劫火篇 彼岸に咲く花
■1 火焔
――夜明けが来る。
女は豪奢な椅子に肘をつき、緩やかな朝を迎えようとしていた。リコリスは人間よりも多少頑丈な生き物である。しかし不眠不休で動けるわけでもない。身体も疲労を訴えるし負傷だってする。首をはねられれば死ぬ。心臓を握りつぶした程度では――胴体が繋がっていれば――この限りではないが。
地下に張り巡らせた
「せめて、私がもう一人いれば……」
と考え、マダムは思考を止めた。自分が二人なんてとんでもない。誰かに隷属することを仮にも自分がするはずない。受け入れがたいことだ。たとえもう片方の自分が自分に膝をつくとしても、そんな屈辱的な鏡絵は見たくもない。
大量のデータをシャットダウンし、マダムは瞑目する。このまま椅子に身を任せて眠ってしまえそうだ。今度手術がうまくいったら、疲労を覚えない身体にしてしまおう。暗躍中の
――夜明けはいつだってひとりぼっちだ。
開ける世界。古びた病院のロビーで迎えたあの日。マダムの心に居座り続けるのはあの暗がりの一瞬だ。椿が落ちたとき、マダムは己の箍が外れるのを確かに自覚した。自分が化物に成り果てたと言う事実を、どうしてかすんなりと理解することができた。それは、自分が周囲の人間を喰い尽くした果てだったから、かもしれないが。
『マダム・カメリア』
合成音声の抑揚は、他のデーヴィスよりはまともなイントネーションに感じられた。異物――マダムが教え込んでいるデーヴィスだ。個体名は与えていない。
「何かしら。今はちょっと疲れているから、緊急でなければ後にして」
『インプットされた基準に照らし合わせるのなら、緊急に相当するレベルだと判断します』
「なら簡潔に」
了解しました、とデーヴィスが一言告げる。緊張感のあるタメは一切なかった。
『地下鉄各駅にて、出火元不明の火災が多数発生しています。具体的な被害は別途データを報告します』
マダムの腕に力がこもる。鉛のような疲労感が一気に吹っ飛び、代わりに緊張の糸が身体中に張り巡らされた。
「……なんですって……?」
***
燃やす。
それを第一声にしたのは、理論的な根拠があってのことではない。貴島里砂は考えた、一応、
リコリスの理屈に論理を求められても答えられない。人間が要求する、納得のいく論拠はそこには存在しないのだ。有栖は女帝の横暴を危惧しているとはいえ、自身の玉座のために討伐を試みる。だがドロシーの行動には刹那的衝動しかない。気に入らないから倒すだけ。有栖の手柄を奪いたくて先手を打つ。その後など考えない。たとえ彼女を打ち倒しても、本能のままここで生きていける。それが、衝動を本能とするドロシーの
とはいえ、単機で突撃しても玉砕が待っているだけ。おちおち命を無駄遣いさせることなど里砂は認めない。マダムが御殿から離れることはないから、こちらがトチョウに乗り込むしか会う術はない。だが仮にも支配者の居城、それなりの備えがあると考えるべきだ。だから、外堀から埋めていくことにした。
その一手が地下鉄の爆破である。
爆破というのは厳密ではない。正しくは小火を複数起こす。爆弾などを調達する時間はなかった。手元にあるのは安っぽいライターくらいのものだ。文字通りの火付け役は里砂が買って出た。ドロシーには別の役割があったし、ライターの所持者は里砂になっている。そして無力な人間なりに役に立ってみせたいと、どこか足掻いている己も否定できなかった。
まずは異変を察知させる。地下鉄というマダムの領域に異常があると知れば、彼女はデーヴィスに事態を探らせようとするだろう。そして、その兵卒たちをドロシーが破壊していく。
「あっははははは!」
唸りをあげた新しい得物は、憎らしいほどドロシーの手に馴染んだ。ドロシーが使っていたチェーンソーと同じ型だったのだ、皮肉にも。耳慣れた駆動音が精巧な機械人形をスクラップに変えていく。脳天から分解される様は無惨でもあり無情でもあった。飛び散る火花が鮮血のようだ。
「血が出ないから退屈かと思ったけど、存外
ドロシーの甲高い笑い声がプラットホームにこだまする。それを阻むものはもういない。用心棒の役割を果たすはずのデーヴィスもまた破壊してしまったから。
「ドロシー、首尾は?」
「上々!」
最後の一体を真っ二つに裁断してドロシーが応じた。里砂は身体を乗り出してトンネルの奥を見た。時刻表通りならもうすぐそれがやってくるはずだ。真っ暗のトンネルに二筋の光がちらつき、強くなっていく。地下鉄は今日も通常運転だ。
――予定通り。
里砂の口角があがる。いつまでこの機械仕掛けの時刻表が運用されるかはわからない。マダムのもとに挑発が届くのは時間の問題だろう。その間に、できるだけ多くの駅とデーヴィスを潰していく。前哨戦というやつだ。
鋼鉄の箱がプラットホームにやってくる。大袈裟に息を吐き出しながら停止した。開いたドアからの攻勢はない。里砂は最後の一機の相手をしているドロシーに声を掛けた。
「ドロシー、次に行くわ」
「了解っと!」
腕を伸ばしドロシーのスカートを掴もうとした一兵卒に、彼女は無慈悲な鉄槌を下す。腕を彼方へ吹っ飛ばされた機械は、ふたつの眼球から完全に光を失った。
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