蒼炎篇 運命のひと

■1 インクルード・リクルート

「あんた、生きてて楽しい?」


 愛とは呪いだ。でも、呪いは愛と必ずしも一致しない。クロユリは愛というものが嫌いだ。嫌悪している憎悪にも似ている。だがそれを認めることは、何か……自分の中の大切な何かを否定されるような気がして、言葉にすることを拒んできた。

 烈火のリコリスは、きっと「愛」の化身なのだろう。

 リコリスには衝動がある。本能とも呼べる、抗いがたい行動原理が。黒曜のリコリスにとってそれは挑戦で、強き者に挑み続けることを定めだと思って生きてきた。斬り殺してきた。いつしかその血飛沫を見て身体の血という血が沸騰するかのような高ぶりを覚えはじめていたのだが……そのときにはもう、彼女は壊れていた。


「は……っ、くそ……」


 息も絶え絶えに、壁に身を預けながら雑然とした階段を昇る。こんなときだってマダムはエレベーターを使わせてなどくれない。自身が客ではなくマダムのに成り下がったからだと、その真意を理解できていれば怒り狂うこともできたのだろうか。しかし、クロユリは……斬ることにすべてを捧げ、権謀術数や本音建前の世界に馴染みのない素人には、推し量る術もなかったのだ。

 満身創痍で主人の待つ家に帰る姿は、薄汚れた首輪で繋がれた狗にも似ている。


 ――生きていて、楽しい、などと。


 嘲弄したくなる言葉を何度も咀嚼して、クロユリは階段を昇りきった。未だに止まらない血は傷口が塞がりきっていないほどの大きさだからだと推察する。赤いまだらがまた落ちる。

 身体全体で扉をこじ開けようとしたら、ふっと軽い力が内側から働いた。思いもよらぬことにクロユリの身体がふらりと傾く。ぎょろりと、無遠慮なふたつのカメラがぐるぐると回っている。……デーヴィスだ。マダムの小間使い、その一機。


『戻ってきました。あなたの勝ちです、マダム』

「ほら、だから言ったでしょう。たとえ仕事が不完全で無様な姿を晒そうとも、この子は戻らざるを得ないって」


 何を、言っている? 勝ち負けとは? 機械人形と女主人の間で交わされるやりとりの意味を理解できず、クロユリは眩暈をやりすごそうと扉に全身を委ねた。膝を折ってはもう二度と立てない気がする。

 デーヴィスの無機質なアームがクロユリの傷口に伸びる。鋭い痛みに苦悶の表情を浮かべるも、相手は空気の読めないデーヴィスだ。


『深いですね。骨まで到達しています』

「折れてはいない?」

『かろうじて』

「そう。なら、身体はまだ使ということね」


 使える。このマダムの思うままに動かされることは本意ではないが、クロユリは動ければいい。斬ればいいのだ。あの、正体不明アンノウンのエネルギーを放出させる烈火のリコリスを屠らなくては。でなければ胸の奥に生まれた黒い靄を晴らすことができない。


「……マダム、治療を。私はまだやれる」

「ええ、わかっているわクロユリ。だから」


 デーヴィスの腕が、クロユリの心臓をずぶりと貫く。喉から何かが一気にせりあがって、ねばつく赤いものを吐き出した。


「ガッ、……な……!?」

「あなたの身体は使えるけど、心は余計みたい」


 ぐちゃぐちゃと、ロボットの腕がクロユリの身体をまさぐっていく。臓腑が、血液が、本能が、ココロが。耳を支配していく残虐な音に絶望し、か細い悲鳴を奏でていく。


「なん……ちがう……!」

「ちがうって、何が? あなたは強い相手を斬れればいいのでしょう? そして私は便利な駒が欲しい。ほら、利害の一致ってやつよ」


 身体を改造して、心を凍らせて、そうねついでにいくつか機能を足しておきましょう。穏やかな声で女は信じられないことを繰り返していく。ちがう、ちがう、私は強い相手を斬り殺したい。けれどそれは私が願っていることであって、心なき挑戦は挑戦などではない……!


 ――生きたいのだと、クロユリは叫んでいた。と。


「ようやく本音が出たわね。実にワガママなリコリスらしい」


 でも遅かったみたい。

 デーヴィスが心臓を握り潰したとき、クロユリの意識は真っ暗闇に落ちた。


 ***


「――――」


 気まずい。

 沈黙の下りたマンションの一室で、貴島里砂は苦痛な時間を過ごしていた。駅のプラットフォームに激戦を終えて降り立ったのも束の間。そこには見知った第三のリコリス――有栖と名乗る少女とそのお付きが待っていた。圧倒的な不利。どうしてこの場所がわかったのか、そんな推理をしている暇さえ与えられなかった。いつだって満身創痍のドロシーの前に差し出されるのは選択肢の無い選択だ。里砂は歯噛みしながら、有栖の要求を呑んだ。


 有栖と、その側近と思しい「帽子屋」と紹介された屈強な男に引率されて、辿り着いたのは十三階建てのマンションだった。これも東京がトウキョウになってからロクなメンテナンスもされていないと思うのだが、案内されたのは上階ではなく地下。「ここならたとえ老朽化で上が崩れて来ようとも、まあ生きていることはできるわ」とシェルターじみた地下駐車場を通り抜けた。管理人室というか警備員の詰所というか、贅沢をいうつもりはないがそんな殺風景で窮屈な部屋に案内される。そこから更に奥――どうやら仮眠室になっているらしい――に有栖とドロシーは入っていった。里砂は詰所で止められる。


「……恋人の命が惜しければ、ここはどうか従ってください」


 威圧感たっぷりの胸筋を前に、文字通り扉の前に立ち塞がれては入りようがない。里砂にもまた選択肢はなかったのだ。

 それから十分ほど。痛いほどの沈黙と微動だにしない男を前に、里砂は居心地の悪さを思い出す。男性と二人きり、という空間はあまり好きではない。間違いなく己の経歴トラウマのせいであり、帽子屋に落ち度があるわけではない、それはわかっていた。過剰に意識しないように呼吸を意識して繰り返す。あの弟みたいに人懐っこい男が、獰猛な獣のように暴虐な牙を剥いた日がフラッシュバックした。


「……ッ」


 関係ない。里砂は繰り返す。思えばトウキョウに来てからというもの、里砂は男性と共に行動をしたことがなかった。元々人間の男はリコリスの大好物だから、トウキョウではあっという間に捕食されてしまうのが常である。故に個体数も少なく、里砂がお目にかかったのは死体になったくらいのものだった。生きている男と同じ時を共有するというのは……こんなにも苦痛、だったろうか。

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