第7話 金花と人
山道を、歩いている。
昼前だというのに空は薄暗く、肌を切るように吹く風がもうすぐ雪が降るぞ、と脅かしているようだった。
秋、あれほどの賑わいを見せていた山の動植物たちはみな静かに身を隠している。冬がもたらすのは雪と氷と眠り、そして死だ。誰もが冬を恐れ敬う。山の全てがひっそりと静まり、僅かな葉の揺れる音さえも灰色の空に吸い込まれてしまうようだった。
私はたったひとり、初めてここに来た時と同じ様に不安を胸に抱えながら黙々と足を運んでいた。
本当に金花が五平を殺したのか。いや、それはない。仮に五平と金花が遭遇したとして、五平は彼女を恐れて腰を抜かすだろうし、金花は目の前でそんな風になっている人間をわざわざ殺すようなことはしない。いくら鬼が容赦ないとはいえ、無益な殺生はしない。ましてや人間はよほどのことがないと食わないと言っていたし。五平だって、金花に襲いかかるような肝の持ち主ではない。
では一体…五平はどこへ行ったのか。
そんな事を考えているうちに、ついに金花の棲家までやって来てしまった。いつもの様に、家の中から暖かくて良い匂いがした。そう言えばちょうど昼どきだ。何か美味いものにありつけるかもしれない。
私はいつもの様に声をかけて家の中に入った。
「金花、いるかい?」
「おお先生。なんだい、いつも良い時に来るじゃないか。さあ座れよ。ちょうど昼飯だ」
いつもの金花の優しい声。花の咲いたような笑顔。私は、自分の中にぐるぐると渦巻いていた不安や邪推が、ただの杞憂であったと胸を撫で下ろした。
「すまんないつも馳走になってばかりで」
「なあにいいのさ。先生と話すのは面白い」
「今度、酒でも持ってくるさ」
「おおそりゃあいいな。人の酒はもうずいぶんと飲んでいない」
「じゃあそうするよ」
私と金花は微笑みを返し合い、静かに杯を交わした。あいも変わらず金花の特製の酒は、甘くて良い香りがした。
「時に金花。ここ数日で人間を見かけなかったか?」
「人間?」
「そうだ。若い男で、背の高い奴だ」
「うーん…」
なんでもない質問のつもりだった。きっと知らないだろう思って尋ねたのだ。つまらない世間話のつもりだった。
「ああそれか。いたよ」
「え!」
事もなげなく金花はそう言った。私はにわかに嫌な予感がして背筋が寒くなってきた。
「それで?そいつがどうした?」
「ああ…いや…そいつがいなくなったと、村で騒ぎになってるから…」
「なんだそうか…そいつは気の毒だな」
「え?」
「そいつを今、この鍋で煮込んでるぞ」
「え?」
私は言葉を失ってしまった。
ぐつぐつと煮える鍋の音だけが家に響いている。
「なんだって?」
「言ったろ。そいつは今、鍋で煮込んでる」
耳を疑った。いくら金花が鬼とはいえ、そこまで野蛮だとは考えていなかった。人を喰らう妖怪たちは、総じて言葉を理解せず、道理を弁えないモノが多い。それは、人が道理の中心にあるというような利己な考えではなく、ただただ人が面倒で厄介な生き物ゆえ、利口なモノは皆避けて生きているからだ。人以外のモノにとって、人は厄災でしかない。その厄災に、金花は手を出した。
「殺したのか?」
私は胸の内からひとつひとつの言葉を懸命に絞り出した。胸が痛い。心が苦しい。久しぶりの感覚だ。
「いや、違うというか。うんまあそうではあるのだが」
「はぐらかすな!ちゃんと言え!」
私が大きな声を出すと、金花は驚いたような顔のあとに寂しそうな目をしてみせた。
「いつも通り山菜を採りに行った。そしたら血の臭いが立ち込めていてな。気になって調べていたら、魑魅魍魎が人を襲っていた。オレを見た魑魅魍魎は驚いて逃げていったが、人の方はもうダメだった。息はあったが死にかけて苦しんでいた」
「生きながら…喰われていたのか…」
「おぞましいことをするよ。人は泣いていたな。『おっかさん…おっかさん』て」
「だから殺したのか!助けようと思わなかったのか!?」
私が激昂し立ち上がってみせると、金花は呆れたように首を横に振った。
「言ったろうが。助からん状態だった。それに、仮に助けて何になる?人だぞ。アンタならまだしも。理由もなく知らん人を助ける鬼はいない」
金花の言っていることは道理にかなっていた。間違っているのは私だ。人間の方だ。
「それにな。こんな山奥にただの人の分際で足を踏み入れたんだ。妖怪に喰われても文句は言うまいよ。そういうものだぞ。自然の
「だからって何故、お前がコイツを食う必要がある?わざわざそんなことしなくても、喰うものはいくらでもあるはずだ!」
「アンタはどうか知らんが、人は死にかけた獣を見つけたら殺して喰うだろう。それと何が違う?オレは人ではないからな」
「それでも…それでも…」
金花に人を喰って欲しくなかった。これから楽しく冬を過ごし、二人で幾重もの季節を巡るはずだった。
だが、それもできない。
「金花」
「なんだい?」
金花は微笑みを携えながら私の言葉を待っている。彼女は余裕なのだ。どんな状況でも。
「表へ出てくれ」
「何故だい?」
「頼む」
言葉を放り出すのが辛い。まだ自分の中に、こんな風に思う気持ちが残っていたなんて。にわかに信じ難いことだった。
「どうしてアンタがそこまで人の為に動くんだい?お前さん、とうに人は捨てているんだろう?」
「違う。私は人だ…人であると、信じている」
「嘘だな。アンタは人じゃねえ。じゃなきゃオレとこんなにウマが合うはずがねえ。鬼と人とは生きられねえ。アンタは人じゃねえよ」
「私は…」
「アンタは人だと思いてえだけだよ。自分がなんだか分からなくなっちまうのが怖えんだよな。だから人と一緒にいるんだろ。人でもねえのに」
金花はそういうと立ち上がって戸に手をかけた。
「アンタがそこまで人固執するって言うならいいぞ。表へ出な。その甘ったれた性根を叩き直してやる」
私は黙って立ち上がり、金花の後について表へ出て。
薄雲っていた空はついにはらはらと雪を降らせ始めていた。
続く
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