幸運の果実

一枝 唯

第1話 発端

第1章

01 〈青燕〉亭のひとり息子

 ばたばたとした足音が、店の裏を駆け抜けた。

「早く持ってこい!」

「わあってる!」

 焦げ茶の髪をした若者は背後を振り返らずにそう叫ぶと、勢いよく開けた勝手口の内側に目当ての箱を見つけ、さっと担ぎ上げた。

「全く、すぐ人のせいにしやがって。数を見誤ったのは、てめえじゃんかよ」

「何か言ったかあ!?」

「言ってねえよ! おら、これでいいんだろ?」

「おう、上等。さっさと下拵えに入れ!」

「あいよ。そっちの遅れは、俺様の手さばきで取り返してやるよ」

「言うじゃねえか、クソガキが。口だけじゃなく、働きも一人前になってほしいもんだがな!」

 クソ、と若者は思った。

 わずかな賃金でこき使っておいて、よく言うものだ。

 しかし、文句を垂れても仕方がない。給金のよい仕事に就きたいのであれば他を探せばいいのだし、不幸なことに彼は親思いだった。自分が抜けたら、父親ひとりでこの店を切り回さなくてはならなくなる。

 誰かいい手伝いが見つかるか、父親がくたばるかするまでは、彼はここ〈青燕〉亭で働くつもりだった。

「ほれ、できたぞ。さっさと調理しろ」

「遅いじゃねえか、この馬鹿息子が。次はとっとと」

「皿の回収。わあってるよ、てめえこそ、口ばっかじゃなくて手ぇ動かせ!」

 そう言い捨てると若者はぱっと踵を返した。

 十代後半の彼は、どちらかというと大柄な身体をしていた。

 しかし愚鈍そうに見えるかと言えば、そのようなことはない。朝は市場に買い出しに行き、昼間は外の屋台で、夜は夜中近くまで店で働き続ける彼の身体はしっかりとできていた上、力があるだけで戦士キエスと名乗るような連中よりも余程、俊敏でもあった。

 体力には自信があるし、腕力にも、多少はある。父親を年寄りと見て絡んでくるようなちんぴら連中などは、この体格と培った威勢のよさで撃退できた。

 もっとも、威勢のよさは父親だって若い彼に負けない。彼らはよく似た父子であるとも言えただろう。

「何だ、まだあんま、上がってないな」

 いつもの洗い場では、予想していたほど皿の数がなかった。

 屋台が集まっている市場の近くでは、簡素な皿を共通で使い、客が洗い場に返しては店の人間がまた使う、というような仕組みが取られている。組合が小金稼ぎの女子供を雇って、洗い物をさせるのだ。

 店側は組合に登録して所定の金額を納めなければならなかったが、自分で誰かを雇い続けるよりは安く上がった。大して儲けている訳ではない〈青燕〉亭でも、問題なく利用できる程度である。

 そうした洗い場にはたいてい、十枚から二十枚はきれいにされた皿が積み上げられているものだ。しかしこのときは、五枚あるかないかという程度だった。

「ついさっき、街道警備隊が戻ってきたんだよ。どこもかしこも椅子は埋まってるし、どこの料理人テイリーもてんやわんやだ。ま、街道では何もなかったみたいだけどね」

 皿洗いの女は忙しく手を動かしながらそう答えた。

「はあん、成程な。つまりは何もなかったからこそ、こうして呑気に兵士どもが屋台で飯なんか食うって訳か」

 それなら、父親が今日の注文数を見誤ったのも仕方がないかな、と彼は肩をすくめた。

「はいよ、上がった。持っていきな、トルス」

「おう、あんがとよ」

 トルスと呼ばれた〈青燕〉亭のひとり息子は、ぱぱっと感謝の仕草をすると大きな手で木製の皿をひっ掴んだ。


 果てのなき広大なる世界、フォアライア。

 世界には、三つの大陸が存在した。

 北東にはラスカルト。北西にはリル・ウェン。南にファランシア。それらが、大陸の名である。

 ラスカルトの東には終わりのない無限砂漠が、リル・ウェンの北には霧立ちこめる大森林が、ファランシアの南には雲を貫く大山脈が、それぞれ人間の行く手を阻んだ。大陸間の交渉を遮る大海も、東西南北どこまでも永遠に続き、この世界には果てがないと人々は考えた。

 もっとも、日常に赴く訳ではない遠い場所がどのようなものであろうと、普通の人々は気にも留めない。

 日が昇れば目覚め、仕事をし、金を稼いで飯を食っては、友人や恋人と時間を持ち、そして眠る。

 それが生活というものだ。

 ファランシア大陸の西半分、ビナレス地方の西端にあるアーレイドの街で日々を暮らすトルスにとって、世界の果てほど興味のないこともない。

 彼が興味を持つのは、明日の港にはどんな魚が揚がり、よいものをどれだけ安く買えるかとか、北の市場に早く出向けば新鮮な野菜を手に入れられるだろうかとか、払いをごまかそうとするケチな客をどのようにさばこうかとか、時間ができたらちょっと女の子でも誘って遊びに行こうかとか、そういったところだ。

 生憎と、恋人はいない。毎日が忙しすぎて、そんなものを作る暇がないのである。

 仲のいい娘はいるが、恋仲に発展しそうな気配はない。幼馴染みというやつで、気心が知れすぎているのである。

「一段落、だな」

 彼は額に浮かんだ汗を拭くと、そう呟いた。

 父親のロディスは頑固で、なかなか息子に調理を任せようとしない。だが、遅くに生まれた息子がこうして使えるようになった頃、ロディスはもう五十の半ば近い。大きな店で雇い人たちを仕切ったり、調理の指示をしたりするだけであれば、まだ問題のない年齢だ。しかし、日がな一日立ち仕事というのは、若い頃に比べてずっときついはずである。

 毎日のように父親と罵り合いをして、いちばんの重労働たる屋台での調理役を奪い合う、というのは親子の仕事のひとつだった。

 この日、その勝負に勝利したトルスは、昼間のもっとも忙しい時間帯を終え、ロディスのああだこうだという苦情を聞き流しながら休憩に入った。

 食材が余りそうであればそれを利用しないとならないが、今日は完全にそうな感じがする。空腹感を覚えた健康的な若者は、ロディスにひと声かけてから、自分の食料を調達しに他の屋台へと向かった。

 顔馴染みのラットン親爺の屋台でリィコットの串焼きを買い、余りそうだからとガクタスの店の麺麭パン――ホーロと呼ばれる、小麦粉ホルトを練って発酵させ、焼成させたもの――を分けてもらった。礼を言って適当な席を探していると、〈北市場のおふくろ〉ことオリナエ母さんに声をかけられ、野菜も摂れと青豆の炒めものを押しつけられた。

「あんたは、がでかいんだから」

 と、「母さん」は言う。

「それっぱかしじゃ足りないでしょう。ほら、大盛りにしといたよ」

「おうよ。言っとくが、追加料金は払わねえからな」

「口の減らない子だね。そんなところばっかりロディスに似て。あんたたちがふたりしてそんなだから、リエーネも逃げちまったんじゃないか」

「その話は勘弁」

 トルスは皿を持った状態で、降参するように両手を上げた。

 彼の母にしてロディスの妻であったリエーネは、何年か前に他に男を作って〈青燕〉亭から姿を消してしまった。あのときはさすがのロディスもしゅんとしたものだ。

 いまでは彼らは、まるで最初から父子ふたりだったかのような調子で、日々を忙しく働いている。リエーネの名は禁句のようなものだった。

 オリナエからそれ以上リエーネの話が出ない内にと、トルスはそそくさとその場をあとにし、前の客が汚したままの卓の上に皿を置くと、簡易な椅子に腰掛けた。本日もラットンの串焼きは絶品だったが、麺麭は少し乾き気味で、彼は飲み物を用意しなかったことを少し後悔した。

 腹を減らした若者らしい速度で食事を終えてしまうと、洗い場に皿を戻し、ついでに水をもらう。これで、ひと心地。顔見知りの女たちと少し軽口をたたき合ってから、さてどうしようかとトルスは街を見回した。

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