■6 拘泥
「……なんですって」
マダムの唇が恐怖に震えた。血の気が引いていく。おかしい、おかしいと繰り返す頭が疑問符で埋め尽くされていった。目の前のリコリスは何を言っている? リコリスは人間の女の腹から生まれ、人間が覚醒する生き物だと学会は発表していた。元は人間ではないのか。マダムと同じように人間社会を平凡に生き、何かのきっかけで道を踏み外してしまう。そんな道を辿るのではないのか?
わからない。マダムはあまりにも人間的すぎたために、その異常がわからない。
「なるほどね。どうやら原初のリコリスというのは情報もアップデートされない化石みたいな存在なのね」
――あなたはプロトタイプなのです。
「こんな女に支配されているともっと早く分かっていたら、さっさと首を飛ばしていたのに」
――あなたの血肉は未来の人類の踏み台になる。
「うるさい……」
男は繰り返す。これが未来の人類になるのだと。マダムはそのための踏み台で、彼女の肉片を踏みにじりながら人間は次のステップへと進むのだと。それがどんなに屈辱的な言葉だったか。男にとっては未来があっても彼女にとっては今しかない。自分を犠牲にして生きていられるかもわからない未来に貢献などしたくもない。楽を求めた。それの何がいけない? それを傷つけられた。何故怒ってはいけない?
「うるさい……ッ」
超人的な能力はない。ただ長生きする身体に作り替えられた。血を飲まないと生きていけない身体にされた。最早人間社会に溶け込んで生き直すには彼女は乖離しすぎていた。血の味の快楽を知ってしまったから。箍が外れた人間は、人間らしく生きることなどできない。
「化物風情が、私に知ったような口を利かないで!」
デーヴィスが背後を取る。増援が追いついた。それを開かれたドアの奥に確認したマダムは酷薄に笑った。ライダースジャケットの裏に仕込んでいたピストルに手を伸ばす。誰も持つ必要なんてない、自分以外は。銃は最も効率的に自分を守る武器だ。
「なんだ、結局拳銃を頼みにしていたの」
「お前に言われたくはないわね」
化物とは違うの、という言葉をマダムは飲み込んだ。人心掌握のスキルなど備わっていない。皮肉なほど人間と大差ない己が今は呪わしい。
「私は血も涙もない部下を従えているから。黙らせるにはこれが一番なの」
そう言って、デーヴィスに指示を出した。
「人間はすべて殺しなさい」
『了解』
自分でも興奮するほど無慈悲な声色だった。
デーヴィスが機銃と手榴弾を用意し迎撃態勢に入る。ここでぶっ放されてはこちらの命も危ない。だがマダムより先に瑠璃のリコリスの従者が動いたようだ。デーヴィスを押し返すように突進し、ドアの向こうへと突き飛ばす。
「帽子屋!」
「機械人形は私たちが引き受けます」
美談だ、とマダムは冷えた心で笑っていた。人間ごときに何ができる。人間というのは非力な存在だ。自分たちが築き上げてきた社会にさえ隷属し抗うことができず呑まれていく。彼女がそうだったように。そうして自身の身に余る凶器を生み出しそれに殺される。彼らがそうだったように。
対峙する女は、間違いなく
『あなたはプロトタイプなのです』
彼女はただの一度も、自らを
人間を別の種族へと変質させることだ。
あの男は「新しい人類」といった。想定していた成果はたぶん、長い寿命や病気に強い身体。そこに理性的な思考が加われば、ますます人間は地球においてその支配力を増していくだろう。確かにその通りだ。理屈で言えば。
だが結果はこのざまだ。女の犠牲で得られた生物、あれは最早人間ではない。だがもし、ああやって彼女にしたように、他の生物の遺伝子を無理矢理捩じ込んで作り上げていったのだとしたら。彼女のような中途半端な掛け合わせが完成し、それを更に交配して作り上げようとしていたのなら。
リコリス計画は、その線引きを見誤ったのだ。
「飼い犬に手を噛まれる……という言葉を知ってる?」
いくぶん落ち着いた思考を取り戻したマダムは、照準を瑠璃のリコリスに合わせながら世間話を切り出す。無論対峙する少女は隙を見せない。
「帽子屋のことでも言ってるの?」
「いいえ。昔話よ」
彼らは慢心した。より高度な人間をつくろうとした。デザインベビーを女の腹に埋め込み、更なる能力の飛躍を望んだ。それが人智を超えた生き物になるという危惧を捨て去って。
「あなたに会えてよかった」
瑠璃のリコリスは警戒しながらも不審そうにマダムを睨んだ。意味を図りかねているのだろう。答え合わせをするつもりはない。マダムは黙殺し、確信する。
あの実験から生まれた人ならざる生物。マダムが掌で転がそうとしてきた相手。彼岸に咲く花のように実らず、一代で枯れていくべき生命。己で管理できないものならば、それは持っているべきではない。
「
そう言って引き金を引いた。
***
来る。匂いがする。鉄の強い、血を纏わせた匂い。真っ黒い影が疾風になってこちらに迫ってくる。ドロシーの嗅覚はそれを察知していた。
里砂が緊張からか唇を真一文字に結んで、破壊された自動ドアの向こうを見つめている。真面目なのは美徳だが堅物すぎるのも困りものだ。これから起こることは一世一代の大舞台ではない。ドロシーが楽しく明日を生きるための下準備に過ぎないのだ。
「ドロシー」
それでも不安げに声をかける恋人を、ドロシーは可愛いと思う。
「心配性なんだよ、里砂は」
「何度言われても結構」
それでいて強情だ。
「あたしね、マイハマに行きたいの」
だから楽しい話をしよう。目を白黒させて困惑している里砂を見てドロシーは微笑むのだ。きたるべき安息日のために、ドロシーは優しくキスをする。鼻の抜ける声を至近距離で聞いて、ますますご褒美が恋しくなった。
「トウキョウをぶっ壊したらさ、行こうよ。それで耳つけて写真撮りたい」
「……馬鹿ね」
「馬鹿じゃないよ」
黒い影が迫る。血まみれの刃を携えて。
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