何時不明の鐘の殺人
「判決よ。そこのあなた、死刑」
唐突に意識がはっきりすると同時にそんな声を聞くアイリでしたが、これはどこかで聞いたことがある内容だぞと直感的に思い、辺りをうかがえばたしかに見覚えのある景色なのです。
屋外の法廷です。開放感に溢れる、テニスコートぐらいの広さの芝生。ところどころ木製の柵で仕切られていますが、柵は簡単に乗り越えられそうなくらい低いものです。
アイリは証言台の前に立っています。両手側は陪審席で、デフォルメされたような頭身の動物たちが石版に羽ペンで何かを書き付けています。検察官・弁護人らしき人はいないようです。
そしてアイリの正面、裁判席にふてぶてしく座るのは、金と赤の豪奢な服に身を包んだ王妃様です。ひじ掛けと背もたれにしっかりと体重を預けて、今にも鼻を鳴らしそうにふんぞり返っています。さきほどの死刑を宣告したのは王妃様ですね。その隣では王様っぽい男が落ち着かないように手遊びをしていました。
続きものの夢かしら、珍しいわね。えっと、前はなんて答えたんだったか……。
「誤解ですわ。死刑になるようないわれなど、私にはございませんもの」
思い返しながら言ってみますが、ちょっと違う気もします。
まあニュアンスが一緒ならいいのよ。
「ふん、嘘おっしゃい。あなたがシザール伯爵を殺したのでしょう」
「ああ、やはり殺人事件なのですね。しかし私はシザール伯爵を殺してなどいませんわ。そのようなお方がいることも初めてお聞きします」
「あなたでなければ誰が殺したというの」
「それは分かりません。私は事件のことすら知りませんもの。ですが疑いを持たれたままというのもいただけませんわ。どうでしょう、私自身の潔白を証明するためにも、私にこの事件の調査をさせてもらえないでしょうか――」
「こういうテンプレなのかしら」
「何のことだ」
「いえ、こっちの話」
裁判所の門をくぐった先の森。王妃様直属のトランプ兵に道案内されながらアイリは事件現場へと向かいます。
トランプ兵は文字通り胴体がトランプになっていて、そこから伸びる細い線が手足と頭部の五つの首につながるという、なんとも不思議な体をしています。道案内をする兵士は若い印象を与える顔立ちをしており、前にも会ったことのあるこの兵士を、アイリはスペサンと呼んでいます。なぜスペサンなのかというと、胴体のトランプに描かれているのがスペードの3だからです。あまり誉められたネーミングセンスではありませんね。
森の道は踏み固められており、勾配もないので、素足に履くサンダルでもずいぶん歩きやすいです。アイリは白のノースリーブのワンピースというラフな格好ですが、暑くもなく寒くもなく、肌をまとう空気に不快さは感じられません。
そういえば、これって寝る前の私の格好なのかしら? いま何月だっけ。
「しかし君も災難だな。またこうして事件に巻き込まれるとは」
スペサンが声をかけてきます。
「そう? 災難といわれましてもなんだけど」
アイリにとってこの世界は『そういうもの』ですから、事件に関わることが災難といわれても、あまりピンとこないのでした。
「普段のこちらは平和だぞ。殺人事件なんてめったに発生するものではない」
「普段の、ねぇ」
私が起きて現実世界を生きてる間も、この夢の世界は続いてるとか、そんな感じの設定かしら。あるいは胡蝶の夢とか? そういうSF与太も嫌いじゃないけど、あんまり実感ないわねえ。
「なんにせよ、命がかかってる以上はしっかり調査しないとね。それで、今回の事件の概要は?」
「ああ。被害者はシザール・コウシン、シザール伯爵だ。爵位持ちではあるがそこまで有力な領主ではない。妻に先立たれており、そう大きくない屋敷を構え、あまり表には出ずひっそりと暮らす日々だったらしい」
「よく知らないんだけど、貴族ってそんなでいいの? もっと他の貴族たちと交流とかしなくちゃいけないんじゃなくて」
「ある程度の付き合いはあったらしいが、名を高めることにあまり興味がなかったみたいだな。半ば隠居していたのだろう。だが、どうやら伯爵の息子たちがそれをよしとしていなかったらしい」
ああ、ありがち。
「名声欲のない父親に苛立って、早く爵位を譲れとせっついてた?」
「どうにもそのようだな。事件現場はさきほど話した伯爵の屋敷なのだが、事件当時、屋敷内にいたのは三人の息子たちのみ。住み込みの執事もいるが、この時はちょうど出払っていた。外部から何者かが侵入した痕跡もなく、容疑者は三人の息子たちにほとんど絞られている」
「ふーん……ん。え、だったら私なんで裁判にかけられてたの」
「私に聞かれても困る」
理不尽だわ……。
「……まあ、文句は王妃様に言うとして。それじゃ、シザール伯爵の死の状況を教えてちょうだい」
「死体が発見されたのは伯爵の書斎。部屋の中央、床に寝そべるように倒れていた。額を一発、正面から銃で撃たれており、他に外傷もないことからこれが死因と考えられる。銃弾は頭部を貫通しておらず、後に摘出された。部屋には小型のピストルが落ちていたのだが、その口径と摘出された弾丸のサイズが一致していたことから、このピストルが凶器とみてまず間違いない」
「ピストルの出所は?」
「伯爵の私物だ。現場の机に仕舞ってあったものらしいが、事件より前に盗られていたのか、殺害直前に持ち出されたのかは定かでない」
「凶器から犯人を絞るのは難しいってことね」
「事件発生は午後三時ごろ。発砲音を聞きつけ、中庭を散歩していたという長男と、屋敷の娯楽室にいたという三男がシザール伯爵の書斎に駆けつけ、死体を発見した。昼食の時点で伯爵が生存していたことは三人の息子に加え使用人が証言している。発見時、死体はまだ熱を失っていなかったそうだから、発砲のあった時刻がそのまま殺害時刻と考えていいだろう」
「次男は来なかったの? 二人が集まったってことは、相当大きな発砲音だったのよね」
「ああ、それには理由があるのだが……その辺りの事情は、直接聞いてもらったほうがいいだろう」
「そう。凶器が銃ってことは、硝煙反応も調べたのよね。結果は?」
スペサンの足が止まりました。
アイリも止まります。
「……調べてないの」
「硝煙反応とはなんだ」
「えっ」
なんだったかしら。
「えっと、ほら、銃を発射すると、こう、細かい火薬が飛び散って、周囲に飛び散るでしょ。それが射手の服とかにも付着するから、それを調べれば誰が撃ったか分かる、みたいな」
「それはどうやって調べるんだ」
「……さあ?」
「なら、分からないな」
スペサンが歩き出したのでアイリも憮然としながら着いていきます。
しばらくお互いに黙っていましたが、突然アイリがハッと気づいたように言います。
「もしかして指紋も調べてない?」
「指紋とはなんだ」
手と足の指に刻まれている溝が描く模様で、この模様はその個人特有で同じものが二つとないから、誰かが何かに触ったらその痕跡が残って、これは細かい粉末があれば検出可能で……
「……なんでもないわ、忘れてちょうだい」
スペサンから見えていないのは承知で、手をヒラヒラと振るアイリです。
犯人が科学捜査対策にどうこうしましたってより、この方が潔いのかもね。でも、その手の情報一切なしってのは逆に不便じゃない?
「それじゃ、基本的な情報はこれくらいかしら。こう言っちゃなんだけど、聞いた限りだと、何の変哲もない事件ねぇ」
面白みに欠ける、とまではさすがに口にしません。実はちょっぴり思っていますが。
ま、こんなヘンテコな世界だからって、事件の方まで毎回ヘンテコとは限らないってことね。ヘンテコな方が新鮮味はあるけれど、オーソドックスな事件でこそ光るロジックもあろうってものよ。
「アイリ」
ゆるゆると考えているところを、前を歩くスペサンに呼ばれました。足は止めずに聞き返します。
「なに?」
「前に君を案内した時から聞いてみたかったのだが、君は、こういう話に慣れているのか。つまり、事件があって、人が死んでいたりする、そういう話に。事件について話をしていても、気後れしたような様子を感じないのだが」
慣れてる……のかしらね?
純粋な疑問からといった感じの質問でしたが、アイリの心には妙に引っかかりました。あまり意識していなかったことです。考えてみましたが、自分でもよく分かりません。
アイリはミステリーが好物な女の子です。読み物とか、映像の中でたくさんの事件を体験してはいますが、実際の事件となると、殺人のような大きなものには遭遇したことはありません。その意味では素人もいいところでしょう。しかしスペサンの言うように、事件に対する気後れのようなものは無いのです。
いや、前に「ここ」で事件の捜査をしたことがあるわね。でもこれは夢の中の事件だもの、現実感もなにもあったものじゃないわ。
「別に慣れてるわけじゃないけど、それで何か支障があるってわけでもない、かな」
「平気、ということか」
「平気。そうね、うん、平気だわ」
「丈夫なんだな」
どこかズレた返答を最後にスペサンは口を閉ざしました。
平気、ねえ……。
まあ、参加型の推理ゲームみたいなものだものね、この夢は。
アイリは独りごちて、わずかに口の端を持ち上げます。
せっかくの愉快な謎と推理の世界で、何を気兼ねするというのかしらね?
それからもう少し歩いて、二人は森を抜けました。
*
シザール伯爵の屋敷に到着した二人は、鉄柵の門の前で初老の男性に出迎えられました。引き締まった体に燕尾服が似合っています。
男性はとてもなめらかに腰を曲げました。
「王妃様のお遣いの方ですね。お待ちしておりました。私、こちらで執事を務めさせていただいております、モノベーと申します」
恭しいその所作にアイリはわずかにたじろぎます。
「ええ、よろしくお願いします。イルセ・アイリです。こちらはお目付け役のスペサン」
「アイリ様に、スペサン様ですね。ご用は聞き及んでおります。屋敷の中を案内させていただきますので、どうぞ中へ」
モノベーは両扉の門を全開に開くと、中へ招くように手で促します。隙の無い動作です。
ちょっと恐縮しちゃうわ。もうちょっとラフな応対の方が気分的に楽ねぇ。
内心ではそう思いますが表には出さず、薄く微笑んで会釈しながら敷地に踏み入ります。ああ私処世術してる、とちょっぴりドキドキしています。
門を越え正面、屋敷まで淡色の煉瓦で舗装された道を進みます。と、屋根から伸びる白い煙突のようなものがあるのに気づきました。よく見ればそれは煙突ではなく、屋敷の向こうに建つ塔の先っぽが覗いているのですね。窓はなく、てっぺんには鐘のようなものがついているのが見えます。一体なんでしょう?
すぐに玄関に着いたので、思考を中断します。モノベーが開けた扉から表向き堂々と入ります。
玄関ホールはアイリの目覚めた法廷の半分のサイズもないくらいで、一般的なものよりは大きいでしょうが、そこまで豪華な印象ではありません。装飾も決してきらびやかではなく、何点か絵がかけられていたり、花瓶ほどの大きさの像がいくつか並べられているのが目に入りますが、全体としては暗くなりすぎない程度に落ち着いたものです。屋敷の外観もそれほど派手なものではなかったなと、アイリは思い返します。
慎ましやかに暮らすそこそこの上流階級、って感じなのかしら。平均的な貴族の住まいがどんなかなんて知らないけど。
扉を閉めたモノベーが「こちらへ」と先導するのに着いていきます。厚手のカーペットが足音を全部吸ってしまいます。足の裏から伝わるもしゃもしゃした感じは慣れないもので、むず痒いです。
角を曲がって、玄関から見て奥の方へ少し進んだところで大広間に出ます。そこには三人の男たちが、長いテーブルに席は離れて座っていました。
気配を察したのでしょうか、その中の一人がこちらに身体を向けます。頭にメタリックなゴーグルを装着した若い男です。自重しない光沢がとても目立っています。趣味悪いなあ、と思いますが顔には出しません。処世術です。
「モノベーだね。お客様かな?」
「はい、アイリ様とスペサン様です。旦那様の事件をお調べにいらっしゃった」
「ああ、王妃様の」
ゴーグル男は立ち上がってアイリたちに近付きます。
「ようこそおいでくださった。父、シザールの長男の、ミザールと言います」
「アイリです。よろしくお願いしますわ」
「ええ、こちらこそ」
ミザールが手を差し出しましたが、握手にしては見当違いの方向です。体の向きも、アイリの方を向いていません。思わず表情を窺いますがゴーグルに隠れてよく分かりません。ちょっと待ってみても動きがみられなかったので、アイリはミザールの正面に動いてから手を握り返しました。握った手が軽く上下に振られたので、やっぱり握手だったようです。
「まさかこんな可愛らしいお嬢さんが来るとは思っていませんでした。歓迎しますよ」
手を離したミザールが言います。それから首を振って、
「ええと、スペサンさんは?」
「こちらに」
スペサンが応えると、そちらに体を向けて、口元に笑顔を浮かべて「よろしく」と手を差し出します。スペサンも握手に応じました。
「ふむ。渋い声ですが、まだお若い方ですね。私とそう変わらない」
「……あの、ミザールさん」
握手の様子を眺めていたアイリが尋ねます。
「初対面でこんなことをお尋ねするのもなんですけど、もしかして、目が?」
「ああ、言ってませんでしたか」
声に反応するように体の向きを変えるミザールですが、またもやちょっとズレた方を向いています。
「はい、ご推察の通り、私は目が見えないのです。幼いころのやんちゃで負傷してしまいましてね。今は音と匂いだけが頼りです」
やっぱり。ゴーグルはサングラスの代用みたいなものかしら……いや、にしたってそのセンスはどうかと思うけど。
「不躾な質問でしたわ。失礼しました」
「いえいえ、構いませんよ。もう慣れたものですしね。屋敷の中であれば気にせず暮らせますし、外出するにも付き人がいますからさほど苦労はしません」
そう語るミザールの様子に嘘は感じられませんでした。
ミザールはテーブルの方へ向き直ります。
「弟たちも紹介しましょう。キカザール、イワザール!」
呼ばれて、テーブルの端に座っていた大男が窺うように視線を向けてきます。もう一人、猫背を向けて座っているひょろりとした身体つきの男は、声が聞こえていないかのように微動だにしません。
その男の方へ、ミザールが迷いのない動作で近寄るのに着いていきます。近付いてみて、男がゴツゴツしたヘッドフォンをかけていることに気づきました。しかしコードの類は伸びていません。
ワイヤレスなのかしら。音楽を聴いていて呼びかける声に気づかなかった? いえ、たぶん、この流れは……
「キカザール」
名前を呼びながら、ミザールが男の肩に手をかけます。それでようやく気づいたといったように男は顔を持ち上げました。どうやら本を読んでいたようです。アイリの姿を認めて「ああ」と小さくもらすと、ぱたりと閉じてテーブルに置きます。
「申し訳ない。読書に夢中になっているとなかなか来客に気づけなくてね。父様の事件を調べに来た探偵さんかな?」
「はい、アイリと言います。こちらの兵士はスペサン」
「キカザールだ」
キカザールは簡潔に自己紹介を済ませると、関心の薄そうな表情のまま黙ってしまいました。
細い目つきにあまり肉のついてなさそうな体と、やや不健康な文学青年といった印象を受けますが、無骨なヘッドフォンのパンクさがどうにもちぐはぐです。
「……何か?」
そんなにじろじろと眺めていたわけでもないのですが、疑わしげに聞かれました。
「いえ……その、何を聴いているんですか?」
「ん。ああ、これは飾りだ。音は流れていない」
「じゃあ、ノイズキャンセリング? 雑音を消して読書に集中するために」
「いや、そんな機能はない。ファッション、飾りだよ、文字通り。コードは邪魔だから切ったんだ。そもそも、そういう雑音を俺は拾えない。音の無い世界に生きているものでね」
「というと、耳が」
「ああ、聞こえない」
キカザールが自嘲気に笑みを浮かべます。
「数年前、不注意でここの二階から落ちたんだが、その時に耳をやってしまってな。まあ、口の動きで何を言っているか分かるから、面と向かっての会話なら特に支障はない。静かでいいものだぞ、これはこれで」
「そうですか……」
ミザールと同様、キカザールにも虚勢を張っている様子はありません。
「それじゃ、よろしく頼むよ、小さな探偵さん」
それだけ言って、アイリが応えるより早くキカザールは読書に戻りました。
「キカザールさんは次男ですか?」
「ああ、そうだよ」
ミザールは答えると、アイリたちを避けながら大男の方へ移動します。
「そしてこちらが我らの末っ子、イワザールだ」
「…………」
大男はこちらを見つめたまま何もしゃべりません。その口元は大きなマスクで覆われています。キカザールとは対照的にしっかりと筋肉のついた体ですが、禿頭に力強い目とあわさって、なんだかおっかない雰囲気を漂わせています。末っ子なのに見た目の威厳は一番でした。
近付いて挨拶します。
「アイリです。よろしくお願いしますね」
(イワザールです)
「ええイワザールさん……」
あれ?
なんだか不思議な感覚をおぼえました。その返事はやけに穏やかな声でしたが、なんというか、音の実体がないような感じです。
(イワザールです)
またです。脳裏に響く声……もしかして、とアイリはおそるおそる尋ねます。
「あの、これ、あなたが?」
(はい、今、あなたの脳内に直接話しかけています)
ものすごく曖昧な質問でしたが明瞭きわまりない回答が返ってきました。
「えっと、失礼ですが、普通に会話は?」
(すいません。声が出せないので、こうして意思疎通をとらせていただいています)
くらりときました。三男がしゃべらないことは予想していたアイリですが、この意思疎通方は予想外です。
手話とか、口の動きをキカザールに通訳してもらうとか、紙とペンとか、いくらでも方法はあるでしょうに……
……ファミチ
(ああ、アイリさんの考えていることはこちらには伝わりませんから安心してください)
「あっはい」
体勢を立て直します。
「……その、なんというか、どうやってるんですか、これ」
(言葉を頭の中に思い浮かべて、念じます)
「念」
(念じます)
分からないということは分かりました。
あの庭での発話みたいなものかしら……。
「これは他の人にも聞こえてるんですか? あ、聞こえてる、でいいのか分かりませんけど」
「ええ、『聞こえて』いますよ」
ミザールが答えました。
「たしか、ある程度『話しかける』範囲を調整できるんだったかな?」
(ええ。近くにいる人全員に『聞こえて』しまうのが面倒なこともありますが、長く『話して』も疲れませんし、便利ですよ)
いや、便利と言われても。
いまいち消化しきれないアイリでしたが、なんにせよこれで、シザール伯爵の三人の息子との顔合わせは終わりました。
見ざる、聞かざる、言わざる……。
受け入れがたいセンスをしていますが進行役としては有能そうなのでミザールに声をかけます。
「ご兄弟を紹介してくださってありがとうございました。それで早速ですけど、事件当時のことをお伺いしたいのですが」
「ああ、それなんですがね」
ぱん、とミザールが両手を合わせます。
「すでに基本的なことはお聞き及びとは思いますが、事件当時のことについて一人ひとりいちいち証言をとっていくのは、おそらくアイリさんにとっても面倒だろうと思うのです」
「はあ」
そんなこともないけど。というか犯人探しってそれがメインじゃないの。
とは思いますが、話の流れが見えなかったので、続きをうながすことにします。
「そうですね、ちょっとした手間ではあるかもしれません。でも、それが?」
「ええ! そこで、アイリさんの負担を軽減するために、私どもの方で劇を用意しました!」
目元こそ見えませんが、明らかに満面の笑みでミザールが言いました。
アイリも笑顔で応じます。
何言ってんだこいつ。
「劇……ですか?」
「はい。事件当時の私たちの行動を再現した劇です。これを観ていただければ、これからの調査の役に立つこと間違いなしですよ。こちらに!」
ビシッと手を伸ばして入り口の方を示すので、そちらに視線をやると、いつの間にか舞台のようなセットが設えられているのです。大きな直方体を二つ横に、片方を舞台、片方を背景として長辺上で垂直に立てただけの簡単な代物で、木組みの舞台骨もあらわになっています。両側には背景に使うのでしょうか、着色された書き割りがいくつも並んでいます。
……何これ。
「アイリさんはこちらの椅子にどうぞ。さあみんな、準備だ!」
流されるように着席したアイリが内心で呆れと衝撃に戸惑っているなか、ミザールがパンパンと手を打つと、イワザールは特に表情を変えずにのっそりと、モノベーはこんな状況でも恭しい仕草で動き出します。本から顔を上げたキカザールが、面倒さを表情ににじませながら立ち上がりました。
舞台に役者がそろったところでミザールがアイリに向けて一礼します。
「それでは、ごゆるりとご鑑賞くださいませ」
ああ、ほんとうにやるのね……正気かしら……でもこれが私の夢の世界なら正気じゃないのは私ってことにならないかな……。
アイリがぐるぐると考えるのにもお構いなしに劇は始まります。
*
〈中庭〉
(背景、手入れされた芝生、花々、時計塔。ミザールが一人、散策している)
ミザール:ふむ。(足を止めて腕を持ち上げ、時計を操作する動作。ほどなく機械音声)
『ただいまの時刻は、午後、二時五十八分です』
ミザール:ああ、もうこんな時間か。そろそろ中に戻るかな……
(SE、発砲音)
ミザール:!(ハッと顔を上げる) 今のは、銃声か? 何が起きたんだ?(足早に去る)
〈屋敷廊下〉
(中央にシザールの書斎の扉。ミザールとイワザールがそれぞれ両袖から駆け込んで来、扉の前ではち合う)
イワザール:兄さん。
ミザール:イワザール! 銃声のようなものが聞こえたが、何かあったのか?
イワザール:それで僕も飛んできたんだ。あれはどうも、父さんのピストルの音じゃなかった?
ミザール:言われてみればその通りだ。ということは……(扉に向き直り、ノックする)父さん! 父さん! ……返事がないな。開けますよ!(ノブに手をかける)
(ここで背景、廊下から室内の模様に。そのままの体勢でミザールとイワザールが振り返る)
〈シザールの書斎〉
ミザール:(ドアを開ける)父さん? ……気配がないな。イワザール、中はどうなっている。
イワザール:(ドアのそばから中を窺い、驚いた表情)父さんが倒れているよ。部屋の中央だ。頭から血が流れているみたいだから気をつけて。
ミザール:なに? (部屋の中に入り、かがみ込み、シザールの様子を確かめる動作)……死んでいる。
イワザール:それじゃあ、さっきの銃声が。
ミザール:ああ、そうだろうな。書斎にはピストルがあったよな。どこかに落ちていないか。
イワザール:……(指差しながら)そこ、父さんの足元に。
ミザール:足元? ……ちょっと待て。イワザール、父さんの死体を確認してくれないか。銃弾はどこを撃っている?
イワザール:うん(ドアから離れ、そろりと中に入ってくる)……額だよ。穴が開いてる。血が溢れてるね。
ミザール:そうか。となると……そうだ! キカザールはどこだ? 連れてきてくれないか。
イワザール:わかった。
(イワザール、いったんはけ、数秒してキカザールとともに戻ってくる)
キカザール:聞いたぞ、ミザール。父さんが死んだとは一体……(部屋の中央を見下ろす)ああ、どうやらそのようだな。
ミザール:キカザール。ずいぶん早い到着だな。なんにせよ無事でよかった。
キカザール:部屋にいたんだ。しかし、無事? 無事とはどういうことだ。
ミザール:これを見てくれ。(キカザールへ顔を向けたまま、頭部を指差す)父さんはピストルで撃たれたようなのだが、その傷が額にできているらしい。もし自殺なら額など狙うまい。つまり、父さんは誰かに殺されたんだ。
キカザール:……なるほど、そして犯人はまだこの屋敷にいるかもしれないと。
ミザール:そういうことになる。
イワザール:そんな! でも、それならなんでピストルがここに?
キカザール:犯行にピストルを使ったとして、それを放置していったということは、犯人にはもう害意はないということになるか?
ミザール:かもしれないが、今は固まって動くのが安全だ。門を確かめに行こう。犯人が侵入してきたのなら何か痕跡が残っているかもしれない。王妃様に事件のことを報告に行かねばならないしな。
〈門〉
(背景、下手に庭と煉瓦塀、上手が屋敷の外の様子。下手側から三人そろって登場。中央に鉄柵の門扉が縦断して存在しているかのように演技)
ミザール:(門扉に手をかけ何度か揺らす)? 鍵がかかっているのか?
イワザール:いや、錠前はついてないけど……(門扉に手をかける)開かないね。
(上手からモノベーが登場)
モノベー:これは皆様おそろいで、いかがなされました?
ミザール:ああ、モノベー。驚かないで聞いてくれよ、実は今しがた、父さんが死んでいるのを見つけたのだ。
モノベー:なんと、旦那様が!
イワザール:それも、どうやら誰かに殺されたみたいなんだ。
モノベー:おお!(手を合わせる) なんたる一大事でございましょう、一刻も早く確認いたしませんと。
キカザール:それもだがモノベー、この門はどうなっている。どうにも開かないようなのだが。
モノベー:ああ、皆様はご存知ではありませんでしたか。実は今日の朝方、ここらを通りかかった荷馬車が暴れて、この門に衝突したのです。見た目に大きな損傷はありませんでしたが、溝にはまった突端の部分が曲がってしまい、それですっかり動かなくなってしまいまして。私は修理の手はずを整えるよう旦那様に仰せつかり、鍛冶職人のところまで依頼に出ていたところなのです。
キカザール:門が動かなかっただと? ならばお前はどうやって屋敷の外に出たのだ。
モノベー:裏の通用口からにございます。
キカザール:通用口……なるほどな。犯人は門が壊れる前に屋敷に侵入し、通用口から脱出したということか。
ミザール:……モノベー、お前は通用口から出た後、そこを施錠したか?
モノベー:はい、確かに。
ミザール:ああ、キカザール、どうやら犯人が通用口を使ったということはなさそうだ。
キカザール:なぜだ? この門が使えない以上、通用口を通るしかないだろう。
ミザール:それは向こうで説明しよう。モノベー、お前も通用口に向かってくれ。それにしても、困ったことになったぞ……。
〈通用口〉
(背景、上手と下手を反転、やや薄暗い印象。三人とモノベーの立ち位置が入れ替わっている)
イワザール:(ノブに手をかける)モノベーの言ったとおり、鍵がかかっているみたいだね。
ミザール:イワザール、私の記憶が正しければ、この扉にはつまみのようなものはついてなかったと思うが、どうかな?
イワザール:(確かめる)そうだね、ついてないよ。
ミザール:(頷いて、扉を示す)つまり、施錠・開錠には鍵が必要なわけだ。
(モノベー、鍵を開ける仕草。SE、開錠の音)
ミザール:(扉を開き、反対側の面を示す)もちろんこちら側にもつまみはない。屋敷の外だからね。モノベー、この扉の鍵はお前が持っている一本きりだね?
モノベー:はい、その通りにございます。
キカザール:事件が起きる前から、この屋敷は閉ざされていたと。そう言いたいのだな。そして屋敷が閉ざされていたのならば、犯人はまだ屋敷から脱出していないことになる。いまこの屋敷に残っているのは……。
ミザール:ああ……おそらく、私たち兄弟の中に犯人がいるのだろう。
モノベー:な、なんと! この中の誰かが旦那様をその手にかけたというのですか!
ミザール:もちろん屋敷の中をあらためる必要はあるが、私たちの中に犯人がいる可能性が最も高いのは否定できない。凶器からもそれは明らかだろう。
モノベー:と、申しますのは?
イワザール:凶器は父さんのピストルで、父さんは正面から額を撃たれていた。部屋の中央に倒れていたから、犯人から逃げたということもなさそう。犯人は父さんのピストルの在り処を知っていた、ピストルを持った状態で正面から父さんに近付くことができた。父さんの知人は少ないし、顔見知りの第三者の犯行よりは、僕たちの中に犯人がいると考えるのが妥当だ。……そういうことでしょう。
ミザール:その通りだ。私たちの嫌疑は免れ得ないだろうな。それを踏まえて聞くが、父さんを手にかけたことを白状する者はいないか?
(沈黙)
ミザール:まあこうなるだろうな。といって、犯人を絞れるわけでもないのだが……一応、全員のアリバイを確認しておこう。昼食以後、父さんに最後に会った者は?
モノベー:おそらく、私でございましょう。書斎にて、門扉の修理の件で確認をとっておりました。
キカザール:それはいつのことだ。
モノベー:詳しい時間までは……ああいえ、私が書斎を辞す時、ちょうど時計塔の鐘が鳴っておりました。
ミザール:なるほど、あの時か。ならば問題となるのは、それ以降から銃声が響くまでのアリバイだな。二人は何か証明できるか?
キカザール:昼食後はしばらく書物庫で調べ物をしていたが、その時には自室で本を読んでいたな。イワザールに呼ばれた時も自室だ。一人きりだったから証人はいない。
イワザール:僕も昼食の後は自室で、ちょっとしてから娯楽室に……兄さんは。
ミザール:広間で過ごしてから中庭を散策していたよ。もちろん証明はできない。三人とも、互いに誰も目撃していないな?
(キカザール、ゆるゆると首を振る。イワザールは固い表情)
ミザール:モノベーはどうだ、何か見ていないか。
モノベー:いえ……旦那様に確認をとってすぐ、鍛冶屋の方へ出ておりましたから……お役に立てず申し訳ないです。
ミザール:いや、いいんだ。モノベーのアリバイは鍛冶職人に聞けば確かめられるだろう。そして、通用口の鍵のアリバイもな。
イワザール:この中に父さんを殺した犯人が……。
キカザール:一体誰が……。
ミザール:シザール伯爵を殺したのか……?
*
その台詞を最後に四人の動きが止まりました。しばらくしてミザールが手を打つと、うつむき気味だった姿勢をそれぞれ正し、アイリたちの方へ向き直って一礼します。
どうやら劇は終わりのようです。
劇というか、茶番というか……。
何か反応してあげないとかしらと気づいて、アイリは拍手で応じます。
「ありがとうございました。おかげで事件当時の様子がとてもよく分かりましたわ」
「お褒めいただき光栄です。いやあ、練習の甲斐がありましたね」
あなた以外は棒もいいとこだったけど。
ミザールの言葉にそう思うアイリですが、何の意味もない微笑みで返します。処世術しています。
「ええ、とてもよく分かりました。けれど、いくつか確認しておきたいことがありますわ。よろしいでしょうか?」
「もちろん、なんなりと」
「それじゃあまず、この劇について。事件当時の再現ということですけど、再現というのはどの程度のものなんですか? たとえばそうね、台詞とか、ちょっとした動きについて」
「服装や装飾品含め格好などは同じですが、細かい所作については何とも言えませんね。さすがに覚えていませんから。ですが台詞は四人の記憶をつき合わせて完璧に再現しましたよ。シメの部分を少し変更しただけで、残りは一言一句まで事件当時のままと保証しましょう」
「その点は俺からも保証しよう。兄貴がしつこいくらい確認してきたからな、自分が何を言っていたのか、すっかり思い出させられるはめになったよ」
相変わらずのうんざりとした表情で、口調こそ冷静ですがぶっきらぼうにキカザールが言います。劇中でも一番棒読みが酷かったのはキカザールでしたし、あまり乗り気ではなかったようですね。さておき、イワザールとモノベーも頷いているので同意見とみてよさそうです。
「そうですか。とすると、劇中で二人以上が同時にいたシーンは事実として信用できますね」
「はは、手厳しい。一人きりでいるシーンがあったのは私だけですね」
困ったように笑いながらミザールは頭の後ろをかきます。
「もっとも、それくらい遠慮なく疑ってくれた方が探偵としての力量も信頼できようというものです」
「ご理解いただけて嬉しいですわ。でしたらその台詞についてなのですが、イワザールさん、イワザールさんの台詞は事件当時も、その、念じて?」
(はい、劇と同じように)
イワザールは劇の最中も言葉を発することなく、脳に直接語りかける方法をとっていたのです。
「なるほど。では、キカザールさんもイワザールさんの台詞は『聞こえて』いるんですね」
「ああ。俺も原理はよく分かっていないが、どうやらこれは耳で聞くものではないらしいからな」
劇中でキカザールは向かい合った相手とだけ会話をしていましたが、イワザールの発言には、その口の動きが見えない位置からもしっかり反応していました。もっとも、イワザールはマスクをつけているので、口の動きなんてそもそも分かりませんけどね。
「劇の前提についてはこれくらいかしら。それでは内容についてもいくつか。まずはそう、お三方のアリバイなんですが、時計塔の鐘が鳴ってから銃声が響くまでの間ということでしたね」
門をくぐったところで見かけた、鐘のついた白い塔。あれが時計塔なのでしょうね。中庭にあるのかしら。ずいぶんシンプルなつくりだったけれど……。
「銃声が響いたのはミザールさんが確認した時刻が正しければおよそ午後三時として、時計塔の鐘が鳴ったのはいつ頃なんでしょう。劇の中では出てこなかったように思いますが」
「それなら判明していますよ。午後一時十八分です。あの時は言いませんでしたが、鐘が鳴ったときも私はこの腕時計を確認していたので、これは正確な時間のはずです」
はめている時計がよく見えるようにミザールが右腕を掲げてみせます。が、そんなことより。
「一時十八分?」
時計塔の鐘が告げるにしてはえらく中途半端な時間です。
それに、鐘が鳴った時間を確認したってどういうこと?
怪訝そうな様子が伝わったのでしょうか、ミザールが思い至ったように付け足します。
「ええ、ここの時計塔はなんというか、ちょっとばかり特殊なものでしてね」
「特殊」
アイリの目がきらと輝きます。
「そんなに期待されても困りますけどね。ナンセンスな代物ですよ」
ミザールは苦笑しつつ手を振ります。
「でたらめ時計、へそ曲げ時計、不報の時計……まあ、呼び方はなんでもいいです。あの時計塔は、時間を報せないのです」
「時間を報せない? でも、鐘が鳴るんですよね」
「ええ。一日に一回、鐘を鳴らす仕組みになっています。ただし、その時間がまったくのランダムなのです」
「……ああ、なるほど」
少し考えて意味を理解し、それはたしかにナンセンスだわ、と納得します。いかにもだわ。
「文字盤の類などは?」
「ありません。ですから塔の鐘が鳴った時刻を確かめるには他の時計で確認するしかないのです」
劇の冒頭でも、ミザールは腕時計で時間を確かめていましたね。時間を確認する癖でもあるのでしょうか。
「一日に一回というのは、鐘が鳴ってから次に鳴るまでのインターバルが少なくとも二十四時間あるという意味でしょうか? それとも単純に日付の変更に従って?」
「後者ですね。たとえば午後二十三時五十九分に鳴って、二分後の午前零時一分に鳴るということも、理論的にはありえます」
「ふん、なんというか……それって時計塔って呼んでいいのかしら?」
時計塔と言いますが、あきらかに時計としての役割を果たしていません。アイリの言うことももっともですね。
苦笑を強くするミザールです。
「私の生まれるよりずっと前からある、なかなか歴史あるもののようでしてね。かつては時計塔としての機能を果たしていたのかもしれません。入り口こそ封鎖されていますが、今でも塔の内部に機構自体は残っているようです。私としては、生まれた時からずっとそこにあって、時計塔と呼ぶのが当たり前になってしまっている節があります。一種の愛称みたいなものですよ」
「そんなものですか」
アイリにはミザールの気持ちはよく分かりませんが、とりあえず、時計塔の来歴は事件とはあまり関係なさそうだなと判断して流すことにしました。
「じゃあその、ミザールさんの腕時計なんですが、それの時間は正確なんでしょうか? 劇の時は二時五十八分を告げていましたね。今は……まだ一時前のようですけれど」
大広間の隅っこにある柱時計をちらと見てから訊ねます。
「ああ、劇に使ったのは効果音と一緒に録音しておいたものですよ。僕の時計はこの通り」
『ただいまの時刻は、午後、零時五十二分です』
ミザールが簡単な操作をすると、劇の冒頭で聞いたのと同じ音声が時間を告げました。柱時計が示すのと同じ時刻です。
「ね、正確でしょう? この腕時計は衛星と通信して六十秒ごとに表示時刻のズレを自動修正する優れもの、内部構造も複雑でとても素人が細工を施す余地はありません。まず信頼していいと思いますよ」
「なるほど」
電波時計ね。なんでそんな設定無視みたいなハイテクが平然と登場するのかしらねこの夢は。ああ、ちぐはぐだわ。
「では、時間については証言の通りで間違いないとして、モノベーさんのアリバイは? 確認はとれたのですか」
「はい。用事を済ませたモノベーが鍛冶屋を出たのが午後二時半過ぎで、鍛冶屋からこの屋敷までは一番速い馬車で四十分ほどかかります。どのような手段を用いても、銃声のあった午後三時までに到着するのは厳しい。モノベーのアリバイは立証されていると言ってよいでしょう」
容疑はますます三兄弟に限定されていきます。
「時計塔の鐘は、事件当日は午後一時十八分に鳴った。その時まだ被害者は生きていた。およそ二時間後に銃声。その時、ミザールさんは中庭に、キカザールさんは自室、イワザールさんは娯楽室だったわね。それぞれの部屋について、そうですね、現場の書斎を中心として、位置関係はどうなっているんでしょう」
「位置関係となると、一番近くにいたのは俺だろうな」
キカザールが答えます。
「兄貴は屋外、イワザールは二階、俺は書斎と同じ一階だ。廊下をはさんでほとんどはす向かいだから、目と鼻の先みたいなもんだ。もっとも申し訳ないことに、銃声を聞きつけることはできなかったわけだが。顔を出してれば犯人の顔を拝めてたかもな」
ちっとも申し訳なさそうでなく、ひょうひょうと言ってのけます。
(現場までの単純な距離なら、中庭も娯楽室もあまり変わりありませんね)
今度はイワザールの声が響いてきました。
(ウチの中庭はそこまで大きなものでもないし、どこにいたとしてもそんなに違いはないでしょう)
「銃声は、どうでしたか? ミザールさんにははっきり聞こえたようですけど、イワザールさんの居た娯楽室では」
(はっきり聞こえましたよ。あの日は快晴で、空気も乾いていましたからね。二階までしっかり響いてきました。それで何かあったのかと、慌てて書斎へ駆けつけたのです)
「なるほど。それでは、当日の屋敷の状況について。事件当時に屋敷は閉ざされていて、三人以外の人物はいなかった。これは、後で確かめられたんですよね」
「はい、手分けして敷地内を探し回りましたが、不審な人物は……いえ、部外者は誰一人、見つかりませんでした。ですから容疑は私たち兄弟三人に限定されることになります」
「そうですか」
ふうとひとつため息。これくらい聞いとけばオッケーかな。
「ありがとうございます、確認したかったことは以上です」
「となると、次は現場の調査ですね!」
したり顔でミザールが頷きます。
……この人、なんでこんなにはしゃいでるのかしら。
「モノベー、書斎まで案内を……」
「いえ、それには及びませんわ」
アイリの遮る声に対し、きょとんとした表情、訝しげな表情、複数の顔が注目してきます。
それを受けるアイリは、椅子に座ったまま、静かな笑みを浮かべました。
「現場の調査はなされないのですか?」
戸惑った様子でミザールが問いかけます。
「事件の内容からしてたしかに、得られるものは少ないかもしれませんが、といっても今の段階で他にすることなど……もしや!」
「ええ、おそらくその通り」
驚いたその顔に、わずかにこくと返します。
あんな茶番でも、茶番にする理由はちゃんとあったってことね……。
「犯人が分かったわ」
*
(犯人が分かったって、本当なのですか、アイリさん)
「本当なら頼もしい限りだが……俺たちだって事件の検討はしたんだ。結果、俺たち兄弟の誰でも犯行は可能と分かるだけで、それ以上絞り込むことはできなかった。話を聞いただけのあんたに、犯人が分かるのか?」
驚いた様子のイワザールに、疑わしげなキカザール。
アイリはあくまでも落ち着いて返します。
「ええ、分かりました。みなさんが分かりやすい劇を用意してくださったおかげですわ」
「あの劇にそこまでのヒントが?」
悩みだすモノベーをよそに、アイリはアイリでちょっと考える様子です。
「とりあえず、前提を確認しましょうか。今回の事件は単独の犯人による犯行と考えるのが妥当です。正確には、共犯の可能性は考えにくい、ですね」
「それは、そうだろうな。結果的にとはいえ容疑は俺たち三人に限定されている。三人のうち二人が共同で犯行に及んだにしては、互いをかばうような証言は見られなかった」
「恐れ多いですがみなさま全員の犯行とするのも、それでしたらもっと違った証言になっていたことでございましょう」
「そうですね。犯行時刻やアリバイなどいくらでもごまかせるのに、わざわざ全員が容疑圏内に身を置いています。このリスクを思えば、共犯というのはちょっと考えづらい。だから単独犯。ここまではいいですよね」
全員がうなずくのを見てアイリは推理を進めます。
「事件当日、この屋敷の門扉は壊れていたため使用できず、それ以外の唯一の出入り口である通用口にも鍵がかかっていた。また、事件発生の前後、鍵を持っていたモノベーさんが屋敷から離れているのは確認できている。侵入できず、脱出できない。容疑は屋敷の中にいたみなさん兄弟に限定されることになる。これも確認です」
再びうなずいた後、キカザールが言います。
「だが、俺たちの誰にもアリバイはなかった。現場には特定の誰かを示すような手がかりもない。これ以上どうやって絞り込んでいくんだ」
「そこで、あの劇ですわ。あの中にはとても重要な手がかりが隠されていました」
「しかしあれは、探偵さんによる事情聴取の手間を省くため、という名目の通り、内容としては事件発生前後の様子を伝えるものにすぎないはずだが」
「あの劇は事件当時の様子を正確に再現したもの。事件当時、というのが重要なんです。お三方とモノベーさんが状況整理の議論をしていた段階では、当然、みなさんは事件に関係するデータの全てを把握しているわけではありませんよね? ですから、その時点で知りうるはずのない情報に基づいての発言をするわけがありません。……犯人でもない限り」
「それはつまり」
口元に手をあて、ほんの少しの猜疑と悩ましげな調子を込めた声でミザールが確認します。
「アイリさんは、こうおっしゃりたいんですね。『失言したやつがいる、そいつが犯人だ』」
アイリはわずかに口元を上げて応じました。
「はい、そうなりますね」
「ですが、私たちはあの劇の練習を何度かしています。もちろんその過程で台詞の確認も。そのような失言があるなら、誰かが気づいてもよさそうなものですが……」
「気づかなかったんでしょう?」
ばっさりです。
返す言葉もなくミザールは黙ってしまいました。
「ああ、もしかしたら犯人自身は気づいていたかもしれませんね。でも気づいたところでどうしようもなかった。あの劇は四人分の記憶に基づいて再現されています。そんな発言はしていないと主張したら、かえって疑いをもたれてしまうかもしれません。だって、一言一句、正確な再現を目指していたんでしょう? だったら、その発言の意味に誰も気づかないことを祈りながら事実の通りに再現するのも、不思議な選択ではありません」
(でしたら、その失言とはどんなものだったのか、教えてもらえますか)
こんなもったいをつけたら、気になるのも当然ですよね。
「ええ、もちろん……モノベーさん」
三兄弟の視線がモノベーに集まります。
「はい、なんでございましょう」
「台詞は、そらで言えますよね。一つお願いできます? 通用口に集まっているシーンで、『書斎を出た時』どうこう、というやつを」
注がれる視線に疑いが混じっているのを感じたはずですが、執事は背を伸ばしたまま動ぜず、静かに目を閉じました。その口からゆっくりと言葉が発せられます。
「『詳しい時間までは……ああいえ、私が書斎を辞す時、ちょうど時計塔の鐘が鳴っておりました』……これでよろしいでしょうか?」
抑揚はぎこちないですが、はっきりとした声です。
アイリは満足そうにうなずきました。
「はい、ありがとうございました」
「……今の台詞のどこにおかしな点があったというんだ」
ちょっといらついたようにキカザールが言います。
「どこもおかしくありませんわ」
「何?」
「モノベーさんの台詞がおかしかったなんて、私、言ってませんから。ね、ミザールさん」
呼ばれたミザールは目に見えて動揺しました。
「は、はい」
「続く台詞をお願いします」
少しためらうそぶりを見せてから、つばを呑み込んで、ミザールが台詞を口にします。
「……『なるほど、あの時か。ならば問題となるのは、それ以降から銃声が響くまでのアリバイだな。二人は何か証明できるか?』」
劇のときの名演とは打って変わっての細々とした声でした。
これでいいのかと窺うようにアイリを見ます。いえ、目元は見えませんけれど。
「はい、けっこうです。ありがとうございました」
もう一度うなずいてから、今度はキカザールの方を向きます。
「……次は俺の台詞か」
「はい。お願いします」
「『昼食後はしばらく書物庫で調べ物をしていたが、その時には自室で本を読んでいたな。イワザールに呼ばれた時も自室だ。一人きりだったから証人はいない』」
棒読み丸出しのぶっきらぼうな調子。ですが、こちらは劇の時点でこんな感じでした。
(では、次は僕の台詞ですね)
「いえ、けっこうですよイワザールさん。おかしいのは今のキカザールさんの台詞ですから」
場に緊張が走りました。
ミザールとイワザールがキカザールの方へハッと目をやりますが、キカザールはアイリと相対したまま、表情を崩しません。
「ほう。失言したのは俺、か。ということは、父さんを殺したのも俺と言いたいわけだ」
「ええ、そうなりますね」
挑むような微笑でアイリは答えます。
「ならば聞こう。今の俺の台詞、一体どこが問題だったというんだ」
「……その時には自室で本を読んでいた、イワザールに呼ばれた時も自室だ。キカザールさん、『その時』って、具体的にはいつのことかしら?」
「…………」
「勝手に答えますね。『その』は直前に出てきた内容を示しますから、これは、モノベーさんの台詞にあった『時計塔の鐘が鳴った時』です。ですがキカザールさん、どうしてあなたがその時刻を知っているんでしょう? 耳が聞こえないはずのあなたが」
「…………」
「あの時計塔が鐘を鳴らす時間は全くのランダム。事件当日、鐘が鳴ってから銃声が響くまでの間、みなさんはずっと一人きりだったので、誰かに教えてもらったということもない。鳴った時刻に時計を確認しない限り、鳴った時刻を把握することはできません。いえ、具体的な時刻は問題じゃないですね。そもそもあなたは鐘が鳴ったことすら認識できないはずなのだから、『時計塔の鐘が鳴った時、自分が何をしていたか』なんて、証言できないはずなんです。では、どうしてあのような証言ができたのかしら? 答えは簡単ね」
「…………」
「キカザールさん、あなた、本当は耳が聞こえるのでしょう?」
「キカザール、お前……!」
(本当なのかい、兄さん?)
驚いた二人が声をかけ(?)ますが、当のキカザールはアイリと向き合って黙ったまま、返答しようとする様子はありません。
「……だとして、だ」
やがて、ゆっくりと口を開きます。
「俺の耳が聞こえるとして。それで、なんになる? 俺の耳が聞こえることと父さんが殺されたことに、何の関係が?」
「耳が聞こえないというのは嘘だと、お認めになる?」
「仮定の話だ。質問しているのはこちらだが」
「銃声」
ピクリとキカザールが反応したのを、アイリは見逃しませんでした。
「鐘の音が聞こえたのだから、聞こえないはずがありませんよね、銃声。銃声の響いた時、あなたは自室にいて、あなたの部屋は現場のはす向かい、目と鼻の先なんですもの」
「……耳が聞こえないことを隠したかったとしたら、聞こえないフリをするんじゃないか」
「だとしても、銃声が聞こえてきたら何らかの行動を起こすものですわ。それこそ、なんとなく部屋から出てみたといったそぶりで、外の様子を確認するくらいのことは。そうしていたら当然、現場に駆けつけたミザールさんとイワザールさんに遭遇していたはずです」
「そもそも銃声が聞こえなかったのかもしれないだろう。音楽を聴いていたとかで」
「さきほどミザールさんが劇中の格好は事件当時と同じと証言してくれました。つまり今の格好と同じです。そのヘッドフォンでは、音楽は聴けませんよね。コードが切られているのですもの」
またも無言です。つばを呑み込むのさえためらわれるほどに、空気が張り詰めピリピリとしていきます。
二人が対峙してどれくらいでしょうか、睨むようだったキカザールの目つきから、ふっと力が抜けて、諦観を漂わせるように視線を外しました。
「ここまで追い詰められてはたまらないな。降参しよう。父さん、シザール伯爵を殺したのは、この俺だ」
それは、ひどく投げやりな自白でした。
「キカザール……」
ミザールが弟の名前を呼びますが、それきり言葉が続きません。
「何を驚いているんだ、兄さん。俺たちの中に犯人がいるってのは分かってたことだろうに」
「それは、そうだが……じゃあ、お前、その耳は」
「ああ、聞こえるよ。二階から落ちたとき聴力を失ったのは本当だ。だが、あれは一時的なものだった。だんだん聞こえるようになっていたんだ。しかし、『聞こえない』世界に慣れ始めていた身には、『聞こえる』ことはなんとも鬱陶しくてね。せめてやかましい世俗と最小限の接触で済むようにと聞こえないフリをしていたんだが……まさか、言葉尻ひとつからバレてしまうとはな。これでも気をつけていたつもりなんだが」
(気づかなかったよ。まったく気づかなかった……)
イワザールが力無く首を振ります。
自嘲気に、キカザールが笑います。
「……犯人だと認めてくれるんだったら」
そこへ、変わらぬ調子でアイリが割り込みます。
「教えてくれないかしら。なぜ、殺したのか」
「動機か」
「ええ。せっかくの爵位を腐らせたまま安穏としているシザール伯爵に対し、息子たちは不満を募らせている。そう聞いていたから私、そんなものかと思って、動機についてはまったく考えてないのよ。まあ、元からだけど。でも、あなたはそんな理由で殺したのではないのでしょう? むしろ世俗を避けていたのだから」
問いかける視線が再び集まり、キカザールは何かを思い返すような面持ちでまぶたを下ろしました。そのまま、ぽつりと漏らします。
「壊せと、言ったんだ」
「何を?」
「時計塔さ」
ゆらりと目を開いたキカザールが窓の方へと顔を向けます。その向こうに屹立するのであろう時計塔を、ありありと思い浮かべているのが察せられます。
「あの気狂い時計さえなければ、俺の世界はもっと平穏でいられる。だから、撤去するよう、父さんに何度も頼んだんだ。音のことは理由にできないから、老朽化による崩落の危険とか、それらしい理由をでっち上げてな。しかし父さんはうなずいてくれなかった。伝統とか、思い出とか、曖昧なものを持ち出して、まったく聞く耳を持たなかった。それこそ、耳が聞こえないんじゃないかってくらいに」
少しずつ、キカザールの口調が荒々しいものへとなっていきます。その声に、隠し切れない怨念がにじみ出てきます。
「あの鐘の音色、生まれたときからずっと聞いてきたはずの音色がきっかけだった。澄み渡るような静寂を引き裂いて、気味の悪い空気の振動を俺に思い出させた。それからだ。すっかり慣れきっていたはずのその音色が、俺の精神を蝕むんだ。聞こえないフリをしても、耳栓をしても、駄目なんだ。あの鐘が鳴るたびに、いつも、恐怖が這い寄ってくるんだ。忘れさせるものかと、足首を掴んで引きずり込むんだ。決まった時間ならまだいい。それはいつだって、突然襲ってくるんだ。どのように過ごしていようとも、不意に、前触れもなく……いつ訪れるかも分からない恐怖に、どうにかなりそうだった。自分の頭を撃ちぬいてしまおうかとも思った。なのに、それなのに、これほど俺が苦しんでいるというのに、あの時計塔は壊せないと言うんだ……!」
文脈も無茶苦茶に吐き出される意味不明の呪詛は、たしかに、追い詰められた人のものでした。キカザールが何を言っているのか誰も分かっていません。尋ねた当人であるアイリも複雑そうに顔をしかめるばかりです。
誰も、何も言えずにいた、そのとき。
ガァーンとも、ゴォーンとも、あるいはギャーンとも、どうとも聞こえるようでいわく表現しがたい音が、たしかな厚みをもってぐわんぐわんと響いてきました。
低く低く、軽快さとは程遠く、身体を震わすように室内に反響します。
時計塔の鐘――
無意識に見やった柱時計の針は一時二十二分を指し、秒針は円の左下を回っているところでした。
でたらめ、へそ曲げ、報せず――気狂い時計。
視線を戻すと、ヘッドフォン越しに強く耳を塞ぐキカザールがうつむいて、意味の取れない呻きのような言葉を、ぶつぶつ、ぶつぶつと、繰り返しているのです。ずっと、ずっと。
*
「せっかくだから自慢するけど、実は劇を見る前からキカザールのこと疑ってたのよ」
二人の見送りに出たモノベーの姿が屋敷へと消えるのを見届けてから、閉ざされた門扉の前でアイリが話し出します。
「それは、ずいぶん早かったのだな」
「あらスペサンお久しぶり。ずっと黙りこくってたから私だけに見える幻覚かと思ってたわ」
「話しかけておいてその反応はないだろう」
「だってあなたまるで置物みたいだったじゃない」
後ろに控えるスペサンに目をくれることもなく、鉄柵越しに覗く屋敷を見つめながらアイリは言います。
話す内容のわりに、ちっとも浮かない表情です。
「ふん。まあいい。それで、劇を見る前からキカザールを疑っていたというのは?」
「銃声。もしキカザールの耳が聞こえるなら、こいつが一番怪しいなって。だから劇の最中はキカザールの耳が聞こえるという根拠がないかずっと気にしてたの。それであの推理よ」
「……いや、そもそもどうしてキカザールの耳が聞こえるのかもしれないと疑ったのだ」
「三兄弟の名前を聞いたときから、少なくとも一人は嘘をついてるかもなって思ってたのよ。だけど、ミザールの目が見えても、イワザールが言葉を発せても、事件とは関係なさそうじゃない? だからキカザールの耳に絞ってた」
「なぜ名前が関係する」
「被害者の名前は?」
「シザール・コウシン、シザール伯爵だが」
「でも、死んでるわ」
しばらく二人とも突っ立ったきり何も言いませんでした。
「冗談じみているな」
「ええ、ほんと冗談みたい。ねえどう思うスペサン」
「何がだ」
「あんな理由で父親を殺せるの」
アイリはミステリーが大好きな女の子です。その中には、普通では考えられないような理由で人を殺す犯人たちがたくさん出てきます。そういった作品も、もちろんアイリは好んでいました。
殺人を目的ではなく手段として扱うくらいじゃ、いまさら、驚くでもないのにね。
「……私はキカザールの考えにはまったく共感できないが」
ゆっくりとスペサンが答えます。
「そういう考えのもとで行動したのだなと、理解はしたつもりだ」
「理解はすれど共感はせず、私と同じね。とても広いらしいこの世界、人が人を殺すに至る動機がどれほどあるかなんて、考えるだけで疲れちゃうわ。だからやっぱり、うん、動機なんてどうでもいい、考えるだけ無駄なのね」
「言い切るのだな」
「ん……まあね」
アイリの表情は変わらず、視線は屋敷へと注がれたままです。
「極端な話だけどね、動機が分からなくても犯人は当てられるし、逆に動機があったところでそいつが犯人とは限らないわけでしょ。疑うきっかけぐらいにはなるかもだけど。でもまあやっぱり、私の基本スタンスとしては、犯人とせいぜい犯行方法が分かればいいのだから、動機なんてどうでもいいのよ」
それはまるで言い訳のように、何かを取り繕ろおうとするかのように、言葉がずらずらと口をついてくるのでした。
だとしたら、誰の許しを請うているのかしら。
「動機はどうでもいい。君がそう思うなら、それでいいんじゃないか。それで何か不都合でもあるのか」
「簡単に言うわねぇ。いや、ないけどね不都合。ないない……」
ないよね?
アイリは自問しますが、応じてくれる声は浮かんできません。
そんなアイリをよそに、変わらない調子でスペサンは尋ねます。
「しかし、ならばなぜ君は、キカザールに動機を聞いたのだ?」
「……案外、私もあやふやなものね。それがさっぱり分からないのだもの」
ぼそりと、呟くように答えます。
「父親が殺されて、その犯人が自分たち兄弟の中にいるらしいのに、長男は探偵遊びに夢中で、茶番劇まで用意して。犯人は、ただ鐘の音が我慢できなかったばかりに、お門違いな殺意を持って……」
右腕を伸ばし、鉄柵をつかんで、ぎゅっと握りしめます。
「不都合なんてないわ、あるわけない」
妹を守るために父親を殺したあの娘を、どうして私は受け入れられたのだろう。その判断のいったいどこに、正しさの基準があったのだろう。
そこにどんな背景があったか。どんな思いとともに、どんな生活があったか。部外者の私に分かるわけがない。
だから、正しいとか、正しくないとか、全部全部、私の勝手な思い込みなんだ。
だから、だから。思い込んじゃうのはどうしようもないから。どうでもいいって気にしないフリをするのは、正誤を、善悪を、決め付けてしまう自分を避けるためで、おそらくそれが一番いいのでしょう。そんな態度をこそ私は誠実と思っている。ああ、たぶん、これで合っているのだけれど――
「割り切れたら、楽なのにね」
そう言って、ひときわ強く握ってから、ふっと力を抜いて手を離します。それからくるりと振り返り、スペサンの顔を見上げて、少し疲れた笑顔をみせました。でも、屋敷の中でさんざん見せていたものとは違う、とても自然な笑顔でした。
「戻りましょうか。王妃様に報告しなくちゃ」
「そうだな」
軽快に歩き出すアイリと、その後ろを着いていくスペサン。来るときとは逆の立ち位置を保って、二人の姿が丘の向こうへと消えてゆきます。
ねえ、私。
この気分が晴れるまで、もうちょっとだけ眠っていてね。
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