不可思議の国の殺人
たたら
無無意識の庭の殺人
「判決よ。そこのあなた、死刑」
ふと気付けば見覚えのない景色に立っていて、アイリはそんな声を聞いたのです。
きょろきょろと周囲を見回します。
屋外です。背の高い建物はなく、開放感のある風景です。ならされた固い地面を踏む感触が伝わります。テニスコートぐらいの広さの空間でした。
すぐ正面は、アイリの胸の高さまである木の台。
なんだか見覚えがある――ああ、証言台ってやつだわ。裁判所の写真で見たことがある。じゃあ両側にあるのは、さしずめ弁護士と検察官の席ってわけ……それとも陪審席と陪審員かしら……。
なるほど、ほんとうにコートだったのですね。
そこに座っているものは人型でしたが、人ではありませんでした。カエルとか、オオアリクイとか、ウサギとか。色んな動物が節操なく並んでいます。似たような服に、似たような等身です。石版に羽ペンで何かを書きつけています。
振り向けば、少し離れたところにトランプの兵士が控えています。スートはスペード。トランプの胴体からのびる線が首や手足につながっているのですが、線はとても細く、とうてい支えられるようには見えません。どういう構造なのでしょう。いかめしい表情で三叉の槍を持っています。
そしてあらためて正面、柵向こうの壇上に座る二人――王様と、王妃様ですね。この二人はちゃんとした人型でした。豪奢な服装に隠れてはっきりとした体型は分かりませんが、あまり太ってはいないようです。
王妃様は怒ったような顔でこちらを見下ろし、王様はそわそわしながら王妃様とアイリへ交互に視線をやります。
ずいぶんとまあ、分かりやすい夢ねえ。
とりあえずの状況を確認したアイリはこっそりと、楽しそうに息をこぼしました。
しかし、いちごのタルトを盗んだくらいで死刑というのは穏やかじゃないわ。お得意のかんしゃく? それとも、それ以上の何かがあったのかしら。
「誤解ですわ。死刑になるようなことなど、私はなにもしておりません」
それっぽく言ってみます。
「ふん、とぼけても無駄よ。あなたがアースピリット卿を殺したのでしょう」
「殺人!」
アイリは思わず叫んでしまいました。どうやらこれは殺人事件の裁判だったようです。
気を取り直して言います。
「いいえ、私はアースピリット卿を殺してなどいませんわ。そもそも卿がどんな御方かも存じ上げませんもの」
「嘘おっしゃい。あなたでなければ誰が殺したというの」
「それは分かりません」
なんといっても情報が足りなさすぎるわ、この夢は今始まったばかりだもの、と心の中で付け足します。
「ですが逆に、どうしてわたしが犯人でなければならないのですか?」
「ふん。そこのウサギ」
王妃様が手にしていた扇をパチンと閉じて差し向けると、ウサギは慌てて立ち上がりました。
「なんでしょうか」
「お前はアースピリット卿を殺したか?」
「いいえ、殺しておりません」
「よろしい。座りなさい」
ウサギは一礼して座ると、また石版に何かを書き始めました。
「というわけよ」
何がよ。
「分からないの? これだから青二才の小娘は困るわ、自分の年齢も言えないんだから……」
十四よ。
「いいこと。アースピリット卿が殺されてから、私は同じ質問をあなた以外の全ての容疑者にしたわ。答えは全員ノー。消去法的に、あなた以外の犯人は考えられないのよ」
「……私も殺してなどいませんが」
「ふん、口先だけならなんとでも言えるわ」
アイリは納得がいかないといった表情をしました。納得がいかないことを訴えても聞き入れてもらえそうにないなという表情でもありましたし、さっきから王様はオロオロしてばかりで役に立たないなという表情でもあります。王様の目はせわしなく動いています。
さて、どうしたものかしらね。
少しだけ考えてひらめきました。
「しかし王妃様、私は本当にアースピリット卿を殺していないのです。それどころか、どのような事件であったかさえ知りません。そこでどうでしょう、私自身の疑いを晴らすためにも、私にこの事件の調査をさせてもらえないでしょうか?」
王妃様が顔をさらにしかめます。
「そういって、現場に戻って不都合な証拠を処分しようというのではないでしょうね」
「疑いになるお気持ちは分かります。でしたら、見張り役をつけてくださっても構いません。そちらの兵隊さんなどいかがでしょう」
背後に控えていたトランプの兵士を示します。兵士は顔色一つ変えません。
「ふん、そうね、見張りをつければ問題ないでしょう。いいわ、お好きに調査なさい。けれども分かっているわね、もしこれであなたが犯人を見つけられないようなら、それはつまり、やはりあなたが犯人ということよ」
「はい、分かっていますわ」
そう答える内心、この王妃様どこまで本気で言ってるんだろうと思うアイリでした。
*
「王妃様の命令だ。事件現場であるアースピリット卿の屋敷まで君を連れて行く」
トランプの兵士に連れられて裁判所から出ます。近くで見てみればその胴体はペラペラの平面で、ますます不思議な構造です。兵士は若い印象を与える顔立ちをしていました。アイリは、お仕事だから表情を崩さないよう頑張ってたりするのかしら、などと無責任に想像してみます。
門扉をくぐった先は森になっていました。やたら険しく茂っているようで、深く覗き込んでも闇しか帰ってきません。むき出しの地面は踏み固められて道のようになっており、その上を兵士に先導されて歩いてゆきます。
歩きながらアイリは自分の格好を確認してみます。白のノースリーブのワンピース。ほとんど装飾のないシンプルなもので、家にいるときによく着ているものでした。素足に履くサンダルはクリアブルーをあしらっており、かかとも高くなく歩きやすいです。
せっかくの舞台なのに、私の服だと味気ないわねえ。少女趣味が好きってわけでもないけど、ちょっとくらい融通効かせてくれてもいいのに。
背中に届く長髪を一筋つかんで顔の前に持ってきます。混じり気のない黒です。なんとなくよじります。異物感もないし、特に装飾品の類はつけてなさそうね、と結論します。
夢なんだし移動はショートカットしてくれないかなあと思い始めたころ、先を歩く兵士がふいに尋ねてきました。
「アリス。これは個人的な興味から聞くんだが、君は本当にアースピリット卿を殺していないのか?」
兵士の言葉にアイリは足を止めます。
それに気付いた兵士が振り返りました。
「どうかしたか」
「私、アリスじゃないわよ」
「何?」
眉がひそめられました。
「私の名前はアイリ。亜麻色の衣装の梨で亜衣梨」
「アイリだと? ……待て、ならば姓はなんという」
「イルセ。瀬に入るで入瀬よ。フルネームで入瀬亜衣梨。ちゃきちゃきの日本人ですわ」
なんで自分の夢の中で自己紹介をしなくちゃいけないのかしら。
ちらと思うアイリでしたが、まあリクツが通らないのは今に始まったことじゃないかと考え直します。
「アイリ・イルセ……なるほどな」
兵士は一人納得したようにうなずきます。
「なにがよ」
「君の名前は『アリス』にとてもよく似ている。それでこの世界にやって来たのだろうな。アリスとは特別な名前だから」
「アリス。アイリ。似てないわ」
「アの字が一緒だ」
「一文字一緒でよければ世の中そっくりさんだらけよ」
「それに君の姓である『イルセ』は『アリス』から一文字ずつ後にずらしたものだ。こんな紛らわしい名前なら間違えても仕方ないだろう」
アリス。イルセ。なるほどその通りです。
でもそれは紛らわしいとは言わないんじゃない?
「まあなんでもいいけど、とにかく私はアイリよ。お間違えなく……それで、私が本当にアースピリット卿を殺してないか、だっけ? 王妃様に言ったことは全て本当よ。私はアースピリット卿のお顔すら存じませんわ」
「それなのに調査を引き受けたのか。無鉄砲だな。それとも何か勝算でもあるのか」
「事件の概要も知らずに勝算も何もないでしょう。そうだ、歩きがてら話してちょうだいよ。アースピリット卿のことと、事件のこと。えーと……あなたのお名前はなんていうの?」
「私はただの兵士だ。名前などない」
「それは不便ね。監視される以上、私はあなたから離れられないんだから、せめて楽しくおしゃべりできるようにならなくちゃ。名前がないなら……トランプ兵さん、だと他人行儀かしら。なんて呼んでほしい?」
「好きにしろ」
「カタイのねえ。ええと、それじゃあ……」
アイリはさっと駆けて、兵士の前に回ります。縦に三つ並ぶスペードマーク。
「覚えやすいのがいいわ。『スペードの3』だから、スペサンで。あら、縁起がいいわね。大富豪でジョーカーに勝てる唯一のカードよ。いまの私の立場にピッタリ」
そう言ってわずかに唇の両端を上げました。それに少しだけ目を向けて、兵士は――スペサンと呼んだ方がいいですね。スペサンはそのままアイリを追い抜いて行きます。やっぱり何を考えているのかよく分からない表情でしたが、何も言ってきませんから、名前が気に入らなかったわけでもないのでしょう。
アイリは後ろに手を組んで着いていきます。
「それでスペサン、アースピリット卿ってどんな人だったの?」
「権威ある学者だが、変人だった」
それって同語反復じゃなくて?
「専門は相対性精神学。その分野では知らぬ者のいない大家だ。しかし、いかんせん研究狂いで、『生活すべてこれ学問』を地で行く人柄だったらしい。三度の食事より研究、というか研究が食事だったそうだ。意味はよく分からないが、おおかた食べられる研究書でも作っていたんだろうとよく言われていた。森の奥に奇妙な屋敷を建てて、娘二人とそこで暮らしていた」
アイリからすればこの世界がすでに奇妙なのですが、その中でもアースピリット卿は輪をかけてヘンテコだったみたいですね。そして奇妙な屋敷と聞いてアイリは目を輝かせました。ええ、わざわざ事件の調査に乗り出したことからも分かるとおり、アイリはミステリーが好物なのです。おかしな状況などは、それはもう特別に。
「娘たちについても触れておこう。姉はツワミー、妹はコジャク。二人ともまだ少女で、そうだな、おそらく君と同じくらいの年頃だろう。アースピリット卿の身の回りの世話や家事のほとんどは通いの家政婦がやっていた。この家政婦がアースピリット卿の死体の第一発見者で、名前をリーンという」
「家政婦は見た、ね」
「何だそれは」
たしかにイメージに合わないなと反省するアイリでした。
「気にしないで。続けて。アースピリット卿の死体の状況は?」
「高所から落下して頭をぶつけたのが死因だ。どうやら井戸に落ちたらしい」
「井戸?」
予想もしていなかった単語が出てきました。
「あれ、でも、事件現場はアースピリット卿の屋敷なのよね? そこに井戸があるの?」
「あるんだ。もっともただの枯れ井戸だそうだがな。発見は昼過ぎ、リーンが厨房で片付けをしていると、近くからアースピリット卿の悲鳴が聞こえてきた。それで探してみたところ、井戸に落ちている卿の死体を発見したというわけだ」
「……悲鳴は近くから聞こえてきたのに、死体は屋敷の外の井戸にあったのね」
「む。言っていなかったか。屋敷の中心に中庭があって、井戸はそこに掘られているんだ」
「中庭に井戸……」
いよいよヘンテコな感じになってきました。想像に頬がほころぶのを感じます。
「その中庭というのがまたとんでもない代物なんだ。さっきはアースピリット卿の住まいを奇妙な屋敷といったが、屋敷の外観や内装といった部分はいたって普通だ。数寄者がやるような歯車仕掛の類もない。ただ、卿は自分が暮らす家も研究の場と考えていたようで、屋敷の中にいくつかの実験空間を作っていた。中庭もその一つなのだが……」
スペサンが足を止めます。その先で森の木々は途切れ、道は広がり、太陽の光が辺りをしっかりと照らしています。
少し離れたところに、あまり高くない塀に囲まれた屋敷が一軒、ぽつりと建っているのをアイリは見つけました。
アースピリット卿のお屋敷です。
「説明するより実際に体験してもらった方が早いだろう」
*
「ええ、ええ、覚えております。あれは忘れようもありません、昼過ぎのことでした。食器を片付けて洗いモノをしていましたら、『うわぁっ!』という悲鳴が聞こえるじゃありませんか。ええ、短いものでしたけれど、殿方の声でしたからね。そこは聞き違えようもありません。この屋敷に男性は旦那様しかおりませんで、いまの悲鳴も旦那様のものに違いないと思ったわけであります。これは旦那様の身に何かあったと、洗いモノの手を止めまして旦那様の部屋に向かおうとしたのですが、階段のところでツワミー様が降りてくるのと出くわしまして。悲鳴のことを言おうとしたのですが、よく見ればツワミー様のお顔が真っ青じゃありませんか。『いかがなされましたか?』とお尋ねしますと、震える声で『中庭に……お父様が……』とおっしゃいますでしょう。なるほど先ほどの悲鳴は中庭かと、ツワミー様をその場で落ち着かせて、中庭に向かいました。中庭はパッと見、平時と違った様子もなかったのですが、何やら井戸の方からまがまがしい気配がいたします。それで恐る恐る近付いていき、中を覗き込んでみますと……なんとそこには、体がおかしな向きに曲がった旦那様がいらっしゃったのです!」
屋敷に着いたアイリとスペサンは家政婦のリーンに出迎えられました。王様や王妃様と同じ、普通(?)の人型です。アイリがなんとなく想像していたのよりかなり若い、活発な印象を与える妙齢の女性で、アースピリット卿が死んでしまった後も二人娘の世話や屋敷の管理のために通っているそうです。そんな説明をした後でリーンは、解雇してくれる人がいなくなってしまいましたけれど、私はいつまでお勤めすればいいんでしょうかねえ、と少し寂しそうに頭をかきました。
応接室に通された二人はリーンからあらためて死体発見の状況を聞きました。おおよそは先ほどスペサンが話してくれた通りですが、新しい情報もありますね。
「死体の第一発見者はリーンさんだけど、それより前にツワミーさんは何かを見ていたのね」
「ええ、ええ、そうなのです。後々ツワミー様がおっしゃるには、中庭を去る黒い影を見た、とのことです」
「黒い影。それはリーンさんも目撃したんですか?」
「いえ。すれ違いだったのでしょう、私は見ておらず、ツワミー様が目撃なされたのみです。もっとも、ツワミー様にしましてもちらとしか見えなかったそうで、性別はおろか背丈のほども分からないとのことですが……なんにせよ、旦那様を井戸に突き落とした犯人に違いありません」
これは後で当人に確認しないとね、と心の中にメモをします。
ところでスペサンですが、屋敷に到着してリーンに簡単な挨拶をしてからはだんまりを決め込んでいます。自分はあくまでも監視役であり、捜査はアイリにお任せということなのでしょうね。ちゃんとアイリのそばにいるので心配ありませんよ。
「それでは中庭にご案内しますね」
応接室を出て問題の中庭に向かいます。
リーンの説明によると、中庭は屋敷の中心に位置しており、出入り口は四方に作られているそうです。一辺が二十メートルほどの正方形に近い広さで、ものすごく簡略化すると「回」の字を想像してもらえば、それが屋敷の構造でほとんど間違いないとのことでした(ビジュアルの説明に漢字を使ってくれるなんて、なんともご都合主義な夢だわ)。
「そういえばアイリさんは、この屋敷の実験部屋のことはご存知で?」
「そういう部屋があることは聞いているけど、どんな部屋なのかは知らないわ」
スペサンが説明する前に屋敷に着きましたからね。
「旦那様は研究熱心な御方でした。ご専門は相対性精神学でしたが、見知った理論体系に限界を感じたのか、あるいはそれを拡張しようと試みなさったのか、他の分野の理論も勉強なさっていましてね。絶対性精神学、行動心理、哲学的な思考実験まで……その勉強をより実際的な形で表そうとしたのが、この屋敷にあります各種実験部屋です」
よく分かりませんでしたがとりあえず頷いておきました。
リーンは廊下沿いの扉の一つを指します。
「たとえばこの部屋は『沼人間誕生の間』と呼ばれています」
「沼人間ですか」
「誰かが中に入って扉を閉めると、雷が落ちてきてその人は死にます」
「えっ」
「正確には擬似的な高エネルギー体ですけれどね。ああ、ご心配いりませんよ。部屋の中にある沼人間発生装置が生前の姿を解析して、全く同じ物質原子・記憶からなる沼人間を、死亡と同時に生成しますから」
「……でも死ぬんですよね?」
「何も問題ありません。理論上死んだ瞬間の記憶というのは解析に組み込まれませんから、生前と全く同一の状態で復活できます」
言葉につまるアイリに、リーンはくすくすと笑いかけます。
「ですから、思考実験なのですよ。旦那様はこんな部屋をご用意なさいましたけど、誰かが利用したなどという話はついぞ聞きませんでした」
「ああ、ですよね、そうですよね」
そりゃ、死ぬのは怖いもの。でも、死んだ記憶をなくしたまま復活するんなら、死んでないってことになるのかしら。あれ、そもそもこれって、復活するのは『私』なの?
「もう一つご紹介しましょう。あちらの部屋は『量子的観測者の観測室』と言いまして、量子のふるまいを、存在するのか分からない観測者が観測しています。『観測者の存在が量子実験の結果に影響を与えるのならば、観測者の存在も量子化すればいいのではないか』というご趣旨らしいのですが、正直なところ私の頭では理解が及びかねますね。旦那様も部屋を作ったはいいものの、観測者の存在非存在をどうやって観測するのか考えあぐねているご様子でした」
この手の話も決して嫌いではないアイリでしたが、いかんせん容量を超えてしまったようで、抑揚のついていない声で相づちをうつばかりでした。今ならスペサンがここを奇妙な屋敷と評した理由がよく分かります。
それと、アースピリット卿の実験について話すリーンさんが楽しそうなのも、ね。
ふとそこで、ここへ来る前にスペサンが言っていたことを思い出します。
「中庭もそういった実験空間の一つなんですよね。いったいどんな実験を?」
「ええ、中庭ですね。中庭は『無無意識の庭』です」
「『無無意識の庭』?」
アイリの声には期待とイヤな予感が半々ぐらいで混じっていました。
リーンは微笑んで続けます。
「無無意識の庭には、無意識が存在しません。簡潔に言ってしまえばそれだけの空間です。他の実験部屋と比べて感覚的に理解しやすい方だと思いますよ。一歩間違えれば命の危険もありますが」
さらりと言いました。
「……具体的にお願いします」
「そうですねえ、これは言葉でどうこう言うより実際に入ってみた方が分かりやすいのですが……無意識が存在しないということは、あらゆる行動を意識的に行わなければならないということです。たとえば歩く動作。普段でしたら無意識に行える動作ですが、無無意識の庭では『歩こう』という意思がなければ足は動きません。立つ、座る、顔を向ける、発声、呼吸、まばたき、表情の変化。その他についても同様です」
聞いているだけでクラクラしてきました。
「『右足をこれくらい前に出して、同時に左手をこれくらい』といったように、個々の動きを制御するまで構築する必要はありませんよ。最適化された動作自体は脳にインプットされたものを利用でき、それを起動・再現するのにいちいち『意思』が必要というだけです。でないと動くこともままなりませんからね」
アイリはコンピューターゲームのキャラクターを思い浮かべました。座標をクリックすることでキャラがそこまで移動します。操作してくれるプレイヤーのいないこの庭では、そのクリックを自分で、何度も行わないといけないようなものです。
「気をつけなければならないのは一つだけ、決してパニックにならないことです。パニックになって行うべき動作が分からなくなると、呼吸がおろそかになって空気の吸入が途絶え、そのことでさらにパニックに、なんて悪循環に陥ってしまいかねません」
「……不安ですわ」
「慣れてしまえば普段と変わらないように動けますよ。さ、着きました。こちらが『無無意識の庭』です」
そう言ってリーンは両開きの扉を示します。
しばらくためらっていたアイリでしたが、やがて近寄ると、取っ手に手をかけ、思い切って開け放ちました。
「――――」
中庭だ、というのがアイリの第一印象でした。
壁周辺をのぞいた全面に毛の短い芝生。点在する丸や四角の花壇には紫や白、ピンクと色とりどりの花が咲き、心地よく目を刺激します。屋敷の壁に囲まれていながら、雲ひとつない青い天井から注ぐ光に満ちて、不思議と開放感に溢れた空間になっています。
こうも真っ当な中庭だとは思わなかった。これじゃ、殺人現場だってことも忘れちゃいそうだわ……。
誘われるようにアイリは中庭へふらりと足を踏み入れます。
その足が地についた瞬間、体が言うことを聞かなくなりました。
「っ!?」
「おっと」
そのまま倒れこみそうになったアイリの体をリーンが屋敷の方へ抱き寄せました。こうなるのを予期していたかのような動きでした。
「いかがでした? 『意識』せずに入るとこうなってしまうんです。体が倒れないようにバランスをとる動作というのも無意識にやっていることですからね」
「…………」
リーンの声が聞こえているのか、アイリの視線は目の前の庭に釘付けです。
自分の体が自分の制御を離れる感覚……なるほど、これは。ちょっと怖いけど、楽しいかもしれない。
「ありがとうございます。えっと、バランスをとるのにも、そう意識すればいいだけですよね?」
「ええ。バランスのとり方を体は記憶していますから、常時それを意識してやれば問題ありません。まばたきや呼吸もお忘れなく。その三つさえ意識していれば、とりあえず立っているくらいならすぐにもできますよ」
この空間に慣れなくちゃね。まずは数歩でいいわ。そこまで歩けたら立ち止まってみましょう。
しっかり意識してもう一度挑戦します。一歩、中庭の地を踏む足から帰ってくる反動を意識します。倒れないように、バランスをとって歩く……二歩、三歩。ゆっくりと進んで、止まります。呼吸。詰めていた息を吐きます。バランスはとれている、大丈夫……こころなし、目がしばしばしてきました。まばたき。呼吸。適度に適度に……落ち着いてくると、少しずつではありますが余裕も出てきました。
「どうでしょう、動けそうですか?」
いつの間にか隣に来ていたリーンが聞いてきます。はい、なんとか、と返事をしようとします。
「んー、んふんふ」
変な声が漏れました。
あれ、おかしいわね?
不思議に思うアイリでしたがそれは表情には出ません。リーンは笑顔で、ふふ、と反応します。ほとんど時間差のない動きで、リーンがこの庭に慣れていることをうかがわせます。
「そこは戸惑いますよね。無無意識の庭では、言葉を発する動作は全て『発音』として意識しなければいけないんです。正確に言うと、口を開き、話したい言葉を文字列としてしっかりと意識すること。ですからたとえば、『返事をする』とか『相づちをうつ』、あるいは『独り言つ』といった意識では、ちゃんと発音されないんですね」
なるほど、と納得するのと同時に、よくそれでこんなにスラスラと喋れるものだわ、と感嘆しました。
「あー。あー。い、う、え、お。はい、分かりました」
「これで会話できますね。では、左を向いてください」
左を向く……顔だけ動きました。首がちょっと痛いので、体ごと向けようとします。首は曲がったままで体が左を向きました。首を前に戻します。まだ慣れません。
アイリは中庭の片隅、そこに問題の井戸があるのを目にします。てっきり中心にでもあるのかと思っていたので少し驚きました。
「近付いてみましょう」
そろそろと進んでいきます。まばたき。呼吸。井戸の上には木製の蓋がしてあり、中はうかがえません。また、周囲に滑車やロープの類はなく、スペサンの言っていたように枯れ井戸なのでしょう、そこにあるのはただの穴なのでした。
「蓋をするようにしたんです。落ちないようにお気をつけくださいね」
そう言ってリーンは蓋を取り外します。井戸は直径二メートルくらいの円形で、アイリは普通の井戸のサイズなどは知りませんが、この中庭にあっては無粋な大きさの異物に感じられました。上から覗き込む分にはあまり深くはなさそうに見え、仮に落っこちたとしても、思い切りジャンプすればギリギリ縁に手が届きそうです。
「この中に、アースピリット卿が?」
教わったとおり、『尋ねる』というより『音を発する』という意識で言います。
「ええ。詳しく申し上げるのは控えさせていただきますが……私が見つけた時には、もう助かる見込みのございませんことは、はっきりと見て取れました」
リーンの表情を窺いますが、アイリには特に何も読み取れません。何を思おうと、どんな風に感じていようと、それを表に出そうと意識しなければ、どうせここでは全て隠してしまえるのですが。
「お客様、ですか」
声が上から降ってきました。アイリは肩ごと動かして、少しきつい角度で顔を上に向けます。
二階にはベランダのようなものがあるのでしょうか、少女が手すりから身を乗り出して、腰の辺りから上をのぞかせてこちらを見下ろしています。アイリと同い年ぐらいの少女です。
「上からでごめんなさい。いまそちらに向かいますので」
アイリが返事をするより早く、少女は部屋の中に戻り、見えなくなりました。
「アースピリット卿の娘さん、ですよね」
「ええ。姉のツワミー様です」
犯人の目撃者、か。
気を引き締めます。アイリの内心も、ここでは外に漏れることはありません。
*
「あらためまして、ツワミーと申します。一応、今はこのお屋敷の管理人……ということになるのかしら」
「初めまして、イルセ・アイリです。お父様の事件について調べさせていただいてます」
再び応接室に案内されました。リーンがお茶の用意に厨房へ下がっているので、アイリはツワミーと二人、楕円形のテーブルをはさんで向かい合うようにソファーに座っています。ふかふかです。このソファーに寝そべったらどれだけ気持ちよく寝られるでしょうね、と思わずにいられません。ところで、夢の中で寝たらどこへ行くのかしら?
スペサンはアイリの後ろに控えるように直立しています。
ツワミーがしなやかに頭を下げました。
「先ほどは失礼しました。中庭から話し声が聞こえるなんて珍しくて、ついベランダに」
「気にすることはありませんわ。私の方こそ部外者ですのに。それにしても、無無意識の庭でしたっけ、こう言ったらなんですけどおかしな場所なのに、とても素敵なお庭でしたね」
「そうですか? ふふ、ありがとうございます。庭の世話は私の仕事ですから、そう言っていただけると嬉しいです。今の時期でしたらブルーベル、ガーベラ、クレマチスあたりが咲いていますね」
どの花のことを言っているのか分かりませんでしたがとりあえず微笑んでおきました。
知識の貧困はイメージの貧困ねえ。
花のことを話すツワミーは楽しそうに、やわらかい笑みを浮かべています。薄い紫のショートカットに子ぶりながら整った顔立ちで、見た目相応の少女らしさと不思議な落ち着きを感じさせる娘でした。
「あの花たちはツワミーさんがお世話をしてるんですね」
「はい、そうです」
「じゃあやっぱり、ツワミーさんもあの庭で普通に動けるのね。すごいなあ。私もさっき入りましたけどロクに動けませんでしたよ。やっぱりここで暮らしている方はみなさん慣れてるんですね」
「そんな、すごいというほどのことでもないのですが……」
アイリの言葉にツワミーはちょっと顔を曇らせました。おや、と思います。何か引っかかることでもあるのかしら?
「それより、アイリさんは父様の事件についてお調べなんですよね」
「ええ」
冤罪をかけられたからというのは建前で、本音は事件の捜査が楽しそうだったからとは、さすがに言いませんけどね。
「どうでしょう、何か分かりましたか?」
「期待されているようなことは何も。ですからツワミーさんからもお話を聞きたいんですけど、よろしいですか?」
「はい、構いませんよ。お力添えできるかは心もとないですけれど……」
「でしたら早速ですが、死体発見時のことを」
「リーンからは聞いていますか?」
「はい」
「それならあまり付け加えることもありませんね。あの時……私が自分の部屋で休んでいたところ、中庭の方から父様の悲鳴が聞こえてきました。それで先ほどのようにベランダに出て中庭をのぞきましたら、何か黒い影のようなものが去って行くのが見えました」
「黒い影ですか」
「ほんとうにちらっと見ただけなのですが……あれは何だろうと思いつつ中庭を見ていますと、井戸の中に、何かが落ちているのが見えました。それに見覚えがあって、すぐに父様の着ていた服だと気付いて……慌てて一階へと下り、階段でリーンと遭遇したのです」
「リーンさんが中庭に向かった後は?」
「少し休んでから私も向かいました。そしてリーンと一緒に父様を……」
ツワミーはそこで言葉を切りました。井戸から引き上げた、ということでしょう。
「通報はしなかったんですか?」
「ツウホウ、ですか?」
「あ、いえ。なんでもないです」
この世界の司法制度ってどういう設定なのかしら……。
「それじゃあ……悲鳴が聞こえる前、中庭の方で音がするのを聞きませんでしたか? 会話とか」
「断定はできませんが、特に聞こえなかったと思います」
「黒い影とやらについて、もう少し詳しくお話していただけますか」
「人型だった気はするのですが、他のことはどうにも曖昧で……見下ろすかたちでしたから、性別はおろか、背丈も分かりませんでした。すいません」
「悲鳴が上がったとき中庭に誰かがいた、これは確かなんですね」
「はい。無生物の動きではなかったと思います」
「その誰かが、お父様を?」
「……実際のところ、分からないんです」
ツワミーは目を伏せて首を振ります。
「父様は研究一筋に生きる人でした。それは私たち家族のこともほとんどかえりみないほどに……私たちは私たちなりに父様のことが好きでしたから、そのことに不満はありませんでしたけれどね。そんな父様ですから、殺されてしまうほど強い怨みを誰かから買ったとは思えないのです。父様の視界には誰も入っていなかった。父様への怨みは父様を殺すに足るほどの怨嗟にはなりえない……そんな風に思えてなりません」
「……井戸に落としたのは殺意があってのことではなく、事故だったのだろうと?」
「どうなんでしょう。私の中でもよく整理できていないのでしょうね……」
少し重たい空気が下りてきました。話の流れで言っちゃったけど、動機論は私あんまり好きじゃないんだよなあ、とアイリはひっそり思います。
そんな空気を打ち破るように、応接室の扉が勢いよく開かれました。
「お待たせしましたー! おっ茶だよー!」
リーンのものよりさらに若い溌剌とした声に、アイリは思わず顔を向けます。
茶器を載せたキッチンワゴンを押して、一人の少女が入ってきました。薄く緑がかったセミロングで、背丈はアイリやツワミーと同じくらいでしたが、どことなく幼い印象を受けます。
「コジャク。リーンは?」
「厨房で会ってねー? お客様が来ててお茶をお出しするっていうから、わたしに運ばせてってお願いしたの」
どうやらこの子がアースピリット卿のもう一人の娘、コジャクのようですね。
コジャクはテーブルの近くにワゴンを寄せると、てててと駆け寄ってアイリの隣に座りました。
「あなたがお客様ね! はじめまして、コジャクって言うの。えっと、お姉ちゃんの妹!」
「ええ、初めまして。イルセ・アイリです。こちらは監視役のスペサン」
「アイリさんかー。ね、ね、アイリさん、お父さまを殺したのは、あなた?」
コジャクがあまりにも平然と、挨拶と変わりないくらい自然と尋ねてきたので、アイリは反応するのが遅れました。
「……いいえ、私はお父様を殺してないわ」
「あはは、ヘンなのー。お父さまはわたしのお父さまなのに、あなたもお父さまのことをお父さまって言うのね」
「コジャク……お茶を持ってきてくれたんじゃないの?」
「あそうだった。ごめんね、いま淹れてあげる」
コジャクは立ち上がりアイリのそばから離れます。アイリは自分が息を止めていたことに気付いてそっと吐き出しました。
「ごめんなさい、アイリさん」
そんなアイリの様子を見てか、困ったように微笑んだツワミーが声をかけてきます。
「コジャクはその、直接的すぎるところはありますが、本人には悪意がありませんから、大目に見ていただけると助かります」
「あれ? わたしなにかおかしなこと言ってたー?」
「……コジャクさんは純真なんですね」
良くも悪くも、と続ける言葉は飲み込みました。
今のところ、良くはないけど。
「褒めてくれた? えへへ、ありがと」
もちろんコジャクがそれに気づくこともなく、あふれんばかりの笑顔でお茶の用意をしています。
「それで、お姉ちゃんたちは何のお話をしてたのー?」
「ええ、お父……アースピリット卿の事件について、ツワミーさんからお話を伺ってたわ。私はこの事件のことを調べてるの」
「ふぅん、犯人を探してくれるんだ。それで、見つけてどうするの?」
「王妃様のところまで連れて行くと思うわ」
「連れてって、どうなるの?」
「……たぶん、死刑になるんじゃないかしら」
なんかやたらと怒ってたし。
「死刑?」
ポットの中身を混ぜていたコジャクの手が止まりました。
「お父さまを殺して? おかしな話ねー」
「おかしいかしら?」
「だって、お父さまでしょ? お父さまを殺したからって、なんで殺されるの?」
「……ごめんなさい、ちょっと意味が分からないのだけど」
「そう? えーとうんじゃあ、絶対ありえないたとえばだけど、たとえばね? お姉ちゃんが誰かに殺されたとしたら、その犯人は絶対に見つけ出して殺さなきゃいけないじゃない?」
「……コジャク」
いさめる調子でツワミーが呼びました。
「あごめん。たとえばだから許してね。でね、わたしが言いたいのはそういうことよ」
その前提はどうだろうかと思いつつ、アイリはコジャクの言いたいことをなんとなく察します。アースピリット卿を殺したいと思うほど怨む人物がいたとは思えないというツワミーの証言。コジャクが言っているのは、その裏返しなのでしょう。
アースピリット卿を殺したのは私かと聞いてきたのも、単なる好奇心以上のものではないんでしょうね。殺害のハードルは低いと見るべきなのかしら。それとも……。
アイリはコジャクにも事件当時の様子を聞くことにしました。
「コジャクさんは、事件が起きた時、何をしていたんですか?」
「寝てたよ」
「え」
出鼻をくじかれました。
「お昼ごはんの後って、どうしてあんなに眠くなるのかしらねー。あの日もわたし、お昼の後は自分の部屋でぐっすり寝ていたわ」
「コジャクが言っている通りです」
ツワミーが保証します。
「父様を引き上げてから二階にあるコジャクの部屋まで呼びに行きましたが、コジャクはベッドの上で横になっていました。ですからコジャクは事件当時なにを見ても聞いてもいないのです」
「そうですか……」
しかしそれなら、とアイリは考えます。ツワミーが見た黒い影、あれがコジャクだったということはないかしら?
「……先ほど中庭まで案内された時に見つけたのですが、このお屋敷、二階への階段が二つ別々の場所にありますよね」
アイリは説明された屋敷の構造を思い出します。回の字。回廊の左上と右下に、それぞれ階段がありました。内側の口が中庭で、さきほどアイリが案内されたのは口の下辺中央に位置する入り口です。
リーンさんとツワミーが合流したのは右下の階段。そのとき、左上の階段は誰の目にも触れていなかったはずだから……
「父様を突き落したコジャクが私とリーンのいなかった階段から自室に戻ったとお考えでしたら、それはあり得ませんよ」
思考を完全に読まれてしまい、またもアイリは言葉に詰まります。
ふふ、と口元に手をやって笑うツワミーの表情は、嗜虐的なような、愉快気なような、悲しんでいるような……よく分からないものでした。
「なぜあり得ないのか、ですか。簡単なことです。コジャクは無無意識の庭に入れないんです」
現場の中庭に、入れない?
「それがそうなのよねえ」
カチャリと音をたて、アイリの前にお皿とカップが置かれました。中に入った透明な紅がかすかに湯気をくゆらせます。
「身体を物理的に入れることは可能よ? でもね、そうするとわたし、まったく動けなくなっちゃうの。一歩も歩けないどころか、指一本動かせないし、まばたきも呼吸もできない。氷みたいに、彫像のように、カチンコチンになる。誰かに助けてもらわなくちゃ、すぐに死んじゃうわ」
ツワミーにも紅茶を差し出すと、コジャクは持っていたトレーを胸に抱きかかえました。
「だからわたし、お姉ちゃんが育てたお花たちを近くで見たくても見られないの」
見るからに不満そうな顔です。裏表のない表情です。
「おかしな話でしょう? 無無意識の庭は無意識を受け入れないというだけで、なにもあらゆる動きを束縛するわけじゃないわ。お姉ちゃんやリーンみたいに、きちんと意識できれば普通に動けるのだし、そこまで慣れずとも、ちょっと歩き回るくらい簡単にできそうなものよ。でもわたしにはそれができない。無無意識の庭はわたしを受け入れてくれない。だからね、わたし、こう思うの」
今度は一転、晴れやかな笑顔です。どこまでも真っ直ぐな笑顔でコジャクは言います。
「きっとわたしには、『意識』ってものが『無』いのよ」
*
お茶をいただいてから、少し考えたいことがあると言って、アイリは再び無無意識の庭に戻ってきました。中に入ると思考に集中できませんから、入口から眺めるだけですけどね。
「これで屋敷の住人から一とおり話を聞いたことになるが、どうだ、犯人の目星はついたか?」
二人きりになったからか、ずっとだんまりだったスペサンが口を開きます。
「正直、いまいち絞りきれてないわ。リーンさんから話を聞いたときはコジャクって子が怪しいと思ってたけど、中庭に入れないんじゃあねえ」
「コジャクが中庭では動けないというのを信じるのか」
アイリは扉の端にもたれかかり頬杖をつきます。
「……どちらとも言えない、かな。中庭で動けないフリをするのは簡単。入ってから、何も考えなければいい。だからそれは悪魔にでも頼らなければ証明できない……んだけど、ツワミーの保証があるわ。これは事件発生よりずっと前からの経験に基づくもののはず。厳密な証明ではなくとも傍証くらいにはなるわね。それだけに否定も肯定もしきれない……」
仮に動けなかったとしても犯行が不可能なわけではないけど、それはそれで考えづらいものだし、と思います。
「二階に居たというツワミーについても、証言の通りなら犯行は厳しそうね。アースピリット卿の悲鳴が上がってすぐ、リーンさんは二階に向かおうとして、階段から下りてくるツワミーと遭遇している。犯行を終えたツワミーが中庭からいったん二階へと逃げて、さも悲鳴を聞きつけたように階段を降りてきたとするのは、厨房から階段までの距離を考えると、時間的に厳しいわ」
「となると、リーンが最も疑わしいということになるか?」
「うーん……状況的には一応、犯人であってもおかしくないんだけど……決定打に欠くのよねえ。ツワミーとコジャクについても、犯行が不可能だったと言い切るのはためらわれるわけだし」
要素はあらかた出揃っているはず。これが私の夢なら……それを信じるなら、こんな奇妙な世界でも、きっと犯人は分かるようになっているはず。
何かに気付いてないんだわ。そこさえ気付けば道が一気にひらけるような何かに……。
「容疑者は揃ってる。犯人の候補は四人だけ……」
何気ないつぶやきでしたがスペサンが聞きとがめます。
「四人? 三人の間違いではないのか。リーン、ツワミー、コジャク」
面倒そうにアイリは答えました。
「と、スペサン」
「私も容疑者だったのか」
珍しくスペサンが眉をひそめました。
あらあら、せっかく気取ってたのに。
「どこまでも私を信じるならそうなるわ。さすがに王様や王妃様が関わっているとは思えないけど……事件について言及した人物は、一応疑ってかからないと」
「それで、私の容疑は晴れているのか」
「あら、気になるの?」
スペサンは黙りました。
アイリはクスクスと笑います。
「安心してちょうだい、あなたを犯人に仕立てるのはちょっと無理があるわ」
「……それは無理をすれば私を犯人に仕立て上げられるということか?」
「あれ、本気で気にしてた? ごめんなさい、別にそこまで疑ってないわ。というかどうせあなた犯人じゃないでしょ。ツワミーの見た黒い影は人型だったらしいけど、さすがにトランプの胴体に線の手足を見間違えたりはしないわよ」
「そうか」
短く返事をして黙りました。
意外と繊細だったのね。
「ついでにこのまま検討を続けさせてもらおうかしら。残りの三人、リーンさん、ツワミー、コジャクについては、それぞれ犯行の機会はあった。けれど、実際にその機会を用いたのかが確定できない。だから犯人も分からない……」
「今さらかもしれないが、外部犯の可能性は考えなくていいのか」
「考えなくていいと思うけど……一応根拠を挙げるなら、ツワミーさんの見た黒い影がそうね。井戸の辺りでした会話がツワミーの部屋にも届くのはさっき分かったこと。それを考慮すると、細かいことは端折るけど、犯人は無無意識の庭でかなり自由に動ける人間でなければならないわ。そうなると、ちょっと外部犯は考えづらいわね」
「しかし、その三人にアースピリット卿を殺害する動機は無いように思えるが」
「動機ねえ」
また面倒そうな顔になりました。
「まあ、たしかにその通りなんだけどね。リーンさんはアースピリット卿を尊敬していたようだし、ツワミーも嫌っているわけではなさそうだったし……コジャクについては分からないけど。でも、だからってコジャクが疑わしいというわけでもないでしょう? さっきツワミーにも言ったように、事故だったんだとでも思うことにするわ」
「だが、現場は無無意識の庭だぞ。意識しなければ行動できないのに、事故で井戸に突き落すのか?」
「ああ、気付いてた? 問題はそこよねえ。たとえばさっき私がこの庭に入った時は、思わずバランスを崩して倒れかけたけど、それは私が庭のルールに慣れていなかったから。庭に慣れているリーンさんやツワミーはそんなミスをしないはず。彼女らが犯人なら『アースピリット卿を突き落とす』という意思を、つまりは殺意をもって犯行に及んだことになるわね。コジャクについても、仮にコジャクが中庭で動けるとするなら、まあ、同じと言っていいでしょう。殺意をもって……」
不意にアイリは言葉を切りました。何かが引っかかったのです。
思い出すのはコジャクの言葉。
――『きっとわたしには、「意識」ってものが「無」いのよ』
意識が無い……コジャクは無意識……だから無無意識の庭から拒絶される……言葉遊びだわ。そんなことは、分かっているけれど。
――お姉ちゃんが殺されたとしたら、その犯人は絶対に見つけ出して殺さなきゃいけないじゃない?
殺意……。
『殺す』という『意思』。
コジャクにもその概念は存在する。
でも『殺意』は、それ単体では無無意識の庭において意味を成さない。ここで意識しなければならないのは『行動』だから。
コジャクが無無意識の庭で動けないというのは、つまりそういうことなのかしら。
コジャクは『行動』を意識できない。『行動』を心の中の言葉で規定できない。足の動かし方をいちいち考えずとも歩けるのと同じように、あらゆる動きを無意識に行ってしまう……。
コジャクの行動はすべて表面的な反応にすぎない?
でも、それって。それは、つまり。
「……動機、だ」
ぽつりとこぼしました。
「なんだ、何か分かったのか」
「ええ、綱渡りみたいな推論だけど……アースピリット卿を殺す動機を持ちうる人がいたわ」
スペサンは目を見開きました。
「そうか。ならばそいつが犯人なんだろう。一体誰なんだ?」
「それは……」
言いよどみます。アイリは自分の推理の正しさを半ば直感的に確信していましたが、それが直接的に犯人を示すものではないことも分かっていました。
「まだ、犯人かは分からない。犯人を絞れたわけではないから」
そうだ、決定打が足りない。やっぱりまだ気付いていない。
でも、何に?
なんとなく空を見上げます。
(なんとなく……)
天井のない空は先ほどと変わらず雲ひとつない快晴です。ちょうどアイリたちを射るような角度で差す太陽の光に、思わず目をしかめました。
(思わず……?)
アイリがこんなに悩んでいるというのに、なんともお気楽な天気模様です。
そこに、影がよぎりました。
(……鳥)
逆光で、大まかな姿形しか判別できません。とても小さなシルエットは、屋根から屋根へ横切るように飛んで行きました。ほんの一瞬だけ太陽が隠されます。
「鳥は、普通に飛べるのね」
「今度はどうした。当たり前のことを言って」
「うん、まあ……」
言葉を濁してから、独り言のように続けます。
「ああ、でも、そういえばそうよね。私が最初に中庭に入った時だって、体が動かなくなったのは地面を踏んだ瞬間だった……足を踏み入れる最中は、まだ自由に体を動かせた」
それから、ふっと笑いました。
「そりゃそうだわ。空中でも無意識が許されないなら、今ごろ中庭は鳥の死骸だらけよ。見たところ今は落ちてないみたいだけど……どうなんだろう、ここには鳥が降りてきて……動けなく……」
次第に声が小さくなっていきます。
それから、かすかに見えたイメージを捉えるように思考をめぐらせます。スペサンから聞いた事件の説明、それぞれの証言、そして無無意識の庭での出来事……。
アイリは、気付きました。
「……そうよ。そうだわ。明らかにおかしいじゃない。どうして今まで思い至らなかったのかしら!」
こんな露骨なヒントを出してくれるなんて、さすが私の夢、ご都合バンザイだわ! ええ、なんて遠回りで面倒なご都合!
スペサンへ向き直ります。
「スペサン、アースピリット卿の遺体には、頭の傷以外に致命傷になるようなものはあったの?」
「井戸に落ちた時にできたのであろう擦り傷なんかはあるが、致命傷となると頭部のものくらいだろうな」
「そう……なら、最後の確認をするわ。倒れたら助けてちょうだいね」
「中庭に入るのか?」
質問には答えずに入りました。
バランスをとる。適度にまばたきと呼吸。歩く。数歩でいい。ここで、そう、意識することは……。
アイリはその場でジャンプしました。
「わーっ!」
着地に失敗して尻餅をつきました。
すぐにスペサンが入ってきて、アイリの両脇を抱えると、引きずるように外に運び出しました。
「痛い」
中庭から出たとたん顔をしかめたアイリが言います。
「我慢しろ。君に言われた通りにやっただけだ」
「違うわ、着地で倒れた時に打った分よ。ああ痛い……そうね、普段立っている時と着地のバランスは別物なのね。そこまで考えてなかったわ」
「いきなり中に入ったかと思えばジャンプしたり倒れたり忙しないな。一体なにがしたかったんだ」
「言ったでしょう、最後の確認よ」
そこで自分が抱えられたままなことに気付いたのか、腕をほどいて立ち上がりました。
それから宣言します。
「犯人が分かったわ」
*
再び応接室に戻ると、そこにはリーン、ツワミー、コジャクの三人が揃っていました。テーブルを囲み、お茶の続きをしていたようです。
アイリが入ってくるのに気付いたツワミーが尋ねます。
「アイリさん。どうですか、考えはまとまりましたか?」
「はい。おそらく、犯人が分かりました」
「ほんとう!?」
ツワミーの隣、コジャクは相変わらずの笑顔で、今にもこちらに駆け寄ってきそうに身を乗り出します。
「すごいわアイリさん。ね、ね、誰がお父さまを殺したの? 教えてちょうだい!」
「そんなに急かさないでも、すぐに話しますわ」
「ですが……」
リーンが言いよどみます。
「犯人はツワミー様の目撃した黒い影……外部の者の仕業でしょう? アイリさんを疑うわけではございませんが、この屋敷をお調べになっただけで犯人がお分かりになるとは、ええ、とてもではございませんが……」
「……ああ、なるほど」
アイリが答えないでいると、それをじっと見つめていたツワミーが言いました。
「父様を殺した犯人はこの中にいると……アイリさんはそう言いたいのですね」
「はい、その通りです」
コジャクはきょとんとしました。
「でもわたし、お父さま殺してないよ? リーンかお姉ちゃんが犯人ってこと?」
「旦那様を手にかけるだなんて、そんな恐ろしいこと私にはとても……」
「あれ、じゃあお姉ちゃんなの? あ、分かった。後ろでずっと黙ってるそこの人が犯人なのね! えと、なんて名前だっけ」
「コジャク、とりあえず今はアイリさんの話を聞きましょう」
ツワミーは落ち着いた様子で、目で促してきました。
「それではお言葉に甘えさせていただきますわ」
こほんと一つ咳払いをして、アイリは語り始めます。
「そうね、私の推理を納得してもらうためにも、まずは動機について話させてもらおうかしら。
動機。アースピリット卿を殺さなければならなかった、まさにその動機よ。そんな理由がある人は、一見この屋敷の中にいないように思えますね」
「ええ、ええ。ですからこそ、外部の者の仕業なのだろうと……」
「いいえリーンさん。一見は一見。いたんです、実は」
「……自己申告となりますが、私には旦那様を手にかけることはできません。ツワミー様にもコジャク様にも、わざわざ旦那様を殺める理由はないはずです。実際的な理由は言うに及ばず、心情的なものも……故人を悪しく言うようで忍びないですが……旦那様は没交渉的なお方でしたから、お二人に殺意を抱かれるほど怨まれるとはとても思えません」
「はたしてそうでしょうか。どうかしら、コジャクさん?」
「んー、わたしー?」
コジャクはきょとんとしています。
「べつにわたし、お父さまのことそんなに嫌いじゃなかったよ?」
「ええ、あなたならそう答えてくれると思ってたわ」
「コジャク様がどうかなされたのですか」
「……この屋敷には、無無意識の庭以外にも奇妙な実験部屋がいくつかあります」
アイリはあえて質問を無視して進めます。
「『沼人間誕生の間』もその一つです。この部屋に入った人物は死亡し、生前と全く同じ物質原子と記憶を持った沼人間が誕生する。さてここが考えどころですわ。復活した沼人間は、自分のことを生前の『私』と同一人物であると認識するでしょうか?」
「なぜ今その話をするのかは分かりませんが」
戸惑ったようにリーンが言います。
「旦那様の相対性精神学の見地からは、あれは他者の内面の存在を前提とする理論ですから、『私』の連続性の断絶の問題に落ち着くでしょう。もっとも、他者の主観を絶対に観測できない以上、それが正しいこともまた絶対に証明できないわけですが……」
「そうですね。本来であれば他者の主観というものは、『私』こそが主観の正体である以上、観測不可能です。そう、本来であれば」
「可能とする手段がある、と?」
「はい、この屋敷なら……無無意識の庭なら、それが可能ですわ」
こっそり、小さく息を吐きます。
さあ、綱渡りの始まりよ。
「そもそも『私』という『意識』って何なのでしょうね? 電気信号の反応、そう結論してしまうのは簡単だけど、もう少し考えてみましょう。意識、内面、つまりはクオリア、心の中の言葉、精神。そういった形で私の中に現れる『私』を規定するより高次な影響体……これを仮に、そうね、魂と呼びましょう。私たちは魂を持つ、そう仮定します。魂は物理的身体とは別に存在するもので、観測不能です。ここで一つの設問が生まれるわ。『沼人間には魂が宿るのかしら』?」
「……その仮定ならば、宿らないと考えるのが妥当と思います。沼人間が複製するのは肉体を構成する原子組織だけです。それでも生前と同一の反応を示すのは、それこそ電気信号のパターンが同一だからとか、理屈をつけられるわけです。しかしそもそもの仮定が間違っている蓋然性も決して低くないと思います。『私』を規定するのは魂などではない、魂がなくとも『意識』は存在しうる、この可能性はどうしたって否定できないでしょう」
「ええ、おっしゃるとおり。でも私が導きたい結論はそこじゃない……仮定が成り立つか曖昧なままですけど、もう一つだけ設問を置かせてもらいます。すなわち、『沼人間を無無意識の庭に入れたらどうなるのかしら』?」
「沼人間を、無無意識の庭に?」
「リーンさんが言うように魂などなくても『意識』が存在するのなら、これは問題でもなんでもありませんわ。ですが私の仮定が成り立つなら。その先には何があるでしょう?」
「それは……アイリさんのご趣旨は、沼人間に魂が存在しないなら『意識』も存在しないはず、ということですよね。それでしたら、『意識』なくして無無意識の庭に入るわけですから、何一つ動けず……っ!」
何かに気付いてしまったようにリーンの目が開かれます。次第に、その表情は青ざめていきました。
「まさか……アイリさん、あなたの結論というのは……」
「結論ありきの、逆算で導かれた恣意的な仮定だというのは重々承知していますわ。ですがこう考えると説明がつくんです。コジャクさんの言う『無意識』……無無意識の庭からの拒絶……」
つい、言葉を切りました。意を決して、はっきりと口にします。
「コジャクさん。あなたは、沼人間なんですね」
「沼人間? わたしが?」
首を傾げるコジャク。その様子は先ほどと全然変わりありません。
「小難しい話はよく分からないわー。わたしはわたし、それじゃダメなのかしら」
「……まあ、コジャクさんにとってはそれでいいのでしょうけどね」
『わたしはわたし』、ねえ……。
「ああ、補足しておくと、無無意識の庭なら他者の主観を観測できるというのは、つまりそういうことですわ。もちろん直接的に観測できるわけじゃなくて、実体的な『主観を持たない存在』がいると分かるだけ。ですがそれは、観測に絶対必要なもの……比較対象を用意できる、ということです。
アースピリット卿は研究に生きた人物と聞いています。そんな卿の前に、他人の主観という扉の鍵が与えられてしまった。卿は、その鍵を使ったのか、使わなかったのか……そしてもし、使ったのだとしたら……」
「アイリさん」
これまで無言で聞いていたツワミーでしたが、ここで口を開きました。アイリを正面からしっかりと見据え、落ち着いた声で尋ねます。
「真偽はおくとして、とても興味深い推論でした。しかし、これは動機の話だったと記憶しています。アイリさんの主張する動機とは何なのか、教えていただけますか?」
「ええ、ここまでくれば明快ですわ。アースピリット卿を殺害する動機が問題となったのは、卿が誰かに、殺したいほど強く怨まれるような人物でなかったから、というのが理由でした。でも、実際は怨まれていた。殺したいと思われていた。少なくとも、殺意の芽は存在していた」
「と、ということは、やはりコジャク様が? 沼人間にされた怨みから旦那様を――」
リーンが息を呑みます。
「いいえ、リーン」
アイリから目を離さずツワミーが言います。
アイリはツワミーの視線をまっすぐに受けます。
「……どちらともとれる言い方でしたね。はっきり尋ねましょう。父様を殺したのは誰ですか?」
「あなたです、ツワミーさん」
「コジャクさんが沼人間だとするなら、コジャクさんとツワミーさん、お二人には動機が存在することになりますわ。コジャクさんについては分かりやすいわね。沼人間にされた怨恨。コジャクさんが意識を持たないとしても、反応としての殺意の発露は十分想定できる。ですがコジャクさんは、沼人間であるがゆえに犯人ではありえない。本人の証言通り、中庭に入ることができないから……ツワミーさんの見た黒い影ではありえないから。だから、コジャクさんは犯人ではない」
「そもそもわたし、お父さまのことそんなに嫌いじゃないってばー」
コジャクはそう頬を膨らませますが、引っ込めてから言いました。
「でもそれはお姉ちゃんも同じよ? なんでお姉ちゃんがお父さまを嫌いになるの?」
「同じ理由ですわ。ツワミーさんがアースピリット卿を殺す動機、それはコジャクさんが沼人間にされたことです」
「わたし?」
目をぱちくりとさせます。
「ツワミーさんは決して、アースピリット卿のことを嫌ってなどいなかった。それは本当なのでしょう。しかしだからといって、家族として愛している様子でもなかった。ツワミーさんにとっての家族とは、妹であるコジャク、彼女だけを指すとしたら。彼女こそが唯一の家族なのだとしたら……」
「……家族を殺された恨み。残されたのは魂のないぬけがら。なるほど、『復讐』は充分な動機たりえますね」
やわらかく微笑んで、ツワミーが後を引き継ぎました。初めて挨拶を交わした時、自分が育てた花について話した時と同じ笑顔です。
カップを持ち上げて傾けます。とても、とても美味しそうに飲みます。
「ですがアイリさん、私はこう言わざるをえないみたいです。私に動機があることは、私が父様を殺したことの証明にはならない、と」
「ええ。それはよく理解していますわ」
「そしてこれも言わなくてはならないでしょうね。犯行時、私が中庭にいたはずがないんです。ねえリーン、父様の悲鳴が聞こえたとき、あなたはすぐに二階へ向かおうとしたのよね?」
「は、はい、その通りです。ですがそこで階段を下りてこられるツワミー様と合流し、中庭に向かいました」
「ありがとう。お分かりですね? 私が犯行時に中庭にいたとすると、悲鳴が聞こえてリーンが厨房から階段に向かうまでの間に、私は反対側の階段を使い二階をまわったことになります。これは時間的に整合しません。そもそも、私にはリーンがどう動くかなんて予測できない」
大事そうに抱えたカップを下ろします。
「いかがでしょうか。これでも私が犯人ですか?」
「……ええ」
ツワミーは笑顔を崩しません。アイリにはそれが、何かを諦めた表情に見えます。
ツワミーが喋らないのを見て、アイリは続けます。
「……犯行時、ツワミーさんは中庭にいられなかった。この推論は正しいですわ。だとしたら、前提が間違っているんです。『犯行時刻』か『現場』のどちらか、あるいは両方を、私たちは勘違いしていた。
ですが『犯行時刻』は動かせません。悲鳴は男性のもので、この屋敷にはアースピリット卿しか男性がいなかった。さらにこの悲鳴はリーンさんも聞いている。悲鳴を発生させるような装置もありませんわ。悲鳴から死体発見までの時間はわずかですから、ここにごまかしの生じる余地はない。
ならば、『現場』です。卿が悲鳴をあげたのは中庭ではなかったんです」
「中庭の外で旦那様を手にかけてから井戸に運んだ、ということでしょうか?」
「いいえ、それだとやっぱり時間的に厳しいですわ。さらに言えば、卿には井戸に落ちたときにできたもの以外の外傷はありませんでした」
「んー。ってことは、お父さまってばもしかして、二階から落っこちたの?」
「そうなるわね。ツワミーさん、あなたは悲鳴が聞こえたとき部屋にいたと証言している。そしてあなたの部屋のベランダは……井戸の上にあります」
――アイリは肩ごと動かして、少しきつい角度で顔を上に向けます。
――少女が手すりから身を乗り出して、腰の辺りから上をのぞかせてこちらを見下ろしています。
「アースピリット卿は、あなたの部屋のベランダから井戸に落ちたんです」
ツワミーは静かに目を閉じました。
「なるほど。私は父様を殺す動機を持ちえた、私には父様を殺すことが可能だった。アイリさんはとても合理的に示しました。でも、これだけでは可能性の域を出ません。推論は推論にすぎない。……私が父様を殺したのだという根拠を、示せますか?」
短く、アイリは答えます。
「はい」
……ゆっくりと目を開きます。
「お聞かせ下さい」
「……無無意識の庭について、考えてみましょう。あそこはおかしな空間です。字義通りの庭。意識だけで動く庭。リーンさんは『無意識が存在しない』、コジャクさんは『無意識を受け入れない』と表現してましたね。私は、もうちょっと違う言い換えをしたいと思いますわ。そうねたとえば、沸騰したヤカンに触れたら、普通どうなるかしら?」
「思わず手を離すわね。それから『あついっ』ってなるわ」
「ですよね。では、無無意識の庭では? ヤカンに触れたらどうなるでしょう」
「同じことじゃないの? 触れようと思って触れて、手を離すでしょう?」
「いえ、コジャク様。少し違います。無無意識の庭なら、『思わず』手を離すことはございません。おそらくですが……ヤカンに触れ、熱いと認識し、それからやっと手を離そうと思うのではないでしょうか」
「私もそう思いますわ。つまり、無無意識の庭では『思わず』行動することがないんです」
コジャクはいまいちピンときていない様子です。
「『思わず』は意識じゃないものねー。それは分かるけど、それで何が分かるの?」
「とても重要なことですわ。無無意識の庭では、熱いヤカンに触れても手を離さないし、飛んできた矢が迫っても目をつぶらないし、何かを殴ろうとする拳は途中で止まりません……そしてなにより、井戸に突き落とされて、思わず悲鳴を上げることもないんです」
あっと驚きの声を上げたのはリーンです。そのような声も、無無意識の庭では発せられない類のものですね。
「そしてこれはリーンさんが言っていたことですけど、無無意識の庭では、言葉を発する動作は全て『発音』として意識しなければいけない。『悲鳴を上げる』では声にならないのよ。私が何を問題としているか、分かりましたね? そう、今まさに井戸に落ちゆくアースピリット卿が、わざわざ悲鳴の音を『発音』しようと意識するかしら?」
無無意識の庭に慣れすぎたリーンは、その中での会話も当然のようにこなせてしまいますから、『声を出す』ことそのものの不自然さに気が付かなかったのでしょう。
「これが、根拠ですわ。悲鳴がアースピリット卿のものであることは先ほど示しました。その上で、卿が中庭で悲鳴をあげることはありえない。ならば卿が落ちたのはツワミーさんの部屋のベランダからというのが最も妥当です。そして卿が中庭に入っていないのだから、必然的にツワミーさんが目撃したという『黒い影』、これも嘘ということになる。……いかがかしら」
アイリが語り終えて。
ツワミーはただ、小さくうなずきます。
「お見事です。ここまで詰められては認めないわけにもいきませんね。……父様を殺したのは、私です」
リーンはグッと、何かを堪える表情で。
コジャクはやっぱり変わらない様子で、ぱちぱちとまばたきを繰り返しています。
「ツワミーさん。認めてもらえたのなら、一つだけ質問したいことがあるの。あなたの証言……中庭では発せられないはずの悲鳴が聞こえた、いないはずの黒い影を見たという証言。その危険性にあなたが気付いていなかったとは、私には思えないのよ。本当の現場をごまかしたいだけなら、もっと別の逃げ道もあったはずだわ。なのにあなたは中庭にこだわった。それは、中庭が現場だと思われている限り……」
「……ほんとうに、素晴らしいですね。そこまでお気づきでしたら、私はちょっと補足をするだけでよさそうです」
「補足、ですか」
「推理不能の領域ですよ。……おっしゃる通り、父様は沼人間を無無意識の庭に入れる実験のアイデアを思いついていました。でもね、そのきっかけはコジャクの存在なんです。ええ、父様がその実験を試みる以前から、コジャクは無無意識の庭に入ることができなかった。それがどうしてかは分かりません。一つ有効な仮説はありますが、それを確かめることはできませんから」
ツワミーの話す内容に意外さを覚えつつも、アイリは冷静に思います。
アースピリット卿の実験が行われる以前からコジャクが中庭に入れなかった理由……最も簡単な説明は、すでにコジャクが自ら『沼人間誕生の間』に入っていた、という可能性ね。
「あるいはだからこそ、父様はコジャクを実験の対象にしたのかもしれません。沼人間の沼人間を生み出すのに、魂の問題は関わってきませんからね。もっともこれは私の想像。父様にもせめて一抹の人間らしさを持っていて欲しかったのか……私にも分かりませんけれど。ただ一つ言えるのは、私は父様の実験を止めなければならなかった、ということです」
「それで……事件のあった日、アースピリット卿を自室へと呼んだんですね」
「最初は、平和裏に話し合うつもりだったんですよ? しかし父様は探究心の奴隷でした。どこでどうこじれたのでしょうね、気が付けばベランダに出て、必死に父様の体を持ち上げているんです。落とすのは、そこまで難しいことではありませんでした。私は力の強いほうではありませんが、それは父様も同じでしたし、ご覧いただいた通りあの手すりは低いですから……明確な殺意はなかったように思います。ですがきっと、時が繰り返したなら、私は同じ選択をするでしょう」
沈黙が下りました。かけるべき言葉はどこにあるのでしょう。アイリにも尋ねたいことはありましたが、なかなか口にすることができません。
さっきも、こうなった。おかしいわ。私は動機なんて、気にしてないはずなのに――。
「ね、ね、リーン」
沈黙を破ったのはコジャクでした。こんな状況にあってもはっきりとした声でした。
「たしか沼人間には死んだ瞬間の記憶がないのよね?」
それは唐突な質問でしたが、色を失っていない、可愛らしい尋ね方です。
「え、ええ。その通りでございますコジャク様」
「それじゃあ沼人間には自分が沼人間である自覚なんてないわよね?」
「ええ、自覚としては存在しません」
「聞いた、お姉ちゃん?」
「……何かしら?」
ツワミーはちょっと困惑した様子を見せます。そのひざ元に、いきなり、コジャクが抱きつくように飛びつきました。
「きゃっ。ちょっと、コジャク」
「わたしが沼人間かどうかなんて、わたしにも分からないわ」
少し慌てたツワミーでしたが、顔をうずめたコジャクのくぐもった声が聞こえてきて、すぐに動きを止めました。
「ええ、そう……それで?」
「うん。だけどね……わたしがどんなでもね……わたしはお姉ちゃんのことが好き。大好きよ。……これじゃ、ダメ?」
「……いいえ。十分よ、コジャク。ありがとう」
顔を上げたコジャクを、ツワミーは胸元へ抱き寄せます。愛おしそうに髪を梳く表情は、アイリが見た中で一番優しい笑顔でした。コジャクの横顔が幸せに目を閉じます。
アイリは軽くうつむきました。ほころんだ口元が小さく言葉を吐き出します。
『あなたがそこまでして守ろうとしているものは、あなたが守りたい本物なの?』と。
どうやら、聞く必要はなさそうですね。
*
「これは蛇足だから、聞きたくないなら聞かなくていいわ」
頬杖をついて眺める遠く、アースピリット卿のお屋敷が見えます。遠くに見るその小ささは、そこに住む姉妹二人にはお似合いに思えました。
先ほども通った森の出入り口。ちょっと休憩、とアイリは近くの平たい石に座っています。スペサンは隣で立ったままです。
「聞かなくてもいい話なら聞かないが」
「じゃあ話さなくてもいいわね」
「…………」
「…………」
「……話せ」
スペサンの扱い方がなんとなく分かってきたわ。
「『沼人間誕生の間』だけどね、自分が沼人間かどうか分からないってのは、実は正しくないわ」
「そうか? しかし、死んだ瞬間の記憶がないこと、自分が沼人間だとの自覚がないことは、リーンも保証していたが」
「あえて言葉を選んだのでしょうね。スペサン、あなたは沼人間なの?」
「私が? まさか、違うさ」
「どうして分かるの?」
「そもそも私は、『沼人間誕生の間』に入ったことなどないからな」
そう答えたスペサンですが、ニヤニヤしているアイリに気付いたか、もう少し考える仕草です。
「……そうか。沼人間に複製される記憶は『沼人間誕生の間』に入った直後のものだったな。つまり、部屋に入ったことは沼人間も覚えているんだ」
「そういうこと。部屋に入った記憶があるということは沼人間になったということだから、『自分が沼人間か分からない』なんてことは基本的にあり得ない。それでもそんなことを言うのは、本当は分かっているのにごまかそうとしたからよ」
「そして部屋に入ったことがないのなら、ごまかすという選択肢を想定することもない、か……このことをツワミーは知っているのか?」
「言ってないけど、気付いてるでしょうね。あの子、賢そうだし」
「なんともいたたまれない話だな」
「あら、あなたからそんな感想が出てくるなんて思わなかったわ。私はそうは思わないけどね。あれはね、コジャクがツワミーのためを思ってついた嘘なのよ? 沼人間だか魂だか知らないけど、あれが彼女の意思によるものでなくて何だというの」
「……いろいろと全否定していないか、それ」
「知ったこっちゃないわ」
そっぽを向いて肩をすくめるスペサンでした。……トランプの角のところですよ。スペサンは器用ですね。
「それにしても、ツワミーに来てもらわなくてよかったのか? 忘れてないだろうね、君は王妃様に『アースピリット卿殺害の犯人を見つける』と約束しているのだよ」
「連れてこい、とまでは言われてないわ。私はたしかに犯人を見つけたのだから約束は果たしてる」
「そんな屁理屈が通じると思うのか?」
「冗談よ。ツワミーを王妃様に差し出すのが忍びなかったのよ。私は謎が解けたから満足、わざわざあの二人の世界に干渉するなんて無粋な真似はできませんわ」
「それだけか」
「……うんまあ、ぶっちゃけコジャクが怖いわ。あの子言ってたでしょう、『お姉ちゃんが殺されたとしたら、その犯人は絶対に見つけ出して殺さなきゃいけない』って。差し出したツワミーが死刑になるのなら、きっかけを作った人間も、よ」
「そんなことだろうと思ったよ。だがこのまま手ぶらで帰っても同じことだぞ?」
「そうねぇ……」
まあ実際のところは、と独り言ちます。私のこの夢が覚めるまでのお話なのでしょうけれど。
このまま戻ったら死刑なのよね。絞首刑かしら。斬首刑かしら。あまり痛いのは嫌ねえ。どうにか死ぬ前に目が覚めてほしいところだわ……。
……夢の中で死んだら、どこへ行くのかしら。
……きっと、眠るのと変わりないわね。
「歩きながらでも考えましょう。王妃様あんまり頭良くなさそうだし、どうとでも言いくるめられるわよ」
アイリは振り子のように勢いをつけて立ち上がると森へと入っていきました。その後ろをスペサンが着いていきます。
「言いくるめようにも犯人がいなければどうしようもないのではないか?」
「スペサン、犯人になってくれない?」
「お断りする」
「ああ困ったわ、私このままじゃ死刑になっちゃう――」
二人は森の中をどんどん進んでいきます。
話す内容とは裏腹に、とても楽しい会話に聞こえたかもしれません。
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