第2話 アリス。




 落ちる。落ちる。落ちる。

 紅い月の空から、落ちた。


「おい、アンタ! 大丈夫かっ?」


 聞き覚えのある声がする。

 けれども、私の瞳に映ったのは、夜空に浮かぶ紅い満月だったーーーー。


 次に目を開いた時、私はベッドの上にいた。

 頭がズキズキする。こめかみ辺りを手に当てて押さえた。


「おい、目を覚ましたか?」

「!」


 白い天井を見ていた目に映ったのは、藍色の髪をした青年だ。キラキラと金色の星が散らばっているみたいな夜空色。瞳は金色に縁取られた藍色。見覚えがあるような美しい男性。


「あなたは……」

「オレはヨール。アンタ、道の真ん中で倒れてたんだ。覚えているか?」

「……よ、る……」


 私はその名前を口にした。覚えのある名前だ。どこで聞いたのだったか。私は思い出そうとしたけれども、頭痛がしてそれをやめる。


「頭でも打ったのか?」


 ヨールという名の男性は、心配した。


「私……私は…………」


 口を開こうとして、そのまま固まってしまう。

 何も出てこなかった。

 視線を、彼から横にずらす。四人の男性がいることに気が付く。

 一人は白衣を着た丸眼鏡の年配の男性。どうやら、彼は医者らしい。


「ここは……病院?」

「しがない街の小さな病院さ」


 年配の男性は疲れたように笑った。

 しがない街……そう言われても、全く心当たりがない。

 見たところ、本当に小さな病院らしい。


「……ヨール、さん……」

「オレのことヨルでいいよ」

「ヨル……」


 トクン、と胸の中が小さく疼いた気がする。


「……一体、私はどこに倒れていたのですか?」

「どこって、クルム通りのど真ん中だぜ」

「クルム……通り……」


 聞き覚えがあるけれど、どこだかわからない。

 静かに俯いていれば、医者がライトを手にして近付いた。


「自分の名前は言えるかい?」

「……」

「え、まさか、記憶喪失ってやつ!?」


 目を覗かれて、問われる。ライトが眩しい。

 私が何か答えるより前に、若い男性の声がした。目が眩んでいて、誰かはわからない。


「……名前……名前は……ーー」


 私は呟いて、黙り込んでしまう。

 出てこなかったのだ。自分の名前も思い出せない。

 誰かが言った通り、記憶がなくなってしまっている。


「んー……脳震盪のようだ。しばらく安静にした方がいい」

「はい……」


 医者に従って、私は枕に頭を戻す。髪は短い。顎ほどの長さしかなかった。それを摘んで確かめた私は、ヨールっていう男性を見上げた。


「あの……助けていただいたようですね、ありがとうございます」

「あ、全然いいって。俺達は偶然通りかかっただけだし」

「そうですよ。あ、私はクロです」


 別の男性がベッドの上の私を覗いた。サラサラしていそうな黒い髪と青い瞳と、魅力的な優しい笑みの持ち主だ。ヨールよりも、背が高くて歳上みたい。


「オレはディール!」


 さっきの若い声の持ち主が、顔を見せてくれる。白銀色の髪をオールバックにして、眼鏡をかけていた。ヨールと同じくらいの歳に見える。それににっこりとした笑顔は、明るい性格だと思えた。


「そしてオレ様が、ノウスだ」


 最後の人が名乗る。大柄でブラウンの髪を持った彼は、ニカッと笑いかけた。


「あの、ありがとうございました」

「ましたって、寂しい言い方をするなよ。困った時はお互い様ってやつだ」


 ノウスさんがそう言うと、続けてクロさんが口を開く。


「私達はもうしばらくこの街に滞在しますから、ちょくちょく見舞いに来ますね。治療費もこっちが持ちますし、記憶が戻ったら家まで送りますよ」

「ああ……何から何まで……ありがとうございます」


 親切な人達だと思った。

 私は一度起き上がって、頭は深々と下げる。


「いいって!」

「こんな可愛い子を放っておけるわけないさ! 安心して休むといい」


 ディールとノウスさんが冗談のように笑いかけてきたけれど、私はぼんやりとしているだけで笑みを作れない。

 お言葉に甘えて、私はベッドに横たわった。


「じゃあまたな」

「はい、ヨル……」


 最後にヨールが手を振ってくれて、四人は去る。

 私はベッドの上で頭を押さえた。


「……なんで何も覚えていないのでしょうか……」

「時が解決してくれるさ。さぁ、休んでください」


 呟きに応えてくれたのは、医者。

 私は少しの間、天井を見つめたあと、瞼を閉じた。



 紅い月の空から落ちる夢を見る。

 ヨール一行は、本当に見舞いに来てくれた。

 翌日には「記憶戻ったか?」と尋ねて様子を聞いてくれる。残念ながら思い出していない。それから退屈しのぎに、トランプをやろうと誘ってくれた。ベッドの上の私を取り囲むように、ババ抜きを始める。そこで、白銀の髪と眼鏡のディールが言い出した。


「名前思い出すまで、アリスって呼んでいい?」

「オレとディールで考えた。つっても、今ハマっているゲームに出てくるキャラから取ったんだけどな」


 右隣にいるヨールも続けて言う。

 アリス。そう言えば、呼び名がないことは困るものだ。


「はい……アリスでいいです」

「アリスな」


 ヨールは笑いかけてきた。

 トクン、とまた疼いた気がする。

 何故かしら。不思議なものだ。彼の笑顔は、初めて見た気がしない。


「……」

「どうした?」

「いえ、なんでもないです」


 小首を傾げて彼を見つめてしまったけれど、それをやめる。

 ゲームに集中した。すると、私の手にジョーカーだけが残ってしまい、負けてしまう。


「ああ……も、もう一回お願いします!」

「ふふ、負けず嫌いみたいですね。アリスは」


 黒髪のクロさんが笑いながら、中心に散らばったカードを掻き集める。


「ちょっと感情が出てきたな」

「そう、ですか?」


 大柄のノウスさんに指摘されて、自分の頬を押さえた。

「悔しいって感情が丸出しだ」と笑われる。

 ぷくーっと頬を膨らませてしまう。


「中性的な年齢不詳な顔立ちだから、無表情だと大人びて見えるが……意外と幼いのかもしれないな」

「年齢不詳……ですか」


 膨らませた頬をクロさんが摘んだ。


「記憶がなくって、幼くなっているだけなのかもしれないですね」

「……はい、そうかもしれませんね」

「歳は二十代だと思うなぁ。そんなアリスに罰ゲーム!」

「えっ」


 罰ゲームがあるとは初耳。だから驚いた。何かと身構えていれば。


「私達に敬語はなしで話すこと!」

「……それが、罰ゲームですか?」

「はーい! 早速敬語使った、罰として……えーと、何してもらおうか」


 ディールが声を上げた。敬語を使うと罰が増えるルールか。


「それはあとで決めましょう。次、始めますよ」


 クロさんにコクリと頷いて、今度は負けないぞっと気合いを入れてカードを見た。

 見事、一抜ける。私はわーいっと両腕を上げて喜んだ。


「あ、笑った。笑えるじゃん」


 ヨールが満足そうに笑った。

 またトクン、と胸の奥が疼く。

 何故だろう。どうして彼ばかりこんな反応をしてしまうのだろうか。


「可愛い笑顔だ、似合ってる」


 ノウスさんも褒めてくれた。


「おかげさまで。ありがとう」


 私を笑わせてくれたのは、この人達だ。

 私はその場にいる皆にお礼を伝えた。


「本当に、何から何までありがとう……」


 彼らは笑みを返してくれる。


「そういえば……皆さんはこの街の住人? じゃないよね。滞在するって言ってたもの」

「あー……旅してるんだ。オレ達」


 うっすらと脳裏に浮かぶのは、キャンピングカーに乗ったこの四人だった。


「キャンピングカーで?」

「よくわかったな。そうだ」


 答えたのは、ノウスさん。

 考えられるとしたら、車や徒歩だろう。電車もあるだろうけれども。

 何故だろうか。キャンピングカーが一番しっくりする。

 助手席で髪を靡かせるヨールが浮かんで、私は笑みを零してしまう。


「うっわー優しい笑みー。なんでそんな笑みになったのー?」


 ディールがベッドに頬杖をついて、楽しげに尋ねてきた。


「はーい! 上がり! ディールの負け!」

「げっ」


 決戦をしていたクロさんとディール。決着がついた。

 今回の敗北者は、ディール。ガクリと肩を落とした。


「じゃあディールにも、罰ゲーム」

「え、何それ。罰ゲームがあるなんて言ってないよ」

「ちょっと待って、理不尽」


 ケロッと言い退けるディールに、私は唖然としてしまう。

 私の場合と違うじゃないか。

 ノウスさん達は、お腹を抱えて笑った。私も仕方なく笑う。


「じゃあこれにて、失礼します」

「じゃあな、アリス。また明日」


 トランプを片付けるクロさん。

 ヨールは手を振ってくれた。私も振り返す。

 また明日も来てくれるなんて。本当に優しい人達だ。


「んー。たった一つしかない病室で騒いでほしくないんだけどなぁ」

「あ、すんません」


 医者のグリフィンさんが困ったように笑った。

 ヨール達は、ペコペコしながらも退室する。

 そんな後ろ姿を見ているだけで楽しい気分になった私は、笑みを零した。



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