第2章

01 手品師の置き土産

 春先特有のぐずつく天候は、少し彼を苛立たせた。

 空に文句を言ったところでどうしようもないのだが、雨のなか、合羽バルエを羽織っての巡回など、気が乗らないこと甚だしい。

 理想論者の若造、ラウセアにしてもそれは同じことのようで、クーザの降り出しそうな街を眺めながらそっと息を吐いている。

 若くて青くても熱血でないだけましだな、などと考えながら、ビウェルは胸元から瓏草カァジの小箱を取り出した。目にとめたラウセアがしかめ面をするが、的外れな健康論を持ち出されるより先に強く睨んでやれば、若者は肩をすくめてまた窓の外を見た。

「おい」

 燐寸クファを擦って紙巻きの瓏草に火をつけると、ビウェルはラウセアを呼んだ。

「何ですか」

 ラウセアは振り返ると、やはり顔をしかめてたゆたう煙を見やる。

「今日は西へ行くぞ」

「西ですって?」

 言うと若者は、壁に貼ってある勤務表の方に顔を向けた。

「今日は、消火隊キルデアータを回る予定でしょう」

 北区の十番台ですよ、とラウセアはつけ加えた。

 町憲兵隊の詰め所は、大きな建物が中心街区クェントルにひとつあるだけだ。だが、それだけで街じゅうの犯罪を抑制するのは難しい。町憲兵たちには、巡回をする詰め所勤務の者のほかに、あちこちに設置されている消火隊の数軒にひとつずつ、ふたり一組で待機する者がいた。

 その場所は消火隊としての役割が主であるのだが、町憲兵も待機しているという意味で発遣所レドキザンなどと呼ばれたりすることもあった。

 小さな出来事はその場で処理され、捕らえて留置する必要のある罪人がいなければ、詰め所には報告書だけが回ってくる。説教で済むだけの喧嘩だの、ひったくり被害の陳情だの、預かった遺失物だの、そういった内容だ。

 だが常に全てをふたりに任せきりにもできない。詰め所から同僚が出向いて状況を聞いたり、仕事を手伝ったりするのは、循環業務のひとつだった。

 だがビウェルは、馬鹿らしいと思っている。

 ふたりで処理できないことがあれば、詰め所に増員を要請すればいいのだ。町憲兵隊長レドキアルがもっともだと思えばもうひと組なりふた組なり派遣するだろうし、そうでないと思えばふたりで処理しろと言うだろう。

 結局処理できなくて残務が増えるよりは、訪問した町憲兵が手伝う方がましかもしれないが、そんなことが続けば互いの士気に関わる。

 余程の緊急事態、大事件が起きているときに手を貸すのならば別だが――そんな偶然はなかなかない。建物のなかに入って町憲兵同士がいるより、巡回をした方がずっと犯罪抑止になるはずだ。

 だがラウセアは、それが決まりであるということも重視すれば、「そんな偶然」だってあるかもしれない、そういう不測の事態のために自分たちがいるのだ、と考える性格だ。彼の予定変更宣言に苦い顔をしている。

「まあ、お前がどうしても廻りたいというならひとりで行ってこい。俺は港へ行く」

「ビウェル」

 咎めるような声が出た。

 町憲兵隊に入隊したばかりのころは、ラウセアは彼のことを馬鹿丁寧に「セル・トルーディ」と呼んでいたものだ。敬称はよせとビウェルが言えば、しばらくは「トルーディ」だったが、いつの間にか名で呼ぶようになってきた。

 町憲兵という身分の上では対等である、という訳だ。

 熟練のビウェルとまだまだひよっこのラウセアではあまり対等とは言えなかったが、たとえば一市民から見ればどちらも同じ「町憲兵」だ。見るからにビウェルの方が経験を積んでいれば体格からしても頼れそうであり、ラウセアはその逆であるが、それでも人々は彼らのどちらにも同じことを要求する。

 ならば少なくとも外面的には対等であるように振る舞おうと。

(実際的なことより、理想論ってとこだな)

(ラウセアらしいっちゃあ、らしい)

 彼は別に、若造に名を呼び捨てられたからと言って怒るほど狭量でもない。ラウセアがビウェルを名で呼ぶようになったと気づいたときは、思ったよりやるじゃないかと考えたくらいだったが、それを素直に口にしたりはしなかった。

 それは、たとえば照れ臭いから――などではなく、褒めればこいつは調子に乗って余計にうるさくなる、と考えているためだ。

「勝手な真似はよしてください。どうしても港に行きたいなら、各所に寄る時間を短めに切り上げましょう。そのあとでつき合いますから」

駄目だねデレス

 ラウセアの折衷案をビウェルは一蹴した。

「〈海獣の一本角〉号の入港に間に合わない」

「海獣の……何ですって?」

 若者は目をしばたたき、男は舌打ちする。

「忘れたのか。あれだよ。クソ手品師トラントの置き土産だ」

「ああ……ジェルス座長の、例の」

 判ったと言うようにラウセアはうなずいた。

 ジェルスという名の魔術師リートを座長とする芸人一座トランタリアがアーレイドの街を訪れたのは、二年ほど前のことだ。

 そのときのアーレイドは、幻惑草と呼ばれる違法な薬物を一掃したところだったが、ビウェルはまた余所者が騒ぎを持ち込むのではないかと警戒していた。彼はジェルスのことを頭から疑ったものの、結局、座長からは何も出なかった。

 ラウセアは疑ったことを謝れなどと言ったが冗談ではない。町憲兵は人を疑うのが仕事みたいなものだ。人が好いあまり犯罪人を取り逃すなど、喜劇にしたってお粗末。だいたい、叩く場所を変えれば、あの座長からは絶対に埃が出たはずだ。

 ビウェルは頑としてジェルスに謝罪などせず、座長はそれに腹を立てたり抗議の言葉を寄越す代わりに、一通の手紙を置いていった。

 呑気なラウセアはそれをして「やはり座長はよい人だった」と抜かすが、ビウェルに言わせればとんでもない食わせ者だ。

 過去に幻惑草の取り引きをしたとされる商人、隊商、船舶、そういった連中の一覧表。ジェルスがアーレイド町憲兵隊に残していったのは、そんなものだった。

 そうと判ると、ビウェルこそ腹を立てた。

 やましいことがないなら、何故さっさと話さなかったのか。アーレイドを出る段になって、使いに届けさせて終わりなど、いくらかは後ろ暗い証拠のようなものだと、そう思った。

 もっとも――その一覧は、たいそう役に立った。

 おかげでアーレイド町憲兵隊は、この二年で二度、幻惑草の侵入を阻んでいる。

 裏の世界で、「ここの町憲兵隊は優秀だ」とでも評判が立てば、この王城都市に幻惑草を持ち込んで儲けようと考える人間は減るだろう。幻惑草に関わるような極悪人だけではない。既に存在しているクソどもは仕方ないが、新たにわざわざやってくるちんぴらも減るだろう。

 しかしそれでも、ビウェルはジェルスに謝罪も感謝もする気はなかった。百歩譲って、いまはジェルスが善人であるとしてもいい。だが過去にまずいことをやっていたからこそ、裏事情を知る。更に疑うのなら、自分に都合の悪い相手だけを一覧に乗せて町憲兵隊に退治させ、影で甘い蜜を吸おうとしていることだって考えられる。

 やはりそれがビウェルの穿ち過ぎで、何も裏がなかったとしても。情報提供は市民の義務だ。ジェルスは旅の人間でもちろんアーレイド市民ではなかったが、都市の壁をくぐったら、都市の庇護を受けられると同時に義務も生じる。当たり前のことである。

 ともあれ――謝罪も感謝も言わないが、ビウェルはその一覧を頭に叩き込んでいた。

 〈海獣の一本角〉号は、記録にある限りではアーレイドにやってきたことのない船だった。だが先日、エルファラス商会で盗みを働いた盗賊ガーラが、盗品を売る相手として考えていたといういくつかの賊連中の名前を自白したとき、その船の名が出てきたのだ。

 それからビウェルはまめに船の入港予定を確認し、〈海獣の一本角〉号の名を見つけたときは、きたぞレグルと指を弾いた。

 消火隊駐留組とのくだらないお喋りにかける時間はない。

 港で船を張り、何を持ち込むつもりであるか、厳しく尋問をしなければ。

「それじゃ」

 ラウセアは口を中途半端に開けた。間抜け面だ、と思いながらビウェルは唇を歪めて、煙を吐き出す。ラウセアはむっとしたようだが、もちろんビウェルの心を読んだ訳ではなかった。

「以前から判っていたんじゃないですか! それなら、勤務の順番を変えるとか、今日の分はサンダたちの代理をした先日の貸しを彼らに返してもらうとか、何らかの手が打てたでしょう!」

「あのな、ラウセア」

 ビウェルはカァジを汚れた灰皿に押し付けた。掃除の当番が洗うのをさぼったようだ。嫌煙家のヴァリエードであればさもありなん。灰皿ごと捨てられなかっただけましだなと彼は思った。

隊長キアルは俺が勝手をやっても罰さないがね、はいどうぞと公に認める訳にも」

「公に認められないことを積極的に行うんですか?」

「だから、お前にこいとは言ってないだろう。お前は決まった仕事をして『相方がさぼってすみません』とでもやっときゃいい」

「そういう訳にいくもんですか」

 ラウセアは鼻を鳴らした。

「僕たちがふたり一組で仕事をするのは、片方がさぼるためじゃないんですよ」

 若造にたしなめられるまでもない。ビウェルは二本目のカァジに手を伸ばしたが、気を変えた。

「よし、行くぞ」

「それは、どこに行こうと言ってるんです」

「港に早く行って運よく何事もなければ、お前の希望通りの退屈な業務に少し遅れるくらいで済む」

 それがビウェルの出した折衷案で、ラウセアは少し考えるようにしたあと、真面目な顔で「それなら許します」と偉そうに言った。

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