■8 raison d'etre

「それは違うわ」


 里砂が否定する。してくれる。どうしようもなくぐちゃぐちゃになってしまったドロシーの心を掃除するように、芯のある声で。


「人が過去を積み重ねて自分を磨いていくことは、確かにその通りよ。楽しいこと、苦しいこと、色んなことを経験して成長していくものなの」


 長ければ長いほど、その経験値は増えていく。成長の値は人によって個体差があるが、「なにもない」人間にはならないはずだ。

 ドロシーが不安げに瞳を揺らす。真っ赤な髪は燃えるように鮮やかなのに、くすんで曇らせている瞳の弱々しさが少女の不安定さを如実に表していた。


「でも、それがすべてではないでしょう? ドロシーが誰かの半分だったって、昔を思い出せなくたって、リコリスのドロシーが生きてきたまでは何も変わらないじゃない」


 里砂はドロシーの右手を強く握り直した。


「ドロシー、さっきあなたが言ってくれたこと、私はとっても嬉しかった。いつまでも過去に縛られてはいけないと思っているけど、やっぱり男性は怖い。あなたはそんな私を知っていても好きだって言ってくれた。私は救われたの」

「当たり前じゃん。あたしは里砂が好きなんだから」

「それと同じよ、ドロシー」


 名前を呼ばれる。有栖の半分でもリコリスでもない。ドロシーが自分にドロシーと名付けた。自分だけの名前だ。


「私は私と出会ったドロシーが好きなの」


 里砂が優しく微笑む。どこかから光が射し込んだ気がした。


「……私ね、復讐しようと思っていたのよ」

「復讐? 里砂が?」


 自分の知らない話を里砂がしてくれることが、ドロシーには嬉しかった。たとえその中身がどんなに黒くて醜いものだったとしても。ドロシーにはそれがキラキラした宝物に見えていた。里砂は緩やかな動作で頷く。


「私をトウキョウに寄越した男。それが元カレなんだけど……彼をいつか殺してやろうと思っていたの」

「里砂、人殺ししたことあったっけ」


 天気を尋ねる調子でドロシーが問う。里砂はううん、と瞼を閉じた。


「まったく。でもそれくらい憎んでいた。私をトウキョウここへ放り投げて、死ねと言った彼には……いつか、必ず復讐してやるって」

「今も?」

「ううん。するつもりもないわ」


 里砂は瞼を開き、ドロシーをまっすぐに見つめる。やわらかい、慈しむ眼差しだった。


「だって、私はあなたと一緒に生きたいと思ったんだもの。復讐かこなんてどうでもいいわ」


 ***


 時計の短針が十を示した。そういえば昨晩から何も食べていなかったと、里砂はわずかに携帯していた非常食を口にした。水分を一気に持っていくタイプの固形物だったので、守衛室を中心に家探しして冷蔵庫を発掘した。賞味期限が来年の印字があった飲料水を手に入れたので里砂に渡した。ここに住んでいた人間の名残なのか、有栖の慈悲なのかはわからない。ドロシーは水だけ口にした。リコリスの食料は生き物の血肉だ。厳密には肉は付帯物オマケでしかないのだが、「食べてる感じが欲しい」とはドロシーの談である。

 食事を終え、身支度を整える。キャリーケースに入れていた洋服を引っ張り出し着替えていく。ドロシーは白いブラウスに紺のプリーツスカートという普段の制服風ルックのなかでも地味なチョイスとなった。それだけでは物足りなかったのか、胸元のボタンは盛大に三つ開けようとして二つにした(里砂に見咎められたためだ)。


「そう言えば、これは瑠璃のリコリスから渡されたのだけど」


 里砂がジュラルミンケースの中身を開いて見せる。床に置かれたケース、その中身を見るなりドロシーが苦い顔をした。トラウマめいたものではない。露骨な嫌悪感を隠さなくなったあたり、本来の調子を取り戻しつつあるようだ。


「そうだった。地下鉄でやりあったときにチェーンソー死んだんだっけ」

「使い物にならないから持って来なかったの」


 今のドロシーは丸腰だ。得意の武器も持っていない。有栖に言われたトチョウ突撃までは残り二日。そもそもその話に乗るかも相談していなかったが、まずは先立つものが必要だ。有栖に借りを作るようで釈然としないが。


「これ、どうする?」

「使うわ」


 躊躇いがちに問いかけた里砂に対し、ドロシーは一拍も迷わずに答えた。里砂には少し意外だったので、真意を知りたくて踏み込む。


「……いいの?」

「使えるものは使うよ。贅沢ゼータク言わない」


 言うとドロシーはあくどい笑みを浮かべた。


「あいつはあたしを使うつもりだけど、あたしはそんなにお行儀いいこじゃないからね」

「彼女はマダムの襲撃に協力してほしいみたいだったけど」

「それ!」


 ドロシーが急に大声を上げたので里砂は面食らった。目を丸くしてドロシーを訝る。


「それ……が、何?」

使使


 キャリーケースの中を再度確認する。手持ちは身体を拭くためのバスタオル、今着替えたばかりの汚れた洋服、あと一回分の非常食、さっき手に入れた飲料水ペットボトル。あとはわずかばかりの貨幣と、デーヴィスを黙らせるための金属片。火おこし用の携帯ライターは燃料が半分を切っている。


「あたしを使おうとしたってんなら、その思惑をぶっ壊してやんないと気が済まないわ」

「トチョウに行くのね?」

「当然」


 ドロシーは歯を見せて笑う。とびきりの悪戯を思いついた子どものようだった。


「気に入らないものは壊す。やりたいことだけやる。それがあたしだから」

「……そうね」


 意のままになどさせない。有栖がどんな思いでもって――義憤でも我欲でもこの際どうでもいい――マダムを打倒しようとしているのかは知らない。ドロシー自身マダムに恨みがあるわけでもない。デーヴィスを整備した便利な人。物々交換してくれる便利な人。あるとすればそれだけだ。原初のリコリスがどうと有栖は言っていたが、それはドロシーの興味の埒外だ。

 気に入らないから邪魔をする。ドロシーの行動原理はたったひとつの衝動ほんのうだけ。


「里砂、一緒に来てくれる?」


 わかりきったことを、ほんの少しだけ不安そうに問いかける。悪戯っ子が浮かべたほんのひとかけらの甘えを、里砂は確実に拾い上げた。唇を触れ合わせ、そっと告げる。


「どこまでも。私のドロシー」

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