し、駐車場へと急いだ。
愛車のヴィヴィオに乗り込むと、スマートフォンを操作する。FMトランスミッターで繋がったカーステレオから、今や聞き慣れてしまったアニメソングが流れた。日和が好んで見ていると惣次郎は思う、日曜の朝に放送されているアニメだ。日和と出会う前は、死ぬまで聞くことはなかっただろうと思える、陽気でテンポの良い曲。惣次郎は歌詞を口ずさんで、家路を急いだ。
寄り道もせずに家に辿り着くと、まだ日和は帰宅していなかった。
三和土に日和の靴はない。玄関先から家の中を窺うと、居間から小狐が顔を出した。惣次郎の姿を認めて「なんじゃ、惣次郎か」と、至極残念そうな顔をして床に伏せる。「失礼だな」と惣次郎は眉を顰めた。
背中に、引き戸が開かれる音が聞こえた。ぱっと振り向くと、戸を開けた日和が目を丸くして惣次郎を見上げていた。玄関を開けてすぐ、三和土に惣次郎が居るとは思っていなかったのだろう。ランドセルの肩紐にかけられた手に、ぎゅうと力が籠もった。躊躇うように視線が逸らされる。日和の態度に心が折れそうになったが、息を飲んで奮起し、惣次郎は力強い声を出した。
「日和」
名を呼ぶだけの短いものだ。だが、しっかりと揺るぎない真面目な声音で呼ばれ、日和は恐る恐ると逸らした顔を戻した。
いつもと調子が違う惣次郎に気付いて、居間と廊下に跨り、寝っ転がって様子を見ていた小狐の耳が立った。些末な音も逃さないように、聞き耳を立てているのだ。
「大事な話があるんだ」
簡潔に惣次郎が言うと、日和の瞳が揺れた。それは、怯えか、不安か。慮り、惣次郎は真剣に日和を見つめていた目を緩めて、気持ちを和らげるように笑んだ。ものの、それが効果を成したとは思えない。ゆっくりと小さく頷いた日和の雰囲気は、緊張に強張ったままだった。
日和を伴って居間に入ると、畳の上に胡座をかいた小狐が、物珍しげに目で追ってきた。どこから出現したのか、突如として座敷童子が現れて「お茶を用意してまいります」と、台所に向かう。
緊張していたのは日和だけではなかった。惣次郎の表情も堅く、普段よりも仕草も堅苦しい。従って、場の空気は重かった。
平常とは違う空気を察し、掃き出し窓の下に集まっていた付喪神の玩具たちも、一言も話さない。台所の棚に静かに座していた調理器具たちは、居間の入り口である襖の影に隠れて、ひっそりと様子を窺っていた。この調子だと、惣次郎の部屋に居るはずの手あぶりも、どこかで聞き耳を立てていることだろう。
惣次郎と日和は、卓袱台を挟んで向かい合わせに座った。心許ないのか、背中から下ろしたランドセルを畳に置かず、膝の上に乗せて抱え込んでいる。やはり、ランドセルは薄汚れていて、ボロボロだった。だけど日和にとっては、何物にも代え難い代物なのだ。
どう切り出そうか。沈黙が続き、惣次郎が考えあぐねていると、タイミングを見計らったように座敷童子が居間に入ってくる。手にはお盆が持たれていて、その上には二つのマグカップが乗せられている。熱い緑茶の入ったマグカップが、惣次郎と日和の前に並んだ。
座敷童子はそのまま居間に居座ろうとはせず、玩具たちに目で合図を送ると、犬張子や招き猫を引き連れて出て行こうとする。とん、とんと、付喪神が畳の上を跳ねる音が鳴った。廊下側に座り込んでいた小狐も、座敷童子に首根っこを掴まれて引き摺られていく。「何をする! 無礼な!」と、顔を真っ赤にして抗議をする小狐を見て、惣次郎の緊張は僅かばかり解れた。
座敷童子たちが居間を出て行き、部屋の中には惣次郎と日和の二人だけになる。だが、廊下に続く襖は開け放されたままで、姿は見えないが、あやかし達が隠れて事の成り行きを見守っているのだろうことが分かる。
マグカップを手に取り、茶で乾いた口の中を潤してから、惣次郎は沈黙を切った。
「ランドセルのことなんだけど」
日和の両腕に力が入る。抱えられているランドセルが、少し凹んだ。
「お父さんとお母さんからのプレゼントだったんだよね。手あぶりから聞いたよ」
俯いたまま、日和の視線が泳ぐ。一瞬、手あぶりが何なのか分からないようだった。だけど、すぐに思い至ったようで、合点がいったように目が伏せられる。
「そんなに大事なものだったのに、あんな風に言っちゃって、ごめん」
惣次郎は頭を下げた。視界に卓袱台の木目と、マグカップの中の緑茶が入り込む。水面に不安げな顔をした惣次郎が映っていた。
十分に時間をかけてから頭を上げると、日和は気まずそうに小さく首を振った。
「ご両親からの形見なんて知らなくてさ……ちょっと考えれば分かることなんだけど、俺って本当に気が利かないよね」
苦笑混じり。吐くように言い捨てると、唇を噛んだ日和が、先程よりも強く首を振る。
「それにしても、手あぶりとそんなに仲良くなってたんだね。最近、全然日和と話してないから、付喪神たちとどんな仲なのかも分からなかったよ」
「……ランドセルの掃除をしてたら、話しかけてくれて」
「うん」
「そんなに大事にしてたら、いつかは付喪神になるかもなって言ってくれて……嬉しくて、だから……」
言葉が途切れる。俯いてランドセルを見下ろす日和の目は、大切なものを愛でているかのように優しかった。「そうなんだ」と相槌を打って、惣次郎も目を下げる。持っていた書類が、封筒に入れて傍らに置かれていた。深呼吸を一度してから、静かに惣次郎は切り出した。
「あのね」
もう一度、深く息を吸って、吐く。意を決して顔を上げると、惣次郎は日和を真っ直ぐに見た。
「俺は日和と、家族になりたいって思ってるよ」
驚いたように、日和が下げていた頭を上げる。惣次郎は言葉を続けた。
「日和を引き取るって決めた時から、そう思ってたんだけど……俺のせいで、日和を不安にさせちゃったみたいで、だから今のまま曖昧じゃなくて、もっと確かなものにしたいって思ったんだ」
封筒から一枚の書類を取り出して、卓袱台の上に広げる。そして日和の方に向け、差し出した。
書類には、小さな文字が並んでいる。
一番大きな文字で書かれているのは、左上にある〝養子縁組届〟だ。
小学三年生には難しいかもしれない漢字だったが、まじまじと書類に書かれている文字を辿り、意味を理解したのだろう日和が、目を白黒させて惣次郎と用紙を交互に見やる。
なんだか、結婚を申し込んでいるみたいだ。独身の惣次郎は結婚を考えるほどの付き合いをした女性も居らず、当然プロポーズをしたこともなかったが、相手の反応を想像して一喜一憂する様が、正に結婚を申し込んでいるようだと思った。膝の上に置いていた拳も、無意識のうちに力んでしまう。
千景から、日和が不安を感じていることを教えられた惣次郎は、どうやってその不安を払拭すべきかを考えた。よくよく考え、悩み、辿り着いた答えが、養子縁組という手段だったのである。
惣次郎は日和を引き取り、一つ屋根の下で共に暮らしているが、親子関係はない。法的には〝家族〟ではなかった。
紙切れ一枚の届け出だけで、本当の意味で家族になれるのかと言うとそうではなかったが、惣次郎にとってこの決断は〝ケジメ〟の意味合いもあったのだ。それに、いつか追い出されてしまうのかも知れないと日和が危惧しているのならば、こうして形にし表したほうが不安は和らぐに違いない。
昨日の日曜日の夜を気まずいままに過ごし、週が明けて月曜日の今日、惣次郎は朝から役所に出向いていたのだった。そこで、普通養子縁組を行う手続きや、必要事項、注意事項などの長ったらしい説明を受けて、複雑な申し込み用紙の書き方を教わってきた。
日和の前に置かれている用紙には、惣次郎が書き込める箇所は、全て書き込まれている。〝養親になる人〟の欄だ。〝沖惣次郎〟そう書かれている名前を目線でなぞって、日和は結んだ唇を戦慄かせた。
「……もし、日和がね、嫌だったら断ってもらっていいんだ。橘日和から沖日和に苗字も変わっちゃうし。これは、俺が日和とこれからも一緒に暮らしたいって思ってる証だから」
正直、養子縁組をするのは、大きな覚悟が必要だった。
惣次郎は独身だ。働き盛りの三十三歳。今すぐどうこうと言うわけではなかったが、いつかは結婚をしたいと思っていて、一生を独身で貫き通す心算はなかった。だが、養子縁組を交わし、法的にも日和と家族になれば、惣次郎は公的に認められる一児の父になる。子持ちの男と結婚をしてくれる女性は、おいそれとは居ない。目星い女の影はなかったが、今よりも結婚が遠退いてしまうことは必至だろう。
座敷童子に指摘されたことは、図星だった。
『子どもの身を預かると言うのは生半可なものではありませんぞ。少し、心意気が甘いのでは?』
確かに、惣次郎は甘かった。
日和を引き取ると決めた時に、養子縁組なんて具体的な案は一切出てこなく、漠然と〝家族になれたら〟と思っていたのだ。
寂しかったのだ、と思う。
両親を亡くし、恋人も居らず、パソコンに向かってせっせと仕事をこなして、人と話すのは仕事関係の人と主に電話越し。そこに、同じく両親を亡くして独りぼっちの日和と言う存在がぽっと出てきて、惣次郎は自身の孤独を癒すために日和を引き取ったのだ。利用したとも言える。自分本位なエゴだった。
子どもを育てたことのない惣次郎にとって、子どもを預かるにあたっての苦労は、想像しても手が届く範囲が限られていたが、座敷童子が言うように認識が甘く、安易だった。それでも、家族になれたらと思ったのは事実で、孤独な幼い女の子を守ってあげたいと思ったのも、間違いようのない真実だった。日和と共に過ごす内、その気持ちは強く、大きくなり、自然と思えるようにもなってきたのだ。
そんな日和の担任の先生である真野に、浮ついている場合ではない。結婚だっていつかはと思うが、今すべきことは婚活ではなかった。
「……嫌かな?」
無言のままの日和に、惣次郎が問いかける。
ふるふると、ランドセルを抱えている肩が小刻みに震えていた。ぽたり。ランドセルの掠れた赤い皮の上に、大粒の水滴が落ちる。いつかの雨漏りのようだ。だけど今は雨が降っていないし、雨漏りをした箇所は座敷童子と付喪神たちが修繕をしてくれたようだった。勿論、掃き出し窓の向こうは晴れている。快晴。爽やかな午後の陽射しを受けて、紅葉した庭木も気持ちが良さそうだ。ぽたり。また雫が落ちる。それが雨ではないと分かるまで、惣次郎には時間がかかった。何故なら、泣かれるとは思っていなかったからだ。ランドセルを濡らしている水源は、日和の大きな瞳だった。
「えっ……あ、え、ごめん! そんなに嫌だった!?」
惣次郎は、日和が壊れたようにぼろぼろと涙を零していることを認識すると、目を剥いて取り乱した。
日和が流す涙は、留まることを知らない。次々と両の目から滑り落ちて、ランドセルの天辺をびしょびしょに濡らしていた。
そんなに号泣するまで嫌だったのだろうか。ショックを受ける隙間もなく、惣次郎は混乱した。
取り敢えず拭くものを、と居間の中を忙しなく見渡す。テレビの脇に置かれているティッシュ箱を取ろうと、腰を上げかけたところで、素早く別の手が目当ての物を掠め取った。座敷童子だ。また、いつの間に姿を現したのか、突如として出現した座敷童子が、ティッシュ箱を持って日和に駆け寄る。
日和の隣に膝を着くと、数枚のティッシュを差し出した。いやいやと、日和が首を振る。責める目で、座敷童子は惣次郎を睨み付けた。廊下から、おろおろと小狐と付喪神たちも覗いている。
「ちが、違うんです」
しゃくり混じりの涙声で、日和は言った。左右に振られる首は、どうやらいやいやではなく、違うという意味らしかった。
「わ、わっ私、こそ、ごめんなさい」
両手で乱暴に目を擦り上げながら、鼻を真っ赤にして日和は謝る。惣次郎は慌てふためくだけだった。
「私、またどっかに追い出されちゃうと思って、すごく、こわくて、どっかに行けって言われるんじゃないかって思って、ずっと、嫌な態度、ばっかり、とっちゃって、会いたくないって、喋りたくないって、でも、そしたらまた、嫌われちゃうって」
ごめんなさい、ごめんなさいと日和は泣きながらに続けた。涙ばかりではなく、何度も啜りあげられてはいるが、鼻水の方も決壊してきている。見兼ねた座敷童子が、ティッシュで日和の鼻を拭っていた。決して美しい泣き顔ではない。子どもらしい力一杯の泣き方に、惣次郎は愛しいと思い、安心もした。こうやって全力で泣くことも出来るのだ、と。
葬式の場で見た小さな後ろ姿は、子どもながらにやけに沈静としていて、縮こまっては涙を見せることがなかった。我慢していたのだろう。
「俺が悪いんだから! 全然気にしてないから!」
「でも! でも!」
「俺の方こそ、怒鳴ったりしたし、ごめん!」
「そんなの、私も気にしてないです、嬉しかった、です」
「いや、怖がらせちゃったし」
「でも、心配してくれたんですよね、私、心配してもらったこと、ずっと、ないです」
座敷童子が、日和の背中をさすっていた。少しでも、号泣の咽びを落ち着かせようとしての行動なのだろうが、その優しい手つきに感情を刺激されてしまうのか、更に日和のしゃくりは激しくなる。だが、悲しいとか嫌悪だとか、そういった種の涕泣ではないことが分かり、座敷童子に慌てる様子はない。居間を覗き込んでいる小狐や付喪神たちも、落ち着いた様子であった。かく言う惣次郎も混乱がおさまり、日和の涙にあてられるようにして鼻の奥がじんとする。しかし、ここで惣次郎も涙してしまっては格好がつかないと、目に力をこめて歯を食い縛る。
「日和、仲直りしよう」
別に喧嘩をしていたわけではないが、緩慢と口の端を緩めて惣次郎が言うと、日和は大きく頷いた。「はい、はい」としゃくりなのか何なのかよく分からない声も返ってくる。
「これからも、よろしくね」
「お、おねが、おねがいします」
惣次郎の一世一代の覚悟は、十全に日和へと届いてくれたらしい。
わんわんと声を上げて泣く日和に、我慢していた涙が、惣次郎からもほろりと零れた。
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