■2 虚妄の従者

「体調が優れないのですか」

「!」


 さして広くない詰所で、それでも最大限距離を取って詰所の壁に身を委ねていた里砂にとって、それは衝撃的な一言とも言えた。身勝手な想像だが、帽子屋は必要最低限の会話しかしない男だと思っていたから。鼓膜を震わせる落ち着いたテノールは、感情をそこまで乗せていないものの冷酷な印象を与えない。不思議な音だった。


「医療に、詳しいのですか」

「まあ人並みには」


 探るように問いを返す。自らが発した声があまりにもか細くて一瞬怯んでしまったが、帽子屋がその場を動く様子はやはり見られなかった。


「ここに来る前と比較して顔色が蒼白です。身体的な理由も考えられますが、状況から察するに精神的な理由かと。恋人に強い依存でも?」


 伏せた瞳で視線を交わさず、帽子屋は淡々と可能性を提示する。正直里砂を気にかけるような男だとは思わなかったので返答に戸惑う。有栖の命令だろうか。喰われるわけでもなかろうに、背格好もまったく違うのにと、里砂は眉間の皺を深くする。


「大丈夫です。ドロシーのことは心配だけど、今辛いのは彼女だから」

「ふむ。では違う可能性ですか。…………」


 一人、考え込むようにしてそれきり男はだんまりする。また落ちてきた静寂に里砂は翻弄されっぱなしだった。ほう、と深い息を吐く。まだ詰所に入って十数分なのに、かつてない心労はなんなのだろう。

 仮眠室の音でも漏れてこないかと、里砂は壁に身を強く押し付けて聞き耳を立てる。狭い空間、しかもただの警備員の仮住まいだとしたら、防音などの加工をしているはずもない。有栖という「自称ドロシーの姉」が不穏なことをしていないかと思うと、里砂にも不安がないわけではない。だから少しでも情報が欲しい。そう思ってはみたものの、不気味なほど隣からは物音ひとつしないのだった。


「本当に、二人は仮眠室にいるんでしょうね」


 警戒しながら帽子屋を問い詰める。掠れた声が結果的に不機嫌な低音になって零れた。帽子屋は一切の表情を変えることなく、ただ淡々と答える。


「私はここにあなたを留めるよう、彼女に言われているだけです」

「あなた……!」

「以前、お話したと思いますが」


 帽子屋の口調は強くない。強くないのに語尾までハッキリとしているからか、里砂の耳にいやというほど入ってくる。それを遮ってまで抗議しようとはどうしても思えなかった。渋々喉元の怒りをひっこめる。


「もし、彼女があなたたちに助けを求めた時は、どうか力になって欲しいと。その件は覚えていますか」

「ええ。受け入れるかどうかは別にして」

「これは交渉なのです」


 帽子屋がほんの少し――ほんの少しだけ、黒い瞳を扉の奥に動かした。


「詳細は伏せますが彼女はかなり追い詰められています。恐らくマダム……あのが手を出すのも時間の問題でしょう」

「あなたたち、マダムに狙われているの? 一体どんな悪行を重ねたらそんな」

「詳細は彼女から聞いてください。とにかく、彼女には時間と手札がない。だからこれは交渉なのです」


 リコリスを治療できる能力、あるいは道具。それが今の有栖にはある。その弾丸が無限か個数制限があるかはわからないが、窮地に立たされているらしい有栖はあるをもってドロシーに接触してきたようだ。

 リクルートスーツがお世辞にも似合わない男は、感情の読み取れない声で再度繰り返した。「これは交渉だ」と。


「私達に……何をさせようとしてるの」

「それは彼女が述べるべきことでしょう」


 私ではない、と帽子屋はしらを切った。きっとこれ以上は踏み込んだところで聞き出せないだろう。唇を真一文字に結び直した男は、慇懃に王女を詰りながらも肝となる一線は決して譲らない。

 傍目には男が有栖に忠節を誓っているようには見えないのに。屈強な男じゅうしゃ有栖しゅじんの劣勢を前に傍観していたことを里砂は知っている。


「あなたは、何故……リコリスに付き従っているの」


 気付けばこぼれたのはそんな疑問だった。帽子屋がわずかに目を丸くする。それから一拍置いた後……。口の端を浮かせて。歯並びの悪い歯をのぞかせて。爽やかなスポーツマンの笑みではない。同じ穴の貉、とでも言ったか――まるで同族を見るような目で、男は苦笑したのだ。


「その言葉、あなたにそっくり返ってくるとわかっていての問いですか?」

「私の答えは単純よ。私はドロシーを愛したの」


 そこにリコリスという種族は関係ない。私は彼女を愛しているから一緒にいるだけ――と、里砂は鋭く瞳を光らせて答えた。目を逸らすことはしなかった、この問いだけは。それが里砂の意地であり愛であり誇りだ。


「でも、あなたは違うでしょう?」

「なるほど」


 帽子屋は里砂の言葉を否定しなかった。彼が有栖の傍にいるのは愛のためなどではない。きっと恋のためでもない。あの、無慈悲にも思える感情の乗らない瞳。ただそこにあるだけの男は、何のために王女の下僕でいるのか。


「私が彼女に生かされている理由は、そうですね。簡単に言えば、それに尽きます」

「非常食……」

「言わずともわかるでしょう。私は人間の男です。有事には彼女は私を食べるでしょう、一切の迷いなく。それは私も分かっています」


 確かに、帽子屋のように大柄で筋肉質な男なら、質も量も上等なものだろう。常に傍においておけば万が一の時にも対応できる。生きる非常食。けれど本当にそれだけなのだろうか。里砂は納得しなかった。


「あなたは食べられるためだけに傍に……? そこにあなたの意志はないの?」

「……なるほど。貴島里砂、と言いましたね。あなたは非常に幸運な人間と言えます」


 帽子屋の声はやはり淡々としていた。


「リコリスが食物連鎖の最上級に位置するトウキョウにおいて、人間はに過ぎません。エサに自由意志などあるはずないでしょうに」

「――っ」

「だから、あなたは幸運なのです。良かったですね、恋人と呼べるリコリスがいて。本来であれば食べられて当然のものを」


 帽子屋の言い分を否定するつもりはなかった。里砂は死ぬために――リコリスに食われるためにトウキョウへ来たのだ。生きるつもりはなかった。けれど幸運にも……帽子屋の言葉を使うなら幸運にも、ドロシーに会えたから一緒に生きている。

 そんな身の上だからこそ、里砂にも譲れない一線があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る