第2話 遭遇

翼は海が好きである。

海の色やそこに生きつく生き物達。だが、それは翼にとって図鑑とテレビの中だけでの存在。海水浴や釣り、水族館へ出かけたこともあるし、その度に他では味わえない興奮と高揚感を得ていた。だが、身体全体で海とその生き物達、生ける海を味わったことはない。

海水浴は、周辺に人がたくさんいて海を感じるどころではないのだ。


翼が親戚に預けられて2日目になった。

体が慣れていないせいもあってか、起床したのは午前5時半だった。昨日は訪れてすぐに家に入り、その時すでに日は落ちかけていたので全く付近を見ていなかった。翼は近辺を散策することにした。


玄関から出て一歩踏み出す瞬間、体の中にクリアなものが高密度に染み込むのを感じて動きは止まり、未だ眠っていた身体はかつてない快感により一瞬で醒めた。

夏のべったりとした暑さを洗い流すような爽快で、絶妙な温度と湿度と風速によってなされた風、嗅覚をピリピリと、それでいて柔らかに刺激する潮の香り、身体の臓器一つ一つが動く音さえも聞かせてくれそうな波風の音、海の青とそれと境目なく交わる朝日のオレンジ色とのグラデーション。それらが身体の隅から隅まで満遍なく、均一に浸透したのだ。細胞の一つ一つの目覚めを感じることのできるような感覚に陥った。

翼はその場で大の字に寝転がり目を瞑った。

寝転がると今度はそれらが、翼の体などないように、翼の体を通り抜けていく。その度に翼は、自分の組織がバラバラになるような感じがした。30分ほどその感覚を味わったあと、いよいよ散策を始めた。家はなだらかな丘の中腹ぐらいにあるようで、70メートルぐらい下ると平地になり、そこからさらに100メートルほど進むと海にたどり着く。丘を登ると頂上付近には商店が二店舗と酒屋が一店舗ある。丘の反対側には、魚屋が三店舗あった。どの店も共通して規模が小さく、個人経営だと翼は推測した。まだ散策は仕切れていないが大分歩いたので切り上げて帰ることにした。


家に帰った時は8時になっていて、友美も知宏も起きていた。匠海だけがまだ起きていない。

「戻ったか」「はい、遅くなってすみません」「いや、いいんだ。散策はしないようなら一緒にしようと思っていたところだ。」

「ところで、匠海くんは何か言ってますか?」「早くあって海に一緒に行きたいって言ってたな。翼は、泳げるか?」「はい、泳げます。」「そうか。もうそろそろ匠海も起きだすだろうし、二人で飯でも食った後に、海にでも行ったらどうだ?」「そうします!」「そうと決まればさっさと飯を食うぞ!今日は定番だが、目玉焼きだ。」


10分ほどすると匠海が起きてきた。

身長は175センチほどで体格はガッチリしている。翼は決して細い体型ではないが、それでも匠海の方が一回り大きく見える。こんがりと日焼けた肌が一人前の男としての風格を強めている気がした。

「おはよう」翼の声は心なしか小さく聞こえる。「お!お前が例の!そんなに縮こまらなくてもー。よろしくな!」匠海もまた、知宏と友美に似て、活気があり、明るく、心も大きく感じた。

「飯食ったら海行くか!」「うん!」


翼は食事中、三人に軽く普段の様子を話した。

三人とも(息が詰まりそう)という考えで一致していた。

食事が終わり、翼は着替えとタオルを持った。匠海も同様に荷物をそろえた。

「水着は?」「そんなんいらねぇよ。着替えるの面倒だし。上脱いで下は短パンかパンツで平気さ」翼は、その格好で海に入るのが楽しみだった。


海に到着すると制服をきた女性が、海岸線に沿うようにして歩いていた。足が長くてすらりとしていて、整った顔立ちだ。おろした髪が美しさを強めている。

「あいなぁ。今日はまじめに学校で補習ですか?」

おどけた口調で匠海が言う。

「うっさいわねぇ。まぁでもあんたにそんなこと言われたら補習なんて行く気にならないわね。で、そのお連れ様はどなた?」

制服の女性もおどけて返す。

「こいつは翼だ。夏休みの間、うちで預かってるのさ。茨城って言ったっけ?そこの高1だ。」「こんにちは。」「へぇー!じゃあ、あたしもよろしくね!」「翼、この女は加藤のおっさんのところの鬼ババの愛菜だ!」「今なんて言った!?このクソ変態が!」

言葉遣いこそ荒いが、目は笑っている。おそらく毎日、こんなやり取りをしているのだろう。愛菜もやはり明るく、快活で、元気な印象を受ける。翼は、ここの島の人みんなが、明るくて、元気なのだろうと思った。

「あの、加藤さん、改めてよろしくです。」

「翼よー!何硬くなってんのよー!下の名前で気安く呼んでよ。」「いや、女子の名前を下の名前で呼ぶのってなんか抵抗あるっていうか。」「なんで?まぁ、まじめくんだからかな?ま、いつでも下の名前で呼んでもいいよ!ところであんたらさ、着替えとタオル持ってるけど、海行くの?」多分この島の人達には、異性を下の名前で呼ぶことに、男女共に抵抗はないだろうと翼は思う。

「おうよ!」

「新人君と打ち解けたいし、私も入ろ」

「そんな急に決めていいの?準備とかは?」

「家近いから着替えいらないし、タオルは匠海のやつ借りるから」

島と、島の人達に染み込んでいる、自由でのびのびとしたこのオーラが翼は大好きになった。「まずい!釣り竿忘れたわ!取ってくるから先に海に入ってていいぞ翼!」匠海が慌てた様子で言った後に坂を駆け上がっていった。

「じゃあ、先に入っとくか。」

そういうと愛菜は息をするように制服を脱ぎ出した。

「ちょ!ちょっと待て!」 「何よ、女の子の裸が怖いの?」「いや、別にそういう訳じゃ...」「ふふっ...安心してよ。下にTシャツ着てるし。裸にはならないよ。かわいいね、翼。」「どこが?」「そういう素直なところとか、慌ててる仕草とかだよ。」「?」

翼は女性と仲良くなった経験などなく、ましてやかわいいと言われたのも初めてで、その言葉の真意も分からなかったし、どう返事をすれば良いのかなど分かるはずもなかった。

「この辺は流れが緩やかだからここにしよっか。」「うん」「早く脱ぎなよ」「え?あぁ」

愛菜はすでにセーラー服もスカートも脱いで半袖短パンの格好だ。翼も少し恥ずかしさを覚えながらTシャツを脱ぎ、上半身裸になる。「翼は細いねぇ。みっちり鍛える必要があるみたい。」「いや、勘弁してよ。」

「ま、鍛えるのは後にするとして、暑いし、早く入ろうよ。」言われるまで忘れかけていたがこの数分で気温は急上昇していた。さすがに夏である。翼も愛菜も汗が滲んでいる。

「入るって言ったって、どっから入るのさ。」翼はいきなり海に入るのが怖く、時間を稼いで愛菜に先に入ってもらいたかった。

「つべこべ言わずに、さっさと入る!」

「どわっ!?」



ドッパーン!



その瞬間、翼は海と遭遇した。

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水魚の交わり 田中大貴 @bonbon1128

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