■7 「ドロシー」
まっしろな朝が来る。
「――――」
泣き腫れた目が重い。普段より瞼が開きにくく感じた。地下の仮眠室に太陽の光が及ぶことはない。役目を辛うじて覚えていた壁掛け時計が、コチコチと揺れて文字盤の七を示す。実際にどれくらいの時差があるかは知らない。ドロシーは重たい身体をしばらく横にしておこうと思った。なんだか気怠い。元々寝起きが爽やかとは言えないのだから、いつもより少しだけ寝坊をしてもいいだろう。どうせ予定なんてあってないようなものだ。
一人分のマットレスには二人分のぬくもり。密着した肌にドロシーはゆっくりと首を回した。里砂が静かに瞼を閉じ、穏やかな寝息を立てている。いつもはドロシーが起こされる側だから、無防備な寝顔を見られるのは珍しいことだ。
少しだけ頬を緩める。人差し指で額でも小突いてしまおうかと思ったけど、どうにもそんな気分にはなれなかった。
「……里砂」
ひそやかに囁く。どうか届きませんようにと祈りながら。もう少しだけ眠っていてほしかった。どうにもらしくない時間を過ごしたいと思ってしまった。
「里砂」
腕を伸ばす。指先だけで黒髪を撫でる。間違えても素肌には触らないように、里砂が瞼をひくつかせないように。肩よりも短い里砂の髪に手を伸ばすことだって、ともすれば危険を冒す行為だ。輪郭をなぞるように切り揃えられた毛先には届かせない。耳の辺りからこぼれた一房に、壊れ物を触るような慎重さで指を二本だけ伸ばした。さらりとした艶やかな髪。潔癖症ではないと自称しているが、トウキョウでは里砂は立派な潔癖症だ。
貴島里砂。彼女はそう名乗った。ドロシー。自分はそう名乗った。それを互いの記号として認識していたし、疑う意味がなかった。相手を何と呼ぼうが、誰と認識しようが、そこにいる個体を確かに受け入れ、恋をし、愛したのだから。
だというのに。確かに触れているはずの存在証明が、きゅっと胸を締め付けてたまらない。
「……何か言われた?」
至近距離の吐息にドロシーの心臓がびっくりした。瞼を閉じたままの里砂はしかし、唇がうっすらと開いている。起きたのだ。起こさないようにしていたのに。ドロシーに繊細さなんてものは無縁だから、察しのいい里砂は早い段階で寝たふりをしていたのかもしれない。
極まりが悪いなと思いながら、ドロシーはいつも通りの笑顔を浮かべようとした。……口角の上げ方を思い出せない。
「なんだ。起きてるならそう言えば良かったのに」
「ひどい顔よ」
ドロシーの強がりを里砂は見逃さなかった。無視してくれなかった、が正しいのかもしれない。ドロシーは正直者ではない、けれど嘘吐きになれるほどの道化でもない。感情のおもむくままに行動する彼女には、そういったごまかしが全くと言っていいほどできなかった。
里砂の腕が伸びる。ドロシーはわずかに身をよじった。マットレス一枚の攻防。飛び跳ねた心臓のように身体をのけぞらせなかっただけ、マシだったのかもしれない。開かれた里砂の瞳いっぱいに、困惑したドロシーの鏡像が映りこんでいた。
「おいで。別に何もしないわ」
「…………」
怖かった? と里砂は問いかける。わからない、とドロシーは答えた。子どもがされるように頭を撫でられる。もう一度眠りにつかせるような、安らいだどこかに誘う手つきだった。
「里砂」
「なに?」
「あたしって、何者?」
そう切り出したら、喉元に苦いものがこみあげてくるみたいだった。
「過去って必要? 過去って歴史のこと? それがないとあたしは薄っぺらい生き物なの?」
「ドロシー……?」
「里砂の過去が里砂に関係あるのは知ってる」
里砂が息を呑むのを聞いた。この距離だ、吐息だって視線だって一切の虚構を見抜けないはずがない。ほんの少しの揺らぎでも、目の前で見せられれば隠しようもない。ドロシーがそうであり、里砂がそうであるように。
「里砂の元カレが里砂を傷つけたんでしょ。あたしは詳しくない、里砂から聞いたのは全部じゃないだろうから。でもわかるよ。里砂が痛そうにするときはそいつを思い出してるせいだって。あたしと一緒にいても、あたしの知らない男が里砂に巣食ってる」
「……ごめんね」
「謝ってほしいんじゃないよ。里砂はそれでいいんだ。そんな里砂も含めて里砂なんだって、そんな里砂が好きだって、あたしは知ってる」
でも、とドロシーは吐き出す。薄い唇に噛みついてしまいたかった。縋りたかった。貪りたかった。力強い接触で自分を定義できるならすぐにでも。
涙は出ない。代わりに歯を噛み砕いてしまいたいほどの、実在しないはずの痛みがドロシーを焼く。
「そういった、過去が積み重なって生き物ができるっていうなら……あたしは、なんなの?」
過去がない。ドロシーのことを自分の半身だと有栖は言った。すべてを信じる必要はないし、蹴り飛ばして笑ってしまってもいい。そのはずなのに、どうしてかあの女の言葉がいつまでもドロシーを捕らえる。真っ暗な牢獄にぶち込まれたような心地がした。二度と出られない闇をそう呼ぶのなら、打開策を見いだせない永遠をそう呼ぶのなら、きっと間違っていない比喩だ。
「里砂が好きなあたしはなんなの? リコリスとしてのあたししか、あたしは知らない。その前なんてわからない、あるかも知らない。わからないからイカレた妄言すら否定できない。それが……嫌なの」
実在。この手が触れるもの。里砂の黒髪。輪郭をおずおずと伝う。顎を引けばキスができる。頬を撫でれば涙を拭える。前提とできるはずの触れ合いをドロシーは不安がる。里砂に触り確かめ合った、この腕を伸ばすのは何者だ?
「ドロシーよ」
里砂の左腕が縋るドロシーの右手を掴む。しっかと掴まれて自覚する。ドロシーの指先が小刻みに震えていたことに。
「ここにいるのも、私が愛しているのも、あなたが迷っている心も、全部ドロシーのものよ」
「なんか、でも、もうわからないよ」
声まで震えてきた己をドロシーは惰弱だと揶揄したくなった。
「よく、わからないことを言われたんだ。あの女に、あたしはあいつの半分だって。でも記憶がないとかなんとかって。あいつの言うこと全部を信じたくなんてないけど、でも、あたし、昔なんて何も思い出せない。何も、何も見つけられない!」
喰らいたくなる。こんな弱っちい心根を。いつもチェーンソーで切り刻んでいる男たちのように、逃げ惑いたくなるうじうじしたこれを、ドロシーは殺してしまいたくてたまらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます