台風の中

 しんと部屋が静まり返る。まるで水を打ったようだった。

 惣次郎と座敷童子も、遅れて居間を見渡した。小狐が言った通り、日和の姿がない。その事に気付くと、惣次郎は引き潮の如く血の気が引いていくのが分かった。

 どうして今まで気付かなかったのだろう。台風の備えや、予期せぬ雨漏りにてんやわんやとしていた。加えて、喋れるようになったと言っても、今だ日和の口数は少ないので、声が聞こえてこなくても違和感がなかったのだ。それに、日和と小狐は対に居るものと、いつの間にか思ってしまっていた。小狐が居れば、日和が居るものだと思い込んでしまっていたのである。


 惣次郎は慌てて立ち上がった。雨戸を締め切っている為、外の様子を詳しく知ることは出来なかったが、がたがたと雨戸が揺さぶられる音と、雨粒が叩きつけられる音を聞くだけで、台風の勢力が強まっていることが知れる。外は猛嵐であろう。


「日和様は、古賀様のところですぞ」


 座敷童子の落ち着いた声を聞いて、惣次郎は思い出した。


 日中、パソコンのディスプレイに食い付きながら、背中で日和の声を聞いた。「台風の準備のお手伝いに、古賀のおばあちゃんの畑に行ってきます」と、言っていたような気がする。惣次郎は「うん、気をつけるんだよ」と、後ろ手を振ったのだった。


 急いで自室に走ると、デスクの上に置いていたスマートフォンを手に取る。古賀宅の電話番号は、電話帳に控えてあった。通話ボタンを押すと、数度の呼び出し音の末に電話は繋がる。古賀のお婆さんの、呑気な声が聞こえた。


『もしもし?』

「あ! 古賀さん? 沖です。日和がそっちに行ってると思うんですけど、居ますか?」

 惣次郎は、矢継ぎ早に話した。

『あんれ? まだ帰ってないのかね? 千景の坊ちゃんと一緒に、日和ちゃんも帰ったんだがねえ』


 青褪めていた顔から、正に色が無くなっていくようだった。

 挨拶もそこそこに電話を切ると、惣次郎は続けて電話帳から一つの名前を呼び出した。由良である。古賀のお婆さんの畑からでは、由良の寺よりも、惣次郎の家の方が近い。この台風が迫る中を、まさか遠い家に向かうとは考えられなかったが、一抹の期待を抱いて通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴る前に、すぐに由良は電話に出た。


「由良さん!? 日和が来てませんか!?」


 由良が何かを言う前に、食い気味で惣次郎は問いかけた。勢いに驚いた雰囲気が、受話器越しに伝わってくる。


『来てないよ。千景も帰ってきてないんだよねえ』


 由良の声は緩慢だった。さしたる問題ではないと言うように、のんびりと落ち着いている。だが、対する惣次郎は気が気ではない。由良の家にも行っていないとなると、小学生の子供が二人、嵐の中で取り残されていると言うことだ。最悪の事態も頭に浮かぶ。とうとう、惣次郎の思考は上手く回らなくかった。どうしよう。どうしよう。仕事なんかしていないで、しっかりと日和を見ていれば良かった。台風が来ているのだからと、引き止めれば良かった。


『惣次郎くん? 大丈夫?』


 息を飲んだまま押し黙ってしまった惣次郎に、不審そうに由良が声をかける。弾かれたように意識が戻るも、まだ頭の中は混乱していた。


『ああ、ごめんごめん。ちょっとキャッチが入っちゃった。すぐに掛け直すね』

 返事をする前に、電話がぷつんと切られる。機械的な終話音を聞きながら、惣次郎はへなへなと畳の上に座り込んだ。襲ってくるのは、飲み込まれそうな心配と、後悔の渦だ。


 部屋の入り口から、小狐と座敷童子が様子を窺っている。それには気付いていたが、惣次郎に反応をする余裕が残っていなかった。

 暫し呆然としていると、着信音が鳴る。画面に映るのは由良の名前だ。掛け直すと言われていたのだったか、そんなちょっと前のことも忘れてしまっていた惣次郎は、戸惑いながらにスマートフォンを耳に当てた。


『日和ちゃんが何処に居るか分かったよ』

「え!」

 軽快な由良の声音に、惣次郎は驚きの声を出すことしか出来ない。この数分の間に、どうやって居所を突き止めたのだろう。


『今、学校から電話があってさ、千景と日和ちゃん、学校に居るみたいだよ』


 キャッチが入ったと言う電話は、学校からだったのか。何故、自分には電話が来なかったのだろうと思うも、惣次郎はキャッチホンのサービスを付帯してはいなかった。古賀宅に掛けたり、由良に掛けたりしている間に、学校からの電話は不通になってしまったのだろう。


 日和の居場所が分かると、抜け殻のようだった体に、生きた心地が戻ってきた。学校ならば屋根がある。雨風を凌げ、暖房器具もあるはずだ。だけど、何故、学校に? 日和はまだ一度も登校をしたことがなかった。


『迎えに行くなら、僕も連れてってよ』

 学校への道のりは、迂回は必要だったが由良の寺を通って行けなくはない。惣次郎は合意すると、電話を切った。


「見つかったようですな」


 気を取り直して立ち上がった惣次郎に、座敷童子がほっと胸を撫で下ろした。小狐も安堵したようで、強張っていた顔から力を抜く。


「迎えに行くんじゃろ?」

「ああ、ちょっと留守にするけど……」

「家のことはお任せください。嵐が相手だろうと、お守りしてみせます」

「何せ神がついているんじゃからな」


 小狐が胸を張り、座敷童子が「あまりアテになりませんな」と切って捨てる。

 惣次郎は頭を掻いた。嵐の中、あやかし達だけを家に残していくことは少しの心配があるが、このあやかし達が、自分たちの住処を守るためには余念がないことを惣次郎も知っている。


「頼んだ」


 その言葉に、座敷童子は当たり前のように頷き、小狐は得意げに笑う。玄関に向かうために居間を通ると、付喪神たちからも思い思いの言葉を受けた。いってらっしゃい。気を付けなされよ。


 玄関を開けると、強風に煽られた雨が吹き荒んでくる。惣次郎の前髪を吹き上がらせて、眼鏡を、ほおを、強かに雨粒は打った。玄関から車までの僅かな距離を、這う這うの体で駆け抜ける。と言っても、走っているのか、風に押されているのか、定かではなかった。

 車に乗り込む頃には、服はびっしょりと濡れていた。普通の雨では濡れないところも、前後左右から吹き付ける雨粒では隠しようがない。肌に張り付く濡れて重たい服と、車のシートが水分を吸っていく感覚が不快だ。だが、不快感を遥かに越して、身震いをする寒さを感じる。秋の台風は冷たい暴風雨だった。


 先ずは眼鏡を拭き、暖房を入れると、ワイパーを動かして発進する。フロントガラスを叩く雨の量は多く、従って視界が悪い。急ぎたいのに反して、安全運転で行くことを余儀なくされた。惣次郎はヤキモキとしながら、アクセルを踏み続ける。


 寺の前に着くと、何処かで到着を見ていたのか、待つこともなく由良が出てきた。強風を縫うようにして歩いてくる。いつも通りの袈裟姿だった。動きにくそうな服装よりも、由良が傘を差していることに惣次郎は唖然とした。風に煽られて、傘の骨が折れないことが不思議だ。


 由良は車に乗り込むと、「あー寒い寒い」と言いながら手を擦り合わせた。


「あんま、濡れてないですね」

「うん、そうだね。惣次郎くんは……すごいね。お風呂でも入ったみたい」


 濡れ鼠のようになっている惣次郎とは違い、由良はほとんど濡れてはいなかった。よっぽど傘の扱い方が上手いのか。訝しんでいると、由良が「早く」と発進を急かす。言われるがまま、惣次郎はそれ以上を突っ込まずに、車を動かした。


 学校に到着する頃には、辺りはすっかり宵の口に飲み込まれていた。月や星の姿は見えない。重苦しく分厚い雲に天は覆われていて、激しい雨風に空を見上げる気にもならなかった。

 小学校は三階建てだった。二階にある一角の窓にだけ、明かりが点いている。おそらく職員室だろう。

 校門の前に車を停めると、惣次郎は意を決して外に飛び出した。体を叩きつける雨風が痛いくらいで、思わず身を竦める。だが、懸命に足を動かした。その後ろを、傘を差した由良が着いてくる。


「あっち、あっち」

 振りむくと、由良が指を差していた。闇夜と雨に遮られて分かりにくいが、校舎への入り口を教えてくれているようだった。目に入る雨を腕で遮って、惣次郎は進む。


 生徒たちが使う昇降口とは別に、職員や来客用の玄関はあった。両開きのガラス戸を開けて、中に滑り込む。校庭を横切るだけの距離だったが、更に惣次郎は頭の天辺から足の先までびしょ濡れになった。髪から、指の先から、至る所から水が滴って、広い三和土に水溜りを作る。惣次郎の後に入ってきた由良が、傘を閉じた。そして、何処かに電話をかける。二、三言だけを話し、すぐに電話は切られた。


「今、タオル持ってきてくれるって」

 どうやら学校に電話をしたらしい。


 玄関は真っ暗だった。乗降口や校門の所にある、防犯の為の街灯だけが視界の頼りだ。その街灯の明かりも、雨と風とに邪魔をされて心許ない。ガラス戸を叩き付ける音、ごうごうと鳴る風の音だけの世界に、一瞬包まれた。

 パッと前触れもなく電気が点く。廊下の先からだった。足音も聞こえてくる。規則的な音が近付いてくると、玄関前の電気も瞬いた。やっと視界が明瞭になる。現れたのは真野だった。日和と千景が学校に居て、教師が保護してくれているとは由良に聞いていたが、どの教師であるのかは聞いていなかった。真野だと知ると、途端に恥ずかしくなってくる。びしょ濡れの格好は、ちょっと情けない。


「沖さん、びしょびしょじゃないですか!」

 惣次郎は苦笑しながら、真野が差し出してくれたタオルを受け取った。

「あれ……由良さんは、あんまり濡れてないですね」


 真野の手から由良にもタオルが渡される。訝しげな声を聞いて、学校に着いてから初めて惣次郎はちゃんと由良を見た。薄闇の下では気付かなかったが、やはり由良はあまり濡れていなかった。車に乗ってきた時と変わらない。それでも僅かには濡れたらしい長い髪の先をタオルで拭いながら、由良はニコリと笑った。


「千景たちは上に?」


 日和と千景は、二階の職員室に居た。職員室脇に設けられている来客用のスペース。二人掛けのソファーに、二人は腰を掛けていた。

 真野を先頭にして惣次郎と由良が入ってくると、日和がビクついたように立ち上がった。その顔は強張っている。


「日和!」


 日和の顔を見ると、ぶわりと感情が高ぶった。惣次郎の大声に、日和の小さな肩が跳ねる。真野が驚いたように振り返り、後ろに居た由良も思わずと言った様子で足を止める。


「心配したじゃないか! 学校に行くなら行くで、連絡くらいしてくれないと」


 ソファーに座っていた千景が立ち上がり、日和の前に出てくる。日和との間を遮られた形となって、大股で歩み寄っていた足を惣次郎は止めた。真っ直ぐな瞳で千景に見上げられると、惣次郎は続きを紡ごうとしていた言葉と息を飲み込んだ。


「俺が学校に行ってみようって誘ったんだ。日和が学校に行きたいけど怖いって言うから、実際に見てみて、知れば少しは変わるかと思って。今日は台風で休校だったし、他の人も居ないから」


 落ち着いた声だった。千景は抑揚もなく、訥々と説明をする。それが、日和を庇っているのだと気付くと、やっと惣次郎は頭に血が上っていることを自覚した。荒くなった息。弾んでいる肩。震えている拳。

 千景の後ろで、日和もまた別の意味で小刻みに震えている。俯いた頭だけが見えて、表情を知ることは出来なかった。

 小さく縮こまっている姿を認め、顔に集まっていた熱が引いていくのを感じた。

 ダメだ、何をやっているのだ。と、後悔が押し寄せる。


 学校への初登校日、あの日も、日和は何も言わずに居なくなった。今回は台風が到来していたことと、日が暮れたこともあり状況が違っていたが、その時よりも遥かな焦りと心配があった。あの時は、まだ日和と出会って日も浅かった。確かに所在が知れないことに心配があったが、日和自身の心配というよりも、子どもを預かる身としての自己保身の方が強かった気がする。だからなのか、まだ冷静でいられた。だけど、今回は。


「……ごめん。でも、本当に心配したんだ。台風も来てたし、もう暗いし、日和に何かがあったらって」


 努めて息を落ち着かせて吐いた声は、心無しか震えているような気がする。細々しいものだった。

 恐る恐ると日和が顔を上げる。情けなく下げられた眉の下で、大きな瞳が潤んでいた。泣く一歩手前の顔を見ると、惣次郎の中の罪悪感が更に膨れ上がる。日和に、こんな顔をさせてしまっているのは自分だ。


「どんな理由があろうと、女の子を勝手に連れ回しちゃダメでしょ」

 重々しい雰囲気を、由良の飄々とした声音が突き破った。由良の手が千景の頭を小突く。不服そうに千景が眉を寄せたところで、慌てたように真野も口を開いた。

「ま、まあまあ、コーヒーでもいかがですか? 濡れちゃって寒いでしょうし、まずは温まりましょう!」


 一度、惣次郎と目を合わせて、すぐに下を向いてしまった日和に、何と声を掛ければいいのかが分からない。惣次郎は長い溜め息を吐くと「すみません、手伝います」と真野の後を追った。


 応接スペースと、教師の机などが並ぶスペースは、衝立で区切られている。衝立を出たすぐの壁際に、コーヒーメーカーの置かれている棚はあった。来客用のカップ二脚と、真野の私物だろうマグカップに、作り置きされていたらしいコーヒーを注いでいく。


「……お気持ちは分かります。心配、だったんですよね」


 真野が気遣わしげな視線を横目で送ってくる。惣次郎は返答が出来なかった。日和に怒鳴ってしまったことが、自分で思っているよりも堪えているらしい。


「はあ……お恥ずかしいところをお見せしました」

「怒るのは仕方ないと思います。わざわざこんな台風の日にしなくてもって、私も思いましたから。でも、日和ちゃん、学校に来るために頑張ったんだと思います」


 学校に通えるようになる為に、誰も居ないのがチャンスだと思った、と千景は言っていた。日和も千景も、良かれと思って行ったことだったのだろう。本当に、何も台風の日ではなく、通常の休校日にすればいいのにと思わなくもない。だが、そこが子どもだ。幼さ故の浅慮。理由や日和の気持ちを知らず、怒鳴ってしまったのは惣次郎の浅はかさだった。体面を気にせずに声を荒げるほど、必死で、本気で、寒心にたえなかったとも言える。


 惣次郎が二つのカップを持ち、真野が一つのカップを持って応接スペースに戻ると、三人はソファーに腰を下ろして待っていた。由良、千景、日和で並んでいる。テーブルにカップを置き、惣次郎は辺りに目を配る。ソファーはもう一つあったが、濡れたままの装いで座るのは気が引けた。それを真野に告げると、脇に畳まれてあったパイプ椅子を用意される。


「ストーブの前に置いておきますね。今日は寒いですし、濡れたままで風邪を引いたら大変。あ、良かったらジャージをお貸ししましょうか?」

「え?」

「私のなので、小さいかもしれないんですが、びしょ濡れのままよりはいいですよね」


 惣次郎は唾を飲み込んだ。着用済の服ってこと? 嬉しいような、気恥ずかしいような、曖昧に笑みを浮かべて「帰るときにまた濡れるんで……」と、真野の申し出を辞退する。


「わ、私、学校に行く!」


 日和の声だった。今まで聞いてきた中で、一番の大きな声である。日和の発言に驚く間もないまま、惣次郎の腰の辺りに衝撃が走る。どんと、勢いをつけて日和が走ってきたのだ。何が起きたのか、直後には理解が出来なかった。


「日和……?」


 日和は、惣次郎の脇腹に顔を埋めて、体を震わせていた。泣いているのだろうか。しゃくり上げるように、時折びくりと肩が跳ねる。惣次郎は戸惑って、日和に触れるか触れまいかを悩んだ。

 学校に行くというのは、登校するという意味なのだろうか。


「急に怒鳴ったりしてごめんね。もう怒ってないし、日和が学校に行けないことで怒ってたわけじゃないよ。そんな無理しなくていい。無理させたいわけじゃないから」


 結局、惣次郎は日和には触れず、焦りながら早口にまくし立てた。ふるふると日和は頭を振る。


「ごめんなさい、ごめんなさい……だから捨てないで」

 告げられた涙声に、惣次郎は「え?」と素っ頓狂な声を返すことしかできなかった。

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