■7 咎

 クロユリから華やかに赤い血が吹き出したのは、彼女が悔恨を露にしてすぐだった。無機質な人形を決め込んでいた少女が見せた外見年齢相応の感情の発露に、不謹慎ながら里砂は目を離せなかった。別にやましい感情が芽生えたわけではないが、感情的に眉を、唇を歪ませるクロユリに呆然としたのかもしれない。自分でもよくわかっていなかった。だが、ドロシーが命をかけた相手にも赤い血が通っていることに安堵した自分もいた。


「ア……そん、な!?」

「自分で自分の血を浴びる気分はどう? 貧血って結構辛いんだから」


 自らも止血されていない両腕を振るいながら、ドロシーが最後の意地で挑発的な笑みを見せる。彼女の、彼女みたいに満身創痍のチェーンソーが、クロユリの脇腹にこれでもかと食い込んでいる。おそらくは胴体を真っ二つにしたかったのだろう。それが叶わず半端にチェーンソーが状況というのは、お互いに人ならざるものの証明をしているかのような地獄絵図だ。

 グゥ、グウウウウと、獣の唸り声にも似た怨嗟が聞こえてくる。クロユリに膝をつかせた、この功績は大きい。何せ、冷えきった海では無傷で逃がしたのだから。


「許さない……許さない、烈火の、お前ごときに!」


 黒曜のリコリスは腹に深手を負いながらも、憎悪の炎を加速させていく。獣の咆哮とともに吐き出される怨嗟。許さない、許さないと叫びながら、クロユリはドロシーの手のひらから日本刀を解放しようともがく。ガチャガチャと耳障りな音を立ててドロシーの手の内で震えるそれは、きっとドロシーを激しく刻もうとしているのだろう。滴る血の量は増す一方だ。これ以上は、と警告しようとする里砂を、ドロシーは優しい視線ひとつで制した。

 その目は語っていた。最後まで貫かせてほしいと。


「ううぅあああぁあああ!!」


 クロユリの絶叫。冷静の仮面を剥がされた少女は思うままにいかない現状に苛立ちを募らせる。日本刀がドロシーから離れないと諦めると、彼女はついにその誇りを手離した。


「!」


 そのまま喉元に食らいつく。どす黒い邪気に染まった嫉妬の獣は、小柄な身体に見合わないほど口を大きく開けて飛び込んでくる。里砂にはドロシーを信じて、ドロシーの名前を叫ぶしかできなかった。


 ――大丈夫。ドロシーを信じて。


「ガッ、アアア……!?」


 戸惑ったように痛みに声を震わせたのはクロユリの方だった。狂気に染まった漆黒の瞳、その片割れが血の涙を流している。ドロシーが食事用のナイフを突き立てたせいだ。言葉にするもおぞましく生々しい光景に、里砂はごくりと息を呑む。凄惨な現場から目を逸らしたい思いももちろんあったが、逸らさなかった。


「……あんたさ」


 第一間接を奪われた指でも掴んで構えることはできる。放り投げるほどの正確性は持ち合わせていない。ドロシーは飛びかかってくるクロユリの目に刺さるように、ナイフを構えていたに過ぎない。盲目的に殺意を優先させていたクロユリは、それを回避するための――殺意を後回しにする選択肢をすぐには選べなかった。

 ドロシーは冷ややかな……否、僅かの憐憫を滲ませた声色でそっと呟く。


「そうやって生きてて、楽しい?」


 クロユリの、息を詰める音。切迫した吐息だけを聞いて、それが彼女との最後のやり取りになった。プシュウ、というあまりに日常に落ちたドアの開閉音。それを聞くや否やクロユリはドロシーからよろよろと後ずさった。ふらついた足取りでプラットホームへ歩を進める。敗残兵と呼ぶも哀れな姿に思えた。

 呆然と里砂はその様を見送る。鉄の箱には鉄だけではない、鼻につく臭いが充満していた。いつまでもこの箱に乗っているのは気分が悪い。床に飛び散った赤は洗えば落ちるしなんならアルコールで消毒までしておきたい。死体の処理は積極的にするつもりもないけれど床をゴロゴロと転がっているとどこかに収めてしまいたくなる。禁断症状で貧乏揺すりをしてしまいそうだ。

 それに何よりも。ドロシーはまたしてもボロボロだ。冷たい海に飛び込んだ時よりもひどい。リコリスは多少丈夫とはいえ、不死身を意味するものではない。好奇心に殺された少女が転がっているように。


「次の駅で降りましょう。その間にできる手当てはしておくわ」

「ありがと」


 言葉少なにドロシーが微笑む。じっとりと身体中に汗をかいていた。出血もひどいし、体温は下がる一方だろう。止血の手順もすっかり慣れてしまったけれど、医者ではない里砂の応急措置にも限界がある。先程の駅で降りたかったが、流石にクロユリに続いて降りては第二ラウンドに移行しないとも言い切れない。

 次の駅に着くまでの時間を、里砂は永遠に近いほど長く感じた。ドロシーとは言葉を交わさなかった。薄く笑みを浮かべてはいるが虚勢だと里砂は知っていたから。痩せ我慢をするのはドロシーの困ったところだ。


 シブヤ駅のホームに降り立ったとき、遠くから近づいてくる人影に里砂は絶望した。この期に及んでまた危険に晒されると言うのか。ドロシーに一秒でも早くまっとうな治療をさせたいのに。

 現れた影はふたつ。朽葉色の髪をお団子に……ドロシーの髪型にのはきっと偶然ではないだろう。深い群青色のストールに純白のワンピースの対比は相変わらずだ。それがひとつ。以前と何ら変わらず、窮屈そうなリクルートスーツに身を包んだのがもうひとつ。


「すべて捨てて、ここまで来てよかった」


 鈴が鳴るような可愛らしい声は、先日の邂逅と比べるとやや掠れているようにも聞こえる。発言の間に見せる小さな口を引き結んだ顔も、痩けたように映る頬も、今日の彼女は風貌が違うようだ。

 いや……異なるのは風貌だけではなくて、彼女のなのかもしれない。


「取引をしてほしいの。貴島里砂」

「……私と?」

「ええ。ドロシーを愛する、あなたと」


 里砂が腕を回してどうにか立っている赤毛の妹を一瞥し、瑠璃の少女アリスは迷いなく手札を切った。


「ドロシーの治療をする代価として、私達に協力しなさい」

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