■8 心得

 ***


 西陽が射している。きらきらと、足元のガラスが光に照らされオレンジ色に煌めいた。それをクロユリは、何の感慨もなく踏み抜く。パキリと砕ける音がした。


 気配を遮断し音を断ち相手の死角に潜り込む。それは造作もないことだ。相手は手練れではない。戦に慣れた様子もない。ただチェーンソーを振り回すことだけはこなれた心地でいるようだが、付け入る隙だらけである。脇の甘さ、ふりかぶった後の動作、弾かれた胴。そこに刀を叩き込めば容易く命を奪えるはずだった。

 だというのに、あと一歩のところで踏みとどまる。どういうわけかクロユリの太刀を受けるのだ、彼女は。完全に適応できているのではない。肩や腿に傷は負わせた。止血する暇すら与えず執拗に切り刻む。だがそのどれも致命傷になりえない。寸でのところで身体がを向く。視線まではかち合わないから感覚でかわしているのか……それとも、研ぎ澄まされた五感故か。少なくとも視覚ではないだろう。クロユリに視えているものとは違う景色を彼女は見ている。


「っ、この……!」


 闇雲に振るわれるチェーンソーがクロユリに当たることはない。烈火のリコリスは防戦一方だった。クロユリの正確に命を刈り取ろうとする斬撃、それをどうにか回避している。だがそれもいつまで持つか。

 肩で息をしている。何らかの方法でクロユリの太刀筋を読んでいるとしても、身体スタミナは思うようについていかない様子だった。白のブラウスは汗と血痕でべったりだ。紺のプリーツスカートはただでさえ丈が短かったのに、クロユリの攻撃で裾がボロボロになり刻まれていた。ブラウスを裂いた腹部からくびれたラインが覗くも、それは斜めに入った切り傷がセットだから淫靡でもなんでもない。赤黒い血が凝固して傷を無理やり塞いでいた。


 何故、抗うのか。


『……挑み、殺す』


 脳内で何かが反響した。

 いつまでもマダムにたかるハエを叩くことに執心してはならない。クロユリは命令を確かに理解している。マダムはすぐに駆けつけるように言った。マダムの城であるトチョウには帰ってこれた。確かにそこには異常があって、そのためにクロユリは呼ばれたのだろうと推察はできる。だが、。マダムの意図と食い違うことがあってはならない。マダムの身辺にある危険はもちろん排除するが、整理された命令系統に従えば今の最優先は「マダムの元に戻ること」だ。

 クロユリは身体を不安定に揺らしながら、力の入らない脚で立っている状態のリコリスを一瞥する。それを呵責なく蹴り飛ばした。


「がっ……、ァ」

「ドロシー!」


 人間の女が駆け寄る。ヒビの入った壁に烈火のリコリスは思い切り背中からぶつかった。こんな衝突ごときで死ぬ身体はしていない。だが脳震盪を起こしたり、指示系統に乱れが生じることはある。クロユリを阻むものの排斥はそれで十分だ、……今は。マダムの指示を仰いで、それから戻ってくればいい。

 烈火のリコリスを捨て置いて、クロユリは脚を進めようとした。身体を階段の方へと向け、一歩を踏み出す。


『挑み、殺せ』


 ちりりと胸を焼く。まただ。脳裏に繰り返し響いてくる言葉。新手の障害バグだろうか。

 足元を見る。そこには鎖も何もない。クロユリを阻むものは何も。だというのに脚が重たく感じる。鉛を仕込まれた形跡はもちろんない。ただ、この脚を先に進めることに、強い抵抗を感じている。

 何故?


『挑み殺せ。挑め。挑め。挑め――』


 脳内の声が大きくなっていく。何だこれは何だこれは。クロユリは頭を抱えた。どこからだ。これはどこで鳴っている? 煩わしい、マダムの命令を掻き消すようなノイズがあってはならない。それは機械にとって致命的な瑕疵バグとなる。


『ひとつ』

「…………ッ!」


 その本能が、喋りだした。


『さざめく心を鎮めること。大海の上、さながら波紋のひとつも起こさぬように』

「やめ、ろ」


 機械クロユリは抵抗する。その危険性を理解していた。クロユリはマダムの道具だ。与えられた命令を遂行すること、そのために改造されてつくられている。この声が何を意味するか、本能としてクロユリは知っていた。この声は、聴いてはならぬものだ。


『ひとつ。止んだ心を束ねること。それはひとつの殺意となる』

「ちがう、私は!」


 抵抗する。何に? 先程までマダムの命令に従うだけだった脆弱な意志が、信じられない反逆を見せている。クロユリは悶絶した。頭が割れるように痛い。反響、反響、繰り返す言葉を彼女は知っている。すなわち、


『ひとつ。研いだ心で貫くこと。斬るべきものを正確に見定め、その心眼で軌跡を重ねる』

「ああああああ……!」


 それは十二のとき、真剣を祖父から与えられた時分に遡る。あのときに託されたのはただの日本刀ではなく、別のなにかだった。少女が背負うと決めたものは確かにその胸のうちにあった。誇りか、責務か、どれでもないのか。

 あの日の祖父の言葉が甦る。


『百合香、お前に斬る覚悟はあるか』

「……あ……」


 はらりと。漆黒の瞳が潤み、視界が揺れた。蠢く刀が激しさを増す。白銀の刃、それは美しいだけではない。少女の瞳よりも深い黒をたたえた鞘に収まり、抜くべきときに振るわれるのを待っている。そのときとは決して、人殺しではなかった。

 瞳に光が戻る。記憶が濁流となって押し寄せる。まるで時間旅行をしているかのように、幼い時分からリコリスになった今に至るまで、たくさんの思い出が情報として溢れていく。どうして刀を持ったのか。どうしてあの家に入ったのか。どうして母を憎んだのか。どうしてリコリスになったのか。

 わかる。すべてわかる。わかるからこそ気がついた。これは――走馬灯、というやつではないか。


 ずぶりと。

 熱い痛みがクロユリを貫いた。


「一人で、うだうだやってんじゃないわよ……!」


 チェーンソーか。チェーンソーが駆動して、クロユリの臓腑をくりぬいている。ただ貫くのではない。チェーンソーとは回転刃だ。貫いた今も傷口はまさぐられ、拡大している。


「あ、うぐぁ、ああああ……!!」


 クロユリは感じた痛みのまま悲鳴をあげた。

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