それでもこの冷えた手が

lager

それでもこの冷えた手が

 その日は朝から空全体に薄い雲が張っていて、底冷えのする冬の空気が、街路樹の合間やビルの隙間、駅のホームを吹き抜けていた。

 昼を過ぎて鉛色の雲はますます厚みを増し、未だに雨粒を零さないでいることの方が不思議に思えるような天気だった。

 年が明けて、ひと月半。春はまだ遠い。


「塔子さん、今日はご機嫌ですね」


 それでも、後輩からそんな言葉をかけられる程度には、私の気分は浮かれていたらしい。

 昼休みを終えた私に、少し遠慮がちな、それでいて何かを期待するような顔つきで声をかけてきた三つ年下の男の子に向け、私はわざと冷たい笑みを浮かべてみせた。


「ごめんね、いつもはきつい顔で」

「い、いや。その――」

「ふふ。冗談だよ」

「はあ……」


 年が明けて、ひと月半。つまり、今日はバレンタイン・デーだ。

 始業前に営業部の女子社員全員で買ったそこそこ値の張るチョコレートを配った時の、彼の子犬のような顔を思い出し、私は急に白けた気分になった。

 日頃から私一人にだけ向けられるその視線の色に気付かないほど無神経ではない。

 ただ、では彼が何かしらのアプローチをかけてくるかというと、そういうことはないのだ。ふとしたタイミング、会話の中に混じる言葉の端々や、表情の変化などで、そうと察せられるだけである。


 自惚れ……。

 そう言われてしまえばそれまでだけど、まあ、わたくしもこう見えて女子の端くれ。十中八九間違いはあるまい。

 けれど。


 ――やめてよね。


 別に、悪い子じゃあない。顔は十人並みだけど、気遣いが上手いから仕事もそこそこ出来るし、上司の覚えも良い。

 ただ、ガツガツしたところが皆無なせいで、今一つ頭が抜けられない。

 競ってるような相手がいると、「どうぞお先に」と譲ってしまう。

 そういう男が好みという女子もいるかもしれないけど、彼にとってはお生憎様、我が営業部女子内での彼の渾名は『無難くん』だ。

 飲み会の場に一人いると便利なタイプ……。


 私は彼を追い払った後で、この後出番を控えている包みが決して見えないように、さりげなくデスクの下のバッグの位置を直した。

 好意の視線を向けられて悪い気はしないという気持ちも分かるけど、そういうのは時と場合による。

 例えば、自分の気持ちが他に向いている時。その日の晩に約束がある場合などはどうだろう。


 ――ちょっと煩わしい。


 彼からの想いが私の今後の予定に何か影響を及ぼすということもあるまいが、人の好意を受け止めるということは、それなりにエネルギーが要るし、覚悟も必要だ。

 今の自分に、そこまでのキャパシティはない。

 私は心の中でだけ彼に詫びると、それきり気持ちを切り替えて、午後の業務に集中した。


 この時期は仕事も閑散期なので、特にトラブルも残業もなく退社できた。

 中にはどこか浮足立った様子で帰り支度を始める者もいて、私は自分の顔にそんな色が現れていやしないかと不安になりながらも、努めて普段通りに振る舞った。


 忍ぶれど、色に出でにけり我が恋は――

 なーんて。


 結局、今日一日で「ご機嫌ですね」なんて言われたのも、昼の一回だけだったし、そう神経質になる必要もないのかもしれない。

 ふと視線を巡らすと、件の『無難くん』も終業となるや同期たちの誘いも断り、そそくさと浮かれた面持ちで帰っていった。

 おやおや……。


 そういえば、経理部の若い子が秘かに思し召しを……。なんて噂もちらほらと耳にした。

 ひょっとすると、今日の内に何かアクションがあったのかもしれない。


 ――まあ、お好きになさったら。


 外を見れば、ついに降り始めた雨が夜の街をびしゃびしゃと濡らしている。

 これからますます気温も下がるだろう。

 私はぶるりと肩を震わせ、折り畳み傘を取り出すと、街灯を歪に反射する濡れそぼったアスファルトへと足を踏み出した。



 ◇



 約束はすっぽかされた。

 職場の最寄りから二つ離れた駅前で、待ち惚けていた私のスマホにメッセージが入った時には、私の手足はすっかり冷え切っていた。

 簡素な謝罪と、埋め合わせは必ずするからという彼からの言葉を、私は殆ど凪のような気持ちで眺めていた。

 凪というか、氷像のような気持ちというべきか。


 体が冷えすぎて脳まで運動を停止したのか、その言葉の意味が胸の奥にまで沁みるのに随分時間がかかった。

 急な用事。

 急な用事ねぇ。


 ――そりゃあ、こういう日は奥さんの方が優先だよね。


 流石に、そのくらいのことは察しがつく。

 元々、そちらとの不和の隙に私がつけ入ったような形で始まった関係だった。

 隙間がなくなれば、押し出されるのは私……。


 今さっきまでの時間、刻一刻と冷えていく指先を摩りながら、それでも心の寄る辺にしていた胸の奥の火が、文字通りに冷や水をかけられたように消え失せた。

 しゅん。

 そんな音を立てて白い煙が昇っていく幻想を見た。


 恋愛には節目というものがある。

 なにも今日のこのことだけを理由に「もう会わないようにしましょう」とはなるまいが、今後の展望が明るいということもあるまい。こちらからか、向こうからか、どちらから切り出すかは分からないが、きっと後で思い返して、


 ――あの日が節目だったな。


 となるのだろう。そんな予感があった。


 最初から、花実の咲くような関係ではなかった。

 そもそも、節目というなら、彼と付き合いを持ち出した最初の節目も思い出せない。

 ただ、最初に彼と寝た日のことだけは、よく覚えていた。


「逆ハーっていうのはさ。文化的な行動なんだって」

「え?」


 お互い煙草は喫わないものだから、事が済んだ後のテンプレートみたいな光景ではなかった。汗ばむ体にスポーツドリンクを流し込みながら、彼はそう言ったのだ。


一夫多妻ハーレムってのはさ。生物学的に見て合理的な行動なんだよ。雌からしたら、他の雌が何匹いようが、自分が生んだ子供は間違いなく旦那の子だろ」

「そうですね」

「優秀な遺伝子を後世に拡散させるためには、優秀な雄はハーレムを作るべきだ。けど、逆ハーってのはそう単純じゃない。一人の雌が孕んだ時、まず周りの雄はそれが誰の子なのかを気にしなきゃいけないし、雌が再び子作りできる状態になるまでの間、自分と全く関わりのない子供を育てるっていうリスクを負わなきゃいけない。こんなコミュニティばっかりが増えれば、種全体にも存亡のリスクが顕れる。そういう、生物として本来的には不要だったり害悪になるようなことをするのが、『文化』ってもんなんだって」

「ふうん」


 ――何が言いたいんだろう。


 私は、ぼやけた頭でその言葉の意味を咀嚼しようとした。

「それって、私たちの関係は生物として自然な行動ってこと?」

「それが良い悪いは別にしてね」

「あなたの遺伝子は優秀?」


 少なくとも、無能ではあるまい。

 自分の腹の下にいまだ燻る熱を意識した。

 それに、人事部の部長を務めるくらいだ。まあ、これは自然淘汰と年功序列が後押ししているとはいえ……。

 

「さあね。けど、さっきの話じゃ、雄だって必死さ。何とか頑張って自分の優位をアピールしなきゃいけない。俺には、そこまでのガッツはないかな……」


 そこで急に、気弱な顔を見せるんだもの。

 散々奥さんの気持ちが自分から離れてる、なんて話をした後で。

 本当、上手い男だ。


 私はよく外見のせいで、冷めた女とか、性格がキツそうとか思われてるらしいけど(そしてそんなことを影で言ってる男はきっちりリストアップしているのだけど)、自分で言うのもなんだが、中々に情が深い。

 はっきり言って、絆されやすい。

 私が感動系の映画やドラマを見ないのは人目も憚らず号泣するのが分かり切っているからだ。冷めてるからじゃない。

 そこへ、普段いかにも頼りになる上司然とした男が自分にだけ弱みを見せてくるなんて、絆されたって仕方ない。

 これも後から思い返せば、


 ――あーあ。安い手に引っかかっちゃって。


 なんて思い出に出来るのだろうけど、その時はそうじゃなかった。

 今もそうじゃなかった。


 私はそんな追憶に浸りながら、ぼたぼたと滴る雨粒をぼんやりと眺めていた。

 もうここにいる意味もないはずなのに、雨水の染みた足が凍ったように動かない。

 寒い。

 いつかこんな時がくると、頭の冷静な部分では分かっていたはずなのに、思った以上にダメージを受けていることに私自身驚いていた。


 いや。

 いや。

 切り替えよう。

 切り替えねば。


 これ以上ここにいたら、確実に風邪を引く。

 明日だって仕事なのだ。

 昨日セレクトショップから取り寄せた、この気合十分のチョコレートは、この際自分で食べてしまおう。

 家に帰って、火傷寸前の熱湯でシャワーを浴びて、ギネスビールで美味しく頂こう。

 レンタルショップに寄ってもいい。パニック系の映画でも借りて(今日は絶対泣かないぞ)……。

 おひとり様、万歳!


 何とか胸の炉心に薪をくべて、無理やり血を巡らせる。

 私がようやく踵を返した、その時だった。


「塔子さん?」


 私の背に、そんな声が投げかけられた。

 振り返った視線の先には、何やら大きな荷物を大事そうに抱えた、後輩の男の子の姿。


「ぶな……辰巳くん」

「……橅?」


 おっとっと。



 ◇



 数分後、私と『無難くん』こと辰巳くんは、駅構内の喫茶店で向かい合って座っていた。

 

(今から帰りですか?)

(顔色悪いですよ。体冷えちゃってるんじゃ……)

(よかったら、少し暖かいものでもどうですか?)


 そんなぎこちない誘いに私が乗ってきたのが意外だったのか、辰巳くんは席に着いてからも視線が定まらず落ち着きがない。

 私は氷のように冷え切った手でスマホを弄るふりをして、注文したカプチーノとキッシュを待っていた。


 指先がかじかんで上手く動かせない。

 店内の空調も効いてはいたが、もともと冷え性な体には物足りない。

 どうして辰巳くんの誘いに応じる気になったのかは、自分でもよく分からない。ただ、少し暖まってから帰りましょうという言葉にあえて逆らうだけの気力すらも残ってなかっただけなのかもしれない。

 辰巳くんは、あんな場所で凍えるまで突っ立っていた私を見て、どう思っただろうか。


 先ほどから何とか会話を繋げようと気を使って話しかける彼の言葉に、殆ど惰性で返事をしながら、そんなことを考えた。

 可哀そうな女の子にでも見えただろうか。

 それを否定するだけの材料も気力もない私だったが、そういえば辰巳くんこそ、どうしてあんな場所にいたのだろう。何やら厳重に梱包された荷物を抱えて……。


 私が彼の話の流れをダイナミックに断ち切ってそれを質問をすると、彼は一瞬きょとんとした後、はにかんだような笑みを浮かべて、こう言った。


「今日、新作のカメラの発売日だったんです」


 新作のカメラの発売日!?

 何だそれは。

 いや、そりゃカメラだって工業製品なんだから、新作も出ればその発売日だってあるだろう。

 けど、だからといってそれを仕事終わりに買いに行くか?

 発売日に買わなきゃ売り切れるような商品じゃないだろうに。


「もうひと月前からずっと楽しみにしてて……」

「へ、へえ……」

 この子、オタクだったのか。

 全然そんな風に見えなかったけど……。


 先程までの私に気を使った口調とは打って変わって、実に楽しそうに新作カメラの性能を語り出した辰巳くんを(話の半分も理解できなかったが)、私は新鮮な驚きを持って見つめた。


 ――こんな顔も出来るんだ。


 普段は周りに合わせた引き気味な愛想笑いしか見たことがなかったが、屈託のない笑顔を改めて見ると、また印象が違って見える。自分のスマホに移した写真のデータを見せる時も、卑屈さを感じない、素直な表情をしていた。


「あ、……ごめんなさい。俺、一人で盛り上がっちゃって……」


 そこで、不意に我に返ったように、辰巳くんがスマホを引っ込め、元のおどおどとした表情に戻った。


 まあね。

 女子に自分の趣味を延々と語るのはNGだよね。

 ましてや私、結構あからさまに話聞き流してたのにさ。

 オタクっぽさを全開にするのも減点。

 大体、君。さっき見せてきた写真フォルダの中、風景画と動物の写真ばっかりだったよね?

 ポートレートとか撮ってみる気はないのかい?

 折角目の前に絶好の被写体がいるってのに。

 女の子を口説くなら、そういう所から攻めていく手も覚えなきゃ。


 それでも。


「ううん。面白かったよ。写真、もっと見せて?」


 それでもこの冷えた手が、暖まるまでの間くらいは。


 その可愛い笑顔に免じて、もう少し絆されてやろうじゃあないか。

 こんな気分になるのも、きっと心が冷えてしまったからだ。


 だから、今のうちに頑張りなよ、無難くん?

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