逆様神様の塔の殺人

「被害者はハンフ・トゥ・ドゥープ、建築屋ね。現場は無風の平野……ああ、逆様の塔の辺りよ」

 アイリは目を覚まして、まず最初に、いつもとは違う圧迫感を覚えました。

 それからすぐに、ここが青空法廷でなく室内であることに気づきます。

 両側には柄のない漆喰の壁、見上げれば梁のないのっぺりした天井。いくつか電燈がぶら下がっているぐらいで、壁には窓さえ見当たりません。振り返ってみても同じ景色が続きます。

 密閉された、白い箱のような部屋でした。

 視線を戻せば、煌びやかな服に身を包んだ王妃様が高級そうな椅子に腰かけていますが、いつもと同じなのはそれぐらい。何をするでもなく隣でおろおろしてばかりいた王様のような人はいません。

 王様だけではありません。陪審席もなければ、石版にペンで何事かを書き付けていたデフォルメされた動物たちの姿もなく、槍を構えたトランプ兵の一人さえいません。部屋の中にはアイリと王妃様のふたりっきりでした。

「どうしたの、キョロキョロと。そんな珍しいものがあるわけでなし」

「いえ……いや、それもそうですね。珍しいものはないです」

 なんにも無いのだもの。おかしな状況があるばかりで。

「ふん。いつもと場所が違って戸惑っているのかしら?」

「……そんなところでしょうか」

「でもあなた、今回は別にあなたを裁こうってわけじゃないのよ。裁判をするわけではないのだから出廷する必要もないの。簡単な話でしょう」

 よく分からない理屈でしたが、そもそも青空法廷自体が存在意義のよく分からないものだったので、とりあえず流すことにします。

「だとしたら、ここは? どういう部屋なんですか」

「私があなたに事件を押しつけるための部屋。それだけの舞台よ。シンプルでしょう? シンプルな目的にはシンプルな装飾がふさわしい。だから、ね」

 何も無い部屋を示すように、王妃様は手のひらを上に向けて片手を差し出します。

 対するアイリは、そらすように目を伏せました。

「事件ですか。しかし、裁判でないのなら、これまでのように引き受けなくても私には何のデメリットもありませんよね」

「そうね。でもあなた、あなたはもとから私の判決など気にしていなかったわ。好きなんでしょう? こういうの。知らぬとでもお思い?」

「好き……」

 アイリはミステリーが大好きな女の子です。自分で考えることもちょっとは得意でしたので、この不思議な世界でも何度か事件の真相を解き明かしたことがあります。

 ええ、興味はある。新鮮な体験を与えてくれるこの世界に、浸れるものなら存分に浸りたい。だけど……私は、私が思っている以上に、無責任だったのかもしれない。

 この部屋にいない、よく顔を知った兵士の姿が頭をちらつきます。

「……お引き受けする前に、事件の概要をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「ふん、自分の手に余らないか不安ってわけね」

 王妃様が勝手に納得しますが、アイリは特に反論もしません。まあいいわ、と一拍置いて、王妃様は裾から筒状に丸められた紙を取り出しました。紐をほどいて広げ、事件の詳細を話し始めます。

「さっきも言ったとおり、被害者はハンフ・トゥ・ドゥープという建築家。線の細い男で、無風の平野で倒れているところを発見されたわ。死因は脳挫傷。鈍器のような何か重いもので頭部に一撃を受けていたけれど、周囲に凶器になるものは見当たらなかった。犯人が持ち去ったのね。傷は深くおそらく即死。他に外傷は無かったわ」

「無風の平野というのは?」

「そのままよ。とおーっても広いけど、一切の風が吹かない平野。風の影響がないから、よく何かの実験とかやってるわ。それ以外のときはほとんど人の寄り付かないようなところだけどね。ハンフの死体を見つけたのもたまたまやって来た団体さん。発見時点で死後一日と経っていなかったのは、ハンフにとっても発見者たちにとっても幸いだったわね」

 まるでよくできたジョークを聞いた後のようにおかしそうにしてみせてから王妃様は続けます。

「ハンフの死体を調べた結果、どうも夜中に殺されたんじゃないかというのは分かったけど、そこからがさっぱり。探してみたところ目撃者はゼロ、手がかりもなし。凶器の形も特定できない。要するに誰でもハンフを殺せたんじゃないかってわけね。それで手詰まりになった」

「……お聞きした限りだと」言葉を選びながらアイリが言います。「私にお力添えのできる事件ではなさそうですけれど」

「最後まで聞きなさいな。ハンフが倒れていた現場の近くにね、塔が建っているのよ」

「塔、ですか」

 そういえば目が覚めたときにそんなことを言っていた気もするわ。なんだっけ、さかさま? これは、また……。

 期待にうずく自分に気づいて、なんとか抑えようとするアイリです。

「ええ、逆様の塔と言ってね。見た目は普通の塔なのだけど、中身がさかさまになっている」

「さかさまというのは、具体的には?」

「ひと言でいえば」

 王妃様は目盛りみたいに親指と人差し指を広げます。

「重力が」

 それをひっくり返しました。

「……外部から見た入り口が天辺で、本来の天辺が最下層にある、ということですか?」

「あら、理解が早いのね。そういうこと。仕組みは知らないけど、内部だけ重力が逆転しているのね。ただそれだけだから、何の意味があるかは分からないわ……どうやらお気に召してもらえたようで」

 頭の中でそのヘンテコな光景を咀嚼していると、王妃様が口角を上げて言うものですから、アイリはピクリと身体を震わせました。表情に出ていたでしょうか。取り繕います。

「ま、塔自体はどうでもいいのよ。問題はそこの住人。塔の天辺、内部からすれば最下層の方ね、そこに一人、娘が閉じ込められている」

「囚われのお姫様ですか」

 安直なイメージのまま、無意識に口をついた言葉でしたが、それを耳にした王妃様はハンと強く鼻を鳴らします。

「あれがお姫様なものですか。高慢ちきで小憎たらしい小娘よ。なんたって――」

 イライラした様子を隠そうともせず、王妃様は続けます。

「部屋から出られないくせに、『ハンフを殺したのは私だ』と言ってきかないのですもの」



「娘の名はリリス。リリス・バースデイ。逆様の塔の地上の最下層に閉じ込められている。まあ、そう指示したのは私なのだけれど」

「……質問したいことがたくさんあるのですが、構いませんか」

「でしょうね。いいわよ、今回は特別」

 椅子に深く腰かけなおした王妃様を前に、アイリは頭の中でひとつひとつ、確認すべきことを挙げていきます。

「まず、閉じ込められているとは、どのように?」

「塔の最下層に大きい部屋がひとつあって、リリスはそこに押しやられているの。部屋の扉は外側から鍵をかけるつくりで、鍵の開いているときは見張りが立っている。他に出入り口もないわ」

「リリスはなぜ閉じ込められているのですか?」

「あれは異形の子なのよ。あれを野放しにすることは余計な災禍を招くのと同義よ。放っておけないでしょう」

 異形に、災禍、ねえ。まったく具体性を欠くわ。こういうのって大抵ハッタリだったりするものだけど。

 仰々しい表現に、わずかに口をすぼめるアイリです。

「……魔女の類ですか」

「特別な力を持っているわけではないけど、まあ、そうね。魔女。それが近いかもしれない。口車にのせて人々を無益な争いに走らせる魔女よ。小娘だけど」

「その、リリスという子がハンフさんを殺したと言っていることについて、王妃様はどのように考えているのですか」

「そうねえ……」

 王妃様は考えをまとめるように少し黙りこくりました。

「本当なんじゃないかと私は思うわ。あれは、こういうところで虚言を吐く性格ではない。むしろ真実をもって煙に巻く性悪よ。だから、ハンフを殺したのはあの娘。今回あなたを裁判にかけずにいるのも犯人が分かっているからよ」

 特に反論はしませんでしたが、これまでだってどう考えても私が犯人じゃない事件ばかりだったわ、と思わずにいられないアイリです。王妃様、今日はまともそうだけど、やっぱり根はてんでダメダメなのかしら。

「ただ、あれが犯人だとすると、どうやって殺したのかが分からない。あれは逆様の塔どころか自分の部屋からすら出られないはずだから。そこがネックになるのね。それで、あなたの出番よ」

「……つまり、リリスがいかにしてハンフを殺したのか、その謎を解けと?」

「そうなるわね」

 ハウダニット一本ね。犯人が最初から分かっているのは珍しい……いや、ほんとうにリリスって子が犯人かどうか、それも調べなきゃいけないけど。

 ……トリックを当てるだけなら、背景に何があるのか気にしないで済ませられるかしら。あるいはそれでも気にかけなきゃいけないの?

「どう、引き受けてもらえるかしら」

 うつむいてしまったアイリに王妃様が声をかけます。わずかに逡巡をみせた後、アイリは顔を上げてから小さくうなずき、そしてすぐに続けました。

「引き受けさせていただきますわ。ですが王妃様。王妃様がリリスという子を犯人だと思っていらっしゃるのでしたら、こんな調査などせずとも、裁判にかけてしまえばよいのではないのですか?」

 アイリのイメージにある王妃様ならそうするはずだという、それは疑問でした。実を言うと私怨と皮肉も混じっていますけどね。

 対して王妃様は、フンとまた一つ鼻を鳴らして答えます。

「裁判にかけて、それでどうするの。首をちょん切ってしまえと? あなたもずいぶんと野蛮なのね」

「いえ、そういうわけではありませんが……」

 いえ、そういう話です。そのリリスという子が面倒ばかり引き起こすのなら、王妃様ならあっさりと死刑宣告を出すのではと、アイリはそう考えていました。

「冗談に決まっているでしょう、あんなの」

 ですから、王妃様のその発言の意味が、すぐにはとれませんでした。

「……冗談、ですか?」

「死刑がよ。なに、あなた本気にしてたの? そりゃ収監ぐらいはするけど、でもね、たとえ人殺しだろうが、わざわざ私がここの住人を殺したりするものですか」

 手をヒラヒラとさせながらなんでもないことのように、表情も変えないまま言います。

「私はこの世界が大好きなのよ」


   *


 気がつくと、アイリが立っていたのは見晴らしの良い平野でした。障害物もなく遠くまでよく見渡せます。それはもう、ずっとずっと遠く、地平線のかなたまで。

 王妃様と一緒にいたあの部屋からここまで、どうやって移動したのでしょうか。いつものように森を通った覚えはアイリにはありませんでした。

 ついに移動はショートカットかしら。王妃様との会話は覚えているわ。そこからの時間軸は、続いてる? 飛んでる? ああ、判断する材料がないわ……。

 空には高く太陽が昇っていますが、さっきまで何時だったのか分からないのでは意味がありませんね。とりあえず、空気の心地よく温かい、過ごしやすい気候ではありました。

 風の吹かないその平野を見回してみて、アイリはすぐに、アイリが立つ地点から少し離れて灰色の塔が屹立しているのを見つけました。

 真っ白な部屋、何もない平原、ぽつりと佇む塔……我ながら貧困なイメージねえ。以前はもうちょっとマシだった気がするのだけど。

 何へのため息でしょう、はふと一息ついて、塔へと向かってアイリは歩き出しました。他に目標物がない以上、そちらに向かうよりないので仕方ありませんね。

 歩きながら思い出すのは先ほどの王妃様の言葉です。死刑になどするはずがない、私はこの世界が大好きなのだ、と。

 ……ほんとうかしら。

 アイリに対するこれまでの言動を思い返すと、とてもではありませんが納得しかねますね。冗談ならもっと分かりやすく言ってほしいものです。でも、いまいち整理のつかない心の中で、王妃様の言ったことを受け入れた自分がいるのをアイリは認めます。

 正確には、受け入れたい、なのでしょうけど。

 死刑が冗談だったところで、何が変わるわけでもありませんでした。名前も覚えていないあの兵士がアイリのせいで死んでしまったことにはかわりないと、少なくともアイリは、そのように思わずにはいられないのですから。それでも、これが本当ならわずかでも救われるのではないかと、王妃様の言ったことを信じてみたくなるのです。ほとんど無意識のよすがではありましたけれど。

 そうして歩いている途中です。次第に近づいてくる塔以外に代わり映えしない景色の中、アイリは奇妙なものを見つけました。

 長さ十センチほどある色付きのピンが地面にたくさん打たれ人型を作っています。赤色です。

 断定はできないけど、ハンフさんが倒れていた跡かしら。けっこう、塔の近くだったのね。

 人型と塔までの距離は四十メートルほど。その間隔を確かめつつ、さらに塔へと近づいていきます。

 円柱形の塔です。見上げる高さは目算で二十メートルはあるように見えます。

 装飾のようなものはなく、砂岩を積み重ねただけといった感じの建築でしたが、その外周には二本のらせんが同じ向きに走り、等間隔で交互に並んで、塔に凹凸の溝を生んでいます。らせんは天辺まで続いているようです。大きさはまったく違っていて、片方は人の背丈を大きく超えるほどありますが、もう片方はアイリの腕をふた周りほど太くした程度のものでした。細いほうのらせんは鉄のようなもので出来ており、よく見ると塔の外周に触れることなく浮いています。パイプでしょうか。

 塔の円周をぐるりと回ってみると、そのパイプはらせんを描いたまま地面に斜めに刺さっていました。もう少し進むと、もう片方のらせんも斜めに地に着いているように見えます。

 なんなのかしら、これ?

 何度か窓も見つけましたが、逆光なのかなんなのか、覗いてみても薄暗くてよく見えませんし、開けようにもはめごろしのようなのでした。仕方なく円周をさらに進んで、ようやく入り口らしき扉にたどり着きました。逆向きに進んでいればすぐに見つけられましたね。ノックしてみますが返事はありません。引き返すわけにもいかないので、おじゃましまーす、と誰にともなく声をかけてから、扉に手をかけました。外開きでした。

 扉を開けてそこにあったのは、四方を白いクッションのようなもので囲んだ、『口』でした。

 ……ここから入って来いってことかしら。

『口』の向こうに明かりのついた空間が覗くのを見、クッションの感触を確かめてから、ちょっと迷って、アイリは『口』の中に入ってみることにします。身をかがめて、窮屈な通路を這って進むように、クッションに身体をあずけます。

「……? ……!」

 当然、アイリはうつぶせに入ったはずでした。しかし、いつの間にか自分の身体があおむけになっていることに気づきます。クッションに囲まれて上下左右も分かりませんが、自分が身体の向きを変えていないことぐらい覚えています。

 とすると、これが、そういうことなのかしら?

 進みやすいように身体をうつぶせに戻してのそのそと進んでいると、後ろの方でぎぃっと扉の軋む音がしました。どうやら自動で閉まるようです。そのままカタツムリかいもむしのマネを続けて、顔が出口にたどり着きました。ぽんと、反対側の『口』から顔だけ出す格好です。

 広がっていたのはだだっ広い空間でした。そこかしこに柱が立っていますが、家具や調度のたぐいは見当たりません。照明は弱くしっかりとは見通せませんが、軽く見渡した限りでは人もいなさそうです。出口からちょっとだけ下がったところが床になっていたので、アイリはそのまま這い出ると立ち上がり、服のよれを軽く直します。

 天井は低く、アイリの背丈でも背伸びして手を伸ばせば届いてしまうぐらいです。頭をぶつけないように気をつけつつ、外から見えていた窓に近づいてみます。

 ガラスの向こう――眼下には青空が広がっていました。

 足元が消えるような錯覚を覚えます。果てのない空は深く深く、ここから落ちたらどうなってしまうのだろうかと、奇妙な想像にとらわれてしまいます。視線を上に向ければ大地が迫り、なんとも言いがたい圧迫感を与えてきます。

 逆様の塔、ね……。

 塔の内と外で、転地がさかさまになっていました。もし塔の外壁が透けていたなら、外から見る人にとって、アイリは足の裏だけで天井に張り付くお化けみたいに見えることでしょう。

 しばらくそうして窓からの景色を眺めた後、辺りをうろついてみます。この空間は塔の一階部分のほとんどを占めるほど広かったのですが、それにしては一切の物がありません。天井も低いですし、入り口としての役割しか持たないのでしょうか。

 そうしてうろうろしていたところ、ふいにガチャリと、扉の開く音がしました。そちらへと視線を向けます。出入り口以外で唯一の扉が開かれており、そこからゆっくりと影が現れてきました。

 服が歩いている、というのが最初の認識でした。何かが上着を着ているのは分かりますが、胴体がはっきり見えません。扉から出てきたそれはその場にとどまりました。待ってみても動くそぶりがないのでアイリから近寄ります。

 つっぱり棒(?)が燕尾服を着ていました。

「…………」

 思わず無言で観察しますが、つっぱり棒が燕尾服を着ているとしか言いようがありませんでした。ピッシリと整えられた燕尾服をつっぱり棒が貫いています。下は穿いておらず、はた目には服が浮いているように見えます。袖からは白い手袋が出て、みぞおちの前で組まれていますが、何が詰まっているのでしょう。

 その姿勢のまま、つっぱり棒はわずかにコクと前傾して、それから自分の出てきた扉へと入っていきます。スムーズな平行移動です。移動にあわせてキュルキュルと器用に高さを調整しています。

 ……ついて来いってことかしら。

 入ってみると、扉の向こうにはゆるやかならせんを描く階段がありました。階上へと続く下り階段です。壁面のところどころに取り付けられたランプに照らされています。高さには余裕がありますが、幅はギリギリすれ違えるかといったぐらいしかありません。

 つっぱり棒が先導するように進んでいくのに着いていきます。壁に手を沿いコツコツと足音を響かせ、同じ景色をぐると回っていきます。

 ああ、なるほど。外から見えた大きいほうの『らせん』はここなのね。階段室ってわけ?

 下りていく途中、踊り場のようになっているスペースと塔の内側に続く扉を二回ほど見かけましたが、つっぱり棒が止まる様子をみせないので通り過ぎます。同じ角度を保ったままぐるぐると、何段、何十段と下りたことでしょう、あるいはとっくに百を越えて歩き続けて、ついに一番下へと降り立ちました。

 踊り場はなく、四分円の扇形をした空間と直接つながっています。入り口の部屋と違って高い天井です。塔の外周に沿うように、柱がボール大の間隔を空けてずらりと並び円弧を描いています。外から見れば塔の天辺に位置する地点ですね。気分としては最下層ですが、足元の方から差す日の光のおかげで、ずいぶんと明るい空間となっています。

 つっぱり棒がキュルキュルと動いて、一つの扉の前で止まりました。壁を背にして(服の正面がこちらを向いているので、そういうことにしておきます)、体の前で手を重ねるポーズです。

 扉には見るからに頑丈そうなかんぬきが落ちています。

 アイリはつっぱり棒の方をちらと見やってから、かんぬきを外し、ふぅとひとつ息を吐き出します。取っ手を握り、引っ張りました。きぃと軽い音を鳴らしながら少しずつ扉が開かれてゆきます。

「『神様は生命の星をお作りになられました』」

 部屋の中から唄うような声が聞こえてきました。とても愉快気で軽快な、凛とした少女の声です。アイリが部屋に入ると背後でパタンと扉が閉まります。

「『それから、森とか海とか動物とか、そこに生きるたくさんのものを作られました。ですがそれらはぷかぷかと宙に漂ってしまいました。これでは困りますね』」

 半月の形をした部屋は、無機質な印象を与える塔の中にあって、ここだけ別の世界のように色に溢れていました。真紅の絨毯に象牙色の壁。まず目を引くのは天蓋付のベッド、それから壁に飾られた何本かの杖、背の高い本棚、ティーセットの収められたワゴン、チェス盤の載ったテーブル、塔を模したモデル……雑多な物に溢れながら不思議と秩序を感じさせる室内には、住人の趣味と生活が溶けていました。

「『そこで神様は重力を生み出しました。こうして私たちは地上に引っ張られて生きることとなったのです』」

 部屋の奥、声の主である少女は窓に載せていた手をそっと離すと、アイリの方に振り向きました。その動きにしたがい、日を受けて透き通るような白銀の髪がふわりと揺れます。華奢な体躯をワンピースに包み、口元にやわい微笑を浮かべて相対します。

「つまりね、生きとし生きるものを地上に繋ぎとめる、重力というのは神様なの。だからここは神様に見放されてしまった建物。さかしまに立つ塔」

「……あなたが、リリス・バースデイ?」

 少女――リリスは、赤い双眸をわずかに細めて、世界に敵なんていないみたいな笑みで答えます。

「ええ、その通りよ、親愛なる遊び相手様。ようこそ、神なき塔へ」


   *


「あなたのお名前は?」

「アイリ。イルセ・アイリですわ」

「アイリ、アイリね。可愛らしい名前。そうね、二人用のゲームなら……ねえアイリ、モノポリーとRoom-25、どっちがいい?」

「それ、どうしてもやらなきゃいけないこと?」

「どうしてもー」

「そ……モノポリーって、あれよね、破産双六。Room-25ってのは?」

「ん。ソリッド・シチュエーション・騙し合い・サバイバルかな」

「モノポリーにしましょうか。ルール知ってるし」

 リリスはラックからボードを取り出すと、チェス盤を払いのけてテーブルの上に広げました。絨毯にチェスの駒が音もなく散らばりますが気にする様子もなく席に着きます。アイリも室内に入り、駒を踏みつけないように気をつけながら進んで、対面の椅子に座ります。

「はい、アイリの駒はこれね」

「どうも。あなたがハンフさんを殺したというのは本当?」

「ええそうよ」

 なんでもないことのように、リリスはあっさりと肯定しました。

「認めるんだ」

「言葉の上ならなんとでも言えるもの。私の自白に意味なんてないわ。そもそも私にはハンフを殺せないはずだから、第三者に認めさせるためには『どうやって殺したのか』を解かなくちゃねー」

「そっちの方は教えてくれないのね」

「全部教えたらつまんないもの」

 カードを種類ごとに揃えゲームの準備をしながら、楽しそうにリリスは喋ります。

 ハウダニット、ね。まあ、そういう話と聞いてはいたけど。……一筋縄ではいかなさそうなお姫様ね。

「先手はどうしよっか。私からでいい?」

「いいわよ。塔の外にあったピンの人型、あれがハンフの死体のあった場所?」

「そうみたい。ここからどのくらい離れてるかはよく分からないけど」

「塔の入り口までなら、だいたい四十メートルぐらいだったわね」

「ふうん、そうなんだ。わ、幸先のいい出目。オリエンタル通り、買うね」

「あなたはこの塔に閉じ込められていると聞いているわ。他の住人は?」

「他の階のことは知らないけど、いないんじゃない? 進んで住みたいところじゃないでしょう? こんな何もない場所」

「……地中海。まあ、買いね。あなたが外に出ないよう、見張りがいるとも聞いていたのだけれど」

「ああ、たぶんロールのことね」

「ロール?」

「見かけなかった? 燕尾服着たつっかえ棒。あれ、ここのキーパーみたいな人なのよ。名前は私が勝手につけたんだけど。いつもキュルキュル回ってるから、ロール」

 単純な名前ですね。アイリと同レベルのセンスです。

 でもそういう由来なら『スピン』の方が正しくないかしら。

「じゃあ、この塔にはあなたとロールの二人だけ?」

「たぶんね。バーモント通り、買うわ」

「……見張りがロールだけなら、どうにかすれば抜け出せそうだけれど。あなた、本当に閉じ込められているの?」

「来客でもない限りあのドアにはかんぬきが掛かってるし、それに、ロールってとても有能なのよ? 私があのドアから脱走しようとしても決して見逃さないわ」

 言外のニュアンスをアイリは感じ取りました。

「バルティック通り、スルーよ。……『あのドア』と限定したわね。それ以外の抜け道、あるんだ」

「さあ、どうなのかしら」

 うふふと笑みをこぼしながらリリスはダイスを手に取ります。

「でも、私がこの部屋の外にいるのを見つけたなら、ロールは全力で私を捕らえにかかるでしょうね。これでも囚われの身だから、もし脱走がばれたら、殺されちゃうかも?」

 駒を進めたリリスはそのマスの物件を買いました。さっきから買ってばかりですが、とりあえず買っておくスタイルなのでしょうか。

「あなたがハンフを殺せないというのは、あなたがこの部屋から出られないから、ひいてはハンフのいた平野に降り立てないからというのが理由でしょう。もし抜け道があるというなら、脱力ものね」

「そうかしら? 仮に抜け道があるのだとしても、それがどのような抜け道なのかを考えるのも楽しいことだと、私は思うけどね。……アイリ、ダイス運ないの?」

 出目は1でした。実は三回連続です。アイリは無言で駒を進め基金カードを引きました。寄付でした。

「それとも、あれ、これが幻のピンゾロチャージってやつ?」

「何それ」

「ダイスに確率を記憶させる戦術。出目を覚えたダイスは同じ出目を出しにくくなるのよ」

 リリスは確率論を全力で無視するようなことを言いました。そんなミステリー作品があったなと思い出すアイリです。

 ともあれ、方法論に関していま聞きだせるのはこれぐらいかな。

 アイリは部屋の中を見回します。

「ここでの暮らしはどう? やっぱり退屈なものかしら」

「退屈、退屈ねえ。生きていくのに必要なものはロールが運んできてくれるし、欲しいものもけっこう揃っちゃうから、退屈と言ってはバチが当たるかもしれないわ。話し相手がいないのはさみしいかもね。シルクロード、買うよ」

「たしかに、これだけの物があれば、この部屋だけで生活がほとんど完結しちゃいそうね。お風呂とかトイレは?」

「そっちの部屋」

 部屋の奥にある扉を示します。いまアイリがいる部屋は半月の形をしていましたから、そちらの部屋が四分円だとすれば、階段を下りてきたところの空間と合わせて、最下層の全体が一つの円に収まりそうですね。

 ……あれ、最下層?

 塔の構造を考えていたアイリはおかしな事に気づきました。思案する表情を見てかリリスが声をかけてきます。

「アイリの番よ。どうかした?」

「いえ……ここの水の流れってどうなってるのかしら」

「どうって、他と変わらないよ。上から下。外から見たら、下から上」

「それ、最終的にどうやって処理してるの?」

 水が下から上に流れるのなら、アイリが入ってきた入り口からいま居る最上階まで流れてきて、その後の行き場がなくなってしまいますね。そのまま外に流している様子も、塔の外側をぐるりと回ったときにはなさそうでした。

「ああ、そういうこと。そんなの簡単よ、さかしまなのは塔の内部だけなのだもの。ええと、全ての排水は最下層も通り過ぎちゃって、塔の屋上に置かれたタンクみたいなのに落ちるのね。で、このタンクは塔の外にあるから、神様の支配下。重力に引っ張られて、タンクから伸びるパイプを通って地面へと戻っていくの」

 リリスは人差し指を立ててくるくると回します。

「塔の外に巻きついていたパイプを見たでしょう? あれがそう。納得してもらえた?」

 塔の外周にあった二つのらせん。片方は階段室で、片方は排水管ということのようです。

「仕組みは分かったけど、なんか、ずいぶんと遠回りなのね」

 ダイスを振ります。出目は2。四連続は回避しました。今度は買います。

「私に言われてもね。そういうことは作った人に直接……ああ、そういうわけにもいかないか」

「作った人、っていうと」

「ハンフ・トゥ・ドゥープ。死んじゃってるから、もうどうしようもないね」

 そういえば建築家だったわね。ここでつながるんだ。

 ……相変わらず、顔も、性格も、信条も、生き様も、名前以外のなんにも分からない被害者。その名前だって、識別記号でしかない。

「天竺。んー、うん、なんとか足りてる。買うね」

「あなたは、どうしてハンフさんを殺したの」

 チップを払うリリスの手が止まりました。赤く大きな二つの瞳がまっすぐアイリに向かいます。

「それは手続き上の確認なのかしら。それとも本心から気になって気になって仕方ないこと?」

 問い返された言葉の意味を咀嚼しますが、アイリの中にも明確な答えはありません。

「……さあ、どうかしら。分からないけど、あなたという人格を理解する補助線にはなるんじゃない」

「わあ、すごい落とし文句。ふふ、いいよ、それなら答えてあげる」

 身を乗り出すように頬杖をついて、リリスは口を開きました。

「あのね、私、アイリに会いたかったの」

 ……どこかで聞いたのと同じ言葉に、アイリは息を呑みました。

 その反応に満足したのか、リリスはクスとひとつ笑います。

「というのは冗談。本当は新しい話し相手が欲しかったの。私には殺せないはずの状況を作って『私が殺した』って言えば、きっと王妃様が素敵な人を遣わしてくれると思ってた。だから、そうね、別にハンフでなくてもよかったわ。たまたま夜中に一人で無風の平野をうろついていたから狙ったというだけ」

「……同じことね。つまりは、目的でなく手段にすぎなかったということでしょう」

「お気に召さなかった? でもね、私がこの部屋から出られない以上、誰かに来てもらうよりないじゃない?」

「お手紙でも書いて紙飛行機にして飛ばせばよかったのよ」

「それは名案だわ。でもそれだと、私の来て欲しい人は来てくれなさそうだったのだもの」

「……リヒテンシュタイン。スルーよ。私はお眼鏡に適って?」

「まだまだこれから。もっとお話してみないと相性は判断できないよ」

 そう言ったくせに、どちらの口からも事件に関することやそれ以外の話題も出ずに、しばらくゲーム上のやり取りだけが続きました。戦略らしい戦略もなく気まぐれに判断して淡々と進めるアイリに対し、リリスは可能ならば購入と投資にお金をつぎ込み、そのせいで資産が足りなくなっては適当なマスを売りました。二人ともあまり考えずにプレイしているようなものでした。

「6。やった、これで黄泉比良坂のレベルがマックスね」

 リリスがマップの終盤にあるマスを最大まで大きくしました。ゲーム開始からかれこれ二十分ほど経ちますが、二人の資産にはあまり優劣がついていません。

 今さらだけど、このモノポリー、どこの版なんだろう……。

「アイリ、あなたなかなかのやり手ね。ここまで白熱したゲームは初めてよ」

「それはどうも」

「まあ、いつも相手をしてくれる子が強すぎて手も足も出ないだけなんだけど」

 モノポリーってそこまで実力差が出るゲームだったかしら。

「……そういえば、あなたはこの塔に閉じ込められているようだけど、入る側には特に制限はないのね。私もここまでなんのお咎めもなく入ってこれたし、ロール以外に見張りのような人もいなかったし」

「それはそうよ。なんで私がここに閉じ込められているか、聞いてる?」

「聞いたわ。災禍を招く異形の魔女なんですってね」

「なにそれ私知らない。……あいや、あながち間違ってもないのかな。魔女なんて大それたものでもないけどね。ただ、ちょっと、ほんとうのことを暴きすぎたの」

「ほんとうのこと」

「そうそう。みんなが言えないこと、隠したいこと、全部全部ね。それで、私が住んでいた街では、たくさんの人たちが喧嘩したわ。多くの関係を壊し、機会を喪わせた。私はほんとうのことを言っているだけなのに」

 苦笑を隠さずリリスは続けます。

「もうちょっと上手く立ち回れたなら何も問題なかったのでしょうけれど、私が私として生きようとする限り、この口はどろどろとしたほんとうを吐き出し続けるの。喉を焼かれたなら指が示すし、腕を失えば表情が見る人の鏡となるわ。仕方ないのよ、それが私なんだから」

 リリスはその細く長い指で自分の髪をひと房つまみ、さらと体の前へ持っていきました。

「みんな次第に、そのことに気づき始めた。この真白の髪も、赤い瞳も、珍しいでしょう? 綺麗だから私は好きなんだけど、みんなはそう思ってくれなかったみたい。守ってくれる人もいなくて、私は石もて追われる身になってしまった」

 ああ、魔女って、狩られる側のことだったのね。だとしたら……。

「もしかしてあなた、監禁されてるわけではないの?」

「うん、そういうこと。隔離、が近いのかな。私がみんなに悪影響を与えるから閉じ込められているって面は否定できないけど、一番は私の身の安全のため。そんなことひと言も言われなかったけど丸分かりよ。王妃様も素直じゃないでしょ?」

 ――たとえ人殺しだろうが、わざわざ私がここの住人を殺したりするものですか。

 ――私はこの世界が大好きなのよ。

「ええ、そう……たしかに素直な人ではないわね」

「ふふ。そんなわけで、私が外に出るのは許されていないけど、誰かが私に会いに来るのは勝手ってこと」

「そんな物好きがいるのね」

「いるのよ。数は少ない、というか一人だけなんだけど。貴重な貴重なお友だち……あ、やったあ!」

 アイリの駒は黄泉比良坂のマスに止まってしまいました。資産価値を最大まで高めたそのマスは、そこに止まった他プレイヤーの資産を根こそぎ奪ってしまうほど強力なものでした。簡単な暗算の結果、自分の資産が一撃で破産に追い込まれることをアイリは悟りました。

「これは全部売っても追いつかないわね。私の負けよ」

「やったやった! いつ以来かしら、ゲームに勝てたのは!」

 素直にはしゃぐリリスの様子は見た目相応に……いえ、それ以上に純真な幼さを思わせる少女のものでした。

 飄々とした態度と、純粋な無垢と……この子がハンフを殺した犯人と言われて、納得できるような、違和感の残るような……どうにも微妙なところだわ。

「そんなに強いの、そのお友だちとやらは」

「ええ、すごいのよ。モノポリーやポーカーなんかはともかく、チェスとかリバーシとか、運の絡まないゲームであの子に勝てたことがないわ」

 それ、リリスが弱いだけなんじゃないかしら。

「そこまで言われると一目会ってみたいわね、お友だち」

「会えるよ、すぐに」

 リリスはいたずらっぽく笑いました。

「あら、約束でも取り付けてた?」

「ううん、来てくれる日は気まぐれ。でもね、そういうのって直感で分かるのよ。人恋しい私の直感だもの、とてもよく当たるわ。だから今日は来てくれる日だし、とても楽しい一日になる……ほらね」

 リリスが言って、部屋の外からかすかに届いてくる足音にアイリも気がつきました。足音の主は階段を下りて、扉の前に立ち――コンコンと、控えめなノックが室内に響きます。

「はあい、どうぞ!」

 ゆっくりと扉が開かれ、その向こうに立つ人物の姿が目に入ります。

 見覚えのあるその姿に、思わずアイリは目を見開きました。

「こんにちは、リリス――と、アイリさんですか? これは、奇遇ですね」

 口元に手を当て驚いた様子で、ツワミーが立っていました。


   *


「え、え、なに、アイリ、ツワミーと知り合いだったの?」

 キョロキョロと視線をさまよわせるリリスを尻目に、アイリは肩の力を抜くように息を吐きました。

「お久しぶりですわ、ツワミーさん」

「はい、お久しぶりです。どうやら、お変わりないようですね」

 ツワミーはアイリがかつて関わった事件で知り合った女の子で、死体の動くお墓で会ったコジャクのお姉さんです。姉妹ですがコジャクと違って落ち着いたふるまいですしコジャクと違って突拍子もないことを言いませんしコジャクと違ってキテレツな行動をとったりしないのでアイリからの好感度もなかなか高いです。

「リリスのお友だちがあなたとは驚い、驚きましたわ」

「崩してもらって構いませんよ。リリスの相手もするなら、そちらの方が楽でしょう?」

「……お言葉に甘えるわ」

 こういった察しの良さがポイントです。

「ねえねえ無視しないでよー。ツワミー、あなたアイリのこと知ってるの」

 ちょっとふて腐れたようにリリスが割り込んできます。

「ええ。前に話したでしょう、私の屋敷であった事件のこと」

「お庭のやつね」

「あの事件を解き明かしてみせたのがアイリさんなのよ」

「へえ!」

 そう聞くと一転、リリスは赤い目をきらと輝かせながら両手を合わせました。

「あの事件をアイリが! それはすごいわ」

「そんな、褒められるようなことではないわよ」

 謙遜の調子もなく、むしろわずかな憂いを帯びてアイリは答えました。

 二人の方に寄ってきたツワミーが、ふと足元を見やり、しゃがみこみます。落ちていたものを拾い上げました。黒のビショップ。

「ああ、放ったらかしだったわね。片付けましょうか」

 リリスが立ち上がったのでアイリもならいます。

「これはリリスが?」

「モノポリーをやろうってなって、テーブルの上にあったやつを払いのけて」

「なるほど」

 苦笑します。それから三人で散らばった駒を拾い集めていきます。

「それで、アイリさんはなぜこちらに?」

「ええと……」

 言っていいのかしら。

「先日、この近くで建築家の死体が見つかったでしょう。その調査よ」

 アイリが迷っている間にリリスが喋ってしまいました。

「ということは、ハンフさんの事件でしょうか。ほんとに奇遇ですね。実は私もなんです」

「というと? え、調査?」

「はい」

 しゃがみながら、こくとツワミーは頷きました。

「なんだ、遊びに来てくれたんじゃなかったのね。残念」

 拾った駒を集めてボードの上に戻しました。白黒ともに全種揃っていました。

 一人先に椅子へと座ったリリスが首をかしげます。

「でもツワミー、あの建築家のこと知ってたっけ」

「ええ。お父様が屋敷を建てたとき、設計を依頼したのがハンフさんですから」

「そうだったの」

 アイリは素直に驚きました。それから屋敷の中で見たり聞いたり、実際に体験したことが思い出されます。

「ハンフさんはおかしな建築をすることでその筋では有名な方でした。出入り口の存在しない迷路や球面の床をした屋敷といった造形的なものから、部屋ごとに時間の流れが異なる家のように超自然的なものまで。たしか、この塔もハンフさんの設計でしょう?」

「それは……ずいぶんヘンテコな人ね」

 奇妙な仕掛けのある建物ばかり造る建築家、ねぇ。

 中村某といった名前を思い浮かべずにはいられないアイリですが、ここで持ち出しても通じるはずがないので言いません。

「腕はたしかでしたから、評判は決して悪くありませんでしたけどね。もっとも、今日私が来たのはハンフさんとは関係ないことですが」

「あれ、ハンフさんの事件の調査に来たって言わなかった?」

「事件の調査ではありますが、ハンフさんとは関係なく、です。リリス、あなたに話を聞きに来たの」

「あら、何かしら」

 ツワミーはリリスの瞳をじっと見据えるように問いました。

「あなた、この事件に何か関わっている?」

 それを聞いてアイリはつばを飲みました。問われたリリスは最初きょとんとした表情で、それから次第に堪えきれないといった様子で笑みを浮かべていきます。

「私が殺した、って言ったらどうする?」

「……アイリさんは、王妃様の遣いでしょうか」

「え、ええ」

 不意に飛んできた質問に、たじろぎつつ返事をします。

「そうですか。なら、本当なんですね」

 ツワミーは目を閉じて天を――いえ、地を仰ぎました。

「あらあら。そうは言っても私は囚われの身よ? 塔の外にいたハンフをどうやって殺したというの」

 おかしそうに言ってみせるリリスに、視線を戻したツワミーが言います。

「話してもいいのかしら」

「え」

 え。

「あなたがどうやってハンフさんを殺したのか。アイリさんの前で話してもいいのかと聞いたのよ。……私では、ダメなのでしょう?」

 ダメという言葉の意味はアイリには分かりませんでしたが、どうやらツワミーには事件の謎が解けているらしいということは分かりました。

 普通ならこういうときに出てくる推理って的外れなものだけど、ツワミーってかなり賢そうだし……どうしよう、聞いてみたいような聞きたくないような。

「えーと、たしかにそれは困るかもしれないけど、ツワミーの推理が正しいという保証もないわけでしょ。あでも、聞いてみて正解だったらやっぱり困るのね。ううん……」

「……アイリさん」

 アイリとリリスが二様に悩んでいるところにツワミーが声をかけてきました。

「申し訳ありませんが、少し席を外していただけないでしょうか」

「……どうも、そうした方がよさそうね」

 ふっと息を吐いて、アイリは手をひらひらと振りました。ツワミーが頭を下げます。

「すみません。それと、ありがとうございます」

 顔を上げたその表情は、いつか見たのと同じ、何かを諦めた人のものでした。



 そこはかとない気まずさを覚えつつ、なかば追い出されるような形でアイリは部屋の外に出ました。階段を降りきったところにある四分円の空間です。扉の横にはつっぱり棒……ロールが直立して控えていました。それ以外のポーズとなると寝転ぶくらいしかできなさそうですけれど。

 アイリと室内の二人を隔てるのは決して厚くない扉一枚。ですがとても大きな隔絶を感じます。

 ……事件のことを考えましょうか。

 こういうところでの切り替えの早さがアイリの持ち味です。

 外周にずらりと並ぶ柱に寄って、ハンフの倒れていた地点が見えないかと景色を見下ろし――底なしに続く空を目にして地を仰ぎました。空は薄く暮れ始めており、おかげで、青さに目が焼けることはありませんでした。

 そのまま大地を見上げているとわりあいすぐに赤いピンの人型を見つけることができましたが、ぐちゃぐちゃな感覚では距離感も何もあったものではありません。

 ハンフの倒れていた地点から塔までが四十メートルくらいだから……この階からの距離も四十メートルちょいってところかしら。単純な三平方の定理で。

 それからふと思い立ち、扇の端っこに移動してから赤いピンを探してみます。見つかりました。もう片方の端(階段の降り口とほとんど同じ位置です)に移動して同じように探してみると、やはり見つかりました。

 アイリは最下層の構造を頭に描きます。階段を降りたところにある四分円と、リリスの半月の部屋と、室内から続くやはり四分円のバスルーム。バスルームはまだ中を検めたわけではありませんが、とりあえず、そこからはこの空間に出てこられないものと考えることにします。

 最下層の円を拡大してみたとき、ハンフの死体は、部屋から出たこの空間の両端二点から赤いピンが見えたのですから、拡大したこの扇の中に位置することになります。裏を返せばそれは、室内からでは赤いピンは見えないか、見えたとしてもギリギリの角度にあるということですが……。

 アイリは先ほど見たあべこべな光景を冷静に処理して、赤いピンが、円の中心からこの扇を二等分するように伸びる直線とあまり離れていない地点にあることを確信します。

 リリスの動ける範囲は円の四分の三あるけど、室内からだとあの位置にいるハンフが見えるはずがない。ピンもね。でもリリスはピンの存在を知っていたわ。事件以降、ツワミーがリリスに会いに来たのはおそらく今日が初めて。ツワミー以外にピンのことをリリスに教えた人物も想定できない。さて、リリスはどうしてピンの存在を知っていたのかしら。

 ……抜け道、か。なんとなく輪郭はつかめた気はするわね。とすれば、あとは部屋の中にロープでもあれば……。

 リリスの犯行を脳内で組み立てるアイリですが、考えている途中でロールの姿が視界に入り、リリスの言っていたことが思い出されました。

 ――私がこの部屋の外にいるのを見つけたなら、ロールは全力で私を捕らえにかかるでしょうね。

「……ねえ、ロール」

 確認しておくべき事項と判断し、話しかけてみます。意思疎通がとれるのか微妙なところでしたが、アイリの期待通り、ロールはアイリの方へキュルと向き直りました。

「あなたはリリスをこの塔から出さないよう見張っているのよね」

 わずかに前傾します。イエス、のようです。

「かんぬきが落ちてない時はここで見張りをするとして、それ以外の時は、あなたがどこにいるかリリスには知らされない?」

 イエスです。

「リリスが塔の外に出ているのを見つけたら、あなたはリリスを連れ戻す」

 またもイエス。

「……仮にリリスが塔の外にいたとして、真夜中であろうと、塔の中にいるあなたはそれに気づけると思う?」

 反応はありませんでした。

 二択のつもりだったんだけど……条件付きなのかしら。だったら……。

「この位置から、あなたは塔の外にいるリリスに気づけるかしら」

 今度はイエスです。

「……もしかして、あなたはハンフさんが殺された夜もここに立っていた?」

 イエス。

「でも、リリスが塔の外に出たのは気づかなかった」

 反応なし。アイリは少し考えて問い直します。

「あなたの知る限り、閉じ込められてからリリスが塔の外に出たことはあった?」

 体を左右に振ります。明らかに、ノーの返答でした。

 ……一応、確認しておきましょうか。

「事件の夜、リリスが外に出ていたとして、あなたがそれに気づかない可能性はあった?」

 ――イエス。

「ありがとう。質問は以上よ」

 イエス、よりも少し長く前傾してから、ロールは体の向きを戻しました。ロールなりのお辞儀なのでしょうね。

 さて、この情報をどう解釈するべきかしら。

 もう一度柱に寄って、今度は空を見下ろしながら、アイリは再び思索にふけります。

 さっき考えた計画でもハンフさんを殺すことはできるかもしれない。でもこれでは『かもしれない』のままだわ。リリスは……そんな危ない橋を渡れる性格かしら。さっきのモノポリーではまるで考えなしのスタイルだったけど、ゲームとはわけが違う……やり直しができないのだから。けど、だとしたら、どうやって?

 パタリと扉の閉まる音がして、振り向くと、ツワミーが部屋から出てきたところでした。アイリを見て軽く一礼します。ツワミーが扉から離れると、ロールはかんぬきを落としました。

「先ほどはすみません。どうしてもリリスと二人で話したくて」

「ああ、それはいいわ。私も事件のことをいろいろ考えてたから」

 ツワミーはわずかに口元を上げた穏やかな表情をしていましたが、そうすることで自分の内面を隠しているような様子でもありました。

「リリスがハンフさんを殺した方法、あなたの推理をリリスは認めてくれた?」

「……ええ」

 間をおいてから頷きますが表情は変わりません。

「そう」

「……聞かないんですね」

「聞いたら教えてくれるの?」

 ツワミーは思わずといったようにクスリと笑いました。

「それもそうですね、教えられません。リリスの本意ではないでしょうから」

 本意、か。この文脈を考えるなら……。

「……リリスは、私がこの謎を解くことを期待しているのかしら」

「どうでしょうか。私には分かりませんが……謎それ自体は、リリスにとっては従たる目的であり結果でしかないというのは、違いないと思います」

「本当に欲しいものは別ってわけね」

 ――新しい話し相手が欲しかったの。私には殺せないはずの状況を作って『私が殺した』って言えば、きっと王妃様が素敵な人を遣わしてくれると思ってた。

 でも……ただの『話し相手』のために?

 そのためだけに殺したというの?

「アイリさん」

 意識しないままアイリの目がかすかに伏せられ、それを見取ったかのようにツワミーが呼びます。

「よろしければ、お聞かせ願えますか。リリスがどうやってハンフさんを殺したのか、アイリさんがいままでに考えたことを」

 ……まあ、検討するのは大事よね。

 全てを見通しているかのような柔い微笑みを受けて、アイリは無言であごを引きました。


   *


 ロールを先頭にアイリとツワミーは階段を上がっていき、先ほど下りてくる途中で見かけた扉に入りました。(「リリスはほったらかしでいいの?」と聞いたら「あの子、待つのは得意ですから」といたずらっ気を感じさせる調子の返答がありました)

 真っ直ぐな廊下をしばらく進むと円形の広間に出ました。ぐるりと見回すと、広間を中心に放射状に部屋が並んでいるのが分かります。全部で五部屋です。

「客間かしら」

「ほとんど利用されることはありませんが」

 案内を終えたロールが礼をして部屋を出て行きます。

 広間の隅の方、テーブルを挟んで向かい合うソファに二人は落ち着きました。ツワミーが口を開きます。

「それでは、お話しいただけますか」

「ええ……まずは事件の確認からさせてもらうわ」

「相変わらず、慎重なんですね」

「そういうスタイルなの」

 すでに分かっていることをひとつひとつ確かめておくのはアイリがよくする手順でした。そうすることで何が問題でどこが引っかかるのかがよりはっきりするのです。

「被害者は建築家のハンフ・トゥ・ドゥープ。無風の平野に倒れていた。この塔から四十メートルほどしか離れていない地点ね。鈍器で頭部を殴られていてそれがそのまま致命傷。他に外傷はなく、凶器は見つかっていない。犯行は深夜に行われたと見られていて、目撃者もいなかった」

「それだけなら誰にでも犯行ができそうな状況ですね」

「ええ、でもそこでリリスが『犯人は私だ』と言った……らしいわ。どうやって王妃様に伝わったのかは謎だけど」

「調査に来ていた人へ言伝を頼むとか、方法はあると思いますよ」

「そう。じゃあそれは置くとして、リリスの言葉が狂言でないとしたら、やっぱり問題はリリスが塔に、それも最下層の一室に閉じ込められていることね。外に出られないはずのリリスがどうやってハンフさんを殺せたのか。その謎こそが今回の肝。……最初に考えた方法は凶器の投擲だったわ」

「砲丸投げの要領ですね」

「ここは逆様の塔。重力の反転した塔。だけどその影響下にあるのは塔の内部にあるものだけで、外へと出たものは再び重力に従うことになるとリリスから聞いたわ。つまり、この塔から空へ向かって投げたものは、結局地面に落ちる運命にあるのよね」

「ですが、凶器となるくらい重い物を、ハンフさんの倒れていた地点まで届かせることは可能なのでしょうか」

「リリスのいる最下層は地上から見れば塔の天辺だから、いくらか距離は稼げるだろうけど、あの細い腕じゃそれでも疑問ね。だから、塔の性質と構造を利用する方法とかも考えたんだけど……」

「というと?」

「うん。塔の重力が逆さまってことは、地上との相対的な高さも逆さまということでしょう? 入り口から入ってすぐの何もない空間、ある意味であそこが、この塔で一番『高い位置』にあるのよ」

「位置……なるほど」

 アイリの言わんとすることを察してか、ツワミーがクスリとこぼします。

「凶器を投げたのではなく、転がしたと?」

「そういうこと。塔内における位置エネルギーは、地上と同じ高さにある一階において最大となるわ。一階から最上階まで続く下り階段は円角度がほとんど一定に見えたから、ボール状の凶器を転がしてやれば、凶器は勢いを止めることなく転がり続けて、ついには最下層、柱の隙間から塔の外へと飛び出して行き、それから地上への落下を始める」

「アイリさんも面白いことを考えるんですね」

 ツワミーの言葉に皮肉は混じっていませんでしたが、アイリの語った光景が冗談じみているのは否定できませんね。

「……まあ、ご推察の通り無理なんだけどね。不都合はたくさんあるけど、確率のお話を無視するにしても、凶器の回収が不可能よ。紐を結び付けておくにしたって、いったい何メートルの長さが必要になるのよ」

「百は下りませんね。二百メートルに届くかもしれません」

「そもそもリリスは一階に行けないしね。扉を閉まらなくする仕掛けは想定できるかもしれないけど、かんぬきの掛かっていないとき扉がロールに見張られている以上、そんな仕掛けをほどこす余裕はない。それと投擲案全般に言えることだけど、被害者の倒れていた位置も問題となるわ」

 リリスの部屋を追い出されてから調べたことをアイリは話しました。扇の両端から見えた赤いピン、最下層にある部屋の位置と、ハンフの倒れていた地点との関係。

「そういうわけで、リリスの動ける範囲から被害者の倒れていた地点に向かって凶器を投げるのは難しい。他にもそうね、塔の真下にいた被害者に向かって凶器を落として殺したとしても死体を発見場所まで移動させられないし、被害者が発見場所まで自分で歩いていき絶命したというのも即死だから考えられない」

「となると、リリスがあの部屋にいながらハンフさんを殺すのは難しいでしょうか」

「そうなるわね。だからどうしても、リリスにはあの部屋から外に出てもらわなければならないわ。そしてリリスはロールの目をかいくぐる『抜け道』の存在を示唆してもいた。じゃあ、その『抜け道』とはどんなものか? ここで重要になるのが、リリスが塔の外にある赤いピンの存在を知っていたこと」

 リリスとの会話をいくつか語ってみせます。

「……アイリさんの話をまとめると、リリスが赤いピンの存在を知ったのは、その『抜け道』を使って部屋の外に出たとき、ということになるでしょうか」

「ええ。『抜け道』からは塔の周囲を見渡せる地点に出られると考えられる。そしてその地点はロールの監視からも逃れられる場所のはずよ。リリスが部屋の外に出ているのにロールが気づいたことは、これまで一度もないそうだから。ここまでくれば『抜け道』の行き先は見当がつくわ」

 アイリは人差し指で空中をトントンと叩く仕草をします。

「最下層のさらに下、外から見た屋上ね」

「この塔の最下層より下に、部屋を設けられる空間が残されているようには思えませんが?」

「部屋じゃないわ。そこはもう塔の外なのよ」

 リリスから聞いた、この塔における水の流れを思い出しながらアイリは続けます。

「リリスの部屋の床に、人の通れるぐらいの穴が開いているとするわね。その穴に飛び込むと、最初は塔の影響によって空に向かって落ちるけど、体が外に出た時点で慣性を失っていき、今度は地上に引っ張られるのよ。これで塔の屋上に出られるわ。戻るときは部屋の天井に向かって落ちれば、塔の中に入ったら床に引っ張られる。ちょうど、あの部屋の床を境界として反対向きの重力が衝突するかたちね」

 排水を処理するタンクも屋上にあるとのことでした。たしかに、塔の特性を利用すれば屋上に出ることは可能そうですね。

「……判定は控えておきましょうか」

 ツワミーはそう言いましたが、その調子から、アイリは自分の推理が正解であったことを確信しました。

「それでは、リリスが屋上に出たのだとして、それからどのように犯行に及んだのでしょうか」

「屋上に出たからといって投擲案が厳しいのは同じこと。だけど、塔の外に出られるのなら、後は重力にしたがって地上に向かうだけよ。ロープか何かを屋上のタンクに結んで外壁を伝い塔を降り、平野にいた被害者に直接凶器をふるえばいい。この場合なら、凶器は普通に力の込めやすい鈍器でしょうね。壁に飾ってあった杖とか、私が見つけていないだけで金物でもあるのか、そこまでは分からないけど」

「それで、ハンフさんを殺したリリスは、来た道を戻り部屋に戻ったと?」

「必要なロープの長さは塔の高さプラスでタンクに結びつける分だけだから、それならあの部屋に隠せないこともない。あるいは屋上に放置するでもいいしね。さて、これで晴れてリリスが被害者を殺すことは可能となったわ」

 アイリは背もたれに体を深く預け、ふぅとひとつ息をつきました。

「納得、している様子には見えませんね」

 ツワミーが優しく声をかけます。

「……ええ、この方法ならリリスがハンフさんを殺すことは可能。でも事件当日はロールがリリスの部屋の前に居た。そこからはハンフさんが倒れていた地点が問題なく見えるはずなのに、ロールはリリスの姿を目撃していない」

「ロールがたまたま気づかなかった、ということはないでしょうか」

「かもね」

 あっさりと認めるアイリです。

「でも、問題はそこじゃなくて……『塔の外にいるところをロールに見つかるかもしれない』とリリスが予測していたかどうかなのよ。リリスはロールによる監視を念頭に置いているふしがあった。けれどリリスは自分の部屋にいるとき、ロールがどこにいるかを知らされていない。そんな状況で、わざわざ外に繰り出しての殺人を行うかしら」

「実はリリスはロールがいま塔のどこにいるか把握できている、ということはありませんか?」

「だとしたら、部屋の前で見張りをしている晩になど決行しないでしょうね。ロールがどこかの部屋にこもっている時を狙うでしょう」

「では、リリスはロールに見つかる可能性を考慮しつつも、見つからない可能性に賭けて犯行に及んだ。そして賭けに勝った。これでいかがです?」

「……否定できないわね」

 強く目を閉じました。

「そう、そこなのよ。私はリリスのことをよく知らない。仮にそのような状況にあって、リリスが賭けるのか、別の選択肢を探すのか、私には分からない。だから、どうにも判断できないわ。……あなたから見たら、どうなの?」

「私がそれに答えるのは、あまりフェアではなさそうですね」

 薄く開いた目に、にこと笑うツワミーが映ります。

「私が到着する前、アイリさんもあの子と遊んだのですよね? その時の印象はどうですか」

「……あまり考えてプレイしているようには見えなかったわね。買える土地はとにかく買うし、ひたすら投資するし」

「なるほど。私と遊ぶときは、いろいろな戦術を試すんですけどね。即買いはするけど投資は控えめだったり、災害の被害を分散させるように土地をばらけさせたり。意外かもしれませんが、あれでなかなか研究家なんですよ」

「……答えるのはフェアじゃないんじゃなかった?」

「そうでした」

 わざとらしく片目をつむりました。

 しかし、そうなると……私と遊んだときは、あれが最善の手だと思って行動してたってわけ? 賭けるような性格とはますます思えなくなるわ。

「お悩みのようですね」

「おかげさまでね」

「それでしたら、ヒントというわけではありませんが……ひとつお話しさせていただきましょうか」

 すっと、ツワミーが両手を差し出しました。手のひらの上には、いつの間に取り出したのでしょう、コインが一枚ずつ載せられています。

「コインを弾いて表裏を当てるゲームです。弾く役はアイリさん、どちらの面が出るか先に選ぶのもアイリさんでいいですよ。さて、どちらのコインを使いますか?」

 載っているコインはどちらも同じもののようで、左手は人の顔を象った面が上、右手は数字の書かれた面が上になっています。突然の行動にアイリは訝しがりながらも左手のコインを手に取り、なんとなく裏返して、それから何かに気づいたように右手のコインも手に取って同じように裏返します。

 右手のコインは普通の代物でしたが、左手のコインは、両面とも人の顔が描かれていました。

「……使うコインを私が選べて、出る面の指定も私が先なら、こちらを使うでしょうね」

 両面が顔のコインを持って言いました。

 ツワミーは無言で両手をひざ元に戻しました。

 ……これはまた、なんとも遠回りなヒントをくれたものね。いまの話の意図は……賭けずとも勝てるのであれば、わざわざ賭ける必要はない、といったところかしら。それをこの事件に当てはめるなら……。

「……ロールの監視を無効化する手段があるということ?」

「それが出来れば、アイリさんの推理は最後まで筋が通るとは思いませんか?」

 先ほどのアイリの推理が正しく、なおかつロールの監視がないとしたら、リリスは何の気兼ねもなく塔を降りて平野をうろつくことができますね。

 出来ればだけどね……。

 そこにいない燕尾服を幻視するように、ツワミーは何もない宙に視線を漂わせます。

「たしかにロールは有能です。でもね、あれは思考を持たないんですよ。指示を与えられればたしかにこなしますが、そこに感情がはさまれることはありません。融通がきかないんです」

「……穴あきバケツかしら」

「『このバケツで水を汲んで来い』と言えば、素直に従ってくれますよ。他の命令に支障をきたさない範囲でですが」

 試したの?

「それから、もうひとつだけ。こちらの方が重要かもしれませんが」

 ピンと、ツワミーが指を立てました。

「被害者であるハンフ・トゥ・ドゥープ。建築家としての彼の腕が高く評価されていたことは先刻述べた通りですが、彼は奇妙な建築をすることは何度とあっても、意味もなく装飾をほどこしたりする種類の人間ではありませんでした。このことは心にとどめておくといいかもしれません」

「この塔でも、ってわけ? でも、それとロールの監視に何の関係があるのかしら」

「私から教えられるのはアイリさんの知りえない情報だけです。そこから先は、どうぞ自力でお考えください」

「……ツワミー、あなたは」

 言いかけて、言葉が上手くまとまらないといったようにつぐみます。その様子をツワミーは何も言わず見守っていました。

 そらした目を戻してアイリは口を開きます。

「ずいぶんと協力してくれるのね。そんなに私にこの謎を解いてもらいたいのかしら」

「不思議ですか?」

「ええ……あなたはリリスの数少ない友だちと聞いているけれど」

「そう、ですね。友だちと呼べるなら、そう呼びたいですが……何にせよ、これできっと最後ですから。リリスの期待にはできる限り応えてあげたいんです」

「最後?」

「……少し長い話になりますが、よろしいでしょうか」

 答える代わり、アイリは聞く体勢を整え、うながします。

 おとぎ話のようにツワミーは語りだしました。

「私がリリスと知り合ったのは、あの子が逆様の塔に閉じ込められて間もないころでした」



 お父様の研究の付き添いでこの塔を訪れた私は、最下層に閉じ込められたリリスを見つけました。あの頃は……ガラガラの本棚と塔の模型があるくらいで、まだ部屋に物もほとんどなく、大きなベッドだけがぽつんとたたずむ、暗く寂しい部屋でした。リリスはそのベッドに退屈そうに腰かけていて、人が居るなんて思っていなかった私はたいそう驚きました。もっともそれはリリスも同じで、いきなり部屋に入ってきた私に驚いた様子でしたが、すぐに質問攻めにしてきました。

 それがひと段落すると、私が訊ねるまでもなく、リリスは自らの境遇を語ってくれました。かつて住んでいた街から追い出されたこと、この塔に閉じ込められていること、話し相手もおらず退屈で退屈で仕方ないこと……時間が過ぎ、私が出て行かなければならないと告げると、『そっか』とだけつぶやいて、引き止めるようなこともせず、とても残念そうな顔をしました。そのときの表情があまりにも愁いに満ちていたものですから、私はつい、『また来てあげる』なんて言ってしまって……あの表情は反則でした。あれに罪悪感を覚えない人などいないでしょう。

 それから何度も、私はリリスを訪ねました。やることはいつも決まっていて、他愛のないおしゃべりか、ゲームをするばかりです。コジャクが一緒だったこともありましたね。コジャクはリリスを気に入っていたみたいですが、リリスは振り回される側で、どうにもコジャクには慣れてくれなかったようです。妹が二人いるみたいで私は楽しかったんですけどね。

 そんなリリスでしたが、コジャクが語る外の世界の話には興味を惹かれたようです。太陽の花が咲き誇る畑、向こう岸の見えない川辺、神秘的な光に照らされた鍾乳洞……私はなにぶん出不精なものですから、そういう話はコジャクの方が向いていました。コジャクの冒険譚を聞くときのリリスは、あの大きな赤い瞳をきれいに輝かせて夢中になるんです。あの子が塔の外に憧れているのは明白でした。

 いつか、二人のとき、リリスに聞いたことがあります。『外に出たくはないのか』と。リリスの閉じ込められている理由が語られたとおりなら、その問題さえ解決できれば、リリスが塔の外に出ることは十分可能なように思われました。しかしリリスは寂しそうに『出ちゃいけないんだよ』と言いました。その意味を問うと、リリスは、また壊してしまうからと答えました。リリス自身は人間が大好きで、私が訪れるのも本当に楽しみにしてくれているというのですが、かつての経験は、あの子の生き方が人々との暮らしと相容れないものであると自分を責めるのです。

 塔の中は不自由でしたが、一人で生きていくことはできます。でも外に出て生きようと思えば誰かの助けを頼らざるをえない。たくさんの関係の糸の中に組み込まれたら、きっと自分はそれを壊してしまう。

 だから、とリリスは言いました。『外に出られるとしても、私はここで生きるよ』と。

 何も言えなかった私に、リリスはくつくつと笑って続けました。『でも、一人で生きられるなら、こんな塔なんか出て行ってやるわ』と。コジャクの語ったような景色を自分で探してみたいとも言いました。神さまのいない塔なんか捨てて、神さまの息吹に触れてみたいと。

 ……秘密めかした態度に、私はひとつの可能性を思いつきました。リリスは塔の外に出る手段を知っているのではないか。そしてそれを隠しているのでは。

 直接問いただすのは憚られましたから、こう言ってみました。

『そのような素敵な旅なら私も一緒に行きたいものね。私とあなたの二人なら、何も傷ついたりしないから』

 リリスは驚いて――初めて出会ったときみたいに、誰かを見つけたみたいに驚いて、でもしばらくすると諦めるような笑顔を見せて、ゆっくりと首を振りました。

『それはとっても素敵な提案だけれど、ダメだよ。あなたの一番は私じゃないでしょう? だったら、その子のそばに居てあげないと』

 ……たしかにそれは事実でした。でも、それはどこまでも明確な拒絶で――ええ、私はフラれてしまったんです。

 可能性は確信に変わりました。おそらくリリスはもうすぐ私の手の届かないところへ行ってしまう。それでも、引き止めるつもりはありません。これはあの子がずっと願っていたことですから。

 だから、むしろ……アイリさん。私は、あなたのことが気になるんです。

 かつてあなたは、独善でこの手を汚した私を、何も言わずに見逃してくれました。あれから、いろんなことがあったみたいですね。疑問、苦悩、後悔……見ていたら分かりますよ。あなたの結論がどうであれ、リリスは去っていくのでしょう。でもその結論に至るまでに、あなたの中にある迷う心はきっとまた大きく揺れて、だけど、それは何か意味のあることだと……そうであることを、私は祈っています。


   *


 アイリが戻ると、リリスは腕で目を覆うようなポーズをして、ベッドに横たわっていました。腕がずらされ、アイリの方を窺ってきます。

「ツワミーは、帰っちゃったのね」

「ええ。言伝もないわ」

「そう。……うん、それでいいんだけどね」

 アイリがベッドに近づいてもリリスが起き上がる様子はありません。

「ツワミーから聞いたわ。あなたと出会ったときのこと、あなたが外に出たがっていること」

「……このベッドさ」

 ぽつりぽつりとこぼします。

「床一枚隔てた向こうは、空なんだよね。私は月夜を、星空を、宇宙を背にして眠るの。どこまで落ちていってもどこにもたどり着けない。毎晩毎晩、そんな想像をしてさ、その度に世界の途方もない広さを実感して――動けない私のちっぽけさに気づき直す。触れられない不自由さを苦く思う」

「だから、外に出ようというの?」

 しばらく反応がありませんでしたが、リリスはやおら体を起こすと、ベッドの縁に腰かけてアイリを見上げました。

「外に出るったって、私はここに閉じ込められているのよ。だからハンフを殺せたはずがない。ずっと言っているでしょう?」

「……いいえ、あなたは囚われのお姫様なんかじゃない。強かな殺人者よ」

「へえ。だったら、聞かせてよ。私がどうやってハンフを殺したのか」

 立ったままのアイリと、それを見上げるリリスと。位置関係を崩さずに、二人は見つめ合いました。

 アイリが話し始めます。

「そもそも、あなたは閉じ込められてなどいなかった。あなたが仄めかしていた『抜け道』の存在によって、あなたはいつでも塔の外に出られたのよ」

 先ほどツワミーに話してみせたのと同じ推理をリリスにも語ってみせます。この塔から出る『抜け道』があるというなら、それは屋上に出るものであろうと。

「……それが正しいとしても。屋上に出た私は、それからどうやってハンフを殺したのかしら。塔の天辺から地上までけっこうな距離があるけれど」

「ロープでも使って塔を降りれば?」

「そんなの、ロールに見つかっちゃうかもしれないじゃない。それにロープなんてここにはないよ。調べてくれたらいい」

「ええ、そう……私もそこで考えが詰まっていた。でもツワミーが二つのヒントをくれたの」

 アイリは指を一本立てました。

「一つ目は、ロールの性質について。ロールは命令を遂行するにあたって融通がきかない。『このバケツで水を汲んでこい』と言われれば、それが穴の空いたバケツであろうと従うらしいわ。これを、私に都合よく言い換えましょう。『ロールは目的の達成における障害を排除しない』と」

「……その例だと、ロールにとっての最終目的は『水』ではなく、『バケツで水を汲んでくる』という過程そのものだからね。うん、でも、それでどうなるの?」

「リリス、あなたの監視について、ロールにどういう命令が与えられているかは推測するしかないわ。でも、おおよそ『リリスが部屋から出てこないようにする』『リリスが部屋の外にいることに気づいたら連れ戻す』といったところでしょう? だったら、極端な話……ロールを監禁してしまえば、あなたの脱出を妨げることはないわよね」

「極端な話、ね。それは認めてもいいけれど、私にはロールを監禁する方法なんてないし、あの夜、ロールは私の部屋の前にいたのよ。監禁なんてされていないわ」

「じゃあ、もう一つ極端な話。屋上に出たあなたは、そこから塔全体を幕のようなもので覆ってしまった。こうすれば塔の中から外の景色は見えないわ。そして頑固者のロールは、塔の外が見えないこととあなたの脱出を結びつけたりしないから、何事もなかったかのように突っ立っているはずよね?」

「その仮定も認めてあげる。だけど塔全体を覆う幕なんて存在しないのだから、それも不可能よ」

「そう……これで確信が持てたわ。やっぱりあなたは、ロールを暗闇に閉じ込めたのよ」

 リリスは何も言い返しませんでした。

 アイリは二本目の指を立てます。親指です。

「ツワミーが教えてくれた二つ目のヒントは、この塔を設計したハンフ・トゥ・ドゥープという建築家の性格。奇妙な仕掛けを備えた建物をたくさん設計していたようだけど、意味のない装飾をほどこすような人物ではなかったと。この塔についてはどうかしら? 装飾らしい装飾のほとんどない建物だから、注目すべきポイントは自ずと限られてくる」

 アイリはリリスの前から離れ、壁際に歩いていきました。そこには逆さまの塔の立体モデルがありました。何十分の一かの模型です。

「初めてこの塔を見たとき、この『らせん』は何だろうって思ったの。外周に巻きつく二つのらせん。中を歩き、説明を受けて、大きいほうが階段室、小さいほうが排水管と分かったけど、やっぱり不思議よね。なぜ階段がわざわざ外周に沿って造られているの? 塔の内部にらせん階段を造るより、よっぽど歩く距離が増えてしまっているわ。そういうデザインなのかしら」

 模型にもしっかり再現された外周のらせんをなぞりつつ、アイリは続けます。

「排水管はもっと謎よ。地上へと引っ張る重力の影響を受けさせるために排水管を塔の外に用意しなければならない、それは分かるけど、わざわざらせん形にする必要はないわ。真っ直ぐ地面に伸ばせばいいじゃない。それだと見栄えが悪いから? そうかもしれない、けれど、そうじゃないかもしれない。階段室も、排水管も、もっと別の意図があって、このような形になっているのかもしれない」

 ツワミーの話を思い出しました。リリスがこの塔に閉じ込められて間もないころ、この部屋の中にあったのは、中身の欠けた本棚と、天蓋のベッドと……この模型。

 この模型が最初から用意されていたものだとすれば……。

「ハンフ・トゥ・ドゥープの建築の最大の特徴は、その奇妙な仕掛けにあった。ハンフの設計によるこの塔は逆さまの塔。重力のひっくり返った塔。でも、もし、それ以外にも仕掛けが隠されているとしたら」

 アイリはそっと、塔の模型に手を伸ばしました。タンクを避けるように屋上部分を握り、掴みます。そして、軽く力を込めて――塔を回しました。



 そこまで大きくないガクンという衝撃があって、それからは特に何も起こりませんでした。

 アイリは窓に近寄って外の景色を見ます。夕陽の暮れたばかりの宵の空。かすかに赤い景色の中で輝く星々は、ゆっくりと横に流れていき、視界から消えてゆきました。

 逆さまの塔が回転していました。

「……この塔は」

 神秘的なその光景を眺めながら、アイリは続きを語ります。

「言うなれば、巨大なネジなのね。外周のらせんは溝。排水管までらせん形なのは、真っ直ぐな形だと塔の周囲に巨大な円周状の穴を作らなくてはならないから。おそらく排水管は地中のどこかで途切れているのでしょうね。回転に付き合わせるわけにはいかないもの」

「よく、スイッチの場所まで分かったね」

 ベッドに腰かけたままリリスが言いました。距離をおいて、二人は背中合わせのような格好でした。

「あなたが作動させられるのだから、起動装置はこの部屋にあるはずだった。そして、ツワミーの話に出てきた、最初にあなたと会ったときこの部屋にあったもの。その中で塔の模型だけはあなたの生活と関係なさそうだった。見当はつけられたわ」

「そっか」

「塔が地下へと潜ってしまえば、外に出ようと、部屋の前にいるロールに気づかれることはない。塔が回転しても地下に潜ってもロールが騒がないのはさっきのお話の通り。屋上から地上に行くのにはロープすら必要ない。なぜなら高低差なんて無いのだから」

「正確には塔の方がちょっとだけ高いけどね。階段室は最下層近くで塔の内部に合流するけど、外周のらせん自体はそのまま塔の天辺に続いている。だから、段差程度ね。うん、普通に行き来できるよ」

「それで、あなたは……無風の平野に降り立って、ハンフさんを殺して、また塔に戻ってきた。凶器は特定できないけど、使えそうなものはこの部屋にいくつかある。それから塔を元通り地上に出す。それだけのことよ。あなたが隠していただけで、あなたは閉じ込められてなどいなかった。いつだって外に出られた」

 アイリは振り返りました。いつからかリリスもアイリの方へと向き直っていて、二人は目を合わせることになりました。

「……『私が殺した』などと言わなければ、こうして気づかれることもなかった」

「そう……でも、私はこうしてアイリと出会えたわ」

 リリスは立ち上がると、部屋の中心あたりに移動して、しゃがみこみました。探るように手を動かして、ひとつなぎに見えていた絨毯の一部を持ち上げます。その下から現れた取っ手を引っ張り上げ、跳ね上げの蓋を開ききって固定します。床の下に人が通れるくらいの穴が現れました。

「アイリ、こっち」

 そう言って一人先に穴へと入っていきます。近づいて穴を覗いてみれば、そこには切り取られた星空がありました。アイリがしゃがむと、穴の向こうにぬっと顔が出てきました。まるで水面に映る自分の顔を見ているみたいでした。

「手、貸そうか?」

「……いえ、たぶん大丈夫」

 顔が引っ込んだので、アイリは床に寝そべるような体勢をとり、腕を穴の向こう側へと出しました。それから体を持ち上げるような……落ちるのに従うような……不思議な感覚につつまれながら、全身を穴の外へと出しました。

 屋上はタンク以外に何も無い円形の地でした。そこから見られるのはいたって普通の景色でした。頭上には満天の星が広がり、見下ろせば無風の平野が見渡せます。

 リリスは仰向けに寝転がっていました。

「ね、アイリも寝てみて」

 アイリもリリスの隣に寝転がりました。

 回る星の姿は、天球を見ているようでした。実際には回っているのはアイリたちの側でしたが、五感がとらえる光景は、いつか見たプラネタリウムを思い出させました。

 名前も、並びも、つなぐ線も分からないけれど……。

「分からないのは、凶器だけよね」

 仰向けのままリリスが言いました。

「使ったのは杖よ。壁に飾ってあるやつ。リーチがあって、振りやすい形状だったから。握りの部分はかなり硬いしね。付いた血は、戻ってから洗い落としたわ」

「そう」

 アイリも仰向けのままです。並んで、二人は会話を続けます。

「なぜハンフさんを殺したの」

「新しい話し相手が欲しかったから」

「あなたはもうすぐここを出て行くのに?」

「だからこそよ。私が欲しかったのは道連れになってくれる人」

「あなたの旅の」

「私と一緒に」

「それなら、殺さずとも探すことはできたでしょうに」

「……ツワミーも、おんなじこと思ってたのかしら」

 リリスは目を覆いました。

「良い手だと思ったんだけどなあ。私がいなくなってもツワミーがさみしく思ったりしないように、嫌われるようなことをしなきゃいけなかったのよ。アイリが出て行った後、ツワミーったら私がやったこと、やろうとしてること、全部を話すのよ。それも淡々と。全部見抜かれてた。やっぱりツワミーはすごいわ。だけど……それきり、何も言わないの。怒ってくれたらよかったのに。別れの言葉をくれてもよかったのに。……ずっと静かで、それが一番つらかった」

 ――引き止めるつもりはありません。これはあの子がずっと願っていたことですから。

「誰でもよかった、ってわけでもなかった。一回だけ、誰か一人だけを殺すとしたら、それはハンフになると分かってた。あんな何も無い平野を真夜中にうろつく変人は私の知りうる限りハンフだけよ。あの建築家は天涯孤独の身で、仕事以外の人付き合いも一切ないような人物と聞いていた。そんな、単純な天秤よ。ここから出て行く前に私が動くことを踏み切れたのは……ねえ、アイリ」

 リリスは空へと向かって腕を伸ばします。どんどん遠くなる夜空をつかむように。

「なに」

「私と一緒に来てくれないかしら」

 アイリは、すぐには答えませんでした。続く言葉を待ちました。

「まだ少ししかお話していないけれど、根っこのところで、あなたと私は同じな気がする。空想の世界に憧れを抱き、当たり前の現実に必要以上に傷ついてしまう。過剰な自意識が世界に与える影響をおそれて、ひとり内側を向いて遊んでいる。自分が変われないんじゃなくて、変わりたくないんだって、ほんとは気づいてる。でも、あなたの自尊は、そんな自分を好いて離さない。言い訳ばかりでしょう? でもそれでいいのよ。誰も傷つかず、自分が楽になれるなら。ねえ、私たち、きっといい友だちになれるわ。それで二人ぼっちなら、他の誰のことも気にしなくていいの。嫌というほど分かりすぎるのに、分かり合えないまま二人で一人。それでも、自分と同じように世界を尊く見つめる誰かと居られることは、とても素敵なことだと思わない?」

「……ええ、それは、とても」

 アイリは素直にうなずきました。リリスの言葉は、アイリにとって『ほんとうのこと』に違いありませんでした。

「そうやって、全て捨て置けるのなら、さぞや楽しいに違いないわね」

「だったら」

「それでも」

 遮るようにアイリは言いました。

「……それでも、私は地上に縛られていることを選ぶよ」

「……苦しいのに? 割り切れるかなんて分かんないのに? ずっと一人きりかもしれないのに?」

「かもね。他の人から見たらなにをそんな下らないことに悩んでいるんだと嘲笑されるかもしれない。自分の中で納得のゆく答えの出ないままみじめに悩み続けるのかもしれない。大きくなりすぎた自分の瞳が私を不自由にするかもしれない……」

 これまでの様々なことが思い出されました。

 妹を守るためにその手を汚した少女。

 偏執的な妄想のままに父親を殺した男。

 自分勝手な怨みで生者を弄んだ死人。

 ――私と会いたいがためだけに、人を殺した兵士。

 顔を隣へ、白髪の少女へと向けます。

「リリス、あなたの言ったことは正しいわ。私はね、こんなことを真剣に悩んでしまう私が、愛おしくてたまらない……やっと、そう思えるようになりそうなの」

「……そっか」

 リリスは、ずっと伸ばしていた腕を下ろしました。

「そっかそっか。アイリの一番は、そうなんだ。それじゃあ、二人きりになんてなれないね」

 塔がゆっくりと回転を止めていきました。起き上がってみればそこはもう地上です。アイリは塔の端まで歩いていき、リリスを置き去りにして、地上へのわずかな段差を飛び降りました。

 さらに数歩進んでから振り返ると、立ち上がったリリスがこちらを見ていました。

「それじゃあね、アイリ。どっか行っちゃえ!」

「ええ。リリスも、良い旅を」

 きらりと赤い瞳を光らせて、塔の上の少女はかみしめるような笑顔を見せました。その姿が塔の中に消え、ほどなくして、再び塔が動き始めました。さきほどまでとは逆の方向に回転していき、少しずつその全容をあらわにしていきます。アイリはその様子を眺めていました。

 どんどんと高くなっていく塔は、やがて入り口を見せ、元の高さに戻り――それでも回転を止めませんでした。ずっと地中に隠れていた部分までが出てきます。回転は続き、ついには最下部が外に出ました。

 神さまのいない塔は、地べたに引き寄せられることもなく、ふわふわ、ゆらゆらと漂っています。そうして当てもなくさまようように、どんどん地表から離れて、空へと浮き上がっていきました。

 高く、高く。樹よりも、鳥よりも、雲をも越えるように、塔は飛んでいきます。

 その小さな点が夜空の星々に紛れ、いつか見えなくなるまで、アイリはずっと見送りました。

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