02 幼馴染み

 ここアーレイドは、王を戴く街である。

 湾の奥地という立地条件は穏やかな気候を街びとに与えてくれる。これは、単純に過ごしやすいということでもあれば、海嵐アリスレンドンと無縁で漁獲量が安定していることや、周辺地域での作物も不作知らずということにつながった。

 ビナレス地方に数多く点在する〈王城都市〉のなかでは、取り立てて大きいとか栄えているとか言うほどではなかったが、ここは豊かな街であった。

 ハワール・アーレイド王は善政を敷き、世継ぎのマザド王子もその気質を受け継いでいそうだ。近隣の都市とも、不穏な話は何ひとつない。この街は当分平和で、変わらず豊かだろう。

 若者は、腹ごなしに自身の生まれ育った街を歩くことにする。

 別に、「街並みを改めて見物しよう」と言うのではない。

 ちょいとナティカの様子でも見てこよう、と思ったのだ。

 ナティカはトルスの幼馴染みで、以前はよく〈青燕〉にやってきていたが、〈エルファラス商会〉に勤めるようになってからは、とんと顔を見ない。ほかに気に入りの飯屋を見つけたのなら別にそれでかまわないが、中心街区クェントルから出るのを面倒に思うほど忙しいのなら、少し気の毒だと思ったのだ。

 細っこいナティカが体力を使い果たして参っているのだったら気の毒だ、というのもあれば――彼は自分と父親の腕に自信を持っていたから、うちの料理が食えないなんて気の毒だ、というのもあった。

 慣れた街路をすたすたと歩き、小道をくぐって近道をする。

 少し治安の悪い場所もあるが、昼日中だ。いきなり盗賊ガーラが襲いかかってくるということはない。アーレイドは、全体的にはとても安全な街だった。

 エルファラス商会は、中心街区クェントルの外れにある。

 もともとは織物の流通で起業したが、いまでは扱っている商品は幅広くなり、生鮮食品以外ならたいていのものは手に入ると言う。もちろん店頭に何でもかんでも置いてある訳ではなく、注文をすれば入手してくれるというだけで、主力はやはり織物と、あとは日常雑貨だ。

 特異なのはその配達機構で、いついつの何刻にと依頼をすれば――在庫があればだが――ほぼ確実に届けられる。専属の配達人バイリーンを抱えているのだ。

 多くの商店では、お得意様にちょっとお届けをするのであれば、ほかの業務も行っている店員が時間を見つけて出向く。当然と言えば、当然だ。いつ頼まれるかも判らない配達のために、ずっと人を雇ってなどいられない。

 手紙などであれば専門の郵便機構も存在するものの、中身はもとより宛先すら読み書きできる人間は少なく、下町の人間には浸透していない仕組みだった。

 商会が単独で持っているこの仕組みは、栄えている店の証明のようであるが、実は逆であった。ちょっとした案や思い切りが商売を大きくするという見本である。つまりは、そうした仕組みを整えた頃から、エルファラス商会は大きくなったのだ。

 ともあれ、ナティカは大手の店に職を持っている訳で、それは幼馴染みとしてトルスも鼻が高いことだった。

 店頭で売り子をやっているだけだから、そう高給取りということもないようだが、それでも安定職だ。

「いらっしゃいませ……と、あら、トルス」

 知った顔を見てナティカは、商売用の大人しそうな愛想笑いから一転、丸い目を更に見開いて幼馴染みを見た。

 広い店内にはほかにも客がいたが、たまたま彼女は空いていたようだ。別の店員が客に何やら説明をしており、そうであれば、次の客がくる前にちょっとくらい雑談をしても彼女が咎められることはない。以前にもやってきたことがあるので、それは判っていた。

「どうしたの? まさか買い物?」

 言いながらナティカは、茶色味がかった長い金髪を編み上げた頭をひょっこり傾ける。

「何でまさかなんだよ」

「だってもし〈青燕〉亭の卓掛けを新調しようと思ったとしたって、にくるとは思わないじゃない?」

「そりゃまあ、ここのご立派な織物なんか、汁物の染みつけるために買えないわな」

 必ずしも高級な商品ばかりというのでもなかったが、それにしても、安飯屋の食卓の上に掛ける布とは訳が違う。

「顔、見にきたんだよ」

 どうだ最近、などと続けた。まあまあね、と娘は返す。

 ナティカはトルスとロディスの自宅――と言っても、寝るためだけに戻る長屋の一室だ――のすぐ近くに住んでいた。まだトルスが親の手伝いなどろくにできなかった頃、ナティカの親も仕事に出ており、三つ年上のトルスは「ナティカちゃんセラ・ナティカの面倒を見ていなさい」と子守を押しつけられたものだ。もちろん当時は彼も子供であり、世話をするというよりは一緒に遊ぶ――当人としては「遊んでやる」――くらいしかできなかった訳だが、何だかんだで過ごす時間は長く、彼らはそのまま成長をして、そのまま仲のよい友人になった。

 年頃になって異性に興味を持つような年代になっても、泣き喚く幼子の頃を知り尽くしていると、どうにも恋愛対象として見ることができない。

 ナティカの方でもそれは同じらしく、昔は「トルス兄ちゃん兄ちゃん」と慕っていたことなどなかったように、ほかの友人と同等の扱いだ。

 或いは逆に、本当の兄のように思っているのかもしれない。どこぞの男に惚れたの振られたのという話を彼に言ってくるのだから、やはり恋愛感情はないのだろう。

 十五の成人を迎えてトルスは親の店に正式に雇われ――「小遣い」が「給金」になっただけだ、という感覚だが――三年後にはナティカもこの商会に職を得た。それから一年弱、彼女はこちらの方に居を移し、話をする機会は以前より減っていたが、顔を合わせれば以前と特に変わることはなかった。

「飯、食ってっか」

「食べなきゃ死ぬでしょ」

「こっちじゃ気取った高い店ばっかで、美味くて安いとこなんかないだろ」

「まあね。通える店はかなり限られるわ。でもほら、うちには配達人がいるから」

「何?」

「配達の帰りに、どっかの屋台で買って帰れるものよろしく、って言えば運んでくれるのよ」

「成程」

 意外な余録というところか。

「まあ、通えやしないけど、いい店はあったわよ」

「どこだって?」

「〈黒革籠手〉亭。若い料理人テイリーが抜擢されて城に行ったんですって」

「へえ」

 城に行った、というのは別に「訪問した」という意味ではない。この場合は王城の厨房料理人として召し抱えられた、ということだ。

「そりゃすげえな」

 王を戴く都市の住民であっても、王城などというのは日常生活から遠いところにある。城と呼ばれるあの建物のなかに王様王妃様がいるようではあるが、庶民の暮らしにはあまり関係がない。祭りのときなどは王族たちも露台に姿を見せ、人々はそれに「万歳!」などとやるが、そのときはそのとき。そういった熱狂は行事の一環のようなものである。

 これは王族たちには皮肉なこととも言えた。もしも王が圧政を敷いたなら人々は毎日のように王の名を口にし、こっそりと不満を述べ、罵ったりすることもあるだろうが、善政を敷いているときには、あまり褒め称えられないからだ。

 もっとも、上に立つ者は常にそうあるべきなのだと言えば、そうなのであるが。

「でもよ」

 縁のない――たぶん一生ないだろう、と思っている――王城や王族のことなど深く考えるのはやめ、トルスは声を出した。

「いい料理人が引き抜かれちまったなら、味は落ちるんじゃないのか」

「そこはほら、層の厚さって言うの?」

 ナティカはにっと笑った。

「〈青燕〉とは違うのよ。精鋭揃いって訳」

「うちは少数精鋭だ」

 トルスは唇を歪めてそう言ってやった。

「はいはい、そうよね、精鋭さん」

「馬鹿にしてんのか?」

違うわよデレス。トルスのご飯も懐かしいわ。今度、誰かに頼もうかな」

「うちは持ち帰り用なんか用意していないぞ」

「ケチ。してよ」

「阿呆。仕事上がったら、くりゃいいだろ」

「……それもそうか」

 納得したように、ナティカは呟いた。

 かちゃり、と扉の開く音がした。文字通りの、新客だった。

「あ、いらっしゃいませ」

 瞬時に少女は、商売用の笑みを浮かべる。

「じゃな」

 邪魔をしてはいけないだろう、とトルスは帰ろうとした。ちょっと待って、と声がかかる。

「あと少しで休憩なの。話したいことがあるから、待っててくれない?」

 何だろうか、と思いながらも彼は了承のしるしに片手を上げ、大して興味もない織物の陳列棚を眺めながら、少しばかり待つことにした。

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