05 何でそんなことを
息を弾ませながら彼らが足をとめたのは、すれ違う人々に罵声を浴びながら人混みをすり抜け、後ろを振り向きもせずに何街区か走り通した五
「もう……いいだろ」
追いかけてくるような声はすぐに聞こえなくなった。
もしもあの場で喧嘩になって、奴らが逆上でもしていれば、しつこく追いかけてくることもあっただろう。だが、それよりはさっさと諦めて次の獲物を探すということの方がありそうだったから、本気で追跡を心配していた訳ではない。ただ、すぐ近くでのんびりしていて、また絡まれるようなことがあっては面倒だ、と思ったのである。
「追ってきてはいないみたいだな」
ここで初めて、トルスは少年の声を聞いた。
料理屋の息子は片眉を上げ、改めて相手を見る。
年の頃は十五の成人を迎えたばかり、というところだろうか。最初の印象の通り、育ちのよいお坊ちゃんという感じがする。
人波をすり抜けて逃げてきたために髪はさっきよりも乱れていたが、トルスのように「伸びたらその辺の刃物で適当に切ってしまう」のではなく、「きちんとはさみを入れられている」ようだった。声質は別に生まれ育ちとは関係がないだろうが、発音はきれいで、下町育ちとは一線を画すと感じられた。黒髪をかき上げたのは、とてもきれいな指先だ。これは「美しい」とかそういうことではなく、手が荒れるような仕事に従事していないということ。
だが、それは既に思っていたことだ。
トルスが驚いたのは、少年が大して怯えていなさそうなことだった。
追跡されていないようだ、というのは安堵のために出た台詞ではなく、現状を認識してそれを口にした、という冷静さを伴って聞こえたのである。
「有難う。助かった」
次には少年は、やはり落ち着いてそう言った。
「あのままだったら、ちょっと面倒だっただろう」
「は」
トルスは乾いた笑いを洩らした。
「ちょっと、か」
「ああ」
少年はうなずいた。
「
「は」
若者はまた少し笑って、じろじろと少年を見た。
「腕に覚えはある、って訳かい?」
身長は、大柄なトルスよりは低いものの、高めだと言ってよさそうだった。しかし、弱っちそうなの、と評した通りだ。細い身体は、複数の男たちを相手取って対等にやり合えるとはとても思えない。
「体術の訓練ならば、少し受けているから」
それが少年の返答だった。へえ、とトルスは思ったが、過剰な自信なのではないかという気もした。
トルスは「訓練」などという立派なものを受けたことはなく、常に実戦のみだ。喧嘩っ早いというほどではなかったけれど、下町で生きていれば、それなりにごたごたはある。自らの身で喧嘩技を覚えてきた若者としては、丁寧に教えてもらった体術など本番では役に立たないのではないか、と思ったのだ。
「まあ、実践の機会がなくてよかったな」
そうとだけ言った。何もいちいち馬鹿にしてやらなくたってよい。
「どこのいい家から出てきたのか知らないが、あんまり裏通りなんか歩くなよ。俺らが歩く分にゃ安全だけどな、お前みたいなお坊ちゃんだと、あんなふうに目をつけられる」
「お坊ちゃん」
その言葉に少年は笑った。
「僕がお坊ちゃんだって?」
「違うとは思えないけどな」
「運よく立派な方の世話になってはいるけれど、それだけだ。『お坊ちゃん』という訳じゃないよ」
「へえ」
トルスは今度は口に出して言った。そこにどんな事情があるにせよ、「立派な方の世話になっている」のならば、彼の感覚ではお坊ちゃんだ。
「まあ、どうでもいいが」
彼は頭をかいた。
「用事があんならとっとと済ませて、日の落ちない内に帰れよ」
そんなふうに忠告をして、じゃあな、と手を振った。
「待ってくれ」
しかし、彼が背を向けるより早く、少年は制止した。
「町憲兵隊までつき合ってもらえないか」
「……何?」
トルスは眉をひそめた。
「何だ。既に何か
それでこんなことを言い出したのだろうか、と思った。
「いや」
だが少年は首を振った。
「奪られてはいない。ただ、あんな連中がのさばっているのは、よくないだろう?」
「そりゃ、まあ」
よいことではない。確かに。
「だいたいの人相風体は覚えているが、迷惑でなければ、あなたにも協力をしてもらえないかと」
「……ちょっと待て」
つまりこの少年は、あの小悪党たちのことを町憲兵に告げる手伝いをしてくれ、と言ってきたのである。トルスとしては、関わりがなくなってやれやれめでたしと思っているところなのに、まさかこんなことを言われるとは。
「迷惑か? それなら、かまわない。忘れてくれ」
少年はひらひらと手を振った。
ここで少年が、正義感に溢れて「悪人を放っておくのか」などとどこか的外れな糾弾でもしてくれば、トルスはむっとしてその場を離れただけだっただろう。〈神の怒りに触れぬためには神の目にとまるな〉、余計なことはしない方が吉である、ということ世間知らずな坊やに説明などしたくないと思うだろうからだ。
しかし、少年は実にあっさりと引いた。
自分で言った通り、それがトルスに迷惑をかけることになるかもしれないと理解しているからだ。
それは却って、若者の気を引いた。
「町憲兵連中に告げ口したって、不良どもが消えるとも思わないけどなあ」
トルスは肩をすくめた。
「何でそんなことをしようと思う?」
「何でって」
少年は目をしばたたいた。
「よくないだろう」
「そりゃ、よくないが」
彼らはまた、同じようなやり取りをした。
「お前さんが大金を
丁寧に説明をしてやった。この少年はどうやら世間知らずという訳ではなく、多少はものごとの道理を判っているようだが、それでも下町の現実というやつを知らないのだろうと思ったのだ。
「そうだな。ああいった連中はいなくならないだろう」
少年は同意をしてきた。トルスはてっきり、反論めいたものが返ってくると思っていたので、意外だった。
「なら、どうして」
「巡回を増やしてもらうとか、そういうことならできるんじゃないか」
少年はそう言った。
「犯罪をなくすことはできない。でも、減らすことはできるはずだ」
「……はあ」
その台詞が的を射ているのだか外しているのだか、トルスにはいまひとつ判らなかった。
「まあ、いいか」
彼は呟く。
「犯罪が十あるよりは、九の方がまし。それは文句なく賛成できる」
そう返答すると、相手はにっと笑った。
おや、とトルスは思う。
いまの笑みはこれまでの印象と少し違って、彼のよく知るもののようだった。
つまり、初対面の相手に対するよそよそしいものではなく、下町暮らしの、開けっぴろげな――。
「それじゃ行こう、セル」
少年は、名を知らぬ相手に使う一般的な敬称を使って言った。トルスは眉をひそめる。
「ぞっとしない呼ばれ方だ」
彼は言った。
「俺は、トルス。〈青燕〉亭の主人ロディスの息子だ」
改めて名乗ると、少年はうなずいた。
「僕は」
ほんの少し、間が空いた。しかし、トルスが何だろうかと思うよりも早く、言葉は続いた。
「麺麭屋の息子だ。と言っても、父も店ももうないけれど」
そう言って少年は手を差し出した。そのときの彼からは、これまで見せていたおとなびた態度がなりをひそめたように見えたが、トルスにその理由は判らなかった。
「ルシッド・ソレスの息子、ファドック」
名乗った少年――ファドック・ソレスの手をトルスは取り、こうしてふたりは、知り合った。
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