第3話 望まぬことこそ起こってしまう

 一瞬にして自宅に帰ったのは午後七時のことだった。帰宅部である俺にしては遅い帰りだったが、両親は仕事に出ていて、大学生の兄もいなかったから咎められることはなかった。

 俺は早速風呂をためた。南雲家では風呂のあとに夕飯を食べるのが日常だ。九時になれば多分母親あたりが帰ってくるので、それまでに風呂と食事は済ませておきたかった。二時間もあれば余裕で終わるが。

 さて、晩飯は何しようか。料理をするのは嫌いじゃないが、今は少し疲れ気味なので手のかからないものがいい。レトルトのカレーがあったはずだからそれにしよう。じゃあご飯を炊かないと。家族全員を準備するとなると、三合くらいがちょうどいいか。早速、炊飯器に白米をセットして炊飯ボタンを押した。

 三十分して風呂がたまった。制服のズボンをリビングに脱ぎ捨て、制服のシャツと下着で風呂場に行った。そういえば、あの人、俺の首元にキスしやがったんだった。鏡で見てみると、キスマークがくっきりと残っていた。十六歳の少年に何をしてくれたんだ、あの人は。こういうのって水でなくなるものなのか? 消えなかったら明日、学校に行けないじゃないか。変なことをされたと思われる。いや、変なことはされたんだけど。まあ、絆創膏でも貼って隠せばいいか。こうなるならバックレればよかった。ろくなこと聞かれなかったし。

 金髪の女、か。あいつは一体誰なんだろうか。俺が会ったのはたった一回だが、あの妖艶な雰囲気だけはしっかりと記憶に焼き付いている。あのときの傷跡は、鏡で確認したけれど、残っていなかった。もちろん痛みは結構前に引いている。

まあ、いいか。もう気にすることじゃない。

 俺はだらしない恰好のまま風呂場に上がろうとした――が、俺は奇妙で気持ち悪い光景を目の当たりにした。

 炎をまとったトカゲのような生物が、風呂場いっぱいにうごめいていた。

「ひぃっ……」

 そんな情けない声しか出なかった。

 なんだ、こいつら。こんなところで何をしている? トカゲか? いや、炎をまとうトカゲなんていない。一匹一匹が各々炎を発している。大量のトカゲが蠢きながら炎を発し、全ての目が俺を見ていた。

 ――まったく、なんなんだよ!

 俺は混乱しながらも次に取るべき行動を考える冷静さは失わなかった。

 あの人のところにいこう。あの美しきマーメイドにして怪異の専門家に助けを求めよう。あれはただのトカゲじゃない――多分、怪異だ。

 そういう考えに至ってからは早かった。靴を履く時間さえ惜しんで、俺は走り出した。鍵なんてかける余裕はない。とりあえず走る。とにかく走る。歩いて一時間もかかる道のりを全力で駆けた。体力には自信があるつもりだったが、俺は何度もつまずき、倒れて、気付けば腕や膝から出血していた。しかし、痛みは感じない。俺の頭の中を支配するのはたった一つ――炎をまとうトカゲの大群!

 逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ!

 肺が痛い。大きく息を吸ったら、ずきずき痛む。脚ももう限界だ。

 俺はまたこけた。立ち上がる力も、もはや残っていなかった。

「全く、手のかかる子ね」

 体力の大量消費で遠くなりつつあった耳に届いたのは、透き通った美しい声だった。眼球を必死に上に向け見てみると、白い肌が見えた。腕が伸びてくる。

 た、助けて……

 その言葉は声になる前に消えていった。

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