登りゆく煙が如く
春之之
登りゆく煙が如く
朝早くからランドセルを背負って十分ほどかかる学校に行くのが好きだった。子どもの声がしないから。誰もいない教室は静かだったからだ。二人目、三人目が入ってくるのをこの目で見ている状態がたまらなく好きだった。
しかし、静かなはずの朝もこの町では違う。
ギッコンギッコン。ギッコンギッコン、チュインチュイン。ゴ―ボー。
通りかかる工場の横で大きな作業音がする。時間はまだ7時半、出社が遅いお父さんがまだ寝ている時間に、ここの機械と人達はうるさく稼働している。
「……くさい」
独り言をしても誰にも振り返られないのも早朝登校の利点だ。通学路にある工場から出てくる煙がゆらゆらと登ってゆくのを僕は立ち止まって見つめる。その煙と一緒に漂う油の匂いが鼻を刺激する。鼻からは油の匂いから守ろうとしているのか、どんどんと鼻水が出る。僕は指を鼻に突っ込んで鼻水を出すけれど、生憎ティッシュを持ち歩くような育ちのいい子ではなく、この鼻水をどうしていいかわからず、工場の壁にこびりつけた。
もう一度空を見ると、僕が目で追っていたはずの煙はもう姿を消し、また別の煙が上っていた。
僕の鼻は蓋がしてある。たっぷりと溜まった鼻水だ。風邪を引いていなくても鼻の機能性は他の子よりも低い。休み時間、漫画を読んでいた時だった。周りがやけにうるさく、鼻に何か刺激臭がして顔を上げた。なぜか周りが僕を見て意外そうにしていた。
「おいおい木島! 早くそいつから離れろよー!」
仲のいい青山くんが少しニヤケながら僕に話しかけてきた。僕は前の席にいる山本くんを見る。彼は微動だにしなかったけれど、鼻の悪い僕でもわかった。この刺激臭と周りの雑音の原因が山本くんである。
「山本くん、大丈夫? 立てる?」
僕は山本くんともお友達だったので、心配の声をかけた。振り返った山本くんは僕が想像していた涙ぐんだ表情ではなくて、何かを悟ったようにキリっとしていた。
そして彼は立ち上がる。周りの女子たちからも「ひゃ」と小さな悲鳴が聞こえる。僕は放っておくこともできず、だからといって今さら多数派に回ることもできず、なんとなく彼についていった。
最後までついてこられたらそれはそれで嫌だろうなぁーっと僕は思い、なんとなく途中で足を止めて、堂々とトイレと保健室に向かう彼の背中を見守った。
「木島くん、なんか……すごいね!」
山本くんが去った後、僕に女子二人が話しかけてきた。その「すごい」は賞賛半分、嘲笑半分だろうか。何がすごいのかわからずにいた。
「いや、一応友だちだし」
なんといえば正解なのかわからずに適当に言う。
「それでも普通あの場にいれないよね?」
あの場というのはあの『激臭』のことだろうか。しかし、あの匂いはいつもトイレで自分の匂いを嗅いでいるもので、その匂いそのものは僕も、今僕を賞賛している女二人も放っている匂いなのだ。
「か、風邪気味だから。鼻、詰まっていて途中まで気づかなかったんだよ。漫画読んでたし」
よくわからない言い訳をして、僕はその子たちから離れた。彼女たちには僕がどう映ったのだろう。『漏らしても友情を大事にするいい男』なのか『あの激臭の中にいても平気なズボラで変わった奴』なのだろうか。僕本人にはその真意はわからない。教室に戻ると、驚きと嘲笑の空間が満ちていた。ある者はびっくりしたねぇーと単純な感想を述べ、あるものは大丈夫かなぁーと同情をし、あるものは「うんこー! うんこー!」と嘲笑の舞を踊っていた。当時はそう思わなかったけれど、今にして思えばうんこと叫び舞う彼もきっと周囲には奇怪に見えていただろう。僕は自分の席に戻る時、なんとなく山本くんの椅子を見た。茶色いものが微かに染みのようについている。これは僕が拭いた方がいいだろうか。
しかし、ここでこれ以上彼を擁護しても、面倒事が増える。
例えばあそこでうんこの舞を踊っている大津くんたちに、漏らしていない僕まで漏らした奴みたいな扱いをされる。彼らはそういう種族だ。僕は彼らとも学校ではよく遊ぶ友だちである。
そこからは僕が意識していないからか、山本くん自体がいじめにあった記憶はない。僕が知らないだけかもしれない。山本くんは基本的に優しい。運動神経は悪いが、仲の良い友だちには気さくな方で、友だちに恵まれていた。だからだろう。直接的にいじめられるようなことはなかった。……と思う。
僕は彼を擁護し続けることもできず、他の友だちとゲームをして遊んだ。友だちは山本くんが漏らしたことをネタにしたイラスト動画を作ってみんなに見せていた。それを見てみんな爆笑していたが、僕は友だちだったせいで上手く笑うことは出来なかったが、怒ることもまたしなかった。山本くんを馬鹿にする奴らと仲良く遊びながら、僕は山本くんと一緒に遊ぶのだ。そこにあったのは、漏らした当時に僕が山本くんを庇ったことを彼らが知らなくてよかったということしか頭になかった。
中学へ上がった。中学は三十分かかる所だった。結局、また鉄工場を通るので、油の匂いが臭かったし、それを発生させている工場もうるさかった。
田んぼもあった。こんな鉄工場の多い都会にも、田んぼは存在する。俺は行きと帰りにそこで足を止めて、田んぼに向かって思いっきり拍手をする。一回。所謂一丁締めというやつだ。この行為をすると田んぼに隠れていたスズメたちが一斉に大空へと飛び立っていく。その光景を見るのがとても好きで俺は一人の時は必ずそれをしていた。これを目当てに誰よりも早く家から帰った。
中学生の僕はそこで出来た友だちの影響で野球部に入ったけれど、そこの先輩が厳しく、乱暴で、未経験者だった僕は一年目でそのあまりの乱暴さと、その乱暴さに慣れていく友だちを見て、怖くなって辞めた。退部届も出していない。行かないという幽霊部員的な辞め方である。
他の部活に入ることも億劫だった。しかし、野球部のグラウンドが通学路横にあるせいで見つかると嫌だなぁーと感じたことから、家に帰るのも辛かった。なんとなく校内をだらだらと歩き回っている頃だった。クラスメイトで仲の良かった秀才、滝沢を発見する。
彼は生徒会というのをやっていた。中学の生徒会というのは特定の教室も存在せず、空いた教室で先生などに求められた学校イベントの雑務などを行う。なんとも地味な仕事だったのだ。俺はそんな空き教室で生徒会をしていた滝沢に出会ったのだった。彼以外には見慣れない女子が二人いた。俺は中学二年からはその四人に、彼女たちの友人を混ぜた数名で遊ぶことが多かった。俺は学校が終わると、滝沢、そして女性二人である広瀬さんと中野さんを探してはその場に混ぜてもらった。部活を辞めた孤独感を感じていた僕にとって、その空間はかけがえのない思い出だったのだ。
何より、初めての彼女ができた場所でもある。
しかし、自然消滅をした。
中学から高校に上がるにつれて、受験シーズンである。僕は自分の学力で行ける。なおかつ中学にはなかった部活のある学校を目指そうとしたが、そこに受けるのはわが中学からは一人もいない。そこで迷っていた。
その時、俺の友人である宮川がとある高校に行くと言った。彼と同じ塾に通っていた俺はその話を聞いて、彼と同じ高校に行くことにした。
彼とはよく夜通し数名で遊ぶメンバーの中の一人で、なおかつ親同士も知り合いだった。学力も似たようなものだったので、簡単に高校は合格することが出来た。その高校は最寄りの駅から十駅以上離れていた。俺が住んでいた都会とは違って、小さな川も流れている場所に田んぼだらけの小さな田舎のような場所にあった。
たった十駅でここまで変わるのかと、思いながら、僕は見学会にも行かぬまま、受験日に初めてその学校へと足を運んだのだった。
この高校には水泳部があった。だから泳いだ。しかし、その水泳部は元々野球部、元々テニス部といった別部活から流れてきた者たちで集まるいわゆる吹き溜まりのような部活だった。みんな真面目だった。俺と同期で入った部員は中澤という男子一人だった。僕らは二人で帰っては好きな漫画の話をしていた。
高校での主な友だちは小原、稲垣、中川という三人だった。三人ともゲームセンターでのゲームが好きで、僕は彼らと遊ぶために四十分かけて自転車を走らせて、ゲームセンターでゲームに没頭した。
しかし、彼らが得意としたゲームは俺にはまだまだ初心者で難しく、足を引っ張らないように動くのが手一杯だった。それでも楽しかったが、彼らがそのゲームをしている間に俺は、別のゲームに精を出した。
高校は、水泳部と、彼らゲーム仲間を行き来する日々だった。僕は起きている時間の四分の一は一人で、電車で過ごしていた。電車の中で本を読むと酔うし、ゲームをしていると降りる駅を逃すので、僕はおとなしく、音楽を聞くことに没頭していった。
高校でもう一つしていたことがある。ダンスだ。と言っても、学園祭用に毎年練習をしていただけなのだけれど、そこでダンスを教えてくれた友人荻原は本当にいい奴だった。見た目は少しガラの悪い印象だったが、俺や他の連中にも優しくダンスを教えてくれた。
俺は身体を動かすことは大好きだったので、練習中は物凄く心地の良いものだった。何よりも、ダンスをやった後の皆の汗臭さと荻原がくれたデオドランドの匂いがたまらなく好きだったのだ。
十駅も離れた緑の多い土地の香りとデオドランドは鉄工場の匂いを僕の記憶から遠ざけてくれた。
大学生になった。大学は第一志望の大学を落ちて遠い地、大阪よりもさらに北にある京都に向かった。時間で言えば二時間かかるところである。最初こそ大阪の家から通っていたが、授業や付き合いの流れから初めての一人暮らしをした。京都という実家から二時間もかかる場所である。
鉄工場の匂いはしない。車の排気ガスの匂いは一緒だけれど。するのはニンニク臭いラーメンの匂いと、若いのにスパスパと吸っている煙草の匂いだ。たばこの匂いだけは幼い頃から嗅いでいるが、いまだに慣れない。心地の良いものとは思えない。
俺の祖母の実家はたばこ屋を営んでいる。和歌山にある小さな町にある一軒家だ。老いたジジイがよく買いにくる。だから、俺の親戚の親連中はみんなスッパスパスッパスパスパパパパパパと吸っている。保育士をやっている姉でさえ、家の中限定と言い訳をして吸っている。幻滅である。
俺も大学生活の中で二十歳を迎え、友人にプレゼントされたウィスキーをチビチビと飲むようになった。アルコールには弱いので飲み放題は苦手だけれど、ウィスキーやイモ焼酎の匂いはなんとなく好きで、自分が飲める適量だけを家でちびちび飲んでいる。
大学でも多くの友だちに恵まれた。今まで会ったことないような趣味の変な奴から、自分とは違う学科の奴。俺は、学校行事にも積極的に顔を出していたので、変に顔が広くなった。
京都での生活はとても心地の良いものだった。自分の家にいれば、鉄工場の油の匂いも、たばこの匂いも、田んぼの土の匂いもしなかった。そして何より、過去の人に会わなかった。
大阪にいる人間に会わなくていい。その心地の良さが俺をどっぷりと京都という町に沈み込ませる。
「俺、卒業してもここに住むわ」
友人の宝田に飯をご馳走して貰いながらそんなことを呟いた。セブンイレブンのおでんを大量に購入し、酒と一緒に堪能しているのである。
「確かになぁ」
宝田は呑気なやつで俺が何を言っても基本同意してくれる。本当に同意しているのか、面倒だから返事をしているのかはわからない。
「ささ、もっと飲め」
宝田が空になった俺のコップに並々とウィスキーを注ぐ。
「阿呆! 俺強くないねんからこんな量飲まれへんって!」
「一気。一気」
「無理無理。ちょ。そこにあるコーラ取って」
宝田にコーラを取ってもらった後、俺は勝手に宝田の部屋のキッチンに行き、新しい大き目のコップを拝借する。そこにコーラをなみなみ注いで、注ぎ足すように宝田に入れられたウィスキーを足していく。味はほとんどコーラで、後味だけがウィスキーの風味を味わえるコークハイをちびちびと飲んでゆく。
「はぁー、たまには二人でってのもいいなぁ」
「そうだなぁ。お前、忙しそうだもんなぁ」
「いやいや、別に忙しいわけじゃねぇよ」
「バイトやって、大学のプロジェクト運営とかやってんじゃん。それに子守」
「子守言うなよ。人の彼女捕まえて」
「そりゃ悪い。今は彼女どうしてんの?」
「実家帰っているよ。わざわざ帰りたいところかねぇ」
「親が帰ってこいって言うんだろー」
そういうと宝田は餅巾着を思いっきり食いちぎる。なんとなくおでんくんを思い出して、身体のアルコールが上ってくる気がしたので宝田から目を反らした。
男二人、狭い部屋で、こたつで温まりながら、酒とおでんをかっ喰らう。テレビも何もつけずにたらたらと冬の寒さを忘れるように思い出話に花を咲かせる。
「そうだ。木島、この前松田見たぞ。最近遊んでいるの?」
「いんや。アイツとはアイツがミミちゃんと別れたっきりだよ」
「そうかぁー、たまたま飲食店で会ってさ。いつも遊んでたじゃんか」
「まぁ、俺ミミちゃんとも仲良かったからよく愚痴相手にはなってたし、向こうからすれば俺は、振ってきた女側についた裏切り者ってところだろうね。おれはどっちもどっちだと思う」
「ミミちゃんまた彼氏ともめてるだろう?」
「そう、結局そういう女なんだよ彼奴は」
その言葉と同時に俺は牛筋をかじる。大学生になってから、夜も遊ぶような友人も出来たので、今までよりも一人一人をじっくり見ることが増えた。しっかり者面する村上さん。好きなものの話を延々とするマシンガンの水島。明るく社交的なミミちゃん。同じゲームでよく遊んだ中退の松田。別の学科でよく学内イベントで一緒になる奥村。週に一回は遊ぶ後輩の鶴岡。
親も知らない。大阪にいる奴らは誰も知らない俺だけの友人たちに恵まれた。
「そういえばなんだっけ、木島の内定先」
「んー、なんかよくわかんないとこの営業」
俺は宝田に対して、何も考えずに大根を粉々にしていく。
「よくわかんないってなんだよ」
「説明会でなんとなくね。選んでいる場合じゃないでしょ?」
俺は優秀だった。元々社交的な上に、ボランティア経験もあった。考えていたのは早く就職活動なんか終えて、穏やかな学生生活を済ませたいという意思だけだった。
合同説明会と呼ばれる同じ色の人達がニッコニッコとしたスーツ姿で何かを言っている。
俺を含めた就活生は、ちょっと小綺麗にしただけで、あとはパイプ椅子に座らされるスペースで説明をする彼らの話を膝に乗せたメモ帳に首をがっくりとまげてメモを取っている。この理由もほとんどの者はメモを取らなければ印象が悪いという理由である。あの場所の心地はなんとも言えないもので、木島はとりあえず聞きにいった所の説明会、選考を受けまくり、六月の段階で内定を取り、しっかり両親にも異を唱えられなさそうな営業職を選び、こうしてゆったりと冬場に友人とおでんを囲む余裕を作り上げたのだった。
「確かになぁ、もう少し特殊技能とか作っておけばよかったぜ。わしも」
宝田はふざけたようにいいながら、卵を丸ごと口に入れる。昔からこの食べ方を木島は好ましく思っていない。たまごを口の中で何度も咀嚼する。
「お前は大丈夫なのか?」
「まぁ?んー、ひょっとふぁって……。まあなんとかするさ。お前みたいに早々に内定取ったけれど、取り消した人とかもいるだろうから、年始からは第二次募集って奴があるし」
宝田は呑気に笑いながら、次はどれを食おうか迷いながらウィスキーをごっくりと飲む。
その直後にいー! と黄ばんだ歯を見せてきたのだ、喉が焼けたのだろう。
「こんな生活も後三ヶ月かぁ」
「そう考えると寂しいねぇ~。他にもまだこっち残っている奴探してみるか?」
「いないだろう」
「俺達の方が珍しいのかもねぇ。年末の時期に大学付近に残る物好き」
「毎年そうだし」
「それでも連絡してみようぜ」
そういって宝田はスマホを取り出して何人かにメールを打ち込みだした。
俺は宝田から視線をずらして、コークハイボールをチビチビと飲んでいく。宝田に入れられた大きいコップ一杯のウィスキーは三分の二もあった。
「おっ、石井が釣れたぞ。バイト終わりらしい」
「おぉー。最近会ってなかったなぁーあいつ」
「お前こっち来て最初に泊まった奴石井なんだろ」
宝田は不思議そうに笑って、ウィンナーを頬張る。石井は親切なやつでまだ大阪から通っていた俺に寝床を貸してくれた奴だ。今日これから彼が来るなら彼とは二年ぶりになる。
「喧嘩したの?」
「いや? 友好的だったけど、俺もあいつも忙しかったんだろ」
「お前、意外と薄情だよなぁ」
宝田がぼそっと言った言葉に俺は引っかかった。
「そうか? 今もお前と真摯に飲んでいるじゃんか」
「まぁ、そうだけど……。木島は友だちも多いしなぁ」
宝田は話し疲れたからか、気分転換か、パソコンを開いて、好きな声優のラジオを勝手に再生し始める。俺もその女性声優とやらの声を肴にコークハイが進む
「なんてアニメに出てる人」
なんとなく聞いて、宝田が彼女の出演しているアニメを列挙していく。
「ふーん」
その中で気になりそうな名前だけ覚えておくだけ覚えておいて機会があれば見てみようと思った。酔っているからそういう思考なのかもしれない。
しばらくラジオを聴きながら話しているとピンポーンと音が響く
「おいーっす」
石井がやってきて三人で飲んだ。その後も、俺と宝田と石井の共通の後輩も参戦して、楽しく飲んでいった。
コークハイボールの進みは人が多くなればなるほど減りが早くなり、俺は宝田がつけたラジオの女性の声をじっくりと聴き続けていった。
卒業式で泣いたこと、そういえばなかったかな。とふと引っ越した先で段ボールを開けながら思い出した。大学は確実に今までの中で一番楽しかった記憶があるのだが、それでも涙というものが流れなかった。
悲しくなかったわけではない。涙こそ出ていないけれど、悲しみの感情はある。そういうものなんだろうと自分で納得するしかなかった。
あまり大学に顔を出していなかった河原さんはとっても号泣していたな。私が見ていないところで、色々あったのかもしれない。
段ボールの中から衣服を出して、食器を出して、大好きなおもちゃを出して、部屋を整える。
大学時代よりも広いワンルームをカスタマイズするのはとても楽しかった。
その部屋は三ヶ月持たなかった。
実家に戻った私は溜まった二十数万円をやりくりして大学にいる友人に会ったり、彼女と連絡を取ったりした。
しかし、それも使い切ると、家に籠ってゲームや溜まっていた読書に費やす日々だった。
母と父とも仲が良かった私には実家に戻ったことに対して冷たい対応はされなかった。
悠々自適な生活。金に困ることもなく、衣食住に困らない生活ではあった。
「高貴。あんた散歩とか行かないの?」
「ん?」
母は私が見ているドラマや本も読むので無駄話などもよくする。リビングで私がだらだらとしているからだ。母は、ニュースを見ながら何気なく私に聞いてきた。
「ほら、あんたよく散歩言っていたじゃない昔から」
母は私が夜によく外に出る中学、高校時代の話をしていた。俺は本を読みながらそういえばそうだったなぁ。と思い出した。
冷蔵庫を開けてみると、自分の好きな珈琲が尽きていた。せっかくだし、ちょっと歩くコンビニまでだったら買いに行こうかと、着替えて扉を開けようとする。
『グールブリュブリュブリュ! くっせぇ~ うんこ漏らすな!』
友だちが作った動画の音声だ。
扉の前でその動画を思い出したのはなぜだろう。うんこ色の珈琲を買いに行こうとしていたからだろうか。
なんとなく、うんこ色の飲み物飲みたくないな。と感じてしまってそのままリビングに戻り、衣服も乗っているソファーに寝転がっていった。母が「上に乗らないでよー」と怒っていたが、それに対して何も受け答えしなかった。
その日、父が買ってきてくれた珈琲を飲みながら、結局家に出ないでだらだらと過ごして眠った。
起きると胸がひどく痛かった。寝不足の症状かもしれないと考えたが、普段から遅く寝ているので、何を今さらと左手で右胸を咄嗟に抑える。
こんなの、漫画で苦しんでいる主人公とかがよくやっていたな、と思わず笑みがこぼれる。一応リビングに向かって、ソファーに倒れこむ。
「どうしたの?」
母が近づいてきて聞く。息がなんとなく上がって苦しい。
「なんか、胸、痛くて」
「ん? 寝不足の症状じゃないの?」
「そこまで遅くまで起きててないよ?」
「何時に寝たの?」
「一時半」
「十分遅いじゃないの」
「いや、いつもこんな感じだから」
「そう?」
ここで会話が終わって母はまた皿洗いに戻る。私はテレビをつけてヒルナンデスを見る。
ファッションチェックバトルはいつ見ても面白い。母からパンが焼けたという言葉を聞いて、テレビを見ながらマーガリンをがっぷりと塗った食パンを食べる。食べ終わって母と何気ない話をしている間にいつの間にか痛みがなくなっていた。
外に出る時、それは父の車で温泉や、買い物に行く時。あるいは大学まで足を運ぶ時だけだった。大学時代に趣味だった散歩は結局一度も行くことはなかったし、せっかく仕事を辞めてこちらに来たのだからジムでも身体を鍛えようと考えていたのにも関わらず、ジムに足を運ぶこともなかった。
身体性表現障害。そう呼ばれる病気だと、後で発覚した。もしかしたら医者が適当に言った言葉かもしれない。ストレスに苛まれると胸の痛みをはじめとした身体に異変が起こるというものだ。
医者が私に分かり易く話してくれたのは、精神状態が身体に出やすいというものだ。
名前だけは大袈裟だが、病気というほどでもなく、友だちには心配されたが、私は笑いながら説明して、そこまで深刻に考えることはなかった。
しかし、この胸の中の痛みとの付き合い方というのは結構厄介なもので、分かり易く私が辛いと感じている時に来るならいいのだが、楽しく遊んでいる最中や、寝起き、寝る前、風呂に入る時、痛みは無差別にやってくる。
「呼んだ?」
といわんばかりにひょっこり現れるこれに私は「ひょっこりはん」を重ねて心底ウザく感じた。ひょっこりはんは悪くない。好きではないが。
家に引きこもっている間はテレビを見たり、母と話したり、父に理解されないであろう本の話を殴りこむように語り聞かせて時間を費やした。父は仕事の都合上、子ども時代の私と関わることが少なかったことを気に病んでいるのか、私が何を言っても基本的に聞き手に回ってくれる。
父と母は件の痛みを気にしてくれるが、父と母の金や自分の貯金を使って病院に行くのも億劫で。時たま現れるそれと付き合おうと、自分は彼らの心配を拒絶した。
家でごろごろする。というのは全ての社会人にとっての理想だろう。五日間、または六日間に及ぶ重労働。時間をかけていないのに既に親友面でコミュニケーションを仕掛けてくる同僚や先輩に笑みを浮かべ、それを誤魔化すようにみんなで過ごす飲みニケーション。
先輩からご教授を受けるために無駄なマナーをあくせく行う! 本当に疲れるものだ。
途中で降りた自分が言うのもなんだが、皆さんは強い。賞賛する。自分はその強さが欲しかった。いてて、また胸が痛くなってきた。
ごろごろする。というのはエネルギーを消費されていないからか、まったく眠れないのだ。しっかり早起きをしても、子どものように夜十時になって布団に入っても、まったくもって眠れないのだ。
目を開ける。真っ暗な部屋。私の記憶力が見えないはずの棚やソファーや時計を脳裏に刻む。
チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッチッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチチチチチチチチチチ――――
「ちっ」
永遠に流れる時計の針の音が脳内で刻み続ける。針が一つずつ自分に突き刺さる。目を閉じてどれくらい経ったのかを否応なく伝える。
自分が絞り出した舌打ちという音も、針の一部のように飲み込まれてしまった。時計は嫌な態度をとっても黙ってくれない。その癖に常に同じ話しかしない。「一秒進んだよ」と自分を急かし続ける。
布団に入って針の音を聞き続けていくと、身体の感覚がどんどん小さくなっていく。今なら俺の手で自分の足の裏を触れるのではないかと錯覚に陥ったが、やはり膝を曲げないと届かなかった。
高校生、中学生、小学生、幼稚園児とさまざまな自分はここで眠り続け、今自分の眠りを妨げる時計はずっと自分を見守ってくれたはずだった。それが苛立って仕方がない。
視界がぱっと明るくなる。電気をつけた。黒みがかった天井が鮮明な木の色に変わり、黒かったソファーも濃い紺色に変わる。ふらふらの歩きながら本棚からまだ読み切っていなかった本を取り出して読み始める。深夜も三時を回っていたらしい。あの電気をつけると不思議と針の音はいなくなっていた。胸の痛みを誤魔化すように本を読む。
我が父は早朝職業で深夜三時頃は仕事をしている。朝に爆睡して、お昼に部屋着のままだらだらとしつつ、事務仕事をして、そして深夜に車で本番仕事をおこなうのだ。
私の部屋は布団が二つある。それは幼い頃から父と部屋が両立しているからである。部屋の八割が私の物なのだが、父の布団と、箪笥だけはこの部屋からなくならない。
目を時計に向けると、既に五時を回っていた。私は読んでいた本を閉じて、また布団に寝転がって、電気を消す。そろそろ父が帰ってくる。父に心配されないように、寝てしまうのだ。
部屋は何も見えない真っ暗へと変わり、布団に潜って、目を閉じる。胸の痛みが走るのは寝不足だからだろう。一度大きく胸を叩くが、一瞬痛みが引いただけで、またじんわり痛みが走る。それを黙らせるように歯を食いしばって眠る努力をする。
父が入ってくる。私が起きていることには気づいていないだろう。いつしか父は眠りにつく。一生懸命働いた人間の強さだろう。父のクマのような鼾が響く。音量は心地が良いのに不定期な鼾が気になって気になって仕方がない。
グゥー、グゥー、グゥー、ググッ……………スピー。グッ!
ウザいと感じているうちに俺は父が完全に眠りに落ちたのを確認して階段を下りて、リビングに向かってお茶を取り出す。うっすらと明るい午前6時。
結局、徹夜をしてしまった。しかもそのほとんどがただ目を瞑ってだらだらとしていたとなる精神的に勿体ない気がしてなんとも言えなかった。
ソファーに寝転がってスマホを弄っている間に俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
そろそろ読む本も、見るテレビも無くなってきた。好きだったアニメを配信サービスで見直す日々にも疲れが見えてきた。かといって新しいものを貪欲に楽しむエネルギーはなかった。四畳半神話体系を何度読み直しただろう。あの男のように今の自分はこの家というところから出ることが出来なくなってしまっていた。
時間を置いて冷蔵庫を見れば新しい飲み物や食べ物が入っている。時間になれば食事が出てくる。そんな生活だが、買ったおもちゃや本のせいでそろそろ金が尽きてきた。
就業時に調子乗ってかった通販などがここに来て自分の貯金を圧迫していったのだ。
スマホを確認すると、今日は水曜日だった。平日。同い年の人間たちがあくせく働いている。どこにもいないはず。いないはずなのだ。
「散歩、行くか」
そう決意すると、後は案外簡単なものだった。適当なジーンズを履いて、その辺にあったシャツを着て、スマホと財布をポケットに入れて玄関扉を開ける。外に出てすぐに入ってきたのは幼稚園から小学校の低学年まで遊んでいた二つ下の安田さんちだった。あそこの大輔くんは今大学生か。僕は足早に散歩を開始した。昔よりも見える景色が微妙に違う。背丈の問題だろうか。
幼稚園を終えたであろう子どもの姿を見かける。自分が京都にいた間に生まれた存在だ。見ていて微笑ましい感情になり、やはり散歩に言ってよかったなと実感した。
神社の中をぐるりと見渡す。近所にある神社だ。ここで夏には祭りが行われていて、自分たちはよくここでエアガンや、出店の食べ物を買った後、近所なのをいいことに自分の家に集まっていたなぁと考える。しかし、平日の昼間に神社でだらだらするわけにもいかずに、足早にまた別の所へ移動する。懐かしい公園、小学校までの通学路、中学までの通学路などを歩こうかと思ったが、全て物凄く足早に進んでいく。
京都にいた頃の散歩は、ゆったりと楽しいものだった。彼女と二人、飲んだくれた宝田と二人、なんとなく歩いて、なんとなくコンビニで珈琲を買って、見たものとか、最近の話に花を咲かせていた。一人で散歩をしている時も、色んな景色を見て、軽やかに歩きながら音楽を聞いていたものだが。
散歩を続けていると、どんどん胸が苦しいことに気付く。誰か知り合いに会うのではないか。会ったら何を話そうか。自分が就業時に水曜日休みだったのならば、営業職は水曜日に休みなのではないか。営業職に入った知り合いがこの辺りにいる可能性がある。仕事中の奴にばったり会うかもしれない。なんて言うのだ。仕事は辞めて今はニートだと言うのだろうか。知り合いの親に会ったらなんと言おう。
喉が渇いてくる。頭が痛くなってくる。目が痛くなってくる。鼻がつまり始める。何気なく歩いていると、小学校の通学路まで来ていた。
工場の油臭さが鼻を詰まらせた原因だろう。上を見上げて工場から上ってゆく煙を見る。この工場は一新も何もされておらず、自分が小学校の頃から何も変わっていない。登りゆく煙も変わっていない。適当なところで座りこんで、その煙をじっと見つめる。ゆらゆらと登っていくが、最終的に霧散してどこかへ消えていった。自分はまだ胸の痛みが続き、第二、第三の煙を見つめていた。
小学校のチャイムの音が聞こえてきて、呆然としていた事実に気付く。今まで静かだったから、これから休み時間なのだろうか。いや、時間を見たらもう下校時間か。となると、この辺りにたくさんの小学生が通るのだろう。自分と同じランドセル、帽子をかぶった彼らがここを。彼らは大きくなった時に、ここでこの煙を呆然と見ている自分を思い描くだろうか。描かないだろうな。彼らは今を全力で生きている。一々将来のことを考えていない。だから他人にも残酷に出来るし、誰にでも優しく出来る。
もし考えていたとしても、その夢想される世界には、きっと自分のような人間はいないだろう。
頭に過ぎったのは、特急電車の止まらない駅だった。そこでポツンと一人座る自分。子どもたちはその駅で止まることはない。いや、同年代もその駅で止まる者はいない。
そしてその駅の電車は常に右から左へと通り過ぎていくのみ戻ることはできない。マイナーなその駅に子どもたちは存在自体を認識しない。その駅で僕はただ一人ベンチに座っている。他に電車を待つ人間はいない。諦めてその土地でふて寝していればいいのにそれはそれで恐ろしい。
各駅停車がやってくる。扉が開く。しかし、そこにはたくさんの人が乗っている。中には青山くんや滝沢、荻原、稲垣、中川、小原、宝田、ミミちゃん、石井、大輔くん。父、母らしき人が乗っている。満員電車だ。自分は彼らと目を合わせることができず、結局そのベンチから離れることができずにせっかく止まってくれた各駅停車は進んでいった。
「はぁ、はぁ……」
家についた頃には息が上がっていた。小走りで帰ったからでも、遠い距離を走って疲れたからではない。冷や汗が止まらない。胸を必死に叩く。それでも胸の痛みは存在を消してはくれない。冷蔵庫にある野菜ジュースを飲むというよりは流し込むように口に含む。喉につっかえて、吐き出す前に洗面所に言って、思いっきり吐き出す。これがトマトジュースだったら血みたいだったのにな。と吐かれたオレンジ色の液体を見て、冗談を言う余裕は出来た。自分でもここまで気が動転するとは思えなかった。電車は走る。車も走る。子どもたちも走る。自分だけが走っていない。自分だけがベンチでゆっくり、自分が乗れるほどの楽な電車を待っている。電車には乗らなければならない。家でふて寝はいけない。なんとしても、レールの上にはいたいのだ。しかし、満員電車に乗ると、胸の中の風船をパンッ! パンッ! と破裂させるために時計の針がチッ、チッ、チッ、チッとその棘をこちらに突き付けるのだ。
身体を動かしたのだから、今日は心地よく眠れるだろう。と思ったが、結局眠り落ちたのは三時ごろだった。
そろそろ仕事をしていた頃よりも、家にいる期間の方が長くなってきた。大学に遊びに行くことも大阪から京都までは交通日は雑に見積もって往復2000円もするのだ。そう何度も通えない。さらに、いくら優しい後輩たちが慕ったふりをしてくれていたとしても、やはり就職活動を手伝ってくれた講師や職員たちと目を合わせるのも億劫以外の何物でもなかった。
自分は学科内の誰よりも優良企業に内定を貰って、卒業制作を難なく熟した人間だった。いわゆる「手のかからない生徒」という奴だ。講師たちも俺に対する認識はそこまで深くはないだろうが、それでも顔を合わせて何を話せばいいか。誤魔化すように笑っても、その直後に胸の痛みに苛まれる可能性を考えると、大学に足を運ぶことも減っていった。
そして今日も今日とて、家でゲームをして、テレビを見て、たまに罪悪感を拭うために母の家事を少しだけ手伝う程度だった。それでも胸の痛みは完全になくなることはない。
夜になったら現れる。寝起きに現れる。うんこを出すと現れる。それがトリガーだと思った直後にはもうトリガーは別の理由へと変わる。この苦痛との生活にもいい加減慣れてきて、痛くなっても少し表情がこわばるぐらいにとどまった。
『大阪に来ているなら言ってよ』
LINEだった。相手は自分の彼女の美咲だった。胸の痛みが激しくなる。ズキズキ。
『聞いたよ。仕事辞めたって』
『もう、相談してよ』
『新垣先生に聞いてビックリしたじゃん』
ソファーに倒れこむ。母が畳んだまま置いた衣類のせいで背中の辺りがぼこっと前に出る。姿勢はよくなっている気がするが、胸の痛みが止まらない。
『ねぇ、今はどうしているの?』
『高くん、大丈夫?』
美咲からのLINEの返信音であるピロンの音が響く。画面だけは見ているので、美咲からは既読スルーに見えている。
『うん。ごめんごめん』
『なんとなく説明しづらくて』
『高くんが辞めるほどの場所ってよっぽどブラックだったんだね』
『怒らないの?』
『そんな女に見える?』
その後、ジト目のキャラクターのスタンプが押される。
『復職はした?』
体温が上がる。鼻に詰まっていたものがまるで溶け出すように流れてくる。
『ごめん。まだなんだよ』
『謝らなくていいよ』
『ごめん』
自分が送ったメッセージに既読がつくが、返事がない。すると突然着信音がなる。相手は美咲だ。
「もしもし」
「もしもしー」
「久しぶりだね。美咲」
「うん。高くん、疲れてる?」
「ははは」
美咲からの会話が遅い。無言が恐ろしい。声にもならない声で誤魔化そうとする。
「あのさ。高くん」
「なに?」
「よかったらなんだけれど、うちにこない?」
美咲は何げない風に言った。自分の脳裏に過ぎったのはカンダタの糸のような一本の紐。
彼女がそれを自分に向けてくれている。ありがたいことだ。しかし、自分は、俺は、それがとても苦しくて手を伸ばそうか迷った。
無言で戸惑っている俺に美咲は言葉を続ける。
「あたし、一人暮らしなんだけど部屋が汚くてさ。働いていないなら片付け手伝ってくれないかなぁーって言い値は払うよ」
ちょっと冗談っぽく話す美咲に俺は思わず笑ってしまう。美咲は大学も実家から近いこともあって俺は彼女の家に言ったことはなかった。
「美咲、今どこだっけ」
「梅田の方」
「うへぇ」
「迷うよねぇあの辺。初出社の日怖かったよ」
「うんうん。わかるわかる」
「とにかくさ、暇なんだったら来てくれない?」
大学の人達とは比較的に話せた。離れている時期がまだ近いからだろうか。
「わかった。明日そちらに行くよ」
「ほんと!? 明日土曜日だし久々にどこか出かけようよ」
「掃除は?」
「平日にやってよー。休日は遊びたいー」
これが部屋を片付けられない理由なのでは。なんて思いながら「じゃそうしよう」と了承して、明日の待ち合わせ場所を聞いて、電話を切った。
「父さん、俺明日ちょっと出かけてくるわ」
リビングに行くと、父が食事をしていた。おかずとご飯の二品でも十分だと思うのだが、私の父は、そこにみそ汁と小さなどん兵衛、ご飯にも納豆とか、ふりかけとか、ごはんですよ。とかつけて食べる。味がしっちゃかめっちゃかしないのだろうかと睨んでいると、父もこちらを見返す。
「ん? 出かけるってどこにだ」
「美咲ちゃんとちょっと梅田に」
「美咲ちゃん? あぁー高貴の彼女か。彼女、お前が仕事辞めてるの知っているのか?」
「うん。大学の人に聞いたんだって」
「そうかぁ」
「暇だったら家事やってくれない? なんて言われてさ」
「なんだよそれ」
父はクスクスと笑う。その後席を立つ。しばらくして戻ってくると
「彼女と会うなら多少の見栄はいるやろ?」
そういうと父は万札を三枚ほど渡してきた。断るのも面倒で金がないのも事実なので受け取る。
「ありがとう」
「ええってことよ」
何も責めてこない父に辛さが跳ね上がる。俺は金を受け取ってすぐに離れるのも悪い気がして、そのまま父と一緒に少しだけ食事をしてニュースなどを見ながら話をする。
その日の夜は胸の痛みが跳ね上がり、眠るに眠れなかった。
梅田というところは漠然と「梅田駅で集合」なんて言うと必ず痛い目に合う。さらにスターバックスで集合なんて言えば実はいくつかあるせいで勘違いも起こる。しっかりとどこどこの何番改札。と俺は言ったのだが、美咲がそこにたどり着くのは集合時間の15分も後だった。
久しぶりに見た美咲は新しいスカートに身を包んでいて少し大人っぽく見えた。
「そんなスカート持ってたっけ?」
「そう。買ったんだよ。初任給で」
嬉しそうに話してくれる美咲に大学時代を思い出した。
大学時代の私は大層優秀で、学業単位を逃したことはなく、学内イベントにも積極的に参加し、そこで己の実力を振るい、失敗と成功体験を得たはずだったのだ。あの頃は友だちにも恵まれていた。
「今日はこの後どうしたい? 一応映画のスケジュールはチェックしているけど」
「今日はその辺ブラブラしようよ。なんとなく歩いて、なんとなくお店入って、なんとなく食事してーってさ」
美咲はそういうと私に背を向けて歩き始める。俺はついていく。
美咲は無邪気な女性だった。はずだ。少なくとも私と付き合ってくれていた時には良くも悪くも空気を読まず、周りを見ず、自分の興味のあることと、ないことの境目の曖昧で、やらなければならないことなんてまるでないように過ごす。しかし、単位もしっかり取って、就職もちゃっかり取れる。強かな女性だった。
「それにしても驚いたよー高くんが仕事辞めちゃうなんて」
「ははは、面目ない」
「最近だとおかしいことじゃないでしょ。大体十円禿出来たり、十四連勤にも屈しなかった高くんが辞めるってよっぽどでしょ」
「まぁ、そうだね」
「あッ、おいしそうなシュークリームある。食べてこ」
美咲は店に向かって走っていく。私の返事も聞かずに走るので、私が見ていない、聞いていなかったらはぐれると思うのだが、彼女はそういうことを考えないのだろう。
「すみませーん。このキャラメルシュークリーム二つください」
私がついている頃には既に彼女は注文を終えていた。私がメニューをまじまじと見つめていると、頼んだ片方を私に渡してくる。
「えっ、二つ食うんじゃないの?」
「人がせっかく気をつかってんだから、そういう冗談言うと怒るよ?」
渡されたシュークリームを受け取ると、彼女は大きく口を開けてシュークリームを食べる。私も一口食べる。キャラメルクリームが口の中に広がって幸せな感情に包まれる。
「高くんキャラメル好きだったよねぇ」
ニヤニヤと笑う美咲を見て、私はすぐに財布を出す。
「あぁいいよいいよ。私が食べてほしいなぁーって思っただけだし、高くんニートでしょ」
「うっ」
「高くん、大学の時、よく奢ってくれたじゃん。だから私もおごりたいと思った時はおごるんですー。参ったか」
なぜか彼女は鼻を高くして威張った。私は彼女に対して思わず笑みがこぼれる。
「……参りました。でも流石に奢ってもらってばっかはこちらのメンツが」
「だから私が奢りたいって思った時だけ」
美咲は私の顔を見てまた一面と笑みを浮かべる。
就職活動をしている時、彼女の存在を私は少し疎ましく考えていた。仲は良好だったのだが、私は彼女を意識して就職活動をするほどエネルギーはなく、自分が内定を貰ったら、彼女の状況など関係なく、決めてしまった。彼女もまたそうであった。
だから彼女は梅田で仕事を見つけて、私ははるか遠くの地で営業として働いた。
くだらない話をした。最近見ているドラマや、本の話。私は親が優しすぎて辛いとか、美咲は最近、梅田は美味しいお店が多いせいで、仕事帰りに食べすぎちゃうって話とか三ヶ月も顔も連絡もしてなかったので、私は少し不安と緊張が入り混じる。
美咲の方はそんなことはないのか、口数は大学時代のままで、大学時代のデートを想起させる。だからこそ、初任給とやらで買ったひらめくスカートが一際目立つ。そのスカートだけが大学時代と違うことを主張している。
「高くんさぁ、気分転換出来ている?」
「えっ? なんで」
「なんか、なんとなく」
「そっかー」
その後、美咲は私よりも前に出て、フードコートを目指す。
「高くん何たべる?」
振り返った後、フードコートを一周してしばらく迷う。
「迷いすぎじゃない?」
「んー、こう色々あるとどれにしたらいいのか……」
「高くん。優柔不断だよね」
「大事だよ? しっかり迷うの」
「そうやって迷っているから、無職になるんじゃないの?」
「…………」
結局私はラーメンを選んで、美咲はオムライスを選んだ。
「懐かしいねぇー、学生の頃はよくこうしてイオンモールのフードコート行ったねー」
「懐かしいって、いうて半年程度じゃん」
「えぇー、半年でも長いよー」
彼女はデミグラスで彩られたオムライスをもぐもぐと食べている。一回にスプーンに乗せる量がとても大きくて、口をガバっと開けて食べるのが特徴的でその口をやけに見てしまう。彼女は見られているとも気づかずにもぐもぐ咀嚼する。
私もラーメンをすする。ベタな醤油ラーメンだけれど、それがなんだか懐かしさを感じて定期的に食べたくなるのだ。普段はとんこつラーメンとか、サッポロ一番の塩ラーメンなのだけれど、醤油ラーメンにはそういう力がある。
「ッ」
胸がぐっと苦しくなる。我慢しようと下唇をぐっとかみしめるけれど。オムライスを咀嚼していた美咲もこちらをじっと見ている。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫」
美咲はオムライスを食べる手を止めて心配そうにこちらを見つめてくる。少しだけ痛みが揺らいだ気もしたが、油断すると揺らいだ痛みがさらに締め付けられてしまう。
「本当なんだね。先生が言っていたの」
「まぁ、発作みたいなもんだから。悪い」
「いいっていいって、お水とかいる?」
「あぁー、お願い」
美咲は席を立ち、水を取りに行く。私は痛みを抑え込もうと俯く。俯くと、ラーメンのスープが近づいて鼻にあったかい醤油の匂いに包まれて意識が痛みから醤油の匂いに上書きされていく。
私は蓮華を取って、ガバガバと醤油ラーメンのスープを飲み続けた。醤油の香りと、焼ける舌や頬の感覚が痛みを誤魔化してくれる。私の手は止まらなかった。胡椒でも味付けされているからか、飲みすぎて喉先が辛くて痒くなる。それでも飲むのをやめられない。ズズズ、ズズズ、ズズズ、詰まっていた鼻水が溶け出る。それをまた鼻奥に吸い込んで戻す。ズズズ、ズズズ、ズズズ。
「高くん。お水だよ。胸の痛みは大丈夫なの?」
美咲が水の入った紙コップを持ってきてくれたので、その水で焼けた舌を冷やす。
「ふぅー」
「痛みはどう?」
「まぁちょっとはマシに、なったかな?」
流しこんだせいで熱くて苦しい腹に冷たい水がスーっと通り抜ける。息も少し荒くなる。
私は残っているラーメンを少しずつ食べる。美咲も残っているオムライスを食べ始める。
「高くん。この後はもう帰ろうか」
二人とも食事を終えて、水をゆっくり飲んでいた時だった。美咲は微笑みながら私を見た。
「えっ? いいの。まだもうちょっと遊ぶことないの?」
「残りは家でテレビ見たりでもしよう?」
彼女は優しく微笑んでいて、心配させてしまっていることは明白だった。
「いいよ。せっかくの休日でしょう? 遊ばなきゃ」
「いいの。高くんそんな状態なのに呑気に遊べないよ」
彼女は私のこの病気を重いものだと感じているのか、私に気を遣ってくれた。
「それに、この後特にしたいことがあるわけでもないしね。おうちでテレビでも見ようよ」
美咲がそういうと私は何も言うことがなく、彼女に従って彼女の家に向かって帰宅することにした。帰り道は私の会社での愚痴を彼女にゆっくりと話す流れになった。話す度に胸の痛みが少しずつ響いてきた。
彼女の家についた時、私は絶句した。汚い。散らかっている。それが第一印象だった。
かろうじて自分が眠るベッドの上は聖域のようにきれいなのだが、そのベッドの下。机の上にはコンビニ飯のゴミや買ったのだろう服や雑誌が乱雑になっており、着替えも壁にかけているスーツ以外は一か所に山のように乗せている。
「ね? 汚いでしょう」
美咲はそういってベッド鞄を恐らく所定の位置であろう散らかっているところに置く。
「高くんもとりあえずそこに置いておいて」と言われたので、鞄をその横に置く。
彼女のために擁護しておくと決してゴミ屋敷というわけではない。歩くスペースがないわけではない。ただ『散らかっている』という印象だった。この部屋に入っている時に目に入ったキッチンが物凄く綺麗だったのも含めて異様な空間に感じた。
机の上にも本やごみ、中身のないペッドボトルが多い。
「ほら、ごみって分別するから出す日守らないといけないらしくて、でもその管理が出来なくて、私……」
へへへと笑いながらベッドに座る美咲、私もその隣に座る。
「彼女として、彼氏にこういうの見せたくないんじゃないの?」
「私、わりと高くんとの将来考えているんだ。だから、汚いところも見せなきゃね」
彼女はなぜか自身ありげに誇った顔をする。また胸が締め付けられる。
「悪いな無職で」
「もー」
彼女が呆れたように言いながら私の膝に頭を預ける。私はものが雑多になった机をじっと見つめた。
「あっ」
思わず声が出た。机の上には本や、謎の猫の置物、彼女の好きな任天堂switch、そして灰皿と吸い殻。
「ん? どうしたの? 高くん」
私の膝を枕にしていた美咲はそのままの体勢で机の上にある煙草を手に取る。
「あっ、高くん煙草の匂い嫌いだっけ? 大丈夫? ここ臭くなかった?」
美咲の部屋自体はしっかり消臭されていたからか、灰皿を見るまで、ヤニ臭さは感じなかった。
「美咲、吸ってたんだね」
「ううん。社会人になってからだよ。ごめん、ちょっと吸ってくる」
そういって美咲はたばこを持ってトイレの方へと言った。
「ベランダじゃないの?」
「あたし、煙の匂いが好きなんだ」
そういって彼女はトイレへと移動していった。私はあの美咲がたばこを吸うようになっていた事実をいまだに受け入れることが出来なかった。トイレにも灰皿があるのだろうか。机の上にある灰皿はそのままで、私はその灰皿を見つめた。ありとあらゆるものが雑多にある中にその灰皿だけが私にとって異彩を放っていた。
彼女は煙草の匂いが嫌いな俺のためにトイレで吸っている。どういう景色なのだろうかと考える。
密閉された空間で吸う煙草の煙は天井に触れて広がっていく。そこから壁を伝って降りてゆき、その空間を包んでいく。この空間は煙で包まれていく。一か所をゆらゆらと舞っていく煙はそのまま美咲を包んでいく。彼女が好きと言っていた匂いに包まれる。
彼女が吸った煙草によって発生した煙は天井に当たって沈んでいく。それを彼女は鼻から息をゆっくり吸って煙を体内に取り込んでいくのだ。あの匂いを吐いた後も吸いたいとは随分と変わった女性だと私は疑問を抱いた。しかし、夢想した美咲の姿を私はなぜか神々しく感じ、胸の痛みがスーッと引いた気がした。
プシュー! プシュプシュ! プシュー! プシュー!
突然響いた音に夢想ははじけ飛ぶ。その後、トイレの扉が開かれた音がする。彼女が部屋に戻ってきた。彼女の服から煙草の匂いが漂ってくる。
「トイレは一応消臭スプレーしたけれど、まだ匂うかな?」
「いや、いいよ苦手っちゃ苦手だけど拒絶反応が出るわけではないし」
まだ心配そうな美咲は窓をあける。ひゅーと冷たい風が入ってくる。
「それにしても、確かに汚いなぁ」
「うん。会社から帰ったらもう夜だし、そこから片付けるのはだるいしねぇ」
「ごもっとも」
私も大学時代は講義のない日や、午前中しかない日に集中して掃除をしていたり、私が住んでいたアパートはいつゴミ袋を入れても許されたので助かったが、美咲の条件ならこのような部屋になっても仕方はないだろう。
「明日はどうする?」
美咲が背中に頬を当ててくる。
「俺はもう片付けを始めたいんだけど」
「えぇー休日にー?」
「美咲がいる状態じゃないとできない掃除もあるじゃん」
「もぉー高くんは真面目だなぁ」
ぶつぶつと言いながら美咲は背中から腕を回してくる。私は倒れるようにベッドに身体を預けた。美咲もつられて倒れる。寝転がった私の背中にぴったりとくっついた。私はなんとなくテレビをつけてバラエティトーク番組をBGMに身体を振り返らせて、美咲の身体をまさぐった。美咲もまた私の身体をまさぐった。
その夜、私は彼女と抱き合いながら眠りにつこうとしたのに眠ることが出来なかった。
「大丈夫?」
暗い中で美咲の声が聞こえる。私は反射的に大丈夫。と答えるが、美咲は自分の額を私の胸部にこすりつける。
「嘘つき」
美咲の言葉に私は寝た振りをして返事をしないようにした。胸が痛くなった。
「痛いんでしょう。胸」
「…………」
「ねぇ、高貴のこと、私は好きだよ」
「ありがとう」
「うん。まぁ、だから。ちゃんと直接話してほしかったな」
「ごめん」
「うん」
「今さらだけどね」
美咲の笑い声が聞こえた。彼女の頭をなんとなく撫でる。彼女は付き合う前と態度が何一つ変わらなかった。こちらが少し距離を取っていても彼女は何も責めずに彼女の方が駅に降りてきてくれたのだ。そして、私の手を引いて電車へ向かう。
「なぁ、美咲さん」
「ん? なんですかい?」
「俺、美咲のために生きてもいいだろうか」
「……ほんの少しの間だよー」
ほんわりと彼女は言った後、黙り込んでしまった。彼女は眠ってしまったようだ。私も気づいた時には眠っていた。
美咲のいない。美咲の家。掃除、洗濯、冷蔵庫の管理、買い物。全て終えて、少し疲れた私はテレビをつけてちちんぷいぷいを見る。冷蔵庫には私が買ってきた食材で溢れていた。部屋も随分ときれいになったと思うが、彼女は収集癖があるのか、片付けてもどうしようもないほど物が溢れていた。捨てるわけにもいかず、どうしようかと悩み、諦めてベッドに身体を預けて、ちちんぷいぷいではしゃぐ芸人を呆然と見つめる。
ふと携帯を開いて、LINEで彼女から「そっちどう? 綺麗にしてくれた?」と連絡を見る。それに対しては適当なスタンプを送る。
その後、LINEを閉じようとしたが、なんとなく、「美咲」「父」「母」の下にあるトーク履歴一覧を見つめる。その中にある元同僚にメッセージを送る。
『今日、そちらは休日だと思いますが、どうですか?』
どう話して良いかわからず敬語を打ち込む。もちろん、すぐに返信がくるわけでもない。営業職は土日休みではない。仕事をしてから美咲と会わなくなったのもそれが原因だ。だから同僚の男の子は今日お休みをいただいていると思った。きまぐれだ。なんとなく、しっかり過去と向き合った方がいいのでは。と感じたからだった。
打ってすぐに後悔した。妙な疲れがあり、返信こなければ良いが。などと考えてしまう。LINEで一度打ち込んだ文面の消し方を私は知らない。
横になり、なんとなく股間をまさぐってみるが、固くなるだけで興奮はせず、無意味に固められた臀部はうつ伏せで寝る私の胴体とベッドに挟まれる。まさぐったままの手もあれなので、無駄に5分ぐらいかけて手を洗った。手がふやけて気持ち悪くなった。
だんだん何を考えるのも面倒になる。そういえばやっているスマホゲームが体力満タンだったはず、消化しなければとも考えたが、身体が動かない。
目を閉じる。真っ暗なのだけれど、部屋に電気がついているので仄かな灯りが入ってくる。うつ伏せで腕を枕にして光を遮るが、今度は腕が痺れた。ベッドに顔を押し付けるが、次は鼻が痛くなる。コアラとペンギン、どちらが強いのだろうと関係のないことを考えているうちにその思考は霧散して消えていった。
美咲の手に惹かれて電車に乗る。満員電車だ。けれど、なぜか快適だった。私の周りに人がいないのだ。まるで私の周りにバリアがあるように。私の右手を美咲の左手が握ってくれているが、彼女の手の先は雑多な人々に埋もれ、彼女の姿は見えない。私は必死に彼女の手を強く握った。もっとみんな私の方に詰めてきても良いのに。そんなことを考えたが、私の周囲だけのびのびとした空間が空いている。
私は耐えきれず美咲の手を引っ張る。しかし、彼女はこちらにこない。雑多な人々が邪魔をして彼女が僕の近くに来ることはない。彼女の顔を見ることが出来ない。
「夜。夜です」
アナウンスが聞こえる。電車の窓から差し込む光が暗くなっていく。電車はゆっくりと止まり、私の後ろにあった扉が開かれて、中にいる雑多な人々は向かい側の電車に向かって早歩きで向かう。私も顔の見えない美咲に引っ張られて、向かいの電車に乗り継いでいく。狭い扉に多くの人が吸い込まれていく。皆は自らの足で歩いて規則的に電車を乗り換える。しかし、私は美咲に引っ張られ、他の人達に押し出されるように新しい電車に吸い込まれてゆく。
「高くーん。高くーん」
目を開くと美咲が私の顔を覗き込んでいた。私は眠っていたことに気付き、彼女に「おはよ」とだけ告げる。美咲は笑顔になって私を見下ろして、おはようと返す。
彼女は私から離れて、来ていたスーツを脱いで部屋着に着替える。私はゆっくりと身体を起こす。
「ありがとうね、部屋を綺麗にしてくれて」
「捨てていいかわからないものはとりあえずそこに置いてる」
「ありがと」
「後、ごめん。飯作れてない」
「いいよいいよ。そこまでは悪いし。どうする? どこか食べにいく?」
「せっかく部屋着に着替えているのに?」
「それもそうか」
「もうお茶漬けとかでいい?」
「いいよー」
私が立ち上がってサトウのご飯をレンジに突っ込む。私が起き上がって出来たベッドのスペースに部屋着に着替えた美咲が大きい音を立てて寝転がる。ティファールでお湯を作り、その二つを待っている間に携帯を開くと、同僚からの返信が来ていた。
『元気にしているが、上司がなぁ……。お前が去った理由がわかるわぁ』と軽い感じで話していた。私は様々な感情が混じっていたのだが、確かにそこが一番の要因だろうと考え
『そうそう』と軽く返事をする。
『そっちは今どうしているの?』と返事が来たので『療養中~』と打ち込んだ後、可愛らしいキャラクターのスタンプを押す。
『俺も辞めようかな……』と愚痴を始めた同僚に対して私は冷静になって考えて、辞めるかどうかを考えたほうがいいぞ。などと語り聞かせて彼に仕事を辞めさせないようにした。
辞めた人間が何を言っているのか、傲慢だなと考え、胸に違和感を抱く。
チンッ! と高い音が響く。私はサトウのご飯を開けて、茶碗に移す。そしてお湯も出来たので、茶漬けの元をご飯の上に振りかけてお湯を注ぐ。冷蔵庫に残っていた鮭フレークと一緒にテーブルの上に運ぶ。
「あぁーごはんだぁ」
「美咲、仕事お疲れさま」
「うむ。鮭茶漬け?」
「それはお好きにどうぞ」
私はそういって鮭を入れずにお茶漬けを食べ始める。出来たてお湯で作ったせいで舌を火傷した。
美咲は鮭フレークをこれでもかと入れ始める。もはやお茶漬けは鮭に侵食され、上から見ただけではただの鮭フレークと呼べてしまうほどだ。
「そんなに入れたら味すごいことにならない?」
「そう?」
美咲はきょとんとした顏でその鮭フレーク丼と化したお茶漬けを食べ始める。冷蔵庫に入れていた冷えた鮭フレークのおかげか、彼女は私のように舌を火傷することはなかった。
「いやぁー、幸せだなぁ」
鮭塗れのお茶漬けを食べながら美咲がぼそっと呟いた。私は思わず笑ってしまった。
「どうしたの急に」
私は思わず彼女に聞いた。付き合っていた当時から彼女にここまで言わせるほどお茶漬けが好物であるという認識はなかったので、がぜん興味が湧いたのだ。
「いやぁ、誰かとご飯食べるっていいよねぇーって。私ずっと誰かと食べていたけど、最近は一人だったからさぁ」
彼女はそう言いながらお茶漬けを食べる。
「ちょっと入れすぎたかな」なんてはしゃいだ声で言いながら。
私もそうだったのだ。一人で食事をすると言うのは酷く寂しいものなのだ。
「そだね。誰かとご飯を食べるのは大事だね」
「でしょう?」
なんて笑いながら美咲はテレビをつけ始める。好きなバラエティ番組が始まるらしい。
お茶漬けを食べ終えて、私は食器を洗面台に移す。今日洗うのは面倒なので明日にする。
キッチンからリビングに戻ると、美咲はテレビを見ながら、スマホでゲームをしていた。
「高くーん」
「はーい」
「今度の休日は何をしようか」
「まだ月曜日なんだけれど」
「しっかり考えておかないとダラダラしちゃうよー?」
「んー、映画行こう」
「いいねぇ。なんの映画」
「ペンギンが出てくる奴」
「面白そうだね。それにしよう」
「コアラとどっちが強いだろうね」
「なにそれ」
彼女との夜は、お互いにボケーっとしてテレビを見ながらくだらない話をして、なんとなく時間が来たらお風呂に入って、歯を磨いて、そして眠るというものだった。
「大丈夫? 高くん眠れる」
ベッドで横になっている美咲は少し色っぽくて股間が膨らむ。しかし、なんとなく彼女にそういったことをしてはいけないような気がして私は彼女に背を向ける。
「背中」
彼女は呟いた後、私の背に抱き着いて眠りについた。今日は一際疲れたのだろう。
私は昼から夕方まで眠ってしまっていたのもあり、彼女と同じタイミングに眠ることができない。私はこれからどうしよう。小中高大を終えて、適当に社会人として生きていくはずだったのだ。何も疑問を抱かず、何も苦労もなく。
鼻が詰まる。呼吸がしづらくて口で息をする。すると喉が渇いて、眠る前に横に置いておいたペットボトルから水をグビグビと飲む。
美咲が眠って、私にしがみついていた腕を離す。私は眠れない自分に嫌気がさしてベッドから出ることにする。暗さに慣れた目で部屋を見渡した後、美咲の顔を見る。なんとなく彼女の髪をゆっくりと撫でる。
私がなりたかったものはなんなのだろうか。美咲の家に転がり込んでよかったのだろうか。私はどうすれば良いのだろうか。仕事を与えられても、彼女の家にいる私は心が落ち着かないのだ。
ベッドから出て、トイレに籠ってスマホを弄ることにする。トイレは彼女が煙草を吸うせいでどれだけ消臭スプレーなどを駆使していても、煙草独特の妙な匂いが漂っている。
スマホで見るのはTwitter。色んな人の日常を切りぬかれたこのアプリは自分よりも大変な人も、自分よりも幸せな人も、自分より賢い人も、自分より愚かな人間も簡単に提示してくれる。だからこそ、自分の立ち位置がわからなくなる。
コンビニではしゃいで盗撮されていた大学生がいた。彼らを総攻撃しようと、その動画を見たものたちが彼らの特定に勤しんだ。そして特定された結果浮かび上がったのが、彼らは、僕が受験して落ちた大学の生徒であることがわかった。
とある成功者のコラムがあった。そのコラムを書いた人は昔虐められた経験もあり、学校も中退して、会社もすぐクビになった人だったそうだ。それが今や1000人を超える従業員を抱えた社長だというものだった。
なら、今の私はどこにいるのだろうか。私は愚かなことをしていないが、偉業も成し遂げていなかった。そして今は平凡ではなくなった。愚かなところに立ってしまったのだ。
そして私はそこを救ってくれる人はいなかった。幼い頃から、他人を見定めていたつもりだった。そしてまた新しい場所へ新しい場所へと、進んでいった。その度に元あった関係をかなぐり捨てて。捨てて、捨てて、新しい物を作って、また捨ててを繰り返していった先に、私には『縁』というものをほとんど持っていないことに気付いた。
母の誕生日はいつだっただろうか。山本くんは今どこにいるんだったか。山本くんを弄った映像を作った彼の名前は? 中学時代に付き合った女の子の苗字はなんだったか。高校の時にダンスを一生懸命教えてくれたクールな彼の名前は? 小原たちと遊んだゲームで俺が使っていたのはどのキャラクターだったか。大学時代に中退した彼の名前はなんだっけ。さんざんいやがらせをしてきた上司の下の名前はなんだったか。
全てが工場の煙のように上へ上へ登っていって消えていく。きっと私もそうなのだろう。
誰かにとっての煙。『木島 高貴』という存在は煙のように上に登っていって、そしてその煙はいつの間にか空と一体化して存在しなくなる。あるのは煙があったという記憶のみ。
最後には霧散していく。それなのに私は自分に纏わりつく煙だけを鬱陶しがり、煙のない場所へ場所へと進んでいったのだ。皆が煙だらけの場所で生きている間に自分は、その煙を吸えずに逃げたのだ。逃げて逃げて、逃げ続けてついには逃げ場を失って、居場所を失う。工場から吐き捨てられた煙のように霧散して
「いた」
声がして、そしてその直後頭を撫でられた。顏を上げると、寝ぼけ眼の美咲が私を見ていた。
「もう、ビックリするじゃん」
囁くような声で言った彼女は私を抱きしめた。ズボンを脱いでいないのでただ個室に籠りたかったというのは彼女もわかっているのだろう。
「急にいなくならないでよ」
「なんか、ごめん」
「どうしたの。怯えた顔して」
「別に……」
美咲はさらに僕を抱きしめる。美咲は僕の肩に鼻を当てて大きく息を吸う。私もつられて息をする。煙草の匂いがした。
「ふふっ、いい匂い」
美咲はそういってまた目を閉じた。
「美咲、ここで寝るのはマズイ。起きて、ごめん。ベッド戻るから起きて」
「んー、だるーい」
美咲の突飛な行動に慌てて彼女を揺り動かす。彼女を何とか起こして私もベッドに入る。
「もう、勝手にどこか行かないで」
寝ぼけて彼女がそんなことを言った。彼女はさっきよりも強く私を抱きしめた。
思えば、どこにも行かないでと言ってくれたのは彼女だけかもしれない。私も彼女を強く抱きしめる。
彼女の肩のあたりからする煙草の匂いを私は吸い込む。目を閉じて夢に入る。
電車の駅に一人でベンチに座っている。家に帰ることもできず、電車に乗ることもできなかった。そんな私の隣に美咲がちょこんと座る。
「お隣いい?」
「いいよ」
「今日はどこに帰ろうか」
「君のところに」
「何それ」
彼女は笑いながら煙草を取り出して吸い始める。僕は「一本いただけますか?」と聞く。彼女は何も言わずに一本とライターを渡してくる。
「ライター、持っていないでしょう?」
ライターをつけ慣れていない僕は手間取ったが、なんとかついて、煙草を吸う。実際に擦ったことないせいで紙を丸めたものを咥えたような感覚と、外から香る煙草の匂いを口に入れている感じしかしなかった。
「美咲はどこに帰るの?」
「高貴のところ」
「なにそれ」
二人はキャッキャと笑う。
「高貴が帰ってきてくれて、嬉しかったよ」
「俺も、やっと実家に帰れたよ」
煙草を吸い殻捨てに捨てる。電車がやってくる。
「じゃあ、美咲。また帰ってくるから」
「うん。私もそっちに帰るね」
美咲はそう言って、僕と同じように煙草を捨てると、向かい側の電車も到着した。
「じゃ、いってらっしゃい。行ってきます」
「はい。いってらっしゃい。行ってきます」
そういうと僕と美咲は互いの電車に乗る。僕が乗った方の電車は美咲が乗った方よりも人が少ないが、まったくいないことはない。人の少ない電車だが、寂しさはない。むしろ自らの足でしっかりと乗ったことに誇りを感じてすらあった。レールはズレた。僕と彼女の乗るレールも、僕と山本くんが乗るレールも、僕と初恋のあの子のレールも、小原たちとも、宝田たちとも僕は乗るレールがズレた。しかし、僕は電車に乗ったんだ。いつかLINEでの連絡じゃなくて、しっかりと同窓会を開こう。僕が主催で、会いたい人を集めた同窓会をやろう。そこを僕の帰る場所にしよう。みんな迷惑がるだろうか。それでも、僕は気にも留めなかった煙となった彼らを吸い込んでいかないといけない。その煙を好きになれるように、自分を好きになっていかないといけない。
「お帰り、遅かったねぇ」
「うん。ちょっと遊びすぎたわ」
美咲の家の扉を開く。彼女は珍しくキッチンに立って料理を作っていた。僕は大学の後輩に連絡をして遊びに言っていたところだった。
「そういえばアルバイトの結果どうだったの?」
「落ちちゃったわ」
「あらら。その割には明るい顏だねぇ」
「そりゃ、楽しかったし、帰ってきたし」
「そう」
簡素に返した美咲は言葉こそ軽かったが、表情がゆっくりと揺らいだ。
「ごはん食べる? 簡易おでん作ってるんだけど」
「食べるー。うぅー寒っ」
「お母さんたちのところに帰らなくていいの?」
脱いだパーカーをクローゼットにしまっていると、美咲が話しかけてくる。
「ん? ちゃんと連絡入れているよ。だから来週の月、木の四日間はあっちで行く」
「了解」
美咲はそういうと簡易おでんを作った鍋をそのままテーブルに持ってきた。大根やちくわ昆布などをカツオ出汁で煮ているものだ。
「「いただきます」」
二人で手を合わせておでんをつつき合う。彼女は僕に会社の話をしてくれた。僕は逆に彼女に今まで話さなかった過去の話を存分にした。それが僕を求めてくれた彼女に対して出来ることでもあるし、僕自身が、彼女には過去を話したくなったのだ。
「美咲」
「何? 高くん」
「僕、美咲といる時が一番落ち着くよ」
「そう」
「まだ胸は痛むけどね」
「そういう時はちゃんと言ってください」
「はーい」
二人で和気あいあいと食事をする。彼女の作った料理はおいしくて、明日はこれより美味しいものを作ってやろうと変な対抗心が出て、冷蔵庫の中身を思い出して献立を考える。
「高くん。週末、どこにいこうか」
僕にこうして誘いかけてくれるのは美咲だけだった。僕はしばらく考える。自分がしたいこと、彼女もしたいと思えること。
「本屋に行こう。それで日曜日にはその本を読もう」
「いいねぇ」
美咲はニヤリと笑う。彼女は大きい大根をガパっと口を開けて全部口の中に入れる。その顔が豪快すぎて僕は思わず笑いだしてしまった。
「何、そんなに面白い?」
「いや、ごめんごめん」
少し怒っているような彼女の顔を見て、僕の心はスーッと晴れやかになる。実家にいるときよりも、友だちといる時よりも、一人でいる時よりも自分が『自分』であるような気がする。自分がここにいると実感させられる。そう思えるほど彼女の目は僕をじっと見つめてくる。
「美咲」
「何?」
「ただいま」
自然に出たその言葉に美咲は、一瞬きょとんとしたが、すぐに穏やかな顔になった。
「おかえり」
そして二人はまた話始めた。年末お互い田舎に帰らなければならないとか、年始に何しようとか。新作ゲームの話とか、下ネタとか、政治のこととか、結局コアラとペンギンなら、忍空に『ヒロユキ』って名前のペンギンいるし、ペンギンの方が強い。と答えると、美咲はボーボボにはガ王ってコアラが出るからそっちの方が強いと返す。とか。
そんな気にも留めない、空で霧散していくであろう話を、僕と美咲はそれぞれ求めて、話し続けた。お互いの瞼が重くなるその時まで、何も考えず、だらだらと語りつくした。
登りゆく煙が如く 春之之 @hiro0525ksmtc
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