■7 遅参
跳んできた少女は無感情な瞳をしていた。それは元々なのだが、以前宿していた静謐さを残していない。真っ黒い双眸はただそれだけで機械的だ。ブラックホールのような底なしを感じる。感情が灯っていないという感想はあながち間違っていないと思う。地下鉄で遭ったときにはすでにそうだった。きっとどこかに魂を売ってしまったのだろう。
それでも、ドロシーは彼女を無視しなかった。来るなら迎え撃つだけだと思っていた。優先順位と接点の話だ。今倒すべき相手が二人いるとして、それを天秤にのせる。デーヴィスの主人という認識しかないマダムと、何度かドロシーに襲撃を仕掛けたクロユリと。どっちを先に殺すかと言われたら、それは個人的に思うところがある方だ。だから残った。単純明快だ。
「…………」
その脚はドロシーたちの前で一度止まった。無機質な出で立ち、生きている心地すら感じさせない。どこから馳せ参じたのかは知らないが息ひとつ乱していないのは生物としてのらしさを失っている。まるで
そして、それはドロシーを素通りして再出発しようとした時点で確信に変わった。
「無視はいただけないわね」
クロユリの前に突き出されたチェーンソーはまだスイッチを入れていない。破壊しまくっていたデーヴィスはいつしか増援が来なくなった。弾切れか、別の場所に支援に向かったか。後者だとは思う。
挑戦的に口角をあげるドロシーと対照的に、クロユリは虚ろな瞳を僅かに動かして目の前の障害物を見ていた。四肢に力を込める様子はない。だというのに安易に近づけない振る舞いが、魂を抜かれてもなお――むしろ魂を抜かれたからこそ――できているのが末恐ろしい。ドロシーは興味を引くために挑発を続ける。
「飼い慣らされた犬のくせに重役出勤ってやつ?」
「……マダムの」
ぼんやりとした表情から声が落ちる。抑揚の乗っていないひんやりとした声色だ。その瞳がドロシーの視線と交わることはない。少女は訥々と紡いだ。
「命令は、絶対……マダムのもとに、戻らねば」
「悪趣味」
ドロシーは吐き捨てるように言った。
「やっぱりキライ、吐き気がする。あんたはあたしが殺らなくちゃ」
対話など求めていない。意思疏通など図れない。もとよりわかりあうつもりなんてなかったし、何か説得をしたかったわけでもない。強いていえば、これはドロシーなりの落とし前というやつなのだ。
「気に入らないから――あたしが殺す!」
チェーンソーが激しく鳴いた。機械にモチベーションなど存在しないが、今日一番の唸りをあげた気がする。
魂を抜く、というのが果たして適切かはわからない。そんな呪術めいた力をマダムが持っているのなら、デーヴィスなんて作る科学技術が真っ青だ。きっとマダムはもう少し現実的な方面でクロユリをいじったのだと思う。詳細を考えるのは性ではない。
クロユリの腰に提がった鞘はもはやお飾りになっていた。それが収まるべき刃はもうその形を留めておらずグロテスクに肥大化している。クロユリの腕と一体となったそれは表面に管が浮かび上がり、ドクドクと脈を不規則に刻んでいる。生理的嫌悪というやつか。幼く無表情の日本人形が持つにしては酷な絵面だ。
「その腕ごと、切り落としてあげる!」
ドロシーは駆け出した。チェーンソーを携え一思いに斬りかかる。ドロシーが脳天から振り下ろすその瞬間まで、ついにクロユリが身構える素振りは見えなかった。棒立ちのまま殺されるつもりだろうか――そんな邪推は一瞬で霧散した。
何かにぶつかり、信じられないような強い力で跳ね返される。ドロシーの腕ごとチェーンソーが空を切った。
「……っは」
何があった。まるで時間を切り取られたような。まったく、速すぎて何も見えなかった。結果だけが残っていた。対峙した少女は凶刃を振るい、それがドロシーのチェーンソーを弾いていた。認識を改める、思い出す……クロユリは殺しの術に長けている。そしてドロシーは、けっしてそれに特化したわけではない。
「マダムの障害は、排除」
静かに呟いた言葉に一切の感情の色はない。鏡のような水面にたった一滴、正確に雫が落ちていく。呼吸を乱さず、動きも乱れず。隙を見せない殺戮兵器は感情を殺されたぶんその機能が優先される。
ドロシーは舌打ちした。
「そんな目で見たところで、あたしは――」
姿が消える。まただ。予備動作というものを関知できない。達者な口を動かしているとすぐに見失う。目の前にいたはずの少女は忽然と消失していた。ドロシーの表情に焦りが浮かぶ。
「……クソアマ……っ」
その危険性をドロシーは熟知している。あれだけの手練れの動きが見えず、どこからか襲撃を受けたら。あの女はきっと一撃で仕留めてくる。処撃にして致命傷だ。それだけは避けなくてはならない。有栖に偉い口上を叩いたぶん屍になるわけにはいかなかった。自尊心だ、こんなところで無様に終わりたくないという意地がドロシーを駆り立てる。
里砂とも約束した。後方で祈るように見つめる恋人はいつも怒らせ心配させてばかりだが、かけがえのない人でもある。里砂を置いていくことなんてしたくない。置いていかれるのも嫌だ。
――血の匂いがした。
「…………ッ!」
完全に対応、はできなかった。クロユリの動きは静謐であり正確、そして無慈悲。袈裟斬りにしようと振るわれた一閃を弾き返す力はドロシーになかった。なんとかチェーンソーをあてて軌道をずらすくらいはできたが、その怪刀はドロシーの肩をずるりと抉る。赤い噴水があがった。ドロシーはよたよたと後退する。
「ドロシー……ッ」
「来ないで!」
ドロシーは叫ぶ。額に脂汗が浮かぶが大丈夫、死にはしない。左肩で良かった、まだ右が残っている。これならチェーンソーを振るえる、ならばドロシーはクロユリと殺し合える。
「大丈夫、里砂……だから、見てて」
里砂は言葉を飲み込んでくれた。言葉に詰め込まれたたくさんの感情を一思いにしてくれた。ああ、また泣きそうな顔をさせている。ドロシーは自嘲した。
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