女の子

 悶々とした気分を抱えてしまい仕事も捗らず、惣次郎は久し振りに早い時間から夕食作りに勤しむことにした。


「まぁた喧嘩したみたいですなあ」

 白胡麻をごりごりと擦っていると、すり鉢が待っていましたとばかりに口を開いた。


 おやつの時の一件は、台所にも難無く声が届いていたのだろう。果たして、あれが喧嘩と言ってもいいものなのか分からなかったが、惣次郎は苦虫を潰した。無心になって料理という作業に打ち込みたかったが、そうもいかないらしい。この家では、何処に耳があり口があるか分からない。


「惣次郎殿は、女子の扱いが下手なのですわ」


 そう言ったのは、電気炊飯器の横に控えているお櫃である。つと横目にお櫃を見てから、惣次郎は手元に目線を戻す。白胡麻は、まだ擦りきれていなかった。


「物で気を引こうだなんて、浅はかもいいところです」


 溜息すらも聴こえてきそうだ。これ見よがしなお櫃の言葉を聞いて、惣次郎はうっと息を詰まらせて手を止める。

 物で釣る。そんな気がなかったと言えば、嘘になる。思えば、日和がこの家に来た当初、小狐の存在を知る間際にも、街に連れ出して物を買い与えたことがあった。


惣次郎が幼い頃は、欲しい玩具やお菓子を買ってくれる人は、総じて〝いい人〟だった。だからこそ、孫相手に財布の紐が緩くなっている母方の祖父母に会うのが楽しみであったし、ある程度の年齢になると、欲しいものがあるから祖父母に会いに行っていた。と言っても過言ではない現金さを、幼少の頃の惣次郎は自然と持っていた。

 何かを買い与えると言うのは、大人が子どもに気に入られる上で、とても有効な手段なのだ。

 その他で子どもに気に入られる大人と言えば、子どもが尊敬できるような分かりやすい一芸に秀でていたり、子どもと同じ目線に立って接することが、不自然にではなく行えたりする人達だ。いずれもを惣次郎は持ち合わせていなかった。だから、大人のずる賢さといえばそれまでだが、惣次郎は金に物を言わせたのである。そうする手段しか、思い浮かばなかったから。

 もっとよく考えれば、他のやりようもあったのかも知れない。


「じゃあ、どうすれば良かったんだよ」

 愛想のない声になってしまった。顔も憮然としたまま、惣次郎はお櫃に八つ当たりをする。


「まあ、確かに女というものは物を買うことも好きですけど、一番はお喋りですよ。一にお喋り、ニにお喋り、三四も五も、お喋りです」


 茹でて刻み、水を切っておいたほうれん草を、すり鉢に放り込む。次に砂糖と出汁を入れて、混ぜ合わせる。ほうれん草の胡麻和えを作り上げていくすり鉢が「喋ってばっかじゃねーか」と、お櫃に突っ込みを入れた。惣次郎も思っていたことである。


「ええ、そうです! 女は話を聞いてもらうことが大好きなんですよ!」

 少し怒り気味に、お櫃は言い切った。


「女がみんな、そうだとは限りませぬが」

 突如として割り込んできた声に、惣次郎は肩を揺らした。振り返ると居間と台所の合間に、座敷童子が立っている。お櫃とすり鉢は気付いていたようで、特に驚いている様子はなかった。


「惣次郎様と日和様の対話が足りなかったのは本当でしょうな」

 続けられた座敷童子の言葉に、惣次郎は視線を落とした。


 日和と話そうとしなかったわけではない。惣次郎は何度だって会話を試みていたし、その度に玉砕をしていた。だが、それで諦めずに、もっと話をすることを大事にした方が良かったのかも知れない。努力が足りなかったのか。

 何も座敷童子に言えないまま、惣次郎は出来上がった胡麻和えを染付の鉢に盛ると、すり鉢を流しで洗う。洗い終えると水滴を拭いて、棚の上に戻した。ついでに、米を水に漬けてセットしておいた炊飯器のスイッチを押す。


「あ、今、ちょっと面倒くさいなあ~って思いましたね?」


 お櫃の指摘に、惣次郎はぎょっと目を大きくした。心の中を見透かされているのではないかと俄かに思う。まるで図星だったと言う惣次郎の態度を見咎めて、座敷童子が眉を歪ませる。その空気に、性別で言えば惣次郎と同じ男であろうすり鉢も、心無しか雰囲気を潜めた。


「惣次郎様。私は惣次郎様と日和様の馴れ初めは知りませぬが、子どもの身を預かると言うのは生半可なものではありませんぞ。少し、心意気が甘いのでは?」


 次の座敷童子の言葉も、惣次郎にぐさりと突き刺さった。

 日和を引き取るとなった時、何の覚悟もしていなかったわけではない。

 惣次郎が想像を出来る限りで、相当の覚悟を決めて首を縦に振ったのである。だが、結婚も子育てもしたことがない独身、人生百歳の時代ではまだまだ若いと言える三十三歳の男だ。惣次郎が想像を出来る範囲なんてたかが知れている。全くの経験値不足だった。実際に生活を共にしてみれば勝手が分からないことばかりであり、上手くいかないことの連続である。しかも、本当に想像だに出来ていなかった不測の事態が、起こり続けてもいる。

 日和の声が出なかったこと。

 あやかしが見えること。

 不登校児であったこと。

 日和には、予期していなかった問題が山積みであった。


 その一つ一つを手探りで解決してきたのだが、行き詰まってしまった今に心が折れかけてしまうのは否めない。少しばかり、投げ出してしまいたくもなる。日和の意地でも張っているような頑固な態度を見る度に、疲れるなと心の何処かで思ってしまう惣次郎が居る。だって、惣次郎は自分が出来うる限り謝ったし、仲直りをしようと頑張ってもいたのだ。

 自分には、難しいのかも知れない。

 惣次郎は不意にそう思ってしまうと、拳を握り締めた。


「……俺、仕事に戻るから」

 捨て台詞のように残して台所を後にすると、背中に座敷童子の溜息が聞こえた。




 躍起になってペンを動かしていると、後ろでくしゃみが鳴った。

 さして盛大な音ではない。どちらかと言うと、小さめのくしゃみだった。だが、その音を切っ掛けにして、集中力は途切れる。

 パソコン画面の中の線画イラストに、せっせと着色していた手を止めて、惣次郎は忌々しげに後ろにある存在を意識した。


 部屋には細やかな床の間がある。その床の間の違い棚に鎮座している、付喪神の手あぶりだ。手あぶりは、持ち歩き用の小さな火鉢である。付喪神の中では一番の年長者らしい手あぶりは、何故だか惣次郎の部屋に居座っていた。なんでも「この家の主人に、代々使われていた」かららしい。家の主だと思われていることに、些かな驚きがある。言えばその通りなのだが、改まって指摘されると気恥ずかしい心地がするのだ。


 また一つ、くしゃみが鳴る。火あぶりが落としているくしゃみだった。

「今夜は冷えるな」


 付喪神とは言っても、所詮は物である。物でも暑さや寒さを感じることが出来るのか。不思議に思う。


 確かに火あぶりが言うように、部屋の中は冷えていた。パソコン画面の時刻を確認すると、夜は天辺を越えて更けている。秋も終わりが近付き、初冬の足音が聞こえている。昼間の陽気を打ち払い、夜遅くに蔓延る冷気を肌に感じると、冬の足音が更に大きく聞こえるようだった。

 何かを羽織ろうと、惣次郎は立ち上がる。衣替えをしなくてはと思っていたが、結局のところ冬支度を出来てはいない。押入れから段ボール箱を取り出し、直接冬物の衣類を取り出している。適当なパーカーを探していると、何やら一人で手あぶりが話しだした。


「ランドセルの件だが」

 いつの間にかランドセルの話は、家中に広まってしまっているようだった。

 いつも棚に鎮座しているように見えるが、知らないところで火あぶり達は動き回っている。お櫃やすり鉢、または片口か。調理器具の誰かに、事の顛末を聞いたのだろう。付喪神たちには、付喪神ネットワークがある。本当に、何処に耳があり口があるのか分からない。一人になりたい時は厄介だなと思って、惣次郎は眉根を寄せた。


「あのランドセルは、ご両親からの最後のプレゼントらしいぞ」


 段ボール箱をまさぐる手を、惣次郎は止めた。


「小学校に入学する前に、父上と母上が選んで買ってきてくれたらしい。それを背負って学校に行くのを楽しみにしておった、と。ご両親も学校に行く姿を見たかっただろうに、無念だのう」


 日和の両親が亡くなったのは、小学校の入学前だ。

 春を目前に控えた、まだ肌寒さの残る頃。

 葬式の席で、日和は真新しいピカピカのランドセルを、後生大事そうに抱えていた。そうだ。ランドセルは、小学校に入学をしてから買うものではない。入学準備の段階で、他の学用品と一緒に買い揃えるものなのである。

 一体誰が、日和に買い与えたものだったのか。

 惣次郎は、それを全く考えていなかった。

 どんなに踏み付けにされてボロボロになっても、あのランドセルでないとダメだったのだ。

〝新しいのなんか、いらない!〟

 日和の強い声が蘇る。拒否だ。拒絶だ。日和は、軽々しくも嬉々として「こんなボロボロのよりも新しい方がいい」と言った惣次郎に、傷付いていたのだ。

 その事に気付くと、惣次郎は頭が冷えていくのが分かった。取り返しのつかないことをしてしまった。どうやったら日和と仲直りが出来るのだろう。そんなことを考えるばかりで、日和の気持ちを全く考えていなかったのである。


 てん、てん。

 目が醒めると、今や聞き慣れてしまった音が天井裏でしていた。


 枕元に置いていた眼鏡をかける。ぼやけていた視界が明瞭となり、日に照らされた天井の木目がきっちりと見えた。朝日にしては明るい。スマートフォンの時計を見ると、昼を目前にした時間だった。


 昨夜、火あぶりの話を聞いてしまってから、仕事に手が付くことはなかった。ペンを握ってみても思考がぐちゃぐちゃと錯綜して、上手く作業に身が入らなかったのだ。

 気持ちでは、今すぐにでも日和に頭を下げに行きたかったが、何分、ランドセルの贈り主を知ったのは深夜のことだ。小狐と一緒に日和は夢の中であろうし、睡眠を妨げてまで謝りに行くのはどうかと思った。

 学校に行き始めて、まだ日も浅い。疲れも溜まっているだろう。


 ならばと捗らない仕事を投げ出して布団に潜ってみても、襲ってくるのは絶え間のない後悔と、自分の浅はかさを恥じる念ばかりだ。

 云々と悩みながら、何度も何度も寝返りを打っている内に、それでまいつの間にか眠ってしまっていたらしい。眠りに落ちる間際、朝焼けに薄ぼんやりと外が明るんでいたことを覚えている。

 夢見は良かったのか、悪かったのか。見た夢の内容も覚えていないが、おそろくは後者なのだろうと思った。深い眠りではなかったはずだ。足りない睡眠で寝不足の頭が、ぼうとしていた。


 怠く感じる体を起き上がらせると、スマートフォンに未読のメッセージが届いていることに気付いた。真野からだ。日和が学校に行くと決意をした時から、真野とは電話だけではなく、メッセージでもやり取りをしている。

 毎日、放課後になると、日和の学校での様子が報告されてくるのである。

 真野には面倒なことだろう。真野が受け持っている生徒は、何も日和一人だけではない。数多く居る生徒たちの一人である日和に、真野は沢山の手間と時間を割いているのだと思う。申し訳無いなと感じるものの、有難いと惣次郎は思っていた。


『今日は初めての休日です。日和ちゃんも疲れていると思いますし、しっかりと休息のサポートをしてあげてくださいね』


 絵文字も顔文字もない、事務的とも言える文面を読み上げて、惣次郎は首を垂れた。

 慣れない学校生活に加え、日和に負担をかけてしまっているのは己の無神経さだ。項垂れて、惣次郎は呻く。


 今日は土曜日だったか。真野が言うように、日和が学校に行き始めてから初めての休日であった。すっかり忘れていた。本来ならば、学校であった様々な話を聞きつつ、一緒に料理をしたりご飯を食べたり、テレビを見たいところだ。疲れを引きずらない程度に、何処かに出掛けるのでもいい。だが、どれも叶わない願いであった。今、惣次郎が何かに誘っても、日和は首を縦に振ることはないだろう。


 惣次郎自身、一夜が明けて気持ちが落ち着いてくると、どう日和に謝ったらいいのかが分からなかった。そもそも許してもらえるのだろうか。

 学校がないのならば、日和は家に居るのだろう。顔を合わせる機会が多いことに、今ばかりは休日であることを少し恨めしくすら思える。


 いつまでも布団で丸まっているわけにもいかないので、惣次郎はどんよりとした気分のままに着替えた。寝巻きから普段着に装いを変えると、洗面所へと向かう。先ずは冷たい水で顔を洗って、気分を整えようと思ったのだ。

 そろりそろりと足音を忍ばせて居間を覗いてみると、予想に反して誰の姿もなかった。

 日和も、小狐も、座敷童子の姿も無い。犬張子やでんでん太鼓も居なかった。


 無意識に、ほっと息を吐く。卓袱台の上に一枚の紙が置いてあることに気付いて、惣次郎は手に取った。パソコンからプリントアウトされた、白黒のA4紙だった。


「おはようございます。随分と遅かったですな」

 チラシに伏せていた目を上げる。びくりと肩を揺らして惣次郎が振り返ると、座敷童子が背後に立っていた。


 忘れていたが、座敷童子とも顔を合わせにくい別れ方を昨日してしまっていた。目が合ってから思い出して、惣次郎はぎこちなく視線を逸らす。だが座敷童子には、特に気にしている様子はなかった。いつも通りの態度と口調で「朝ごはんはどうします?」と聞いてくる。惣次郎は慌てながら「もう昼だし大丈夫」と返した。そうして、沈黙。居心地の悪さを全身に感じ、惣次郎は目を泳がせた。


「あ……これは?」

 手に持った紙を、おもむろに目で示す。

 プリントアウトされている内容は、よく考えなくても惣次郎に向けて印刷されたらしいものだった。

 イラストのコンペ募集の案内だ。選ばれたものには、高額の賞金が出る。大手の会社が主催しているコンテストである。


「ああ……惣次郎様にどうかと思いまして」

「……なんで、また」

「仕事に精を出されているようですし、この前、大きな仕事が入ればいいと仰っておりましたので。そういうのには、何かで名を上げるのが一番かと思いまして」

「ああ……んん……確かに……」

「座敷童子は、家人に幸せになってもらうのが務めです故」

 職の安定は大事ですと続けて、座敷童子は口を閉じた。


 呆気に取られて、惣次郎は座敷童子を見やる。その顔は平素と何も変わらず、至極当然のことのように言っているものだった。座敷童子が居る家は幸福になるとは言うけれど。


「あ、ありがとう。考えてみるよ」


 気恥ずかしくなって、惣次郎は紙を折り畳むとジーンズのポケットに突っ込んだ。火照っているような顔色を紛らわして、咳払いを落とす。


「ひ、日和は?」

「古賀様のところへ行きました。昼食も、あちらで馳走になってくると」

「あ、……そう」


 肩透かしを受けた気分に、惣次郎はなる。だが、何処かでほっとしている部分もあった。まだ日和と顔を合わせて、なんと話したらいいのか言葉が見つからなかったのだ。


 そうして、事態が一進も一退もしないまま時間が過ぎて、日和の姿を見れたのは夕食時のことだった。

 部屋に篭らず、食卓を一緒に囲んでくれるだけいいと思うべきなのか。卓袱台の向こうに居る日和は、強張った表情で俯いていた。

 今日の夕食は、座敷童子が作ってくれたオムライスである。副菜に、さっぱりと酢を効かせたポテトサラダがある。汁物は、玉葱と人参のシンプルなコンソメスープだ。


 惣次郎と日和の間に会話はなかったが、小狐と座敷童子が話してくれているので、岡目にすれば賑やかな食卓だった。そこに、でんでん太鼓が加わり、犬張子や招き猫も居間の中に居る。鉢の代わりにされている片口や、オムライスで出番がなかったことを悔いているお櫃も居た。そして何故か、役のないすり鉢と手あぶりも。付喪神たちが出てきてからは、より一層に食卓は賑わいを見せている。惣次郎と日和を除いて、だが。


「ほう。それで、惣次郎はそのこんてすととやらに参加するのか?」


 チキンライスの米粒を付けた顔で、小狐が言った。

「いや、まだ決めてないよ」


 そう惣次郎が頭を振ると、すり鉢が「絵を描くのか! 見てみてえなあ!」と声を上げる。「中々に上手いものだぞ」と手あぶりが自慢げに言い、座敷童子が頷いた。手あぶりはいつも、惣次郎の後ろからパソコン画面を覗いているのだった。


「ええー私も見てみたいわあ」

「そうじゃな。久し振りに惣次郎に絵でも描いてもらうかの。のう、日和。また日和のらくがき帳に描いてもらわんか?」


 お櫃の期待に満ちた声を聞いて、小狐が隣に居る日和へと目を向ける。

 会話に交わらず、黙々とオムライスを口に運んでいた日和は、驚いたように目を丸くした。まさか自分に話の矛先が向けられると思っていなかったらしい。早く食べ終えて席を辞そうと、そればかり考えているようだった。性急な食べっぷりにそう感じていた惣次郎は、日和の反応に僅かに期待もしていた。初めて絵を描いてあげた時、日和は目を輝かせて喜んでくれていたのだ。それが切っ掛けになって、上手く謝罪する切り口も見つけ、仲直りが出来ないだろうか。惣次郎の淡い期待を裏切って、日和は首を横に振る。


「……私は、いい」


 蚊の鳴くような声だった。お手上げだと言わんばかりの顔で、小狐が惣次郎を見やる。惣次郎は何も言えなかった。勿論、話の流れを切って、ランドセルのことを謝る気概もなかった。



 謝る切っ掛けを掴めないまま無為に土曜日は終わり、日曜日がやってくる。この二連休の内に、どうにか謝罪だけでもしたいと惣次郎は思っていたのだが、この日も日和は古賀の畑に出かけ、昼を馳走になってくると言うことだった。

 惣次郎が起床した時には既に日和の姿はなく、土曜日と同じ台詞を座敷童子から聞かされる。日和が惣次郎を避けていることは、もう誰の目から見ても明白だった。


 沈んだ気持ちで、小狐と座敷童子の二人と、遅めの昼食を用意をする。

 日和という話し相手が居ないと何処かで息を潜めている小狐だったが、ご飯だけは日和が居なくても食べるのだ。


「さっさと謝ってしまえばいいんじゃ」


 踏み台の上に立って、鍋の中のうどんを掻き混ぜていた小狐が、面倒臭そうに言った。


汝等うぬらがそんな調子だと、わしまで調子が狂うわい」


 苛立ちも小狐からは感じる。小狐の言うことは尤もであると思う。惣次郎と日和は渦中の人間であるのだからいいが、周りのあやかしたちにとっては、このぎくしゃくと居心地の悪い雰囲気を共有することに、嫌気も差してくるだろう。当たり前である。


 惣次郎は肩身の狭い心地で、茹で上がったうどんを器へと移した。湯気を立てる熱い出汁を注ぎ、具を乗せていく。葱、油揚げ、きつねうどんだ。出来上がると二つの腕をお盆に乗せて、居間の卓袱台へと運ぶ。麦茶の入ったコップを、座敷童子が持ってきてくれた。


「それにしても、日和様は意外と頑固なのですな」


 いただきますと手を合わせて、一口目のうどんを啜った時だった。惣次郎と小狐の冷たい麦茶と違って、熱い茶を飲んだ座敷童子が言う。


「本当に、原因は惣次郎様が怒鳴ったことだけなんでしょうか?」

 うどんを咀嚼しながら、惣次郎は座敷童子を見た。


 惣次郎も、日が経っても頑なな日和の態度には、舌を巻いている。だが、それまでに声を荒げられたことが恐かったのだろうし、両親の形見であるランドセルを蔑ろにされたことに、腹が立ち、傷付いたのだろう。そう言えば、ランドセルのことについては話していなかったことに気付いて、惣次郎は言いにくそうに小狐と座敷童子に説明をした。事の次第を聞くと「ああ……」と、なんとも歯切れの悪い相槌を返される。小狐は呆れたように、座敷童子は「なんとも間が悪い」と苦虫を潰す。


「そんなことを言っておった気もするのう」


 猫舌ではないと断言していたが、小狐は熱い食べ物が得意ではない。嫌いではないのだが食べ慣れていないらしく、うどんを一本づつ、器用に箸で挟んでは口に運んでいた。なんでも供物として献上されたものは、全て冷たい食べ物であったため、熱いものに口が慣れていないそうなのだ。

 ちゅるりと冷めきった一本を飲み干し、記憶を思い返すように小狐の目線が上を向く。何かを思い出そうとしている時、視線は左上を向き、何かを想像している時は右上を向くと言う。だから、嘘を吐く時は右上に視線が向いてしまうと言われている。仕草から見る人間の心理であるから、神様である小狐に当てはまるのかは分からないが、小狐の目は左上を彷徨っていた。


 知っていたなら教えてくれよと惣次郎は思ったが、そもそも日和のランドセルについて、なんて狭められた話題を交わす機会はそうそうない。

 小狐を恨みがましく見るだけに留め、惣次郎は鶏肉を頬張った。それから、謝るタイミングをどう見つけるかを談議していると、来客を知らせるブザーが鳴る。うどんを半分ほど残したまま、惣次郎は席を立った。


 玄関先に出ると、磨りガラスの向こうに背の低い影が立っている。見覚えのあるもので、惣次郎は訝しく思いながらも戸を開けた。引き戸の前に立っていたのは、思った通り千景だった。

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