第8話 先生と金花

あれほど美しい彩りを見せていた金花の自慢の庭は、今ではすっかりその様子を変えていた。


いつしか地面にはうっすらと雪が積もりはじめていた。白く真冬に染まりつつある大地のところどころには死ぬ直前のような秋が顔を覗かせている。


私と金花は少し離れた状態で仁王立ちのまま互いに睨み合っていた。


金花きんか…解ってくれ」


口をついて出た言葉が私の胸の内に鈍痛をはしらせる。それは決して外の凍てつく空気だけのせいではない。


「何をだよ先生。こうなっちまった以上、何を解れというんだよ?」


「金花…」


鬼は好戦的な生き物だ。どんな相手だろうが、どんな状況だろうが、互いに血と肉を賭けて争うことを好む性質タチだ。彼らはそうやって生き残り、数多の妖怪の上に君臨してきた。


「久しぶりだ。こうやって誰かとやろうってのはよ」


「何故そんなに嬉しそうなんだ。どっちか死ぬんだぞ?」


「そうだな。確かに先生は殺すのには惜しい相手だ。だけどな」


金花は雪の上で飛び跳ねたりして身体を慣らしている。


「喧嘩だってもう百年くらいやってねえ。鬼は喧嘩が好きなんだ。いっぺんこうなっちまったら、この血が疼いて仕方ねえのさ」


金花の身体から発せられる熱のような気配が私の顔すれすれのところまで飛んでくる。それは鋭い切っ先を突きつけられた様な感覚に似ている。


作った酒や料理の話をしている時の金花とはまるで違う雰囲気だ。恐ろしいと思う。これが鬼なのだ。鬼とは、心底邪悪で恐ろしい妖怪なのだ。


解っていた。私はそれを、解っていたのだ。


「もう良いだろう。さあ、はじめようぜ」


彼女がそう言った次の刹那、爆音と共に雪が跳ね上がり金花の姿が視界から消えた。


とてつもない力で地面を蹴った金花は、尋常を遥かに凌駕する速さで先に動いた。


私の左目は、彼女をまったく捉えることができていなかった。だが右目は、違った。


すんでのところで振り下ろされた手刀をかわし、すかさず拳を前に繰り出す。が、全く手応えはない。


「おいおい。なんだよその右目。おっかねえなあ」


金花が素早く間合いをとる。相当な力を持っている癖に、彼女は慎重で経験豊富だ。こういうのが一番厄介な相手だ。


烏天狗からすてんぐの右眼だ。どんな物だって見逃さない」


「烏天狗か…面白いねえ」


金花はニヤリと笑うとまた直ぐに姿を消す。


「だけど」


声が何処からか降ってくる。右目の死角に入り込まれたら、追うこともできない。


「右目だけじゃどうしようもねえなあ」


左側から飛んできた激しい衝撃をなんとか防ぐ。痛い。とてつもなく。


「そうだな」


「!?」


右目がよく見えると知ると必ず左側ばかり狙ってくるやつがいる。


「だけど、もし左手に丈夫な殻がついてたらどうするね」


私の左手は手首から肩までが硬い殻で覆われている。何物をも寄せ付けない、硬い硬い大百足おおむかでの殻。


「なんだよ、それ」


「三上の山にいた大百足だよ。随分前に、腕自慢の武士と討ち取ったんだよ」


「百足だぁ?うげえ、そこまでするかよ」


「かなり苦くて不味かったけどな。でも」


今度はこっちから仕掛ける。積りはじめた雪を目眩しにして、真っ直ぐ金花へと突っ込んで組み合う。


「お陰でこうやって生きている!」


金花の襟を掴んで岩目がけて投げ飛ばす。私の貧弱な拳よりも、岩の方が彼女により強い一撃を喰わせられると思い狙った。思った場所に当たり、見事に岩は砕け散ったのだが私のあては外れていた。金花は傷ひとつついていなかった。


「先生は頭がいい。伊達に長生きはしちゃいねえ。だが、鬼はもっと長生きさ」


岩よりも頑丈な金花に驚いていた隙にまんまと懐に入られてしまった。彼女の繰り出した拳が私の溝落ちをえぐり、純白の大地に真っ赤な血を吐き散らかした。


「があえ!」


恐らく内臓のひとつが潰されただろう。気絶しそうなくらい激しい痛みが襲う。


「そら!」


間髪いれずに金花が二撃三撃を繰り出した。激痛で動けない私が避けきれるわけもなく、見事に全て喰らってしまった。


額と胸。それぞれに大地を震わせるほどの一撃を狙い撃ってくる。まさしく獣。まったくの手加減はない。


「ハァ…ハァ…」


「先生。どうだい。もうすぐ死ねるかい?もうとどめを刺されたたいかい?早く楽になりたいかい?」


嬉々として笑う金花を見て、私は恐怖や憎悪というよりも、不思議とまた、その美しさに見惚れていた。


「そうだな。死んでやりたいところだが、どっこいそう簡単には死ねないのだよ」


私は口内に溜まっていた自らの血を金花の両目をめがけ吹く。


「チッ!」


後退りと同時に繰り出された一撃を喰らってしまったが一時的に視界を奪うことには成功した。


「いい判断だな先生。生き残ろうと何でもするってのは、賢いやつのやることだ」


「特に力の差が大きくある時はな」


鬼の目を一時的に封じたとて、それがあまり意味を為さないことはよく分かっていた。だがもう少し、私には時間が必要だったのだ。


「なあ金花」


「なんだい先生」


私は移動しながら彼女に話しかける。鬼の感覚は鋭い。きっともう、見えていても見えなくても関係ない。


「この山を捨てて、私とどこか別の場所で暮らすというのはどうだ」


「なに?」


殺気が、一旦収まる。


「もうここには居られない。この山はダメだ。何処か遠くの山で、一緒に暮らさないか」


金花はしばらく静止して天を見上げ、そして満面の美しい笑みをこぼした。


「そうだな。さぞ楽しいだろうな」


「じゃあ…」


「でもダメだ」


空気が再び張り詰める。殺気が戻ってきた。


「この山はオレのだ。何故最強である鬼が、人間なんぞに気遣って出て行く。人間が出て行けばいい。道理にかなっていない」


「…」


思っていた通り、ダメだった。


仕方ない。終わらせるしかない。



「かあっ!」


金花の目が再び開いた時には、私は彼女の背後に回り込んでいた。後ろから彼女を羽交い締めにし、首元に歯を立てた。


「なんだぁ?」


金花にしてみれば痛くも痒くもない。だがこの一撃で、全ては決していた。


「まどろっこしいことをするな!潔く死ね!」


金花に首根っこを掴まれそのまま地面に叩きつけられた。全身を壮絶な痛みと衝撃が襲ったが私は視界で舞う雪を見て、ただ漠然と、綺麗だなとしか感じていなかった。


金花が私の首を掴んだまま地面に捻じ伏せる。息が苦しい。視界がかすむ。


「お別れだ。先生。楽しかったよ」


「う…ぎ…」


彼女の名を呼ぼうとしたが声が出なかった。随分時間がかかるなと思ったが、もはや全て、どうでもよくなっていた。


「うん?」


首を絞める手の力が緩みはじめた。


「なんだ?こりゃあ…」


金花の手がワナワナと震えはじめ、ついに立っていられなくなり彼女は地面に膝をついた。


「…おい…なんだ…どうしたってんだ」


「毒だよ」


「毒?」


「そうだ。毒だよ。土蜘蛛つちぐも毒だ。さっき噛み付いた時に、首から毒を入れたんだ」


「…のやろう。やりやがった」


そう言って金花は真っ白な地面にどすんと倒れ込み、 鮮やかな色の血を吐き出した。


「土蜘蛛のやつ、『鬼だって俺の毒には敵わねえ』とか言ってたから本当かなとは思っていたけど。どうやら大変なもんだな」


かつて倒した土蜘蛛の毒が、よもやこんなところで役に立つとは思わなかった。正直なところ今回は博打だった。この毒が無ければ、はじめから鬼絡みの厄介事なんざ受けなかった。


「…ああ…身体ぁ動かねえ…どなってんだ」


金花が横たわりながら呟く。


「強い毒だ。しばらく動けないさ。でも死ぬほどじゃない。だから、悪いけどこのまま死んでもらうよ」


「…先生ぇ」


「首はもらっていくよ。村の連中に証拠で持っていくから。あと、右腕もね。餞別に連れていくよ」


透き通るように白く美しかった肌が、水気を失い土気色になっていく。


「寒い…とても嫌な気分だ…なんだこりゃあ」


「それは恐怖だよ。きっと。怖いのさ。死ぬのが」


「これが…?」


最強たる鬼は生まれてから死ぬまで恐怖を感じない。金花は今、生まれてはじめての恐怖をその生涯の最後に味わっている。


「嫌だよ…こんなに寒くて…寂しいのは…嫌だ」


「そうだ。死は寒くて寂しいものだ」


「先生ぇ…寂しいよ…寒いよ…手を握ってくれ…」


彼女の手をそっと握ると、絹のように柔らかくしなやかで、氷のように冷たかった。


「死にたくないなあ…死にたくないなあ」


「金花。でも私たち生き物は、こうやって誰かの大切なものを殺し、奪い、死なせながら生きてきたんだ。お前がさっき鍋で煮込んでいた男には年老いた母親がいたんだ。母親はきっとお前と同じくらい悲しむ」


私がそういうと彼女はハッとしたような表情になりそのまま仰向けで天を仰いだ。


「そうか…それは…悪いことをしてしまった…」


「そうだな…」


小粒だった雪が牡丹のように大きくなり、いよいよ山は雪化粧を本格的にはじめた。息は凍てつくように冷たく、全身の温もりが大気に奪われていく。


「綺麗な雪だ…」


「…ああ」


「先生」


「ああ」


「やってくれ」


「ああ」


その言葉を最後にして、私は金花の首を手刀で胴から切り離した。


毒のおかげというか、痛みの無い最期だったと思う。


九郎山くろうやまの鬼こと、金色の髪をした美しい鬼、金花の生涯はこうして幕を閉じた。


今際の際に彼女が見せた表情は、とても悲しそうな笑顔と、あまりにも美しいひと筋のなみだであった。


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