03 恋をしたみたいなの

 〈山査子ケルシの蜜〉亭というのが、ナティカの見つけた、この付近では貴重な庶民派の店であるようだった。

 外壁や内装は栄えている街区に相応しくきれいに保たれており、〈青燕〉のようにごちゃっとした雰囲気はない。値段についてもトルスは異論あるところであったが、この辺りにしては格安なのだとか。

ご主人セラスは努力してんのよ」

 ナティカはそんなふうに言った。

「あんまり庶民派すぎても、周辺の店舗から苦情が出るんですって」

「阿呆らしい」

 トルスは心の底からそう思った。安いものを出せるのならば、出せばいいではないか。下町の倍近い値段を取っておいて、質にせよ量にせよそれに相当するものを出さないというのは、暴利をむさぼっていると言わないだろうか。

「店内を清潔に保ったりするのにだって、お金はかかるでしょ」

「うちだって別に不潔じゃないぞ」

「そんなこと言ってないじゃない。でも、判るでしょそれくらい」

「まあ、判るが」

 渋々とトルスは答えた。先の話に出た食卓に掛ける布にしても、それほど高級なものではないが、以前の染みを洗い切れていない彼の店とは違って、新品のようにきれいだ。出される皿にも欠けなどはなく、ただの水を入れる杯だってきちんと磨かれている。〈青燕〉とどちらに清潔感があるかとなれば、答えは自ずと出るというものだ。

「そこで変な意地張らないから好きよ」

 ナティカはそう言って片目などつむったが、これは挨拶であって、そこに色気はない。

 ということは、ナティカの「話」を聞けば間違いがなかった。

「あのねトルス」

 リィの香草焼きをつつきながら、ナティカは真面目な顔をした。

「聞いてくれる?」

「そのために、ここにいるんじゃないか」

 話せよ、とトルスは言った。

「私ね」

 ナティカは嘆息をした。

「恋をしたみたいなの」

「あ、そう」

 彼はコットの揚げ物を頬張りながら答えた。

「何よ。その味気ない反応は。『そうなのかい、ナティカ。それは驚いた。いったい、どこの誰が相手なんだい』くらい、言えないの?」

「『そうなのかい、ナティカ。それは驚いた。いったい、どこの誰が相手なんだい』」

 少女の口調そのままに返せば、ナティカはむっと膨れた。

「ちょっと」

「はいはい、俺が悪かった」

 謝罪の仕草をすれば、少女は鼻を鳴らしてそれを受け入れた。

「まあ、で、どんな奴」

 彼女はけっこう惚れっぽいところがあり、こんな話は幾度となく聞かされている。正直、またかという思いがあった。だが万一、悪い男に引っかかるようでもいけないと考えたトルスは、念のために尋ねた。

 「ナティカちゃんの面倒」を見てきた彼にしてみると、なるべく泣かせたくないな、という思いがあるのだ。

「すごく」

 ナティカはフォークを皿の上に転がすと、うっとりと両手を組み合わせた。

「可愛い人」

「は?」

 「すてきな人」とか「格好いい人」とでも続くと思っていたトルスは、思わず口を開ける。

「可愛い?」

「そう。可愛いの」

 きゃ、などとナティカは両頬に手を当てる。

「トルスより年上なんだけどね、すごく純な感じで。態度もすごく優しくて、私、これはもう恋だって、すごく思ったの」

 聞きながらトルスは、今日のナティカの発言には何度「すごく」が使われるだろうかなどと何となく思った。

「何よ。無反応ね」

「どう反応してほしいんだよ?」

 彼より年上ということは、二十歳過ぎという辺りだろうか。「可愛い」二十歳過ぎの男などあまり想像ができない。もっとも、女の感性は男と違うから、彼の思う「可愛い」とはどこか異なるのだろう。

「言っとくが、男が『可愛い』なんて言われても嬉しくないんだぞ」

「本人の前では言わないわよう」

 ナティカは笑った。

「でもねえ、私、とにかくすごくときめいちゃって。どうしよう、トルス」

「どうしようったってなあ」

 それはこっちの台詞、という気がする。

「エルファラスの仕事仲間か?」

「ううん、違う」

「んじゃ、客か?」

「まあ、そんなとこね」

「配達を依頼されたことは?」

「あるわよ」

「じゃ住居は判ってんだろ。その付近、張ったらどうだ」

「何それ」

 ナティカは眉をひそめた。

「そんなの、変質者みたいじゃない」

「そうか?」

「どう考えても怪しいわよ」

 捕まるわ、などと少女は言ったあと、心配そうな顔をした。

「まさかトルス、好きな女性のあとをつけたりとか」

「するかっ」

「よかった」

 胸をなで下ろして、ナティカは言った。

「幼馴染みが変態行為で捕まるなんて、嫌だもんね」

「あのなあ」

 誰が変態だ、と抗議をした。

 彼も人並みに恋をしたことはある。ただ、仕事を優先するとなかなか深い仲に発展しないというのはよくある話で、若い彼のは専ら春女たちとなった。もっとも、仕事で発散すると言うのか、疲れて眠ってしまうことが多いから、その手の店に夜ごと出向くというようなこともない。単純に、金がないというのもあるが。

「それで、希望はどの辺なんだ?」

「ん?」

 希望って?――とナティカは首を傾げた。

「だからほら」

 ナティカの「兄」は、麺麭ホーロをちぎりながら続けた。

「また顔を見たい、話をしたい、ふたりで逢い引きラウン、それなら健全なやつか、それ以上、行くのか」

「トルスっ」

「何だよ。それによって変わってくんだろ。対応は。いろいろ」

「何で変わるのよ。初めはまた会いたいなあ、に決まってるでしょ。それから次は話したいに決まってるし、そこでこの恋心が冷めることなく燃え続けるなら、ラウンだわ。その後は展開次第よ」

「展開次第ねえ」

 トルスとしてはちょっとナティカをからかうくらいの気持ちだった。「そんなこと考えてないわよ!」とでも抗議しながら顔を赤くすると踏んでいた彼は、ナティカが「それ以上、も一歩」まで視野に入れていることに少し驚いたが、まあ、年頃なんだしなと考え直した。

 彼女も成人してひとり立ちしているのだし、いつまでも子供でないことは判っているつもりだったが、それでもどこかでは「隣の小さなナティカちゃん」の印象が消え去っていないようだ。

「んじゃ、最終的には最終段階まで希望、と」

「そういう言い方しないでよ。それは結果でしょ、目的じゃないわ」

 男にしてみりゃ最終目的みたいなもんだが、との台詞を返しそうになったトルスだが、さすがに心の内に留めておいた。

「気軽なおつき合いってやつなら、いろいろ画策もありだろうけどなあ、本気で好いてんなら、素直に正直にいくのがいいんじゃねえか」

「そうかな。いきなり告白とかされたらびびらない?」

「どれくらいの関係なんだよ」

「一度店にきて、ちょっと話しただけ。向こうは私の名前も知らないと思う」

「そりゃ厳しいかな」

 店の常連で、よく話すとでも言うのかと思ったら違うらしい。

「なら、まずやっぱちゃんと知り合うこと……て、待てよ」

 トルスは汁物を飲み干そうと器に伸ばしかけた手をとめた。

「一度店にきただけで、ちょっと話しただけの野郎に、惚れたってのか?」

 惚れっぽいにしても、それはどうなのかと思った。〈恋の女神ピルア・ルーの口づけを受ける〉、つまり一目で恋に落ちるなどという表現も世の中にはあるけれど、実際にそんな馬鹿げたことのあるものか、とトルスは思う。ああいうのは「あとにしてみれば、最初から気になっていた気がする」といったあとづけの印象操作にすぎないと。

 だが女の子という人種がそういう運命的な恋を夢見るらしいことは何となく知っている。それか、と思うと心配になった。

「どんな男なんだ」

 彼はまた問うた。

「『可愛い』と『優しい』以外で」

 外見の話はこの際意味がなく、優しいなどという表現は曖昧だ。余程に横柄な人間でなければ、接客係の女の子にわざわざ冷淡な態度は取らない。ちょっと愛想がよければ世間話のひとつもにこやかにするだろう。それをして「優しい」と言っているのなら、お話にならない。下心があってにこにこしている可能性だってあるくらいだ。

「以外でえ?」

 ナティカは不満そうだった。

「何でよ。充分でしょ」

「エルファラスの客ならそれなりかもしれんがなあ、」

「それなりって何が」

「氏素性だよ」

 トルスは言った。

「あ、それを心配してくれてるんだ」

 判った、とばかりにナティカはうなずいた。

「平気よ。身分はしっかりした人だから」

「確実か?」

「すごく確実」

 恋する乙女の判定にどれだけ信憑性があるのかは判らなかったけれど、ナティカは存在するものに目をつぶって「ない」と言い張る性格ではなかった。少なくとも彼女には不穏な要素が見えないということだろう、気になることがあればきちんと言ってくるはずだ、とトルスは思った。

「で、俺にどうしてほしいんだ?」

 トルスはそれを問うた。

「別に。近況を聞いてほしかっただけよ」

 ナティカはそう答えた。

「『相変わらずです』ってか」

 にやっと笑ってトルスが言えば、少女は片眉を上げる。

「『元気にやってます』よ」

 それがナティカの意図ということらしい。

「ん、まあ」

 特に何らかの行動を求められている訳ではないと判ったトルスは、しかし次には何を言ったらいいか迷って、意味もなく焦げ茶の頭をかいた。

「とにかく、悪い男には引っかかるなよ」

 最初から引っかかろうと思ってあとで泣く娘もいないだろうが、言っておきたくて彼はそう告げた。

「もし何か変なことがあったら、すぐ俺に言えよ」

 いいな、と言えばナティカは笑ってうなずいた。

「はいはい、トルス兄ちゃん」

 茶化しているのだろうかと思ったが、少女の笑顔は屈託がなかった。自分で言うように元気でやってるんだなと感じられ、「兄」は安心をした。

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