02 町憲兵の評判
アーレイドの西には、海が広がる――という感じは、あまりしない。
と言うのも、この街は湾の奥に位置していて、天気のいい日にはけっこう遠方まで南側の岸が見えてしまうからだ。近場の小さな漁村はもとより、コトスの町の影が見えることも珍しくない。
初めて海を見るのであればいざ知らず、海辺の街に暮らして四十年超である。ビウェル・トルーディはいまさら感動を覚えることなど無論なく、彼はただ、いかめしい顔つきで喧騒のなかに立っていた。
濃い色の髪には白いものが混じっている。四十の前半にしては老けて見える感じだったが、年上に見られて何か損をしたことがあるかと言えば別になかったから、特に外見を整えようとしたことはなかった。
不潔と思われるようなことがあっては町憲兵隊の威信に関わるが、「独身男」というものの清潔感には限界がある。いや、洒落っ気のある独身男だって世の中には当然いるのだが、もちろんと言おうか、ビウェルはそうではない。制服こそしわくちゃだというようなことはないものの、うっかりするとすぐに無精髭が目立った。
ビウェルは未婚のままで四十を迎えていた。女が嫌いだというようなこともなく、若い時分には恋人もいた。ただ、一緒に暮らすだの結婚をするだのいう話になる前に、いつの間にか関係は終わっていた。
体よく振られたのかもしれなかったが、つまり、振られたのか振ったのかもよく判らないくらい、彼はその関係を重視しなかったのかもしれない。
だがどうであれ、結果的にビウェルは町憲兵業一筋に生きてきている。いまさら妻も子供も欲しいとは思わず、周囲からは寂しい老後を迎えるぞと笑われているが、それならそれでいいだろうと考えていた。
「いい風ですねえ」
隣ではラウセアが、のんびりと海を眺めている。
ラウセア・サリーズとて二十年超をアーレイドで暮らしている訳だが、ビウェルと違い、海というものに何か感慨を覚えるようだ。
大地の色をした髪はやわらかく、短いながら海風になびいている。どちらかと言えば優男という雰囲気で、町憲兵の制服を着ていなかったら、荒くれ者揃いの
「よう、
顔馴染みの
「珍しい船でも、きてるか」
何気ない調子で問えば、漁師は考えるようにした。
「そう言やあっちの方に」
と、男は北の方を指差した。
「見慣れない船が入ってくるところだったね」
「そうか」
「大して興味をそそられた訳ではないが、聞いたからには見ておくか」とでも言う調子を装って、ビウェルはそちらへ歩き出した。情報を提供してくれた男に礼を言うのは、ラウセアの役目だ。
年上の町憲兵が大股ですたすた進むのに、年若の町憲兵は小走りで追いついてくる。
「どうするんです」
「
簡潔に答えると、ラウセアは呆れた。
「いきなり『締め上げる』は、ないでしょう」
「先手必勝。やられる前にやれ。お前は俺から何を学んできたんだ」
「そういう町憲兵にならないことです」
「言うようになったじゃねえか」
ビウェルはにやりとした。
彼はラウセアの相棒であると同時に、若手を指導する立場だ。だが、何もかも彼の言う通りにしなかったからと言って怒鳴り散らすような真似はしない。ラウセアが新人の内はちょっとした勘違いであっても厳しくしたが、いまではこの若造も自分なりのやり方というのを身につけつつある。
それならそれでいい。「若手を育てる」ことは「自分の複製を作る」ことではない。それがトルーディの考えだった。
もっとも、正直なところを言えば、時折は腹が立つ。感情に任せて怒鳴りつけることもある。何も判っていない青二才が、と言いたくなるし、たまには言う。
(まあ、仕方ない)
(俺は聖人じゃないんだからな)
ラウセアであれば「自分は未熟だ」とでも考えて落ち込むところだが、ビウェルはそういった自己矛盾を大して気に留めなかった。経験の差もあれば、性格もあるだろう。
「さて、いろいろありますけど」
ラウセアはきょろきょろと数々の船を見回した。
「お目当ては、どれです?」
「知るか。俺だって見たことはない」
言うなりビウェルは、すれ違った子供の襟首をひっ掴んだ。
「なっ、何すんでえっ」
「〈海獣の一本角〉号はどれだ?」
「はあっ? それが人に物を尋ねる態度――」
言いかけた子供は、相手が町憲兵、それも強面であることに気づいて、威勢を弱めた。
「あ……あれっす、
「よし」
ビウェルは子供を解放し、やはりラウセアが、謝罪と感謝を述べる。
「こうやって町憲兵の評判は落ちていくんですね……」
逃げるように去っていく子供の背を見送りながら、ラウセアは嘆息などした。
「手っ取り早くてよかったろうが」
「ちっとも、よくないと思いますけど」
「町憲兵」というものに人々が抱く印象はさまざまだ。「何かのときには頼りになる」というものもあれば、「何もしないくせに威張り散らして腹が立つ」というようなものもある。ラウセアは前者を伸ばそうと日々努力をしているが、ビウェルのこうした態度は、彼の日々の努力を粉みじんに打ち砕くのだった。
ビウェルとしては、町憲兵なんてものは怖がられ、避けられている方がいい、と考える。善良な街びとに「飼い猫が鼠を捕る」ことを期待されるより、犯罪者たちに「猛獣が檻から出ている」と思わせた方が得策だ。
何事もないときは市民たちに嫌われていても、いざとなれば彼らは町憲兵隊を頼るしかないのである。ビウェルは、たとえばいまの子供が彼の行為をもっと非道に大げさに話して悪い噂が立ったとしても気にならなかった。
ラウセアは気にしすぎだ、と思う。だが、そういう町憲兵がいてもいいだろう。
しかしビウェルはそのようなことを口にはせず、子供が指した方向にすたすたと足を運んだ。ラウセアは彼が怒ったと思ったかもしれない。別に怒ってはいないが、いちいちそう言ってやる気などはなかった。
噂の船は、中型の帆船だった。
漁師の言った通り入ってきたばかりと見え、その甲板はずいぶんと騒がしい。荷下ろしの支度でもしているのだろう。
ビウェルは下ろされている渡り板の近くまで行くと、船員らしき男に、素知らぬ顔で「この船は何だ」と尋ねた。
「何って、旦那」
船員はビウェルの制服をじろじろと眺めながら、肩をすくめた。
「北からやってきたばかりで大忙しの船でさあね。荷改めでもしたいなら、もう少し落ち着いてからの方がいいと思いますね」
「船長は」
「さっきまでは船にいましたよ。俺がここまで下りてくる間に反乱が起きて海に叩き落とされていなけりゃ、やっぱりまだ船にいるでしょうや」
面白くもなさそうに船員は笑い、町憲兵にかまっている暇はないという様子で仕事に戻った。
だが逆に、捕まりさえしなければとっとと海へ逃げられる、と考える者も少なからず存在する。荷の輸送による収益だけでは飽きたらず、ほかの船を襲う
そういった連中が闊歩する港付近は、安全なアーレイドのなかで治安が悪い辺りだった。町憲兵などに何ができる、と思っている人間も多い。
いまの船員の態度は、どちらかと言うとそういった気質を思わせた。きちんとした商船などであれば、町憲兵に目をつけられてややこしい話になることは避けたいはずで、船長に会わせろと言われればすぐに対応するだろうからだ。
(ふん)
(きな臭いな)
たったひとりの船員の態度が自分の好みに合わなかったからと言って決めつけるのはどうかと思います――とラウセアは言うだろうが、第一印象というのはけっこう正しいものだ。ビウェルは帆船の全体が見渡せる位置まで戻ると、睨むようにしながら様子を見続けた。
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