失踪
日和が引っ越してきて三日目。
元より荷物が少なかった日和が、整理して片付けるものなどはなかった。その為、荷解きが済んだ後は家の掃除を手伝ってもらっていたのだが、三日目の今朝は、これまでと様相は違う。
日和が新しい小学校に転入する、記念すべき初日であった。
刻み葱の入った納豆と、なめこの味噌汁。焼き海苔と白米という朝食を終え、惣次郎は玄関まで日和を見送る。
この三日間、殆どの時を日和と共にすごしていたが、残念なことに距離が縮まったようには思えなかった。
靴を履いている後ろ姿をぼんやりと眺める。あの時、葬式で見た時はピカピカのランドセルであったが、今は傷が目立ち潰れている。見かけによらずやんちゃをしているのだろうか。
萎びれたランドセルを見ていた惣次郎に、靴を履き終えた日和が振り返った。常時、手に持っているらくがき帳に『いってきます』との文字が綴られる。それを認めてから、惣次郎は柔らかく手を振って「いってらっしゃい」と続けた。
家は広い。惣次郎と日和が自室として使っている二部屋と居間を差し引いても、空き部屋となっている部屋は多数ある。
平屋造りの家には全部で六部屋があり、大半は空き部屋と物置だ。惣次郎たちが引っ越してくる前に残っていた家財道具は、物置部屋に突っ込んである。大方の空き部屋は、この数日の内に大体の掃除が済んでいたのでーーと言っても掃除機をかけたくらいだがーー玄関先の雑草抜きに惣次郎は精を出した。
昼前のことだった。ゴミ袋が引っこ抜いた草でいっぱいになってきた頃、屈みこんでいる惣次郎に声がかかった。
「沖さんかえ?」
嗄れた声に振り返ってみると、腰の曲がった老婆がこちらを見ていた。
惣次郎はギョッとする。前が見えているのか些か不安なほどの腰の角度はさながら、真っ白に染まった髪を無造作に後ろへと束ねている姿が、この世の者だと一瞬見えなかったからだ。その大きな要因の一つが、老婆が着ている喪服だった。
着物ーー苦しそうーー呆気にとられるも、生きている人間であると気付くと、惣次郎は慌てて立ち上がった。
行かなくては、行かなくてはと思いながらも掃除に気を取られて、ご近所への挨拶がまだ済んでいなかったのである。
都会ならば今時はおざなりになっている挨拶回りだが、田舎では大事なことだ。
「ご挨拶が遅れてすみません」
惣次郎は最近ここに引っ越してきたこと、祖母の家だったこと、小学二年生の女の子が居ることを話した。
裏手の一軒家に住んでいるらしい老婆は、祖母と知り合いであったらしい。祖母の名を出すと、懐かしそうに目を細める。初見、インパクトのある見た目に尻込みをしてしまったが、話してみると穏やかで気さくな印象も受けた。老婆は
「娘さんが居るのか。男一人で大変だねえ」
「あ、血は繋がっていないんですが……」
言ってから余計なことだっただろうかと、惣次郎は思った。
「日和の両親が亡くなりまして、引き取ったんですよ」
変な勘繰りをされても困ると、簡潔に説明する。
古賀のお婆さんが「へえ、そらまた可哀想に」と相槌を打ったところで、惣次郎のズボンのポケットが震えた。
尻ポケットに突っ込んでいたスマートフォンである。断りを入れて画面を覗き込むと、知らない市外局番からの電話であった。
訝しみながら出る。日和が通う小学校からだった。電話帳に登録しようと思って、慌ただしい内に忘れてしまっていた。日和の担任となった女教師が、電話が繋がるやすぐに心配げに尋ねたことで、惣次郎は仰天した。
「学校に来てない!?」
思わずの惣次郎の大声は、皺くちゃで閉じているかのようだった古賀のお婆さんが、目を丸くして見開いたほどだ。
電話の向こうの教師は、日和が学校に来ていないことと、何度か電話をしたことを慌てながらに話した。草むしりに夢中になっていて気付かなかったのだ——それよりも、日和は何処へ? 朝、見送った赤いランドセルの後ろ姿を思い出す。勿論、在宅はしていなかった。
戸惑いながら電話を切ると、古賀のお婆さんも心配そうにしながら「私も探す」と言ってくれた。
引っ越してきて日が浅く、土地勘に疎い惣次郎には願ったり叶ったりだ。同じく、土地勘がないだろう日和は、何処に居るのだろうか。事故や事件、良からぬ可能性も思い当たって、たちまち深憂になる。惣次郎は駆け足で、古賀のお婆さんはゆっくりと、別々の方向に歩き出した。
県庁所在地の隣の市にあるこの町は、山間の盆地に裾を広げるようにしてあった。
田んぼや畑が多く、少し行けば山登りや林の散策ができる自然豊かな土地である。
本数は少なかったが駅もあった。だが最寄りとは口だけで駅は遠く、車に乗らなければ辿り着くのに困難だ。
子供の足ではそう遠くには行っていないはず。
畑、コンビニ、住宅の路地裏。手当たり次第に日和の姿を探しながら、惣次郎は町を彷徨う。お昼もとうに過ぎて足がくたくたに疲れてきた頃、ようやっと日和の姿を見つけることが出来た。
まだ駅は遠かったが、線路沿いの小さな公園に日和は居た。家からは大分離れている。
見慣れた赤いランドセルの後ろ姿を見つけると、怒りよりも何よりも、安堵が惣次郎の胸に降りかかってくる。
公園にはブランコが一機と、シーソーが一機の遊具しかなかった。日和は惣次郎に背を向ける形で、シーソーに腰を掛けていた。
「ひよ……」
日和の名を呼ぼうとし、惣次郎は言葉を切った。
日和は一人だ。日和の向かいのシーソーには、誰も腰を掛けてはいない。ならば日和は地に足を着けているはずなのに、何故、足が上にあがっているのだろう。
まるで向かいのシーソーに、誰かが居るようであった。
そのことに気付くと、惣次郎の背中をゾッと怖気が走っていく。
日和と初めて会った晩、声を出して喋れないことを訝しく思って、二度と話すこともないと思っていた叔母に惣次郎は電話をかけた。その時の会話が、不意に蘇ってくる。
『あの子、なんか不気味なのよね。何もないところをじーっと見つめてることがあるし、どうして? ってところで転ぶし……一人遊びばっかりで、うちの子たちとも折り合いが悪くてねえ』
日和が話せないことを黙っていたことに詫びを言ったあと、叔母はそう続けた。
気味が悪いと言わんばかりの口調に、なんとなくだったが惣次郎は、必要以上に日和が厄介者扱いされている理由が分かったような気がした。
確かに日和は、何もないところに視線を彷徨わせていることがある。突然、驚いたように肩を震わせることもあった。日和と一つ屋根の下で暮らす短い間ながらに、惣次郎も少々気味悪く思っていたものだ。
キイ。
シーソーの金具が軋む音がする。ゆっくりと、上にあった日和の体が下がってきた。
何も見えなかった向かいのシーソーの上に、また陽炎のようなものが見えた気がして、惣次郎は目を見張る。恐怖がひと匙。振り払うように、惣次郎は日和に声を掛けた。
「日和」
硬い声になる。見るように肩をビクつかせた日和は、驚いた顔で振り返った。そして見られてしまったと言うように、顔を真っ青に歪めて俯く。目を固く瞑り、シーソーの把手を掴む手が白くなるほど、力が込められていた。
怯えているようだ。
ただでさえ小さい日和の体が、更にきゅうっと縮こまってしまったように感じる。そんな日和を前にして、何をしているんだ、なんで学校に行かないんだ、誰と一緒に居るんだ? という、胸裏に渦巻いていた様々な感情が消沈する。惣次郎も、呼びかけの後になんと声を掛けたらいいのか分からなかった。だが、感情に任せて怒鳴りつけることだけはいけないと、それだけは分かる。
気持ちを落ち着かせて、惣次郎がもう一度シーソーの向こう側を確認すると、陽炎のようなものはなくなっていた。日和に歩み寄る。
「先生から電話があったよ。学校、行きたくないのかな?」
強張っていた声を解し、敢えて、シーソーの下りは何も見ていない体で惣次郎は話した。否、自分の理解の範疇を超えた出来事に、故意に見ていないふりをしたかったのだ。よく分からない現象よりも、今は学校に行かずに、勝手に居なくなったことの方が大事である。
日和は恐る恐ると目を開けると、不思議そうに惣次郎を見た。学校に行かなかったことを怒るわけでもなく、不気味な現象に怯えるわけでもなく、至極、普通に話してくる惣次郎が、日和には予想外だったのだろう。
らくがき帳に『ごめんなさい』と書き込むと、日和はシーソーから立ち上がった。
「心配したんだよ。事故に遭ったんじゃないかとか、何か事件に巻き込まれたんじゃないかとか」
努めて優しく、言い聞かせるように惣次郎は話した。しゃがみ込み、視線を合わせようとするが、日和の目は下を向いたままだ。そのまま沈黙が流れてしまうと、観念したようにそろそろと日和の睫毛が上げられてくる。困ったように眉尻を下げながら、日和はらくがき帳に『がっこうはこわい』と書き込んだ。「どうして?」と惣次郎は返す。合わさった視線が、さっと逸らされて、また日和は俯いた。らくがき帳を握る両手が震えている。万事休すだった。
「そっか。分かった……でも、もう何も言わないで居なくなるのはやめようね」
詳しい話は脇に置いたまま、日和を連れて帰路を歩く。落ち着きを取り繕ってはいたが、惣次郎の心中は穏やかではなかった。
日和は何かに取り憑かれているのではないか?
それで、言葉も話せなくなっているのではないか?
そのせいで、学校にも行きたくがないのではないか?
今まで幽霊や妖怪と言った霊的存在を見たことがなく、経験もない惣次郎は、超常現象に否定的な立場だった。だが、気のせいだと思っていた日和にまとわりつく陽炎のようなものや、先程のシーソーを見てしまうと、幽霊が原因である線は消しようのないものになっていた。
云々と考えながら、隣を歩く少女を見る。今は、陽炎は見えなかった。
家の近くの道まで来ると、向かい側から古賀のお婆さんと、袈裟を着た坊さんらしき人物が歩いてくるのが見えた。
日和の捜索を手伝ってもらっていたことを思い出し、惣次郎は挨拶をして頭を下げる。
「無事に見つかりました」
「いんや~良かった良かった。もしものこと考えて肝が冷えたよ」
古賀のお婆さんは、惣次郎の後ろに隠れかけた日和の姿を確認すると、安心したように胸を撫で下ろした。
喪服を着た古賀のお婆さんの姿は、失礼だが妖怪のようにも見える。惣次郎でさえそうなのだから、子供であれば尚更のことだろう。日和が背後に隠れたのも頷けた。
「おやおや」
古賀のお婆さんの喪服と言い、連れ立っている坊さんと言い、何処かの家で法事でもあったのだろう。興味深そうに惣次郎と日和を眺めていた坊さんが、面白そうに呟いた。
坊さん、で良いのだろうか。黒い袈裟の服装は見知った坊主の姿であったが、惣次郎が知っているお坊さんのイメージからはかけ離れている人物だった。
坊さんの代名詞とも言えるピカピカに丸められた剃髪ではなく、黒く長い髪を後ろで一つに束ねている。されど不潔な印象は受けない。
黒々と艶があり、シャンプーのCMで見る女優の髪のようであった。束ねたゴムを取ったら、さぞかしさらさらと風に靡くのだろう。
そして何より、惣次郎とさして年の頃が変わらずに見える男は、目尻の泣きぼくろが良く似合う美丈夫だった。喪服姿の女は色気があるとはよく言うものだったが、男の惣次郎から見ても、袈裟姿のこの男は色気に満ちている。
「面白いものに懐かれてるね」
にっこりと擬音が付きそうな笑みを浮かべて、坊さんは日和を眺めながらに言った。
え、と惣次郎は絶句する。後ろに居た日和も同様だったようで、きゅっと服の裾を掴む手に力がこもった。
戸惑う惣次郎をよそに、坊さんは相も変わらずニコニコと柔和な笑みをたたえている。古賀のお婆さんは変わらない調子で、畑の野菜がどうとか、この時期の旬は何だとか、惣次郎の混乱を知らずに話していた。
「じゃ、私はこれで」
古賀のお婆さんに挨拶をすると、坊さんは踵を返してしまった。
「古賀さん、あの人は?」
「裏山のところの寺の坊さんだよ」
僧侶であることに、間違いはないらしい。
日和を古賀のお婆さんに頼むと、惣次郎は慌てて坊さんの後を追った。
「あの!」
惣次郎の声を聞き、坊さんは立ち止まる。手入れの行き届いた馬の尻尾のような髪が、背中で揺られていた。
「何か、何か見えるんでしょうか……」
坊さんは不思議そうに惣次郎を見る。
「あの、日和、あの子、喋ることができなくて、それってやっぱり、何かに取り憑かれてるからなんじゃ……」
言葉を選びながら、身振り手振りを加えて惣次郎は説明をした。こういったオカルトじみた話には、経験がなければ知識もない。まだ自分自身でも半信半疑であり、終始、惣次郎の声は自信の無さに満ち溢れていた。
うーん、気の抜けた唸り声を上げて、坊さんが顎に手を当てる。何かを考えているような仕草だが、何も考えていないようにも見えた。坊さんは笑っている。声色も軽いものだった。
「それは違うと思うなあ。あの子が喋れないのは、他に原因があると思うよ。まあ、何かあったら来てよ」
じゃあ、何が原因なんだ。一応医者には見せたが身体の病気ではなかったと、叔母は言っていた。この坊さんが原因を知る由もなかったが、問い掛けそうになった惣次郎を、袈裟の懐から出された一枚の紙が制止する。名刺だった。フリーになる前の会社員時代の癖で、思わずお辞儀をしながら受け取ってしまう。
名刺には、坊さんの名前と寺の名前、宗派、住所と電話番号が載っていた。
「……はあ」
何と相槌を打てばいいのか分からず、惣次郎は名刺を眺めたままに声を漏らした。
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