三 苦味の冴えたコーヒー

物音

 音が聞こえる。

 トン、トン、軽い音は、子どもの小さな足が立てるものに似ている。だけど、足音ではない。トン、トン、足音にしては音と音の間隔が開いており、ひどく緩慢だった。まるで、けんけんをしているような。まるで、ボールが跳ねるような。

 トン、トン——ドン!


「うっ!!」

 突如、腹にのしかかってきた衝撃の重さに、惣次郎は蛙が潰れたような声を出した。

「……うう……う……」

 掠れている。一息に吐き出した玉のような空気、そして続いた糸のような細い呼気が、声としての形をとれていたことすらが、奇跡のようだ。

 同時に見開いた瞼の向こう側から、刺すような明るさが入り込んでいる。ぼやけていた視界へと、徐々に焦点が合わさってくると、腹に感じた衝撃の正体を知れた。小狐だ。小狐が、仰向けに寝転んだ惣次郎の腹の上に、無遠慮に胡座をかいている。


「お、もい……」

「早う起きぬか。惣次郎、お主、最近たるんでおるぞ」


 見慣れてきた木目の天井。憮然とした小狐の顔の横から、ちょこんと日和が姿を表す。


「……お、おはよう、ございます」


 日和の声音は強張っていた。音を出して喋ることが、今だに慣れないのだろう。正確な期間は知らなかったが、日和が声を失っていた時間は長い。叔母の元に来た時には、既に日和が話すことはなかったと言う。惣次郎も、まだ慣れていなかった。俯き、緊張したように唇を真一文字に結んでいる日和の頭を、ぽんぽんと手の平で撫でる。


「おはよう……起きる、起きるから、どいてくれ」

 体の上から小狐を退かせると、惣次郎は起き上がった。


 見慣れた六畳間の和室。畳に不似合いである大きな机と、パソコン。時折、低い電子音が鳴った。スリープモードに落としたパソコンの、ハードディスクから鳴る音だ。

 昨夜は夜更けまで、否、夜も更けきった明け方まで、惣次郎はパソコンに噛り付いていた。この所、仕事をそっちのけにして、家の掃除や何やらと動き回っていたのである。締め切りと言うツケが、惣次郎を追いかけていた。


 布団の枕元に置いたスマートフォンを見てみると、時刻は朝の九時少し前だ。障子越しに知る外の様子は白じんでいる。曇天らしい。心無しか、肌に感じる空気も湿り気を帯びていた。久し振りに雨が降るのかも知れない。

 眼鏡を掛けると、畳の目がよく見えるようになった。


「……もう少し寝かせてくれてもいいのに」


 睡眠時間は正味四時間程度だ。欠伸を噛み殺しながらに言ちた惣次郎に、ムッと小狐が眉根を寄せる。


「たるんでおる!」

「べ、別に夜更かしして遊んでるわけじゃないんだからな。朝ごはんは座敷童子に任せてるし、問題ないだろ」

「わしへの供物はどうした!?」


 供物、庭の片隅にある外宮に捧げる水と米のことだ。小狐の存在を認識した時から、惣次郎が毎朝、新鮮な水と米に交換している。仕事の予定が詰まり、早起きをするのが難しくなってからも、朝一番とはいかなくても昼前にはきちんと交換していた。


「きちんと朝に行うべきだ!」

「わ、わたしが、やる!」

「日和だけじゃダメなんじゃ!」


 おろおろと割って入ってきた日和が、見るように傷付いた顔をする。がーんと効果音が聞こえてきそうだった。口をへの字に曲げて、真っ青に血の気をなくした日和が、わなわなと小狐を見た。困るのは当然、小狐だ。はっと口を噤むと、語尾を濁して目を白黒とさせる。


「や、違うぞ? 日和がダメなんじゃなくて、日和と惣次郎にやってもらわんと……信仰されるのは多い方がいいと言うか、だな、うん。そうだな、……惣次郎が朝起きんのが悪いんじゃ!」


 最近、分かったことだが、大概小狐は日和に甘い。見た目では小狐の方が幼く、日和の方が年長に見えるものだったが、実際のところは小狐が日和の世話を焼いている。お稲荷の神様といっても、女、しかも子どもには弱いらしい。


「全て惣次郎が悪い!」

「あ~、もう分かったよ」

 真白な耳をピンと立てて怒る小狐に根負けをして、惣次郎は渋々と立ち上がる。

「着替えたらすぐするから、待ってて」


 日和と小狐を部屋から追い出すと、寝巻きにしているTシャツとジャージを脱いだ。秋も深まり、袖無しではとうに寒いと言うのに、まだ惣次郎の装いは半袖である。薄手の羽織り一枚で誤魔化せていたが、早いところ衣替えもしないといけない。

 普段着に着替えて部屋を出る間際、耳についていた音の存在を思い出した。トン、トン、あの音は聞こえない。夢の中の出来事だったのだろうか。不思議に思いながら、惣次郎は襖を閉めた。


 やはり空は曇っていた。一面がのっぺりとしたミルク色に包まれている。雨の気配は今のところなかったが、吹く風はどことなく湿度を孕んでいる。

 外宮に供える水や米を入れる器は、きちんとした水器や高月などではない。何処にでもある透明なガラスのコップと、醤油皿であった。榊を飾りもしないし、小狐は道具に対してはこだわりがないようだった。

 新しい水と米に変え、日和と並んで二拝二拍手一拝。惣次郎が頭を上げると、満足気に小狐が頷いた。


「よいよい。最近、力が戻ってきているのを感じるわい」


 小さな紅葉のような手を開いたり握ったりをして、小狐は感慨が深く言う。


「力が戻ると、何か変わるのか?」


 ふと気になって問いかけた惣次郎に、小狐は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「え……?」

 言葉を失っている小狐の様子に、同じく惣次郎と日和も「え……?」と疑問符を返す。

 小狐は、さも、そんな問いかけは想定していなかったと言わんばかりだ。何が、そこまでに予想外であったのか。暫しの沈黙が下りると、小狐は戸惑って首を傾げた。


「んん……まあ、あれだ、わしの神としての矜持が取り戻せる」

 今の小狐には、人を祟る力も無い。

 座敷童子や由良が言っていた言葉が、惣次郎の胸の中に蘇る。いやいやと首を振った。そんなわけがない。この小狐が自分や日和を祟るなんて、惣次郎には想像もできなかった。


「えらい神様になるの?」

 日和の中にある神様のイメージとも、小狐はかけ離れているのだろう。そのイメージが、後光差す仏様や、十字架にかけられたキリスト像である可能性が高かったが、日和は想像がつかないと気遣わしげに小狐を窺った。


「今でもわしは立派な神様じゃ!」

 顔を赤く染めて、小狐が吠える。

 いつもの小狐だ。


「ああ、冷えてきたな」


 秋風が頸をくすぐって、鳥肌を立たせた。薄いパーカー越しに二の腕を摩ると、小狐が鼻先をぴくぴくと動かす。


「匂いも秋真っ盛りじゃ」

「匂いは分からないなあ。日和、なんか匂いする?」

 惣次郎と日和も、小狐にならって庭の空気に鼻をきかせる。

「……金木犀?」


 つと、日和の視線が庭木を捉えた。目線の先には、こじんまりとした低木がある。黄色い小花を咲かせた金木犀だ。金木犀を見、日和へと目を戻す。こうやって言葉のやり取りをすると、惣次郎は改めて実感した。ああ、本当に喋られるようになったんだな——何かを問いかければ、自然な答えが返ってくる。他愛もない会話を肉声を持って交わせるというのは、贅沢で、幸福なことだ。


「あれももう終いじゃな」


 金木犀の根元に、散った花が溜まっていた。橙の白粉のようだった。



『……沖で発生した台風は、勢力を拡大して日本列島に接近中。明日未明にも沖縄に上陸し、関東から東北まで、本州を縦断する進路で進んでいます』

 磯海苔と豆腐の味噌汁に舌鼓を打ちながら、惣次郎はテレビから流れる天気予報を聞いた。

「台風かあ」

 間延びした声に、座敷童子が頷いた。

「支度をせねばなりませんな」

「支度?」

「台風の支度ですよ」


 遅い朝食であった。食卓に並ぶのは、白米と味噌汁、目玉焼きとソーセージだ。日和が手を伸ばそうとした気配を悟って、いち早く座敷童子が醤油差しを手に取る。この二人の関係も、緩やかにだったが縮まっていた。醤油差しを手渡された日和が、ぎこちないながらも笑みを作って会釈する。座敷童子も柔らかく応えた。

 惣次郎の起床を待って、朝ごはんも我慢していたらしい日和と小狐は、空腹を埋め合わせるようにせっせと箸を動かしている。座敷童子曰く、あやかし者は腹を空かさないらしいが。


「台風の支度かあ……?」


 当たり前のことのように言った座敷童子に、惣次郎はピンと来なかった。

 元々、父と母と住んでいたのはマンションだ。一人暮らしになってからも、マンションやアパートなどの集合住宅を転々としている。戸建ての勝手が、まだよく分からないのだ。


「……そういえば、今日は来客があると言ってなかったか?」


 目玉焼きの白身を先に食べ終え、黄身をまるまるぺろりとほお張った小狐が、ご飯粒を顎に付けながら言った。ずず、とまた一口味噌汁を嚥下してから、ああと惣次郎は顔を上げる。


「家庭訪問だ」

 日和の顔が強張った。箸先から半分に噛み切られたソーセージが落ちる。ぽとりと柔らかい白米の上に転がった。


「では、私たちは奥に引っ込んでおきましょう」

「何故じゃ? 普通の人間には、わしらのことは見えぬ。……あの坊さんと小童が特殊だっただけじゃ」


 由良と千景のことを思い出したのだろう。苦虫を噛み潰して、小狐が渋い顔をする。座敷童子の叶わぬ恋路は続いている。由良を思い浮かべてか、ほんのり口の端を緩めかけたが、すぐに引き結ぶと、呆れたように溜め息を吐いた。


「我らが居ると、惣次郎様や日和様の気が逸れるでしょう」

 座敷童子に言われて、想像する。

 家庭訪問。日和と、日和の担任の先生と面談中に、獣耳と尻尾を生やした小狐と、和装の初老女性がうろうろしていたら。それも、なんだかんだと二人で喚かれでもしたら、面談どころではない。気が散って仕方がなかった。

「影から見守ることにしましょう」


 焙じ茶を啜った座敷童子に、有難いと言わんばかりに惣次郎は頭を下げた。


 古賀さんにもらったおはぎをお茶請けに準備をして、台所から居間に戻ると、緊張した面持ちで日和が正座をしていた。


 初登校に挫折してしまってから、一度も学校に行っていない日和は、自身の担任と会ったことがないのだ。惣次郎は、あれから何度か学校に出向いたり、電話で話したりしているため、面識がある。だが、日和は、声が出なかったこともあって、電話ですらも話したことがなかった。正に初対面だ。


「大丈夫か?」

 学校に呼び出された時、教室に行かないからと誘ってみたのだが、日和は職員室にすらも行きたくがないと首を振った。学校に纏わる全てのものに、苦手意識を持っているようだった。


「……大丈夫」


 しかしながら、このままではいけないとの自覚が日和にもあるらしい。声を出して話せるようになったという大きな一歩が、更に背中を押しているのだろう。それに、餃子パーティーの時に発覚した事実もある。それまで学校に関することは詳しく話していなかったようだが、どうやら日和と千景は同じクラスらしいのだ。千景という存在が居る。同じく人ならざるものが見える仲間が、同じクラスに居てくれるということは、日和の心を丈夫にしているようだった。


 初恋かなあ。千景に対する日和の表情を見ていると、惣次郎は甘酸っぱい心地になった。羨ましい思いもある。惣次郎は長いこと色恋沙汰とは無縁である。の、だが。日和には悪いが、この家庭訪問を少しばかり楽しみにも感じていた。


 午後二時。約束の時間ピッタリに、玄関のブザーが鳴った。日和を居間に置いて、惣次郎は玄関先に急ぐ。磨りガラス越しに、華奢な体の線が見えた。特に確認もしないまま引き戸を開けると、約一週間と二日ぶりに見る姿があった。


真野まのです。ご無沙汰しています」


 心地良い声だ。女性特有の嫋やかさがある。真野と名乗った先生は、惣次郎が持っていた既存の教師像を打ち砕いた。

 二十代の前半だろう真野は若々しく、教育実習も明けてすぐのもぎたてフルーツのような瑞々しさがある。緩くウェーブのかかった艶やかな黒髪は指触りが良さそうで、赤味の差すほおは人懐っこい印象を受けた。ブラウンとピンクを主にした、ナチュラルなメイクにも好印象を覚える。スカートから伸びる足は、健康的な肉付きで好みであった。

 小中高大。どの学生時代を思い返してみても、真野のような魅力的な教師を惣次郎は見たことがなかった。やはり日和には悪かったが、自分がこの先生に惹かれていることは間違えようもなく事実だと、惣次郎は顔に熱を感じながらに思った。


「……どうも」

 上手く愛想笑いが出来てるのだろうか。些か不安に思いながら、惣次郎は真野を居間に案内する。

 日和が石と化しながら待っていた。


「日和ちゃん!」


 真野にとっても、日和は初対面だ。

 初めて受け持つクラスなんです、そう、惣次郎は真野と初めて会った時に聞いていた。

 小学校の先生になり、初めて担当することになったクラスに不登校児が居るのは、どのような心境なのだろうか。日和が不登校になった心情を知っている分、滅多なことは言えなかったが、真野のことも気の毒に思える。日和の為にも、真野の為にも、早く日和が学校に通える日が来ればいいと、惣次郎は思っていた。


「……ぁ、えっと」


 日和が話せなかったこと。つい最近、声が出るようになったこと。それについては、惣次郎から真野に伝えてある。日和が話せるようになったこともあって、いい機会でもあるしと実現した家庭訪問であった。


 真野は感激したように歩み寄り、日和の両手を取った。胸の前で握り締めて「よく頑張ったね!」と、熱のこもった声を絞り出す。

 惣次郎は呆気に取られた。手を取られ、詰め寄られているようにも見える日和もだ。


 日和が話せなかったことについて、心の傷が原因であると説明をしていた。

 実際はそうでなかったとはいえ、まさか妖怪のせいである可能性について話すことは出来ないし、喋られないと聞いて一番に原因として思いつくのが、心因性であろう。真野も言わずもながであり、何か日和には悲しいトラウマがあると思っている。そして、話せるようになり、そのトラウマを克服したのだと思っているのだろう。だからこその「よく頑張ったね」なのだ。

 日和が頑張ったのは事実だろう。長らく出していなかった声を発するのは、それなりの勇気が必要だったはずだ。


 戸惑っている日和の手を離してもらうと、二人を残して、惣次郎は台所に立った。

 真野の第一声の大きさに、更に縮こまってしまった日和だ。あまり二人きりにさせておくのも悪いと、大急ぎで急須にお湯を注ぐ。湯を沸かしておいて良かったと、心底思った。


 湯気のたつお茶と、お茶請けのモナカを卓袱台に並べると、惣次郎も席に着いた。

 惣次郎と日和が隣同士に座り、真野が正面に居る形となる。どんな話をしていたのかは分からなかったが、日和は俯き、自らの膝小僧を睨みつけているようで、表情が知れることはなかった。


「そろそろ学校に来ないと、勉強にも着いていけなくなっちゃうと思います。まずは午前中だけ、それも難しかったら一時間だけでもいいから、頑張って学校に来てみないかな?」


 真野が言うことは尤もであるとは思う。

 小学二年生で学ぶことは、これからの勉学の基礎だ。基礎をきちんと作り上げていないと、三年生、四年生と、将来の日和が困ってしまうことになる。小学生くらいでは追いつくことも比較的に容易いだろうが、通常ならば要らない苦労をすることに間違いはないのである。

 横目で日和の様子を窺うも反応はなかった。


「教室がどうしても嫌だったら、保健室からでもいいのよ」


 真野が形良く描かれた眉を下げて、食い下がった。それでも、日和はうんともすんとも言わない。惣次郎も、これはどうしたことかと参った。

 真野の後ろ、掃き出し窓の向こうに、小狐と座敷童子の姿が見える。興味津々といった体で、居間を覗き込んでいた。小狐と目が合い、座敷童子と目が合って、惣次郎はギョッとする。なんぼ真野には見えないだろうと思っていても、居心地の悪さには変わりはないものだ。お茶請けのおはぎは、小狐の分は別個に渡したのに、もう食べ終えたのだろうか。熱い茶で気を紛らわせて、小狐たちにも聞こえるように大きめの咳払いを落とす。

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