「グリム・ロッジの妖精騎士」の批評文

作品リンク https://kakuyomu.jp/works/1177354054886686296


雪菜さんへ。

この度は自主企画に参加していただきありがとうございます。

二十四万字超ということもあり、取り掛かるのに少し決心を要しましたが、読み始めてみれば秀作で、詰まることなく最新話まで楽しく読ませていただきました。


ただ、昨日の今日であることからもわかる通り、じっくりと全文字を吟味しながら読み込んだわけではありませんのでご注意を。

それから未完結作品であり、この批評を気にしないでほしいとも願っています。

現在あなたが紡いでいる物語は非凡なものであり、これだけの世界観を展開できること自体が、雪菜さんの能力の高さを裏付けています。

間違いなくカクヨム内においては、トップの作品でしょう。

迷うことなく書き続けてください。

それを踏まえた上でどこが優れているのかと、何をどうすれば私がこれまで読んできた、「名作」と呼ばれる商業作品達と同等になるかを、僭越ながら書かせていただきたいです。

それは私がこの作品のコンセプトたるエルフの兵器化と、スコアで戦うという点に多大な魅力を感じており、日の目を見るべきだと考えることに起因します。


本題に入る前にもう一つだけ。

実のところ、私はミステリー調の作品をあまり好んでいません。

重大な謎を先に提示して、最後に解決をもってくるような作品を、と言い換えてもいいです。

なのでこれは、アウェイゲームだと思ってください。

ホーム、つまりはミステリー好きが読めばさらにいい評価を貰えることは想像に難くありません。




では、優れた点から挙げます。

まず、文体がシンプルで切れ味がいい。

それは本作の持つダイナミズムや無情さ、ミステリー小説のように重厚なサスペンス性とマッチしています。

情景や人物の描写においてもしっかりと、しかしくどくはならない適度な塩梅です。

特に、戦闘。

変化に富んで躍動感があり、大好きです。

これまで読んできたライトノベル達と比べても遜色はないと思います。

サバサバした語り口も相まってシャープな仕上がりです。


設定と世界観は重厚で、よく練られていることが伺えます。

それは伏線に関しても同じことです。

過去と未来がリンクしていき、段々と謎が明かされていく物語を書くのは決して簡単な事ではありません。

それを試みようとすること自体、自信が無ければ不可能でしょう。

ましてや、長編ともなれば。


それから先に伝えてある通り、コンセプト。

コンセプトというものは、言い換えれば話の始点、着眼点ということです。

この作品は、それが何より素晴らしい。

歌で戦う。魔法を楽譜に置き換える。エルフを兵器化し、下等化する。

などの固有の要素が数多くあり、独創性を感じさせます。

その独創性が既存の要素、つまりはサスペンス性や神話性、ミステリーのようなエンターテインメントの文脈と調和し、読者を引き付けているのでしょう。

簡潔に言えば、目新しさの中にも親しみやすさがある、ということです。


コンセプトというのは、自然発生的です。

捻り出そうとしてもなかなか出てきませんし、出てきた所で万能ではありません。

初めは欠陥だらけのそのアイデアの種は、愛を持って育て上げていかなければ、すぐさま枯れてしまいます。

それを大事に育て上げる力、つまりは書き進めて膨らませていく力が、雪菜さんには強く備わっていると感じました。

作家として羨まれるべき能力に、違いありません。




ここからは問題点を提示します。

三つあるのですが、順を追って客観性が無くなっていくので参考にする度合いもそれに倣っていただけると幸いです。


第一は、人称です。

数えるほどの回数ですが、三人称と一人称の混濁が見受けられます。

問題のない併用ならばいいのですが、違和感を覚えることもありました。

例を挙げると、プロローグの


『ラグナロクはその一つ、黄昏と呼ばれる譜面の創り手だ。

 人の形をとってはいるが、彼が神の創った存在であることに代わりはない。『ラグナロク』が譜面を指す言葉であっても、譜面は彼の半身と言っても差し支えがないのだからおかしくは無いと思うのだけれど。

 あまり興味の無さそうな顔をしてしまったからだろうか。少女は拗ねたように頬を膨らませた。』


があります。

『ないのだから』を境にした前後で視点がブレていますね。

前半は『彼』とありますのでもちろん第三者の視点。

ところが後半の『思うのだけれど。』や『だろうか。』という語尾の文はラグナロクの一人称であることを類推させます。

もっとも、どちらもラグナロクを見る視点の明示を省略した三人称の範疇とみなすことも不可能ではないのですが、

『してしまった』のような感情を示すセンテンスを含んでいることがそれを難しくしています。

というのもそれまでの三人称による描写が、極力感情を排したものだったからです。


こう言った人称の変化は、まだ読者が物語とその視点に慣れていない序盤では、特に注視されがちです。

確かに盛り上がる場面においては、テンポや流れを重視して一人称が混ざることは往々にしてあります。

しかしそれは、読者の無意識の要請を受けて、です。

手に汗握る展開において、逐一『~~と思った』などと説明されるのを、彼らは嫌がるもの。

だから省略することが可能になるのです。

逆に整然とした、落ち着いた場面においては、その文章に対しても同様の整然さを読者は求めます。

ですからその場合人称はスイッチせず、統一した方が無難でしょう。

ちょっとしたことで違和感を抱かせてしまうには、惜しいくらいのストーリーがその先にはあるのですから。



次は、専門的な音楽用語に関してです。

一番気になったのは『全音』という表現です。

雪菜さんはおそらくこれを、『平均律における十二音の全て』という意味で用いていると思います。

しかし音楽の世界において『全音』と言えば、長二度のことになってしまうのです。

簡単に言えば、ドからレまでの音の距離のこと。

その間にはド♯もしくはレ♭があります(ちなみにそれらを異名同音と言います)。

ドからド♯までと、ド♯からレまでの距離はそれぞれ半音。

半音が二つだから全音。

ですから、私なら『十二音』と書きたくなってしまいます。

しかし、ここにも問題はあります。

音律によって、音の数が違うからです。

作品世界においてどのような音律を採用しているのかにより、それは変わってくるでしょうが、あまりにも複雑な問題で、事細かに読者に説明するのが得策とはいえないのかも知れません。

ただ、『混沌』の場合は『十二音』と言っていいと思います。

『混沌』の着想はシェーンベルクに端を発する無調性音楽の作曲法、『十二音技法』が元かと思われますので。

あと度々『転調』という言葉も使われていますが、実は転調が自由にできるのは平均律のみなんですよね。

だから平均律を想定するのがふさわしい、とは思うんですが……

単音の旋律を歌唱することや北欧神話をモチーフにしていることが、古代のケルト音楽を連想させますので、純正律などの方がふさわしいのかなとも感じてしまうんですよね。

結論としてこの辺りは、オブラートに包んで読者の想像に任せておくのがいいのかなと思います。

事実、クラシックや民族音楽においてもそのあたりは調律師や演奏家それぞれの裁量に委ねられている部分が大きいグレーゾーンですので。


もう一つ音楽の話で指摘したいのが、『音階』についてです。

雪菜さんは作中で『第一音階』のような表現を使います。

それが一から五まである、とも。

私個人はこの階層のように音階を捉える設定、大好きです。

ただ音階っていうのもまた先程の音律ようにややこしい代物でして、音楽に詳しい厄介な読者からしたら違和感を感じる表現なのかな、とも思います。


ここまで二つほど、少し専門的な音楽的観点からの指摘をしました。

もしかしたら、要らぬ混乱を与えてしまったかも知れませんね。

しかし、細かいことに囚われすぎるのも、同時に悪い事です。

細かな設定よりも、テンポやセンスを重視した方が親しみやすくなりますし、事実商業作品でもそれは多く見受けられます。

いろいろと指摘をしてきた私自信、雪菜さんの設定のセンスには脱帽して頭が上がりません。何の文句もないです。

なので、全ては要らぬ気遣いだったと思ってください。

専門性に恐れをなし、筆を止める必要は一切ありません。

面白ければそれが正義です。

誤りがない事よりも面白いことが一番ですし、そこまで含めて世界で唯一の、あなただけの世界観です。

そう心得た上で、楽典等を覗いてみるのは良いかもしれません。

きっと着想が広がるはずですし、雪菜さんの基礎体力を高めてくれるはずです。



最後の指摘は先にも述べた通り、私個人の趣向というか、好みの問題です。

私は小説を読むことを通し、何か人生に還元できる要素を常に求めています。

それは哲学的命題や実用的な小ネタなどの直喩のみに留まらず、

こういう生き方をしたら人生楽しいだろうなとか、

もし自分がこの場面に遭遇したらどうすべきだったんだろう、

というような語られていないものまでを含みます。

その点において、ファンタジーとは若干弱いのかも知れません。

もっと明快にテーマ性が紡ぎ出しにくい、と言い換えてもいいです。

もちろんファンタジーは異世界での話ですし、今作は中でもダークなもの。

ですので先に挙げたような、

「こういう生き方をしたら――」や、

「もし自分がこの場面に遭遇したら――」

という観点では少し見づらい。

なので人生において還元できそうなのは哲学的な命題、例えば

「なぜ生きるのか」

「善と悪」

「愛」

といった大きなテーマに集約されがちです。


もし物語を、「与えられた問題を解決すること(いい方向にせよ、悪い方向にせよ)」と定義するのならば、そこに至るまでの過程や葛藤こそが本文の大体を占めることになります。

その観点から言うのであればテーマとはまさに本文全体を通底し、貫き、繋ぎ止める楔のようなものと言えるでしょう。


作中の事に話を戻すと、ソラは今のところ無感動な人間と大別していいと思います。

彼は超然とした人格の持ち主であり、リリアとレーヴェのことにしか固執しません。

自分の生死にすらそこまで。

それはある意味当然。彼はラグナロクと“対応”する人物ですから、どうしてもそうならざるを得ない。

ですので葛藤させるとしても今はまだ、先の二人に関してに集約されてしまう。


ラグナロクの方は、哲学的なテーマを内包しています。

人間をエルフにしてしまったこと。

強すぎる力を持ってしまっていること。

人間と他の六スコアへの不信。

などなど、神にも近しい存在であることの業とでも言うべき問題を抱えており、それに対しての葛藤を繰り返しています。

ですが、それらはあくまで回想として淡々と述べられるに留まっており、本筋ではないので、こちらも今はまだ切迫性を感じないのです。

もうすでに終わった“事実”であることもそう感じさせる一因でしょう。


以上をまとめると、ラグナロクの葛藤がソラと共有されていない今においてはまだ、テーマ性が弱いのかなと思います。


ただ同時に私は、いずれラグナロクの抱えていた問題がそのままソラの問題になる、もしくはソラにその解決が委ねられるだろうということも直感的に理解しています。

雪菜さんの張ってきた伏線や気配によって。

そうなれば過去と現在の物語が完全にリンクし、それまで無いとみなしてきたテーマや葛藤が表層化し、その因果律の美しさも相まって読者を引き込むのでしょう。


ですから私は、それまでの辛抱であるとは知りつつ、やはり序盤も大事であることを表明したい。

序盤にテーマと葛藤を期待しにくい構造上、読ませる術はエンターテインメント性に限られてきます。

煌びやかなのに無情な世界観や設定。

激しいバトルシーン。

犯人を追うクライムサスペンス的要素。

謎を追うミステリー要素。

キャラの魅力を活かした束の間の休憩(クラリスの自宅シーンなど)。

こういうものが序盤には展開されていましたが、中でもエンタメ性に優れ、読者を引き付けやすい物がバトルであることに疑いの余地はないでしょう。

それから雰囲気を転調させるためにも大事になってくるのが休憩や箸休めの要素。

この二つを強く意識することで、より一層物語の魅力を増すことができるはずです。


特に箸休めの要素は極めて重要だと考えます。

この作品の本文は、サスペンスとミステリーと設定にその多くを占められています。

それら全てが説明的で、動きのないものとなりがちです。

ですのでそれらのシーンでは流れが滞りすぎないように工夫を凝らす必要があるでしょう。

ただ、多いものは多いでいいのです。

シリアスな重苦しい空気感が売りならば、それを押し出すべきです。

しかし、このことを知っておいて頂きたい。

そういう重苦しさの合間にダイナミックな動きや不意を突くコミカルさが覗けば、

それらはお互いを強く引き立て合うのだということを。

そして、バトルは最大の見せ場ですのでもったいぶって一気に見せるべきですが、

コミカルさを一気に見せればそれは作品を迷わせます。

「グリムロッジ」に関してはそのような失敗は一切ありませんので安心してほしいのですが、逆にコメディ要素をうまく散らせているかというとすぐには頷けません。


人に寄りますが、説明文への許容範囲というものは確実に存在します。

私は抵触しませんでしたが、普段読み慣れない人には辛い事もあるでしょう。

それは別にいいのです。

全員にウケる必要など皆無です。

むしろ尖っていた方がウケるくらいです。

しかし尖っているというのは、他の部分とギャップがある、ということなのです。

鉛筆とかを想像してください(先端恐怖症でしたらしないでください)。

尖らせるためには、その周囲を削り出す必要があるでしょう?

つまり、全体をシリアスにしたところで尖るということはないのです。

それよりもシリアスさと相反する要素を周りに散らして削った方が、尖って見える。

ですからシリアス大好き人間とシリアスが苦手な人間、どちらかを選ぶということはありえません。

うまくギャップを作ればその両方を獲得できますから。


ただ、ギャップを作らずとも説明を読ませることが可能な事を証明するジャンルがあります。

哲学書や実用書、自己啓発本などです。

それらはその有用性、つまり私が最初に語った「人生に還元できる要素」を多分に含んでいるため、読者は説明をこそ望んでページをめくる。

その状況を小説内に作り出せればあるいは、説明だけで読ませることも可能かもしれません。

そうすると必然、テーマの話に戻ることとなります。

なんとかしてうまくテーマを散らし、ストーリーに現実への還元性をもたらすことも一つの手段だと思います。

それはきっと美しい物語をより味わい深くしてくれるでしょう。



これが三つ目の指摘の全容です。

しかし、やはり真に受けないでください。

もっともらしく書いてますが、指摘したこと全てが私の主観によるものです。

コメディ要素が足りないと言ったのも、序盤のテーマ性が乏しいと言ったのも、結局は私が見出せなかったということ。

そんなただの感想を後付けの理由で補強して、それらしくしたに過ぎません。

ですから、全ては完結してから見直すべきです。

それに私は、だいぶ無理をして指摘を生み出しました。

最終的には、自分がサスペンスや説明的文章を苦手としている人間であることに頼って粗を見つけ出したようなものです。

その点においては、もっと同ジャンルの作品を読み込んでいる人間に聞いた方がいいかも知れません。

それでも評させてもらうなら、この物語に欠点らしい欠点はありません。

どころか、無数の批判に負けない宝石のような輝きを誇っています。

そのことが、普段ファンタジーやバトルものを読まない自分にすらわかるのです。

なので短所を探すよりも、長所を伸ばしてください。

書き続けて、チャレンジし続けてください。

この作品の種の部分は、多くの労力と時間を割くだけの価値が十二分にあります。

それから実は、雪菜さんの長所を一つ、ここまで黙ってきました。

正直に白状すれば、あなたは自らの作品を愛するのがうまい。

それは創作を純粋に楽しんでいる人間にしかできないことです。

星の数やPVは後からいくらでもついてくるはず。

とにかく楽しみ続ける姿勢を、これからも持ち続けてください。




ここから先は、私が「グリムロッジ」を読みながら考え付いた、しかし批評に落とし込むのに失敗した試論について述べさせてください。

これまでも幾つかの「視点や場面が何度も切り替わるタイプの小説」を読んできた中で得た経験と予測に基づく“一般的”な話です。

決してこの作品に対しての話ではありません。

しかし関連の深い事ではあります。

何かの参考にでもしていただければ幸いです。


先程も述べた通り、時間と場面の切り替えについての話をします。

「グリムロッジ」でも幾度となく、時間と場面が変わっていきますね。

過去の話、現在の話、ソラの視点、ラグナロクの視点、悪役の視点……。

多様な視点と時間軸から多くの点を打ち、だんだんとそれが繋がって、一つの大きなスペクタクルを生む。

そういう効果を狙った小説だと私はみなしています。

それはとても先鋭的で、チャレンジングな行為です。

成功すればリターンは大きいですが、その分リスクも小さくはない。

「グリムロッジ」においてそれがうまく機能しているか否か、それは未完の状態では測れませんし、きっと私の批評能力では誤った解を出してしまうでしょう。

それで雪菜さんを混乱させることは、私の望むところではない、

ということを踏まえて本論に入ります。


まず、視点と場面の行き来は散漫さを生みやすいです。

いくつもの話を同時に進行させる場合、それらの間にバランスが求められます。

あと、ヴァリエーションも。

バランスとはつまり、並行する複数の話の強度を揃えたり、その面白さを拮抗、競争させつつも、同じ流れの中で共存させるということです。

例として、ソラのどんよりとした暗い話の次にラグナロクの話を置くとします。

いや、ラグナロクでなくてもいいです。

誰の、どの時間でもいいですが、どのような話に移るべきなのでしょうか?

ソラの話の雰囲気を引き継いで、ラグナロクの暗い話をするか。

一転して明るい、ラグナロクと少女の幸せな日々を描くか。

堅実な書き手なら、初めから場面を転換させずに続きを書くのでしょうがともかく、

その選択肢は無数にあり、自由です。

ただ、守らねばならないことはあります。

溜めを作ったのならば、いつかはそれをブレイクスルーさせなければならないこと。

謎を与えたならば解決させなければいけない、と言い換えてもいいです。

それから、同じような流れの展開を続けて使うと飽きられてしまうこと。

つまりこれが、バリエーションが求められる、という言葉の意味です。

小説において大事なのは、読者の関心をうまくつかみ続けるスムーズな緊張感の推移だと、私は思います。

話と話、点と点を繋いでいき、読み手の心に美しい感情の曲線を描く。

もしくは、ストーリーの盛り上がりの曲線を描く。

メリハリ、と言えばさらにわかりやすいかも知れません。

そういう流れを作り出すのを、場面の転換や回想は時に助長し、時に阻害します。

場面が変わっても説明が続くならば動きに乏しくなるでしょう。

明るい過去の思い出話の後に暗い現在の懊悩が描かれれば、対比でよりお互いを引き立て合うかも知れません。

しかし、毎回同じように対比していては飽きられてしまいますので時には同調したりなどの絶えぬ工夫もまた、必要とされます。

あとはメインの話と関係のない小話に時間を割けば、それだけメインの印象は薄れていくわけですし、読者が誤読する原因にもなりかねません。

それから、特定の回想シーンだけ一人称になる、というテクニックを見かけたこともあります。

一人称はやはり人物の気持ちや考えを描くには最適で、感情移入を誘えますからね。


以上に挙げた全ての要素はもちろん、読み手にも左右されます。

読む側の技量の不足というのは、作者にはコントロールできない問題です。

しかし作者の側が、流れを熟慮し、回想や転換に必然性を持たせることへ意識を傾けるのは、決して無駄な配慮ではないでしょう。

真に優れた文学作品が、それらを用いながらも全体を一つの話の流れとして昇華させてきたこともまた、事実ですから。


ここまで、回想や場面転換の持つリスクについて考えてきました。

それに対し、三つの解決策を提示します。

第一に、それら自体を減らすこと。

第二に、試行錯誤と訓練を重ね、スムーズにすること。

そして第三は、流れに囚われず、異なる話それぞれの魅力で押し切ってしまうこと。


第一の選択肢は、穏当なものです。

数を絞ってより効果的にするのはありですが、全部無くすのは躊躇われます。


二番目は先程まで話してきたような方向性のことです。

技巧を凝らしたり、変化をさせ続けて読者をうまく転がす。

かなりの技量が要されるでしょうが、使いこなせれば鬼に金棒です。


最後のものは、単純です。

いずれは本筋に収束させる伏線配置のために回想等を配置するのではなく、それ自体に本筋と遜色ないレベルの強度を持たせてしまうのです。

簡単に言えば、一旦全体の流れなんてものは頭の外に追いやって、書く場面書く場面を最大限に面白く、尖らせてしまうのです。

一時的に、繋がりや調和を失ってでも。


具体的な方策は

一度場面に入ったら必ずおいしい部分まで書いてから次の場面へ移る、

その先が気になるところであえて引きを作る、

などです。

流れを犠牲にすることは、一歩間違えればより散漫さを生むのでは?

とも思われます。

しかし全ての瞬間、全ての話が魅力的になれば、関係なく読者はページをめくるだろうことに疑いはありません。

そして、話の構造や設定という基礎段階の時点で、二場面の間(過去と現在などの間)に強い因縁を組み込んでしまえば、話を進めて行くうちに、いつかそれらは繋がらざるを得ません。

そうなった時、読者達は思うでしょう。

――まさか全く関係が無さそうだったあの二つの話が、こんな風に繋がるなんてと。

それは一種のギャップであり、裏切りです。


回想や予兆とはもともと、読者に対し

「待てよ、これは本筋と関係があるんじゃないのか?」

という予感を抱かせるためのものです。

あまりにも直接的な繋がりを持つ回想は、読者を飽きさせます。

反対に関連の薄すぎる回想をすれば、後から呆れられます。

結局はその丁度中間を狙ったり、読者の予想を適度に裏切ることが緊張感を生み、彼らの手を止まらなくさせるのではないでしょうか?

というのは二番目の考え方。


ただ、この第三のやり方においてはその必要はありません。

読者に回想を読んでいる、とは思わせないからです。

それ自体が魅力や強度を持つ回想を読むとき読者は、それが回想であることを忘れ、物語自体に没頭します。

そうすればこちらのもの。

そういう回想や別視点からの話が本筋と繋がる瞬間、それこそが不意の一撃となり、スペクタクルを生むのではないでしょうか。

これは事前に予感をさせないのですから、予想を裏切るのともまた違います。


試論も終わりに近いですが最後に、挙げた三つの解決法が相反するものではない、

ということを明記しておきます。

数を絞るという引き算的思考は常に創作において重要な事ですし、

テクニックばかりでも、力技ばかりでもうまく行かない可能性はあります。

あえてそうする、ということはあり得るでしょうが。

結局本筋が面白くなければ三つとも意味を成さないのも当然のことです。

作中でもフィーチャーされている音楽で例えるならば、主題がしっかりしていなければ変奏曲にも期待はできない、となるでしょうか。

もっとも、「グリムロッジ」に関して言うとすればその心配には及びませんが。

私の拙い、ごく個人的な回想や視点の転換に対する試論が、雪菜さんの役に立つとは思いませんが、単純に思考の跡として残しておきたかったのです。

それもまた批評家の性だと思い、笑い飛ばして頂けたなら一番の光栄です。



最後にまとめと批評後記を残しておきます。

実を言うと私は、この作品を半分ラノベ的に読み、半分純文学的に読みました。

もっと言えば、マジックリアリズムと呼ばれるラテンアメリカ文学に重ねました。

その地方の文学作品には時系列や場面が入り混じった作品が多いのです。

神話にも依拠しており、ファンタジー要素も多分にあります。

そんな、ノーベル文学賞を幾つも輩出したような作品群と比べての視点なのです。

にも関わらず、楽しめた。

正直読みながら、驚愕しました。

なぜこの作品はカクヨムにあるんだろう?とすら。

どこかの編集部などに持ち込めば、案外その方が早く書籍化できたりするかも知れないですね。

もっとも、それを雪菜さんが望めばですけれど。

何にしても、まさか二十四万字を読み切るとは夢にも思っていませんでした。

それも一日かからずに。

いつか正しい評価は必ず下されます。

ド素人の私を信頼して、楽しみ続けてください!

素晴らしい作品を応募していただき、本当にありがとうございました!

おかげで心の底から楽しい批評を行えました!


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