第9話 先生と母親

山と村に冬がやってきた。


白銀と共に訪れた静寂が辺り一体を包んでいる。春から秋にかけて私の身に起きたあの喧騒の全てが、まるで白昼夢だったかのように感じている。



あの日、鬼の金花きんかを殺し首と右腕を持ち帰った私は村長の茂助もすけのところへ首だけを届けた。


「おお…」


驚嘆と軽蔑。そして大いなる恐怖を感じる眼差しを茂助の家にいた人々から一斉に浴びていた。


五平ごへいはこの鬼に殺された。亡骸なきがらは持って帰ってこれる状態ではなかったので山に葬った」


私がそういうと、彼の年老いた母親は「嗚呼」と声を上げてその場に崩れ落ちた。


「先生、よくやってくださった。これで村も安心だ。なあ、みんな!」


連中はそうともよ、などと口々に言っていたが五平がどんな殺され方をしたのか気になっているという顔ばかりだった。しかし流石に泣き崩れる母親の前でその質問を口にする輩はいなかった。


「さっそく五平の弔いと、鬼の首を祀って宴を開くぞ。おい、帰ってカミさん連中に伝えろ。今夜は忙しくなる!」


茂助のひと声で男連中は嬉々として外へ飛び出して行った。


「先生。ありがとうございました。礼は後ほど家に届けさせます。また、なんかあったらよろしくお願いしますよ」


茂助はそう言って馴れ馴れしく私の肩を叩いた。


「ああ」


それだけ言うのがやっとだった。


こんな連中のために。こんなひと言のために、自分はあの美しい鬼の命を奪ったのか。それは、本当に正しいことだったのか、と心に黒いモヤがかかる。



二日ほど、しばらく家で何もせず呆然としていたら来客があった。


野菜と餅と酒を手にいっぱい持った五平の母親がそこに立っていた。


「先生、村からです。納めてください」


「ああ、これはお母さん。重かったでしょう」


「もう、お母さんというのは止めてくだされ。あたしはもう、母親ではないんです」


「それは失礼した」


そのまま帰すわけにもいかず、ひとまず家に迎え入れることにした。


「茂助さんも気の利かない人だ。年寄りにあんな荷物を」


「仕方ないんですよ先生。みんな男連中は先生を怖がってる。先生は『鬼殺し』ですから」


鬼殺し。嫌な二つ名がついてしまった。


「お祭りには参加されていたんですか?」


話題を変えたくて私は必死だった。彼女からは底知れぬ悲しみが溢れている。


「連中は三日三晩も馬鹿騒ぎを続けています。凶作だというのに畑にも行かず馬鹿な連中です。私はとてもそんな気にはなれんのです」


「そうですか」


「鬼の首を祀って宴だ、とか言ってましたが、動かぬ首を前にから威張りしてる奴らばかりですよ。茂助なぞ『俺が行っても討ち取ってきた』とか抜かしてました」


「なるほど」


つくづく。自分のしたことが間違っていたのかもと思ってしまう。人間は本当に助けるべき相手なのか。私の心は揺れ続けていく。


「先生。あたしはね。鬼の首なんてどうでも良いと思ってるんです」


「え?」


「あんな首なんてあっても、息子は帰って来ない。首に石を投げつけようが、山に向かって手を合わせたり叫んだりしようが、息子は帰って来ないんですよ」


「そうですね」


「もう何もかも無いんです。あたしには息子が全てだった。もう何も感じないのです」


「…」


何もない、と言う年老いた彼女の目から涙が落ちる。


「雪が溶けて、春になったら、あたしも山に入って死のうと思っています。もう村にはあたしが死んで悲しむ者は誰もいませんし」


言葉がなかった。私には止める理由はなかった。


「せめて、息子のそばで死にたいんです。だから息子を葬った場所をお教えください。今日はそのために来ました」


「山奥の破れ寺の近くに埋めました。春にはきっと、そばで大きな桜が咲いていると思います」


「そうですか。ありがとうございます」


そう言って彼女は去って行った。


何も手につかない日々が続いた。茫然とした時間だけが過ぎてゆく。胸に空いた虚空を全身で感じ、悲しみよりも虚無に近い、恐ろしいほどの喪失感と一日を共にした。


そんな折、また来客があった。


続く

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