二 賑やかな餃子
声の行方
「うむ。今年も良き香りじゃ」
気持ちが良さそうに目を細めて、小狐は金木犀の木を見上げる。その横で、惣次郎と日和は草むしりに精を出していた。
自称、稲荷神の小狐と惣次郎が邂逅して数日。日が照っている時間帯は、毎日庭の清掃に励んでいる。雑草が生い茂り見る影もなかった庭は、大方のところが片付き、荒れ放題の様相を変えていた。
長らく屈む態勢で凝ってしまった腰を解しながら、惣次郎は立ち上がる。こうして見渡してみると、庭には様々な木々が植えられていた。
うっとりと小狐が眺める金木犀。その可憐な黄色い小花は秋を代表する庭木で、この甘い香りを嗅ぐと、惣次郎も肌寒い季節への移ろいと哀愁を感じる。
同じく秋に実る柿の木は、まだ食べ頃には遠いが、立派に育った果実を重たそうに垂らしていた。もう少し冬に近付けば、南天もその体に小さな赤い実をつけるだろう。
冬が明け、春に芽吹くのは梅の木と白木蓮だ。更に初夏になれば、
木々の足元にも野花が咲いていた。小菊、
とは言っても、惣次郎が名を知っていたものは、金木犀と柿の木程度である。草木に疎い人間であっても知っている、花をつける木として有名な梅も、落葉した裸体の姿では判別が付かない。
全てを教えてくれたのは小狐であった。庭の清掃の最中、知識を自慢するように、逐一と小狐が教えてくれるのだ。惣次郎と日和は、実直に感心の意を込めて大人しく聞いていた。
流石は野山を駆け回る狐だ——否、小狐は稲荷神だから、野山は駆け回らない? 不思議に惣次郎が首を傾げたところで、日和の腹が可愛らしい音を聞かせた。
胃が収縮をする音。空腹を表す音。
空を見上げてみると、高い秋空の天辺に太陽はあった。
真っ赤になった顔でお腹を押さえる日和に微笑みながら、惣次郎は「お昼にしよう」と提案した。
「稲荷寿司か!」
日和と小狐は、目を輝かせて食卓に並んだ品を見た。
朝食の残りの白米を酢と白胡麻で混ぜ、朝の内から甘じょっぱく煮込み、漬け込んでおいた油揚げに包んだ、稲荷寿司である。濃い目の味付けに合うように、汁物は出汁のきいた吸い物にした。
『おいしそう!』
日和がらくがき帳に書き込む。卓袱台につきながら、惣次郎は複雑な思いでそれを読んだ。
日和に纏わりついていた陽炎の正体は小狐であると分かり、小狐自身も、日和に対し障りや祟りはおこしていないと明言している。いやさて、その小狐の言葉を、まるっと信じてしまってもいいのかは定かではないが、日和が声を発することは今だにない。
学校にも通ってはいなかった。
小狐のせいではないとするならば、一体何が原因なのだろう。目下、惣次郎の悩みの種だった。
解決の糸口と言えば——稲荷寿司に舌鼓を打ちながら、頭に浮かんだのは〝由良〟と名乗った胡散臭い坊さんだ。
由良から貰った名刺は、机の引き出しにしまってある。
昼食後、名刺に記載されている住所を確認して調べてみると、寺は山の麓に在るらしい。山と言っても大それたものではない。住宅街として切り拓かれている小山だった。
歩いて行けない距離ではなかったので、惣次郎は日和を伴って、午後は寺に邪魔してみることにした。
小狐は着いてこなかった。
「小狐はなんで来なかったんだろう?」
当初、出掛ける旨を伝えた時、小狐は尻尾を振って喜んだ。日和に着いて公園に行っていたこともあり、てっきり一緒に行くものとばかり惣次郎は思っていたのだが、行き先が寺であると分かると、途端に小狐の尻尾は萎れた。
『じんじゃとか、おてらとか、きらいみたい』
日和がらくがき帳を見せてくる。他の神様や仏様のところには、行き辛いということなのだろうか。
寺は予想していたよりも、ずっと立派な造りをしていた。
石畳みで整備された駐車場の向こうに、見事な山門がある。山門の手前には、寺の名前が大書された石柱が建っていた。
山門をくぐって境内に入ると、左右に鐘楼と小ぶりな三重塔があり、参道の中腹に常香炉が置いてある。その先が本堂だ。
庭木は専門の庭師が手入れをしているのだろう。惣次郎の家とは比べものにならない堂々とした面構えで、根を下ろしていた。その中の一つ。真っ赤に染まった紅葉の木の下で、探すまでもなく目的の人物を見付ける。由良は袈裟姿で、敷き石に散らばる落ち葉を竹箒で集めていた。
「丁度いいところに来たね」
ゆったりとした笑みをたたえて、由良は言った。「う」と惣次郎は息を飲んだ。冴えない青春時代を送ってきた惣次郎は、単に色男が苦手だった。さぞ若い頃は浮名を流したのだろうーー仮にも僧侶に向かってそんな印象を抱くのはどうかと思うがーー艶のある長い髪と、細められた目元にある泣き黒子が、同じ男とは思えない色気を醸し出している。
「……丁度いい?」
挨拶やら何やらをすっ飛ばして、引っかかった発言を惣次郎は繰り返した。
「ちょっと手伝ってよ。お礼はするからさ」
そう由良は言うと、有無を言わさずに惣次郎に竹箒を渡す。すかさず日和には、塵取りが手渡された。
まさか、寺に来てまで庭掃除をさせられるとは。
文句を言う間もなく飛んでくる指示に従い、落ち葉を箒で掃いたり手で拾ったりして境内が整った頃には、惣次郎は疲れ果てていた。午前中から、庭仕事を続けていることになる。
同じく疲労困憊の日和と並んで、惣次郎は縁側に腰を掛けていた。
この縁側は本堂のものではない。寺の敷地内に在る由良の自宅であった。寺の雰囲気を崩さない、由緒正しき日本家屋。縁側の先では、錆たドラム缶が煙を吐いていた。これが、由良の言う〝お礼〟らしい。
家の中に引っ込んでいた由良が、盆に茶を乗せて運んで来る。縁側に盆を置くと庭に下りて、ドラム缶の中からアルミホイルに包まれた物を掬い出した。焼き芋だ。惣次郎と日和が集めた落ち葉を使って、焼いた芋である。
あつあつの芋は、そりゃあ、まあ美味い。
「日和ちゃんかあ、とっても可愛い名前だね」
糖度の高いサツマイモに、渋い緑茶がよく合った。ふうふうと息を吹きかける惣次郎の横で、日和と由良が話している。
「何年生?」
『にねんせい』
「うちの息子と同じだ」
由良の言葉に、芋が喉に詰まる。茶で流し込むと、惣次郎は意外そうな、よく考えると意外でもないような、複雑な目を送った。
「お、お子さんいらしたんですね……」
「うん。あれ? 何か可笑しい?」
惣次郎は三十三になる。詳細に聞いていないが、由良も同年代だろう。小学二年生になる子供が居ても、なんら可笑しいことはなかった。つまりは、惣次郎にも居て可笑しくないのだ。同じ年頃だと言うのに、こうも順当に人生を歩んできたのだろう人との違いを前にすると、神妙な心地になる。
「日和ちゃんと同じ小学校じゃあないかな。もうそろそろ帰ってくると思うんだけど」
由良はタイミングを見計らったようだった。言い終わるのと同時くらいに、寺と自宅の庭を仕切っている門が開く。玄関は縁側からも窺うことが出来た。あれが由良の息子だろう。
目線の先にある人影は、ランドセルを背負った小学二年生だと言うのに、既に完成されている。由良の面影を色濃く残す、美少年であった。だが、由良と違って人見知りなのか、寡黙なようで小さく会釈をされただけだった。
「
千景と呼ばれた少年が、惣次郎と由良の間に居た日和に視線を向ける。日和はと言うと、顔を強張らせて俯いていた。膝の上に置いたらくがき帳を、ぎゅっと握り締めている。
「あ……日和はちょっと人見知りで……」
「大丈夫、千景は日和ちゃんを怖がったりはしないよ」
惣次郎の言葉を遮って、由良が日和に微笑みかける。惣次郎には「日和を怖がる」といった由良の言葉の意味が分からなかったが、日和の緊張が見るように緩んだのが知れた。そして、歩み寄ってきた千景に手を取られると、おずおずと日和は引っ張られていった。
「同じ歳同士なんだ、仲良くなったら学校にも行けるようになるかも」
由良が気障に笑いながら、惣次郎の肩をつつく。う……と惣次郎は思うも、確かに学校に行っていない日和には、同年代の子どもとの付き合いは貴重で、大切だ。由良が言う通り『がっこうがこわい』と言った不登校の問題にも、解決の兆しが見えるかも知れない。
「さて、それで何の用だったのかな?」
日和と千景の後ろ姿を見送り、茶を一口、楽しんだ後に、由良は待ってましたと言わんばかりに口火を切った。
ようやっと、ここに来た本来の目的を思い出すと、惣次郎は迷いながら言葉を紡いだ。
日和に稲荷神が憑いていたこと。
日和の声が戻らないこと。
そういった現実感のない話をすることに、惣次郎には少しの抵抗があった。見えざるものが見えているようなことを由良は言っていたが、本当に見えているのかは確認のしようがない。
信じてもらえるのだろうかーー頭がおかしい奴だと思われたらどうしようかーーと惣次郎は心配していたが、由良の表情を見るに杞憂であったようだ。由良は驚くでもなく、疑うでもなく、ごく自然に話を聞いている。
「お稲荷様ねえ……」
話を終えた頃には、焼き芋は丁度いい温度に下がっていた。
「祠にご神札はあった?」
「いや、狐の置き物があっただけでした」
「お稲荷様って、別に狐じゃあないんだよね」
「え? でも、お稲荷様って言ったら狐じゃあ……どこの稲荷神社にも、狐の像が置いてありますよね」
「狐は、お稲荷様の神使。つまり神の使いで、神様自身ではないんだよ」
焼き芋に齧り付こうとした口を閉じる。惣次郎は戸惑った。小狐が稲荷神ではないとすると、何なのだろうか。神であると、嘘を吐かれていたということなのか。だが、小狐が嘘を吐いているようには見えなかった。
「稲荷の総本宮は京都の伏見稲荷神社ってところなんだけど、ご神札がなかったのなら、少なくともきちんと勧請されてきたお稲荷様じゃないんだと思うよ」
京都にある伏見稲荷神社は有名だ。惣次郎も参拝したことはなかったが、噂には聞いたことがある。ネット上で、参道の写真も見たことがあった。幾重にも連なる赤い鳥居に、強烈な印象を受けたのを覚えている。
「……じゃ、じゃあ、あの小狐はお稲荷様じゃないんですか?」
「いや、広義ではお稲荷様じゃないかな?」
さらりと言った由良に、惣次郎は頭を捻る。
話が分からなくなってきた。
「稲荷神って、土着信仰が強くてね。本来、本宮からご神札をもらって祀るものなんだけど、勝手に祀っちゃってる場合も多いんだよ。元々は農耕の神様だけど、商売繁盛や無病息災、何でも屋さんになっちゃって庶民に人気があったし、祀りやすかったんだと思う。民間信仰って言うのかな」
一旦、湯呑みに口を付けると、由良は続けた。
「神様って言うのは、結構簡単にできちゃうもので、信仰をする人が多ければ多いほど、信仰する時間が長ければ長いほど、力を持ってしまう。最初は空っぽの祠でも、信仰される内に力を持って神様になることはよくあるんだよ。だから、その小狐ちゃんもお稲荷様って言えば、お稲荷様だね」
少し困惑が残る頭で、惣次郎は歯切れ悪く相槌を打つ。
「小狐ちゃんに、何かお供えした」
惣次郎は、祠に米と酒を供えていることと、お供えとは別に、食事を共にしていることを話した。先程の昼食で、稲荷の好物であるイメージから稲荷寿司を出したことも伝える。すると、由良が「どんな稲荷寿司?」と聞く。惣次郎が戸惑っていると「形は?」と続け様の問いが飛んだ。
「俵の、四角いやつですけど」
「四角い稲荷寿司を好んでたなら、やっぱりこっちで出来たお稲荷様だね。西は三角の稲荷寿司だから、西から来た稲荷神じゃない。西には稲荷神社って少ないんだ、関東にはたくさんあるんだけど」
「えーと」
「伏見稲荷から分けられたお稲荷様も居れば、それとは無関係に出来たお稲荷様も居るってこと。関東の民家にある稲荷なんて、ほとんどそうだよ。もちろん君のところも後者だね」
と言うことは、あの小狐が稲荷神であることに間違いはないのだろう。ただ、稲荷神になった由縁が、土着信仰だったというだけだ。
ニコニコと由良は笑った。分かったような、分からないような、惣次郎は曖昧に頷く。
「神使のはずの狐が、それで神様になってるんじゃない? 狐の置き物があったのなら、それが依り代となっているのかもね」
すっかり焼き芋は冷えてしまっていた。焼き芋を膝に置いて、惣次郎も湯呑みを手に取る。
「詳しいんですね……お坊さんなのに」
「いやだなあ、元は神仏一体。明治に神仏分離されるまで、神様にもお経を上げてたんだよ」
誰もが知っている常識のように由良は言ったが、生憎のところ惣次郎には分からないことであった。いや、神仏分離は歴史の授業で習ったのかも知れないが、全くもって記憶にない。口を濁している惣次郎を余所に、由良が話を戻す。
「狐は昔から霊力の強い動物だって見られていたしね。勧請された稲荷でなけりゃ帰すところもないし、あんまり粗末にしない方がいいとは思うよ。信仰されなくなって、祟り神になるのはよく聞く話だ」
惣次郎は弾かれたように目を丸くした。
「え!? じゃあ、やっぱりあの狐が日和を?」
緩慢に由良が首を振る。
「それは違うよ。悪いように憑かれてるとは見えなかったし。もう喋ってもいいと思うんだけど、喋り方を忘れちゃったのかな?」
由良が言わんとしていることが、惣次郎には分からない。
「日和ちゃんは、喋っても自分の声が届かないと思ってるんだよ」
家に帰ると、慌ただしく小狐が出迎えてくれた。
夕刻に差し掛かっている。庭園の掃除を手伝い、茶を馳走になったりと、なんだかんだで由良の所に長居をしてしまった。昼食から時間を置き、丁度小腹が空く頃だろう——そう言って由良がくれた手土産は、大当たりであったらしい。玄関先で出迎えてくれた小狐は、その小さく愛らしい鼻をくんくんと利かせる。
「美味なる香りじゃ」
「焼き芋だよ。お土産」
白いビニール袋を手渡すと、小狐は尻尾を左右に揺らした。顔は、献上されるのが当然であるように澄ましているが、喜びの感情は筒抜けである。そんな小狐の様子を、日和は可笑しそうに口の端を緩めながら見ていた。
二人で連れ立って居間に行く後ろ姿を眺めながら、日和の柔らかい表情も相まって、由良が言ったことは間違いではないだろうと惣次郎は改めて思った。
小狐は、日和に害を与えてはいない。
焼き芋で小腹を慰めてもらってる内にと、惣次郎は台所に立った。そこで、気付く。台所がある土間には、流し台の横に勝手口がある。取ってつけたような茶色の扉の前に、籠に入った野菜があった。
「古賀さん、来たのか?」
居間でテレビを見ながら焼き芋をほお張っている小狐が、ちょこんと顔を出す。
「ああ、あのしわくちゃお婆か。供え物かと思ったが、生じゃあ食えん」
心底、残念そうに小狐は言った。
日和を共に探してくれたのが縁で、裏手に住む古賀のお婆さんは、自家栽培で採れた野菜をお裾分けしてくれていた。いつもは勝手口の外に置いてあるものだったが、小狐が籠を中に入れたのだろう。
土付きのカボチャとモロヘイヤは、確かに生で食すのは辛い。
何故、玄関ではなく勝手口なのかと言うと、裏に住む古賀のお婆さんの家からは、勝手口の方が近いからである。家の敷地を囲む生け垣があったが、それも勝手口近くの門扉は鍵が掛かっていない。不用心だとも思うが、そもそも田舎では鍵があろうと掛けない家が多かった。流石に、惣次郎は玄関や勝手口の鍵は閉めたが、門扉については風習に習っている。何より、そうやって頂けるとお裾分けは有り難かった。
居間に引っ込んだ小狐を見送ってから、よし、今日はカボチャにしようと惣次郎は腕捲りをした。
カボチャの下処理を終え、醤油とみりん、酒で煮込んでいると、ブーと玄関から呼び鈴が鳴った。
既に外は日が暮れ、薄闇に包まれている。居間から日和と小狐が顔を出した。夜の来客が珍しかったのだろう。
雪平鍋にかけていた火を止めると、惣次郎は玄関に向かった。
玄関の明かりをつけると、透かしガラスの引き戸に人影が映る。惣次郎よりも頭が一つ分だけ低い。女性のような線だった。
「どちら様ですか」
インターフォンなんて物はこの家にはない。直接、引き戸を開けると、飛び込んできた相貌に、思わず惣次郎は後退さった。足に引っ掛けたサンダルが脱げそうになる。
目の前に居たのは、初老の女性だった。
凛と背を伸ばして、小豆色の着物を身に纏っている。顔は目が細く、唇も薄く、全体的に体と同様に線が細かったが、輪郭だけはぽってりと丸みを帯びていた。高い位置で乱れなく一つに纏められた髪が、大きな饅頭を乗せているようだ。
惣次郎を認めて、ぴくりと老婆の眉が動かされる。
「家人が戻ってきたと噂で聞き、
声も凛として、筋が通っているものだった。
「え……え? どちら様……?」
真正面からの一直線な声と、射抜くような視線。ずずいと顔を近付けてくる老婆に、惣次郎は一歩も二歩も身を引く。気が付けば、老婆は玄関の敷居を跨ぎ、三和土に足を踏み入れている。
「座敷童子じゃあないか。久しいな」
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