■5 謁見
***
――上がってくる。
砂嵐まみれのモニターを叩き壊したい衝動をぐっと堪え、マダムはその快進撃を苦渋の思いで見つめていた。最早ここに飛び込んでくることは避けられない。どんなにデーヴィスを投げ入れたところで相手は柔軟な思考をもった化物。
いや違う、とマダムは思考を否定する。想定外はあのリコリスだ。烈火の、一番行動原理が読めないタイプ。理性を捨てた化物というのは実際に動くとその厄介さが際立つ。地下鉄構内への放火、デーヴィスの破壊、指示系統の混乱、地下鉄の横転――やることなすことがまったく論理的でない。行き当たりばったりで当たって砕けろな方針、しかし成果としてマダムに確実な傷跡を残す。地下鉄に火の手があがったせいでそちらへの対処に目が行き、統率のとれないまま有栖の侵入に手を焼いた。そして烈火のリコリスがデーヴィス駆除を請け負い、瑠璃のリコリスはマダムと相対するためにやってくる。
「ありえない」
ありえないことだ。本来ならば。
頭痛がする。こめかみのあたりがズキズキと傷む。マダムは苛立たしげに指先を伸ばした。
『――あなたは
腹立たしい男の声が脳内に反響する。
『未来の、より優れた人間を産み出すために。我々は天の摂理を超越し、更なる段階へと進む』
最初の成功例で、人より何やら長命で。しかしそれが何になる。マダムのあとに発生したリコリスたちは形こそ人間の姿をしているけれど、その中身はただの化物だ。研ぎ澄まされた五感、人間ではありえない身体能力、生存のための吸血行為、殺戮と繁殖に快楽を見出す異常性。……あれのどこが優れた人間であるものか。その原初である自分は、ただ原初であるだけだ。
「私を、捨て石にして……そんな私に支配されて、楽しい……?」
忌々しい。記憶が混在していく。初めて喰らった血肉の味が口いっぱいに広がっていくかのようだ。鉄に満ちて、しかし甘い。背筋を這って脳髄に伝達された感情は嫌悪ではなく甘露だったのだ。
血を狂ったように啜った。首筋の血管を目がけて思い切り噛みついてやれば、思いのほか簡単に人間は失血死すると気付いた。凶器なんて要らない。ただ近づいて、吹き上げて、その赤を尽きるまで啜ればよかった。それが彼女の生存になった。
この世界への復讐。こんな自分にした復讐。戻れない自分への復讐。憎悪は快楽に変わり、変質した本能を女は貪り続けた。
それが、どうしてこうなった。
『マダム、来ます』
最後まで傍に置いてしまったデーヴィス。ああ、こいつも兵隊として下に出してしまえば良かった。マダムは放棄しつつある思考に気付き、強く首を振る。
「残りのデーヴィスをすべてここに回しなさい」
『了解』
そして、玉座への扉が開く。
丁重さなど欠片もなかった。従者の屈強な男が片足でドアを蹴破って、一切の
さて、どう口を開いたものか。マダムは視線を伏せて言葉を探す。こういうときは禅問答でもしてやれば良かったか。
「その椅子、もらいに来たわ」
勝ち誇った表情で瑠璃のリコリスが言い放つ。マダムは威厳ある風で対峙しようとして……その言葉選びに失笑してしまった。表情が崩れる。あざけりが強く出てしまっただろう。
「椅子だったらいくらでも。なんならそこのソファでも持ち帰ればいいわ」
「茶化さないで」
瑠璃のリコリスが肩をいからせる。わかりやすい激昂だ。リコリスというのはこんなにも感情的な生物なのかと、どこか分析する心地で対象物を見やる。マダムの心は自分でも驚くほど凍てついていた。冷静なのではない。俯瞰とも少し違う気がする。
「マダム。あなたのトウキョウでの横暴、私は見過ごすことができない」
「正義の味方ぶるつもり?」
「いいえ」
瑠璃のリコリスは即座に否定した。きっぱりとした口調だった。
「生命線である流通をちらつかせて屈服させる。そうやってひとつの都市をおもちゃのように転がして、次はどこに手を伸ばすの? 私はあなたに遊ばれるつもりはない。なら私は、私の思うように国を作るわ」
「すっかり悪役ね」
マダムは薄く微笑する。
「それで、あなたはどんな国を作ってくれるのかしら」
「私は物ではなく、私自身で民に膝をつかせる。私を見て、私に魅了されて、私のために働こうと思う国民たち……彼らがいる世界で、私だけの国を作る」
「――ふ」
唇の間から空気が漏れる。後発組に比べればずっとマトモな思考回路が高速回転する。その言葉が破綻した理屈であるか、きっとリコリスである彼女には理解できないだろう。人間に近いマダムだからこそ嗤う。それは欺瞞だと。
マダムは手を叩いて大笑いした。堪えようがなかった。
「ふ、ふふ、ふははっ……! あなた、それ、意味わかって言ってる?」
「もちろん」
「つまりあなたは、物ではなくてあなたという
「何がおかしいの?」
「それをおかしいと思わないことがおかしいのよ」
マダムは瑠璃のリコリスに指を突き立てた。
「だって、それは支配者と支配の方法が変わるだけ。私とやることはまったく変わらないじゃない」
それが玉座を奪いに乗り込むなど愉快でしかない。これは希望でもなんでもない、トウキョウというリコリスの魔境に変わりはない。人間はリコリスから解放されないし、むしろ瑠璃のリコリスの洗脳によってますます己を喪失していく。牧場の規模を拡大させるだけ、それこそ人間はただの家畜に成り下がるだろう。
残念だ、とマダムは思った。せめてもう少しまっとうな生き物に進化していればよかったのにと。
「ええ、そうよ。それの何が悪いの?」
しかし瑠璃のリコリスは違った。マダムはリコリスの思考を、今この瞬間まで理解しきれていなかったのだと悟る。
「私が支配されたくないの、私が支配したいの。そのために邪魔者を排斥するだけ、こんな自明の理もないでしょう? だから統治する国の優劣なんて問題にもならないわ。そこに善悪もない。あるのはリコリスとしての本能だけ。……まさか、そんな基本も知らないで生きてきたの?」
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